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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:『スッタニパータ』五章「序」「結語」の編纂意図)

『スッタニパータ』五章「序」「結語」の編纂意図とは?

NemurinekoNyaの回答

回答No.5

parayanaは、「聖句集成」の意味ですよ。 essenceやsummaryなどの意味。 で、 para-yanaと分解すれば、中村元訳のタイトルになります。 中村元の「ブッダのことば」の注には、タイトルの説明が書いてありますよ。 で、 五章(の序)で注目すべき所は、 ブッダの神格化がかなり進んでいるところ。 序では、32相を備え、転輪聖王と同等の扱いを受けています。甘庶王の末裔とされ、太陽神にゆかりのある人間とされている。 もう、これだけで、これは後世の挿入だな、と分かってしまう。 ではでは。

baka-hage
質問者

お礼

たびたびありがとうございます。 >>parayanaは、「聖句集成」の意味ですよ。 >>中村元の「ブッダのことば」の注には、タイトルの説明が書いてありますよ。 いえいえ、その中村元師の『スッタニパータ』の註に「聖典を読誦すること」の意味もあると記されてますよ。また、ヴェーダ学においては確か「読誦」または「読了」の意味で使われてますよね?その辺から考えると、もちろん中村訳もいいんですが、『増支部』等々で読誦経典としてこの五章が挙げられていることをかんがみて「聖典を読誦すること」の意味も強いのではないかと思うのです。 >>五章(の序)で注目すべき所は、 >>ブッダの神格化がかなり進んでいるところ。 >>もう、これだけで、これは後世の挿入だな、と分かってしまう。 これは先に頂いた回答を鑑みますと「五章の『序』はブッダの神格化を進めることで、より権威を高めようとした」という意味ですかね?そういう意味でしたら、違うのではないでしょうか。  私はこの釈尊の神格化説には懐疑的で、これは神格化というよりも形容変化でしかないのではないかと思っています。この釈尊の神格化について論じられた代表がまさに中村元師なわけですが、この中村師の「釈尊の神格化説」について新田智通師は批判や検証が必要な論考の一つ述べています。  釈尊の神格化説はその前提にドイツの神学者ルドルフブルドマン氏が提唱した非神話化というのがその前提にあると思います。仏教の場合は「神話的な要素を多分に含んだ経典の中から、純粋な人間ゴータマ・シッダールタをサルベージする」ということになるのでしょう。しかし、その不可能性について平川彰師は「純粋に『人間仏陀』の伝記、現在としては再現不可能である。仏陀の事跡は、すでに神話的に色づけされているからである。」と端的に述べてておられます。また、海外研究においてもReginald,A,ray師も『スッタニパータ』最古層においてすでに神話的であると指摘されています。つまり、経典のなかに神格化していない釈尊など存在していないということです。  そして中村元師の釈尊の神格化説には二つの問題が内包している。中村元師の釈尊の神格化説は『中村元選集12巻ゴータマ・ブッタII』の中でまとめられていますが、一つ目の問題はそこに根拠として挙げられている経典が古層や最古層が入り乱れていることです。今回の話題である『スッタニパータ』でいえば、神格化していない根拠として2章377の文が示されているのに対して、神格化している根拠として5章1122の文が挙げられています。一般的には2章より5章の方が古い成立と考えられ、これでは神格化されている方が古いことになってしまいます。つまり、ここでは経典の中から中村師が神格化していると思われる場所を抜き出したにすぎず、「釈尊は神格化されたんだ」という仮説を根拠として「釈尊の神格化」を証明しようとしているように読めます。二つ目の問題は、仮に中村師の選別が正しかったとしても、その神格化非神格化両方の呼び方や形容が一つの経典の中に混在して伝承されているというとの説明がつかないように思います。中村師が言うように、一人の人間にすぎなかった釈尊がのちに神格化されていったというのであれば、伝承者は恣意的に経典をつくりかえることができたということになります。そうであれば、釈尊の人間的呼称や形容を改めることもできたはずですし、言い換えがおこなわれてしかるべきたったはずです。しかしそれがおこなわれていない。つまり、それは中村師の言うような「神格化」「人間的」というほどの差異を、当時の伝承者たちは感じておらず、それらの呼称や形容の変化はその時々の文脈的な違いでしかないとみるべきではないでしょうか。  このように考えますと釈尊はそもそも神格化された存在であり、『スッタニパータ』五章の「序」において釈尊をより神話化させて権威を高めようとしたという仮説も成り立たないと思います。たとえそれがあったとしても、序を付け足す決定的な理由ではないように思います。  これはあくまで私の邪推かもしれませんが思うことをつらつら述べさせていただきました。あしからず。ご意見参考にさせていただきます。 合掌 南無阿弥陀佛

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