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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:『スッタニパータ』五章「序」「結語」の編纂意図)

『スッタニパータ』五章「序」「結語」の編纂意図とは?

このQ&Aのポイント
  • 『スッタニパータ』五章の「序」と「結語」の扱いについて、異なる解釈があるようです。
  • 一部の訳や解説では、五章は四章を通して読むことを重視されており、序と結語の役割は薄いとされています。
  • しかし、序と結語には二つの意図が想定されている可能性があります。一つは内容の強調や経文の特定部分への注意喚起、もう一つは新しい視点の提起です。皆さんのご意見や関連研究もお待ちしています。

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noname#195588
noname#195588
回答No.7

肉親の仏陀より教法を重視 このように釈尊を権威づけようとする企ては、釈尊の教えを永遠の法として権威づけることとなった。 その結果、釈尊よりもむしろ、釈尊を悟らしめ仏陀たらしめた教えである法を重視する思潮を生じた。 しかし本来、釈尊に直接して教えを受けている人びとにとっては、教えよりも釈尊その人を目のあたりにすることの 方が大切であったはずである。 釈尊よりもその教えを重要視し永遠の法として受け止めようとする傾向は、釈尊の存在感が薄れ始めたことを反映するものと 思われる。『スッタニパータ』の終末では、老いて体力も気力も衰え、もはや釈尊の許に赴くことのかなわなくなった ピンギヤが、身はそのまま居ながらにして、眼で見るが如くに心で釈尊を常に見得ることを述べる。 新アジア仏教史03 インドIII 仏典からみた仏教世界 243~244ページ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1144 わたくしは、もう老いて、気力も衰えました。ですから、わが身はかしこにおもむくことはできません。しかし想いを馳せて常におもむくのです。バラモンさま。わたくしの心は、かれと結びついているのです。 スッタニパータ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ B.韻文経典 成立が古い経典として、四阿含とともに、四阿含に収録されなかった韻文経典が特定できる。 これらの経典は、四阿含で見られる定型句を基本的にもたず、韻文のみが連なっているか、韻文と散文の組み合わせの場合が多い。 このような韻文経典として、アショーカ王碑文で「七種の法門」に挙げられる『牟尼偈』『沈黙経』『ウパティッサの問い』 四阿含に収録される経典で言及される『義品』『至彼岸』を挙げられる。 今日では、いずれも『経集(スッタニパータ)』に収録されている。『経集』そのものは四阿含よりも新しい時代に編纂されたものだが、 これら五経の成立は非常に古い。『牟尼偈』『沈黙経』『ウパティッサの問い』は紀元前三世紀以前に、『義品』と『至彼岸』は 四阿含の原形が編纂される以前に、すでに存在していたと考えられるからである。 中略 韻文経典は、最初の段階では三蔵に収録されていなかったのだから、四阿含のように律蔵をまとめた僧団によって 編纂されたものではない。四阿含には韻文経典を批判する経典が収録されている。その経典は、将来、 「如来によって説かれた、甚深であり、甚深な意味の、出世間的な、空に関する経典」が聞き学ばれず、 ただ「詩人たちによって作られた、詩人の、さまざまな言葉、さまざま表現から成り、異端的な、弟子たちによって説かれた経典」が人気を博すことを予言し、そうならないように戒めている (『相応部』因縁品譬喩相応第七経「鼓輻経」)。この記述から、四阿含の系統から韻文経典が快く思われていなかったこと、 それゆえに、韻文経典が四阿含に収録されずに斥けられたことを推測できる(ヴィンテルニッツ 一九七八、六一頁)。 新アジア仏教史03 インドIII 仏典からみた仏教世界 084~085ページ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 『相応部』因縁品譬喩相応第七経「鼓輻経」のパーリ語のほうはたぶんこれ。 Saṃyutta Nikāya 20 1. Opammavagga 7. Āṇisutta http://suttacentral.net/pi/sn20.7 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1142 バラモンさま。 わたくしは怠ることなく、昼夜に、心の眼を以てかれを見ています。かれを礼拝しながら夜を過ごしています。ですから、わたくしはかれから離れて住んでいるのではないと思います。 「わたくしはかれから離れて住んでいるのではないと思います」――この感懐は、禅における「相見せざるなし」という表現や、 また遠く跳ぶが、親鸞の「大悲無倦常照我」(『正信偈』)に通ずるものがある。 ワイド版 岩波文庫 ブッダの言葉 スッタニパータ 中村元 訳 430ページ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ここまで書いて、気がついて、疑問に思ったんですが ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1131 ピンギヤさんは(バーヴァリのもとに帰って、復命して)いった、 「<彼岸に至る道>をわたくしは読誦しましょう。無垢で叡智ゆたかな人(ブッダ)は、みずから観じたとおりに説かれました。無欲で煩悩の叢林のない立派な方は、どうして虚妄を語られるでしょうか。 “Pārāyanamanugāyissaṃ, (iccāyasmā piṅgiyo): Yathāddakkhi tathākkhāsi; Vimalo bhūrimedhaso, Nikkāmo nibbano nāgo; Kissa hetu musā bhaṇe. http://suttacentral.net/pi/snp5.19 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ <彼岸に至る道>をわたくしは読誦しましょう。 読誦しましょう? いや、ブッダが言ったことを暗唱したのだろう。たぶん。 あと、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 『アングッタラ・ニカーヤ』はその序で、ナンダ尊者のママが毎朝『スッタニパータ』五章の「パーラーヤナ」を唱えてたってことがあるはずです。いわゆる我々ボーズが毎朝する朝のお勤めの原初形態ですな。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ アングッタラ・ニカーヤのどこにあるのか 見つけられなくて困ってます。

