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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:『スッタニパータ』五章「序」「結語」の編纂意図)

『スッタニパータ』五章「序」「結語」の編纂意図とは?

noname#195588の回答

noname#195588
noname#195588
回答No.2

“Sukhito bāvarī hotu, Saha sissehi brāhmaṇo; Tvañcāpi sukhito hohi, Ciraṃ jīvāhi māṇava. http://suttacentral.net/snp5.1/pi 1029 (ゴータマは答えた)、「バーヴァリ・バラモンも、諸々の弟子も、ともに楽しくあれ。 学生よ、そなたもまた楽しくあれ。永く生きよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Idamavoca bhagavā magadhesu viharanto pāsāṇake cetiye, paricārakasoḷasānaṃ brāhmaṇānaṃ ajjhiṭṭho puṭṭho puṭṭho pañhaṃ byākāsi. Ekamekassa cepi pañhassa atthamaññāya dhammamaññāya dhammānudhammaṃ paṭipajjeyya, gaccheyyeva jarāmaraṇassa pāraṃ. Pāraṅgamanīyā ime dhammāti, tasmā imassa dhammapariyāyassa pārāyananteva adhivacanaṃ. http://suttacentral.net/snp5.18/pi ■□■<18、一六学生の質問の結語>■□■ --------------------------------------------------------------------------------  師(ブッダ)は、マガダ国のパーサーカ霊地にとどまっておられたとき、以上のことを説かれ、(バーヴァリの)門弟である一六人のバラモンに請われ問われる度ごとに、質問に対して解答をのべた。もしもこれらの質問の一つ一つの意義をしり、理法を知り、理法にしたがって実践したならば、老衰と死との彼岸に達するであろう。これらの教えは彼岸に達せしめるものであるから、それ故にこの法門は「彼岸にいたる道」と名づけられている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ “Yathā ahū vakkali muttasaddho, Bhadrāvudho āḷavigotamo ca; Evamevaṃ tvampi pamuñcassu saddhaṃ, Gamissasi tvaṃ piṅgiya maccudheyyassa pāraṃ”. http://suttacentral.net/snp5.19/pi 1146 (師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ とりあえず、気になったのは、 楽しくあれ。永く生きよ。 老衰と死との彼岸に達するであろう。 ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。 仏教の教えは、信仰を捨てて、楽しく長生きしよう? 私は以前、学生ナンダの問いで『煩悩の激流を乗り超えた人々である』をもしかしてマガダ語かな? と話題にしたら、いろんな人に批判されまくったので、なんだかな、と。 もちろん学生ナンダの問いが古いとはいいません。ただの私の間違いです。 anāsavāseとはなんだったのか。 でも、第五章の詩句で古くないものがあるなら、 第五章自体それほど古くないのかな、と思うようにはなりました。

baka-hage
質問者

お礼

 回答ありがとうございます。 >>仏教の教えは、信仰を捨てて、楽しく長生きしよう?  受ける。そうなのかな?笑  まぁ、「長生きせいや」みたいなのはインドでは昔からある言い回しみたいですけどね。確か『四分律』にもお釈迦様がお説教の最中にくしゃみをしたとき、英語圏の人が「ブレスユー」ってゆうみたいに弟子たちが「長寿(長生きしてや)」言いまくるもんだから、話の腰を折られてお釈迦様が困ったって話がりますからね。  個人的には1029の「楽しくあれ、永く生きよ」は「物質的な頭が落ちて死なないから、無明という意味の頭を落として楽しく、長生きしてや」くらいの意味に解釈してます。  また、1146の「信仰を捨て去れ」も古くは藤田宏達師だとか最近だと村上真完師とか学者の先生たちの中では「信を起こせ」「信を寄せて」の方が訳として正しいんじゃないって言われてたりするみたいですね。私も言語的なとこは苦手でまだその辺詳しく調べてないので何ともいませんが、確かにそういわれてみると龍樹大士著といわれる『大智度論』には「仏法の大海は信を能入と為す」の根拠として、『スッタニパータ』ではありませんが梵天勧請のところにある「耳ある者どもに甘露の(不死)の門は開かれた。信仰を捨てよ。」を引用してますからね。「信仰を捨てよ」は「(仏教に対して)信を確立する」って意味でとらないと、ちょっと話が通らない。元ちゃんも註のところで触れてますけどね。ちょっとこの辺は追研究してみようと思います。 >>私は以前、学生ナンダの問いで『煩悩の激流を乗り超えた人々である』をもしかしてマガダ語かな? >>と話題にしたら、いろんな人に批判されまくったので、なんだかな、と。  これなんかは「決語」とのつながりでいえば1145の言葉にかかってくる部分として注目されますね。 それを受けてピンキヤ尊者は「私は汚泥の中臥してもがきながら、洲から洲へ漂いました。」に対しての対句として使用しています。お釈迦様の遺言といえる『涅槃経』の「自灯明法灯明」という言葉の中の灯明は「洲」の誤訳といわれていて、「洲」は安全な避難場所みたいな意味なんだそうです。ですから、ピンキヤ尊者はいろいろな師匠や思想を避難場所としてしがみついてみたけど、私はついに本当の意味で安全な避難場所である「煩悩の激流を乗り超えた人々である」お釈迦様に出会った喜んでますね。  だから、お釈迦様を「煩悩の激流を乗り超えた人々である」と表現するのは古い経典でも見られるから、マガダ語であるかはさておき、他の経典との相関性のある結構古い表現なんじゃないのかな。 >>でも、第五章の詩句で古くないものがあるなら、 >>第五章自体それほど古くないのかな、と思うようにはなりました。  No,1の方のところにも書きましたが、読誦経典としては比較的古い時代にメジャーにはなってるはずなんですけどね。  まぁ、ふとおもったことをつらつら書いたんで文章まとまってませんが、ご意見参考にさせていただきます。 合掌 南無阿弥陀佛

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