baka-hage
質問者

お礼

何度もありがとうございます。お礼が遅くなって大変失礼をいたしました。 実は『新アジア仏教史』シリーズは買おうかどうか迷ってる本です。なんか内容的にはよさげですね。 >>肉親の仏陀より教法を重視  確かにこの傾向については、中村元師も指摘してますね。中村師はその傾向からいわゆる仏身論の「法身」の考え方が生まれ、大乗の十方の諸仏が生まれたと考えているみたいですね。(『中村元選集[決定版]第十二巻ゴータマ・ブッタII』P344、P480) >>しかし本来、釈尊に直接して教えを受けている人びとにとっては、教えよりも釈尊その人を目のあたりにすることの方が大切であったはずである。  そうですね。ただ、肉身(仏身論ではいわゆる応身ですかね)のお釈迦様を重視する傾向は仏舎利崇拝の方に受け継がれるようですね。確か『マハーヴァンサ(大史)』のなかにも、スリランカに仏教を伝えたマヒンダ長老は当時のデーヴァ―ナンピヤティッサ王に 「スリランカに来てから、ブッダ(お釈迦様)に会えなくてさびしいよう」 ということを言うと、王様が 「いやいや、ブッダはもう死んで何百年もたってるでしょ?会えないってどういう意味?」 とその旨を問いただすと、マヒンダ長老は 「遺骨を見ると、ブッダに会ったことになるんです。」 と答えていますからね。つまり、文中の「目の当たりにすることが大切だった」とは、お釈迦様在世当時も亡くなってからも同じだと思うんですよね。ですから、釈尊に会うことが当時の人たちにっとってどのような意味があったかということが重要なように思います。 >>釈尊よりもその教えを重要視し永遠の法として受け止めようとする傾向は、釈尊の存在感が薄れ始めたことを反映するものと思われる。『スッタニパータ』の終末では、老いて体力も気力も衰え、もはや釈尊の許に赴くことのかなわなくなったピンギヤが、身はそのまま居ながらにして、眼で見るが如くに心で釈尊を常に見得ることを述べる。  たしかに、このピンキヤ尊者の問答そして結語は、問答集しかなかった時代においてもピンキヤ尊者の問答が結論であったでしょうし、「結語」が付け加えられてからもやはり結論はピンキヤ尊者が語ることであり、『スッタニパータ』としてみた時もやっぱりここが結論ですからね、重要度は高い部分ですね。  ただ、「釈尊よりもその教えを重要視し永遠の法として受け止めようとする傾向は、釈尊の存在感が薄れ始めたことを反映するものと思われる。」とはいうものの、文献学的なところでさかのぼりうるお釈迦様像ってここまでなんですよね。  神格化説論者の言うところの「肉身のお釈迦様に出会うことが、法身のお釈迦様(法と一体となったお釈迦様)に出会うという神格化」を遂げたという論法は、現代的思考に慣れている私たちの目には正しいように見えるわけですが、本当にそうなのでしょうか?この論法の矛盾点について、新田智通師は 何者かが「X化」されるということは、当然それ以前において「非X」であったということである。非Xが論法はそれがそれが相対的概念においてもちいられる場合ならば、アプリオリには問題を生じない。しかし、絶対的・永遠的存在に対してその論法をあてはめられたとき、Xが非Xであったということは、ただちにそのXの絶対性・永遠性の否定になるから、そのアプリオリな撞着語法となる。 (『シリーズ大乗仏教5仏と浄土大乗経典II』P88) つまり、「ただの人間であった肉身のお釈迦様(非X)が亡くなった後、法の重視から法と一体となった法身のお釈迦様(X)が想定されるようになった」という論法は、「法と一体ではないお釈迦様(非X)」を想定することであり、悟りを開く前のお釈迦様をそう呼ぶのならば問題ないのですが、悟りを開いた後のお釈迦様にまで適用しては、仏教においては致命的な理論矛盾が生じるようにおもいます。  また、『スッタニパータ』第五章においても学生ウパシーヴァの質問においてもい、 1074師が答えた「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである」   とあって、そもそも肉身(身体)としては想定できないというのが、お釈迦様に対する一つの認識であり、「結語」のピンキヤ尊者の言葉にも、法身のお釈迦様という考えにも、通底した考えであるとおもいます。原始経典の中から文献学的に抽出可能なお釈迦様は、肉身のお釈迦様ではなく、肉身でありながら法身のお釈迦様です。つまり、上述にある「釈尊を目の当たりにする」ということに意味は「パーラーヤナ」結語にも名前があがるヴァッカリ尊者に『サンユッタニーヤ』の中でお釈迦様がおっしゃった「法を見るものは私を見る、私を見るものは法を見る」という言葉が表すように、当時の人たちはそのように認識していたのではないでしょうか?  また、今のような認識を踏み越えて、一人の人間(肉身)としてのお釈迦様を想定することについてレギナルド・レイ師は 象徴や崇拝、伝説と離れて無関係な。脱神話化された個人性という西洋的で近代的な概念は、初期仏教の真相とは全く関係ない。 (『シリーズ大乗仏教5仏と浄土大乗経典II』P92) と端的に述べています。また中村師も、 いわゆる〈仏教学〉なるものを捨ててかからねば『スッタニパータ』などのような最初期の仏教のすがたを伝える文献を理解することはできない。 (『中村元選集[決定版]第十二巻ゴータマ・ブッタII』P478~479) と述べるものの、レイ師の言葉を借りれば、「西洋的で近代的な概念」を捨ててかかることはできなかったのでしょう。つまり、「パーラーヤナ」を一つの経典として普通に読んだとき、私たち現代人が持ちがちな「肉身の仏陀より教法の重視」という考え方を、当時の編纂者たちは本当にそのように見ていたのか?それとも、そのようなことは意識しておらず、他の何かを伝えようとしていた結果我々にはそのように見えるだけではないのでしょうか?そのときに、当時の編纂者たちはどのようなことを伝えようとしていたんでしょうね?なかなか、その疑問が解決されません。  >>B.韻文経典 >>韻文経典は、最初の段階では三蔵に収録されていなかったのだから、四阿含のように律蔵をまとめた僧団によって編纂されたものではない。四阿含には韻文経典を批判する経典が収録されている。その経典は、将来、 「如来によって説かれた、甚深であり、甚深な意味の、出世間的な、空に関する経典」が聞き学ばれず、 ただ「詩人たちによって作られた、詩人の、さまざまな言葉、さまざま表現から成り、異端的な、弟子たちによって説かれた経典」が人気を博すことを予言し、そうならないように戒めている(『相応部』因縁品譬喩相応第七経「鼓輻経」)。この記述から、四阿含の系統から韻文経典が快く思われていなかったこと、それゆえに、韻文経典が四阿含に収録されずに斥けられたことを推測できる(ヴィンテルニッツ 一九七八、六一頁)。  これは初耳でした。確かに、『相応部』にそういった文言があったのは聞きかじっておりましたが、確かにそのように解釈できますね。ありがとうございます。やっぱり、この本買おう。 >>「わたくしはかれから離れて住んでいるのではないと思います」――この感懐は、禅における「相見せざるなし」という表現や、 >>また遠く跳ぶが、親鸞の「大悲無倦常照我」(『正信偈』)に通ずるものがある。  確かに「パーラーヤナ」を浄土教念仏の原初形態であるという研究をポール・ウイリアムズ師が『Mahāyāna Buddhism-The Doctrinal Foundations-』の中で指摘していますね。 >> <彼岸に至る道>をわたくしは読誦しましょう。 >>読誦しましょう? >>いや、ブッダが言ったことを暗唱したのだろう。たぶん。  まぁ、「パーラーヤナ」自体がヴェーダ学では「読誦」「読了」の意味で使われますから、文脈としては暗唱なんでしょうが、翻訳としては読誦なんでしょうね。翻訳の難しいところですな。 >>アングッタラ・ニカーヤのどこにあるのか >>見つけられなくて困ってます。  あれ、漢訳の方だけだったかな?それとも『雑阿含』かな?私たまに『増一』と『雑』間違えるんですよね。たしか、パーリの『増支部』だったはずなんですが、確か七集が『スッタニパータ』系の話のまとめでしたよね?そこの確か50経あたりだったと思うんですよね。  内容は、ナンダ尊者のママが朝早くから「パーラーヤナ」を唱えていると、そこに通りかかった神様が「あら、こんなところでお釈迦様の御言葉が聞けるなんてギザウレシス」といって、ナンダ尊者のママにおコメを大量にプレゼントします。そんで、そこに通りかかったサーリープッタ尊者とそのお弟子にナンダ尊者のママが「私ファンなんです。これどうぞ。」ってそのお米をお布施して、みたいな話だったはずです。  すいません、どの本で読んだのかうろ覚えで出てきません。間違ってたらすみません。  回答参考にさせていただきます。ありがとうございます。 合掌 南無阿弥陀佛

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その他の回答 (7)

noname#195588
noname#195588
回答No.8

いきなり誤字がありました。 誤:肉親の仏陀より教法を重視 正:肉身の仏陀より教法を重視

baka-hage
質問者

お礼

御気になさらず。私もよく間違えます(笑) 合掌 南無阿弥陀佛

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回答No.6

お礼、ありがとうございます。 parayanaに「読誦」という意味はありますよ。 しかし、「聖句」だから読誦するワケでしょう。「読誦する」ために、聖句を集めるワケでしょう。 と同時に、これが聖句であることを示さなければならない。 序と結がそのために付けられたということは、このことと矛盾しないと思いますが。 ☆その不可能性について平川彰師は「純粋に『人間仏陀』の伝記、現在としては再現不可能である。仏陀の事跡は、すでに神話的に色づけされているからである。」と端的に述べてておられます。 ◇ええ、できません。不可能です。 それだけではなく、『スッタニパータ』の結集時には、どれがゴーダマの言葉であるかさえわからなくなっていたはず。 ゴーダマさんが、本当に、第四章の詩頌などを作った、と思っていらっしゃるんですか? 疑り深いわたしなどは、 実在したゴーダマさんの教えすら、『スッタニパータ』や『ダンマパダ』などから抽出し、復元することも限りなく不可能に近い、と考えています。 はっきり言って、 わたしは、《大乗非仏説》派であると同時に《小乗非仏説》派です。 ここでいう《非仏説》は、「歴史上実在したゴーダマの言葉がそのまま経典に記されているわけではない」という意味です。 ☆また、海外研究においてもReginald,A,ray師も『スッタニパータ』最古層においてすでに神話的であると指摘されています。つまり、経典のなかに神格化していない釈尊など存在していないということです。 ◇わたしは、神格化の程度が著しいほど、後世の創作である可能性が高い、と指摘しているだけです。 そして、 そういう箇所を読むときには、このことを常に念頭に置き、注意深く読まなければならない、と思っています。

baka-hage
質問者

お礼

 何度もありがとうございます。 >>これが聖句であることを示さなければならない。 >>序と結がそのために付けられたということは、このことと矛盾しないと思いますが。  全くおっしゃる通りなんです。  しかし、私の質問の意図とは少し違うんです。私が思うに経典であろうが、論文であろうが、小説であろうが、序(問題提起)と結語(結論)読めば、その間の内容である問答集を凝縮した形で読み取ることができるはずだと思うのです。その点において私の疑問点は、三十二相や転輪聖王と同等に扱うという釈尊の形容が、問答集の内容のどこにかかってくるのか?また、序より先にできていたであろう結語のどこにかかってくるのか?また結語はその前にできていた問答集のどこにかかってくるのか?ということです。  この『スッタニパータ』第五章を最古層古層新層の議論はさておいて、一つの経典としてみた時に、序、問答集、結語がどのような相関関係を持って説かれているのかというのが問題なんです。そう考えた時に、貴殿のおっしゃる序に記されたそれは、経典の問答集の内容のどこにかかっていて、結語のどこにおいて結論として示されているのか?という点をお聞きしたいのです。  私はそう考えた時に、内容面において釈尊の形容はほかの部分との相関性としては、序や結語の成立の理由としては薄いと思うのですが?いかがでしょうか? >>ゴーダマさんが、本当に、第四章の詩頌などを作った、と思っていらっしゃるんですか? >>わたしは、《大乗非仏説》派であると同時に《小乗非仏説》派です。 >>ここでいう《非仏説》は、「歴史上実在したゴーダマの言葉がそのまま経典に記されているわけではない」という意味です。  私も同じスタンスですよ。ただ、私はダブルスタンダードなので『増一阿含経』でしたかね「うまいこと言ってればみんな仏説」って立場でもありますかね。  逆に私はあなたのような方の内容に関する御意見をお聞きしたい。 >>◇わたしは、神格化の程度が著しいほど、後世の創作である可能性が高い、と指摘しているだけです。 >>そういう箇所を読むときには、このことを常に念頭に置き、注意深く読まなければならない、と思っています。  先にも申し上げた通り「神格化説」には懐疑的です。あくまで、呼称や形容の変化は、当時の人々の文脈の中における権威の変化ということであって、神格化説の方々が言うような古層の呼称形容<(より神格化させ権威を挙げたのが)新層の呼称形容という式ではなく、先のお礼にもあげた神格化説の二つ目の問題点の理由により当時の編纂者たちの認識としては古層の呼称形容=(同等であるが当時の人にはよりわかりやすくしたのが)新層の呼称形容、という程度のもので混在しても違和感を感じないという程度のものであったのではないかと思うんですよね。もちろん、その呼称形容変化をもって成立年代を識別する一つの物差しとなるということには賛成ですよ。  また、貴殿の「注意深く読まなければならない」というのもどういう意味でしょうかね?まかり間違うと、私が言う序と結語の扱いが悪さってのもそういう考え方からきているような気がするんですよね。私も注意深く読みますが、やっぱりダブルスタンダードなので年代による内容の差の検証とと内容そのものはまた別と思ってます。 つらつら書かせていただきました。参考にさせていただきます。 合掌 南無阿弥陀佛

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回答No.5

parayanaは、「聖句集成」の意味ですよ。 essenceやsummaryなどの意味。 で、 para-yanaと分解すれば、中村元訳のタイトルになります。 中村元の「ブッダのことば」の注には、タイトルの説明が書いてありますよ。 で、 五章(の序)で注目すべき所は、 ブッダの神格化がかなり進んでいるところ。 序では、32相を備え、転輪聖王と同等の扱いを受けています。甘庶王の末裔とされ、太陽神にゆかりのある人間とされている。 もう、これだけで、これは後世の挿入だな、と分かってしまう。 ではでは。

baka-hage
質問者

お礼

たびたびありがとうございます。 >>parayanaは、「聖句集成」の意味ですよ。 >>中村元の「ブッダのことば」の注には、タイトルの説明が書いてありますよ。 いえいえ、その中村元師の『スッタニパータ』の註に「聖典を読誦すること」の意味もあると記されてますよ。また、ヴェーダ学においては確か「読誦」または「読了」の意味で使われてますよね?その辺から考えると、もちろん中村訳もいいんですが、『増支部』等々で読誦経典としてこの五章が挙げられていることをかんがみて「聖典を読誦すること」の意味も強いのではないかと思うのです。 >>五章(の序)で注目すべき所は、 >>ブッダの神格化がかなり進んでいるところ。 >>もう、これだけで、これは後世の挿入だな、と分かってしまう。 これは先に頂いた回答を鑑みますと「五章の『序』はブッダの神格化を進めることで、より権威を高めようとした」という意味ですかね?そういう意味でしたら、違うのではないでしょうか。  私はこの釈尊の神格化説には懐疑的で、これは神格化というよりも形容変化でしかないのではないかと思っています。この釈尊の神格化について論じられた代表がまさに中村元師なわけですが、この中村師の「釈尊の神格化説」について新田智通師は批判や検証が必要な論考の一つ述べています。  釈尊の神格化説はその前提にドイツの神学者ルドルフブルドマン氏が提唱した非神話化というのがその前提にあると思います。仏教の場合は「神話的な要素を多分に含んだ経典の中から、純粋な人間ゴータマ・シッダールタをサルベージする」ということになるのでしょう。しかし、その不可能性について平川彰師は「純粋に『人間仏陀』の伝記、現在としては再現不可能である。仏陀の事跡は、すでに神話的に色づけされているからである。」と端的に述べてておられます。また、海外研究においてもReginald,A,ray師も『スッタニパータ』最古層においてすでに神話的であると指摘されています。つまり、経典のなかに神格化していない釈尊など存在していないということです。  そして中村元師の釈尊の神格化説には二つの問題が内包している。中村元師の釈尊の神格化説は『中村元選集12巻ゴータマ・ブッタII』の中でまとめられていますが、一つ目の問題はそこに根拠として挙げられている経典が古層や最古層が入り乱れていることです。今回の話題である『スッタニパータ』でいえば、神格化していない根拠として2章377の文が示されているのに対して、神格化している根拠として5章1122の文が挙げられています。一般的には2章より5章の方が古い成立と考えられ、これでは神格化されている方が古いことになってしまいます。つまり、ここでは経典の中から中村師が神格化していると思われる場所を抜き出したにすぎず、「釈尊は神格化されたんだ」という仮説を根拠として「釈尊の神格化」を証明しようとしているように読めます。二つ目の問題は、仮に中村師の選別が正しかったとしても、その神格化非神格化両方の呼び方や形容が一つの経典の中に混在して伝承されているというとの説明がつかないように思います。中村師が言うように、一人の人間にすぎなかった釈尊がのちに神格化されていったというのであれば、伝承者は恣意的に経典をつくりかえることができたということになります。そうであれば、釈尊の人間的呼称や形容を改めることもできたはずですし、言い換えがおこなわれてしかるべきたったはずです。しかしそれがおこなわれていない。つまり、それは中村師の言うような「神格化」「人間的」というほどの差異を、当時の伝承者たちは感じておらず、それらの呼称や形容の変化はその時々の文脈的な違いでしかないとみるべきではないでしょうか。  このように考えますと釈尊はそもそも神格化された存在であり、『スッタニパータ』五章の「序」において釈尊をより神話化させて権威を高めようとしたという仮説も成り立たないと思います。たとえそれがあったとしても、序を付け足す決定的な理由ではないように思います。  これはあくまで私の邪推かもしれませんが思うことをつらつら述べさせていただきました。あしからず。ご意見参考にさせていただきます。 合掌 南無阿弥陀佛

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

>久しぶりに『スッタニパータ』が読みたくなって、岩波版の中村元師訳や、その他の方の訳や解説をいろいろ読んでいて思ったのですが、『スッタニパータ』五章のとくに「序」と「結語」の扱いが悪い気がするんです。 ○確かに、中村元訳を見ると「ひどい」の一言ですね。渡辺照宏訳を読まれることを勧めます。中村元さんは単なる学者ですね。仏教的悟りとか解脱の意味がわからなかったのですね。一方、渡辺照宏さんは出がお寺の子供(お坊さん)でしたから、同じ訳でも深みがありますね。 >で、ここで質問なんですが『スッタニパータ』第五章の編纂者は、「序」と「結語」を通して、何を伝えたかったと思いますか? ○第五章は「彼岸への道」ですから、修行僧にとって重要な章ですね。「序」は「彼岸つまり解脱」を妨げているものが「無明」であると言い切っているところがすごいですね。 これは、ソクラテスの「無知」に通じる章ですね。その後の、学生たちのさまざまな質問に直接答えることにより「彼岸つまり解脱」への道を指し示していることですね。 「結語」にある「一つ一つの質問の意味を理解し、法を理解し、方に従って実践すれば,老死の彼岸に必ず到達するであろう。」がこの章の纏めですね。 「老死の彼岸」は青年ゴータマが、カピラバーストから出家した第一の疑問であり、目的ですね。生老病死の四苦の存在理由を求めて出家し。菩提樹の下で大悟し、大悟の結果、第一の疑問の回答を得たわけですね。 老死の彼岸とは、老死の存在理由を理解するということですから、修行僧の目的である解脱を意味していますね。 この章で大切なことは、無明からの脱出の方法ですね。釈尊はこのようにおっしゃっていますね。あなたの信仰、信じるもの全てを捨てよ。これは学生のほとんどが元はバラモン教の信者であったということから、バラモン教の信仰を基礎として積み上げた全ての知識を一旦捨てなさいといっているのですね。 現代風に言えば、あなた方が持っている知識を全て白紙にしなさいという意味ですね。このあたりが、理解できないとこでしょうね。信仰とは見えないものを信じるだけではなく、生まれ育った過程で得た理論や知識も信仰の対象なんですね。こういう総合の知識が無明の元なのですね。中村元さんもこの無明に囚われて訳したのでしょうね。だから、訳自体が「無知の知」になってしまったというとこでしょうね。

baka-hage
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >>○確かに、中村元訳を見ると「ひどい」の一言ですね。渡辺照宏訳を読まれることを勧めます。中村元さんは単なる学者ですね。仏教的悟りとか解脱の意味がわからなかったのですね。一方、渡辺照宏さんは出がお寺の子供(お坊さん)でしたから、同じ訳でも深みがありますね。  そうですか?私は中村訳は中村訳でので読みやすいし、私は好きですけどね。これって「誤訳じゃない?」ってのはたまにありますが(「犀の角」とか「信仰を捨てよ」とか)、「ひどい」の一言で納められるものでもないでしょう。中村師みたいな客観的な立場でいたいって人と、渡辺師みたいに信仰の立場でいる人と、双方がいなければ研究は進みませんよ。学者においても功罪がありますが、中村師は功の方がでかいでしょう。 >>○第五章は「彼岸への道」ですから、修行僧にとって重要な章ですね。「序」は「彼岸つまり解脱」を妨げているものが「無明」であると言い切っているところがすごいですね。  私もその部分好きですね。なんたってお釈迦様がダジャレを言ってるんですからね。頭を表すパーリ語muddhaは多義語で「頭(サンスクリット・mūrdhan)」のほかに「迷妄(サンスクリット・mugdha)」つまり考えすぎる事での苦悩という二つの意味のある言葉なんですな。だから、アジタ尊者が「うちの師匠の頭取れないですよね?」と質問してるのに、お釈迦様は突然「頭とは無明であると知れ」といってこたえる。ここには頭⇒迷妄⇒無明というダジャレかまして、それを聞いた人たちが「狂喜(マジ受ける)」したというスンバらしいところですな。 >>この章で大切なことは、無明からの脱出の方法ですね。釈尊はこのようにおっしゃっていますね。あなたの信仰、信じるもの全てを捨てよ。これは学生のほとんどが元はバラモン教の信者であったということから、バラモン教の信仰を基礎として積み上げた全ての知識を一旦捨てなさいといっているのですね。 >>現代風に言えば、あなた方が持っている知識を全て白紙にしなさいという意味ですね。このあたりが、理解できないとこでしょうね。信仰とは見えないものを信じるだけではなく、生まれ育った過程で得た理論や知識も信仰の対象なんですね。こういう総合の知識が無明の元なのですね。中村元さんもこの無明に囚われて訳したのでしょうね。だから、訳自体が「無知の知」になってしまったというとこでしょうね。  んん?でも「信仰を捨てよ」は中村訳ですよね?私は渡辺訳は持っていないので渡辺訳でもそうなってるんですか??  まぁ、どこかの新興宗教では中村元師は地獄に落ちていて、地獄で「自分は悟りを開いたんだ」と吹聴していると説かれているそうですがね・・・ ご意見参考にさせていただきます。 合掌 南無阿弥陀仏

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noname#195588
noname#195588
回答No.3

調べてみました。 どうやら結語はニッデーサで注釈されているようです。 まず、こちらのpdfの16ページ うまくコピペできなかったのでそのまま。 http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/2830/1/KJ00005242205.pdf まず、並川氏が参照を指示し ておられる中村元「ブッダのことば」p.410の注釈に書かれているのは、「パーラーヤナ・ヴァッガ」の序の部分が「の ちに附加されたものであるらしい」ということだけであって、結びの部分については後世の附加であるなどとは全 く書かれていない。それどころか次のような解説さえある。「パーラーヤナ」の「プロローグ{序}に関しては、「スツ タニパータ』の最古の注釈書である『ニッデーサ」がそれを無視している事実から、それがまちがいなく後世の附 加部分であることがわかっている。・・・・・・ところが、エピローグ[結び]に関しては、そうはいかない。『ニッデーサ』が きっちり取り上げているからだ」。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Niddesa (Pali Text) PTS Version 3 https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/niddesa.html Cullaniddesaを見たら エピローグ部分の注釈がありました。 ついでに、 Khaggavisāṇasuttaまでありました。 犀の角はCullaniddesaで注釈されていたのか。 ニッデーサは何が書いてあるのかさっぱりわからない。 ついでにスッタニパータ https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/suttanipata.html あとこれ英語でなんか書いてあります。 http://www.accesstoinsight.org/lib/authors/thanissaro/parayanavagga.html サンユッタニカーヤとアングッタラニカーヤは何か関係あるんだろうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

baka-hage
質問者

お礼

 たびたびすみません。 >>どうやら結語はニッデーサで注釈されているようです。 本当だ!元ちゃんの註にも「結語」は『チュッラ・ニッデーサ』に合わせて章を分けたみたいなことが書いてありました。ちゃんと読んでないことが露見してしまった(笑) >>サンユッタニカーヤとアングッタラニカーヤは何か関係あるんだろうか。 たぶん『サンユッタニカーヤ』は、『スッタニパータ』1146で突然お釈迦様が現れて名前を挙げた「ヴァッカリ」について詳しく書いてあって、ピンキヤ尊者とヴァッカリ尊者の共通点なんかを指摘する学者さんもいますね。  で、『アングッタラ・ニカーヤ』はその序で、ナンダ尊者のママが毎朝『スッタニパータ』五章の「パーラーヤナ」を唱えてたってことがあるはずです。いわゆる我々ボーズが毎朝する朝のお勤めの原初形態ですな。 いろいろありがとうございます。助かりました。 合掌 南無阿弥陀佛

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noname#195588
noname#195588
回答No.2

“Sukhito bāvarī hotu, Saha sissehi brāhmaṇo; Tvañcāpi sukhito hohi, Ciraṃ jīvāhi māṇava. http://suttacentral.net/snp5.1/pi 1029 (ゴータマは答えた)、「バーヴァリ・バラモンも、諸々の弟子も、ともに楽しくあれ。 学生よ、そなたもまた楽しくあれ。永く生きよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Idamavoca bhagavā magadhesu viharanto pāsāṇake cetiye, paricārakasoḷasānaṃ brāhmaṇānaṃ ajjhiṭṭho puṭṭho puṭṭho pañhaṃ byākāsi. Ekamekassa cepi pañhassa atthamaññāya dhammamaññāya dhammānudhammaṃ paṭipajjeyya, gaccheyyeva jarāmaraṇassa pāraṃ. Pāraṅgamanīyā ime dhammāti, tasmā imassa dhammapariyāyassa pārāyananteva adhivacanaṃ. http://suttacentral.net/snp5.18/pi ■□■<18、一六学生の質問の結語>■□■ --------------------------------------------------------------------------------  師(ブッダ)は、マガダ国のパーサーカ霊地にとどまっておられたとき、以上のことを説かれ、(バーヴァリの)門弟である一六人のバラモンに請われ問われる度ごとに、質問に対して解答をのべた。もしもこれらの質問の一つ一つの意義をしり、理法を知り、理法にしたがって実践したならば、老衰と死との彼岸に達するであろう。これらの教えは彼岸に達せしめるものであるから、それ故にこの法門は「彼岸にいたる道」と名づけられている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ “Yathā ahū vakkali muttasaddho, Bhadrāvudho āḷavigotamo ca; Evamevaṃ tvampi pamuñcassu saddhaṃ, Gamissasi tvaṃ piṅgiya maccudheyyassa pāraṃ”. http://suttacentral.net/snp5.19/pi 1146 (師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ とりあえず、気になったのは、 楽しくあれ。永く生きよ。 老衰と死との彼岸に達するであろう。 ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。 仏教の教えは、信仰を捨てて、楽しく長生きしよう? 私は以前、学生ナンダの問いで『煩悩の激流を乗り超えた人々である』をもしかしてマガダ語かな? と話題にしたら、いろんな人に批判されまくったので、なんだかな、と。 もちろん学生ナンダの問いが古いとはいいません。ただの私の間違いです。 anāsavāseとはなんだったのか。 でも、第五章の詩句で古くないものがあるなら、 第五章自体それほど古くないのかな、と思うようにはなりました。

baka-hage
質問者

お礼

 回答ありがとうございます。 >>仏教の教えは、信仰を捨てて、楽しく長生きしよう?  受ける。そうなのかな?笑  まぁ、「長生きせいや」みたいなのはインドでは昔からある言い回しみたいですけどね。確か『四分律』にもお釈迦様がお説教の最中にくしゃみをしたとき、英語圏の人が「ブレスユー」ってゆうみたいに弟子たちが「長寿(長生きしてや)」言いまくるもんだから、話の腰を折られてお釈迦様が困ったって話がりますからね。  個人的には1029の「楽しくあれ、永く生きよ」は「物質的な頭が落ちて死なないから、無明という意味の頭を落として楽しく、長生きしてや」くらいの意味に解釈してます。  また、1146の「信仰を捨て去れ」も古くは藤田宏達師だとか最近だと村上真完師とか学者の先生たちの中では「信を起こせ」「信を寄せて」の方が訳として正しいんじゃないって言われてたりするみたいですね。私も言語的なとこは苦手でまだその辺詳しく調べてないので何ともいませんが、確かにそういわれてみると龍樹大士著といわれる『大智度論』には「仏法の大海は信を能入と為す」の根拠として、『スッタニパータ』ではありませんが梵天勧請のところにある「耳ある者どもに甘露の(不死)の門は開かれた。信仰を捨てよ。」を引用してますからね。「信仰を捨てよ」は「(仏教に対して)信を確立する」って意味でとらないと、ちょっと話が通らない。元ちゃんも註のところで触れてますけどね。ちょっとこの辺は追研究してみようと思います。 >>私は以前、学生ナンダの問いで『煩悩の激流を乗り超えた人々である』をもしかしてマガダ語かな? >>と話題にしたら、いろんな人に批判されまくったので、なんだかな、と。  これなんかは「決語」とのつながりでいえば1145の言葉にかかってくる部分として注目されますね。 それを受けてピンキヤ尊者は「私は汚泥の中臥してもがきながら、洲から洲へ漂いました。」に対しての対句として使用しています。お釈迦様の遺言といえる『涅槃経』の「自灯明法灯明」という言葉の中の灯明は「洲」の誤訳といわれていて、「洲」は安全な避難場所みたいな意味なんだそうです。ですから、ピンキヤ尊者はいろいろな師匠や思想を避難場所としてしがみついてみたけど、私はついに本当の意味で安全な避難場所である「煩悩の激流を乗り超えた人々である」お釈迦様に出会った喜んでますね。  だから、お釈迦様を「煩悩の激流を乗り超えた人々である」と表現するのは古い経典でも見られるから、マガダ語であるかはさておき、他の経典との相関性のある結構古い表現なんじゃないのかな。 >>でも、第五章の詩句で古くないものがあるなら、 >>第五章自体それほど古くないのかな、と思うようにはなりました。  No,1の方のところにも書きましたが、読誦経典としては比較的古い時代にメジャーにはなってるはずなんですけどね。  まぁ、ふとおもったことをつらつら書いたんで文章まとまってませんが、ご意見参考にさせていただきます。 合掌 南無阿弥陀佛

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回答No.1

こんにちは。 「序」において、場所や時間を設定し、そのお経の中味が説かれるきっかけを明示することによって、 この経典が紛れもなく仏説であることを示す。 そして、 「結」において、その経典や教えなどの功徳を説く。 (後世の)仏典によくあるパターンに従っているだけだと思いますが。 どうせ、学生の質問は、寄せ集めでしょう。 ───そもそも、『スッタニパータ』そのものが寄せ集め!!─── 5章に先行して存在していたであろう学生の質問を寄せ集め、序と結をつけることによって、権威付けた。 編纂者の意図は、それくらいではなかろうかと・・・。

baka-hage
質問者

お礼

 早々に回答ありがとうございます。 >>(後世の)仏典によくあるパターンに従っているだけだと思いますが。  もちろん、これもあるんでしょうね。経典としての体裁を整えることの、原初形態がうかがえますね。 >>5章に先行して存在していたであろう学生の質問を寄せ集め、序と結をつけることによって、権威付けた。  ただ、権威づけといっても、この『スッタニパータ』の中でも、『自説経』の中でソーナ尊者がお釈迦様に「you説いちゃいなyo」て言われて四章を唱えてますし、五章は「パーラヤナ」って名前でそもそもの意味が「聖典を読誦する」って意味ですしパーリ―『増支部』でナンダ尊者のお母さんが毎朝唱えてるって書いてありますから、読誦経典としてそもそも権威があるわけで権威づけのためにわざわざ「序」とかを付け足したと考えるのもなんか腑に落ちない気もしますね。  ご意見参考にさせていただきます。 合掌 南無阿弥陀佛

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