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スッタニパータ805に関して

中村 元訳「ブッダのことば」 805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。 これは誰に対する説教とも書いてありません。「在家にとどまっていてはならない。」、これは誰への呼びかけですか。四章六節「老い」の一部ですから、家督を子息に譲った後の隠居への呼び掛けかも知れません。しかし、ここばかりでなくスッタニパータ全体に流れる雰囲気から判断して、釈尊は年齢に関わらず出家に勝る修行はないと説いているとみてよいのだと思います。 しかし、これはねずみ講と同じ構造ですから、こんな矛盾した教説はありません。出家者が増えれば功徳を積む側の人間がいなくなってしまい乞食が成立しなくなり破綻してしまいます。こういう無茶な理論は必ず改良される筈です。ブッダの教えと大乗仏教との間に、在家のまま自らの修行によって解脱を計る道を説いた人なり教典があってよさそうに思いますが実際はどうなのでしょうか。ブッダの後は一気に大乗仏教に飛んでしまうのですか。門外漢の直感としては中間的な教説があると推測します。 よろしくお願いします。

みんなの回答

回答No.1

インドの風習としてバラモンは老年期には 出家したようです(おばすてやま) ブッダはすべての人に対して 在家にとどまってはならないと仰ったのです >ねずみ講 意味が分からない >乞食が成立しなくなり破たんして すべての人が出家修行して 飢え死にすればすべての執着が消めつします 非常にインド的な発想ですね 功徳を積む側の人間は想定されていません 戒律では木の実とかフルーツは 取って食べてもよいことになっています >ブッダの教えと。。 「維摩経」が有名です ゆいま居士と言う在家の人が お説教するお経です 中論や唯識など 龍猛菩薩、世親菩薩といったかたが 大乗仏教に移る中間的な位置にあります 大乗の教えは深深不可思議ですので 理解できる前に 批判してはいけません ばちがあたります

sono-higurashi
質問者

お礼

―――締め切るに当たってーーー 補足欄に記した問い合わせに対して9月1日正午現在、ご返事がありません。何らかの事情が生じたものと推測します。発問以来、ほぼ一月を経ますので、これ以上は待たずに、ここで締め切っても失礼には当たらないと判断します。 質疑が完結しない尻切れトンボですので、ご回答の真偽を判断する手掛かりがありません。よって、このご回答は当初より無かったものと受け取り、ここに締め切ることといたします。9月1日(月)記。

sono-higurashi
質問者

補足

>>すべての人が出家修行して 飢え死にすればすべての執着が消めつします 非常にインド的な発想ですね<< これをゴータマ・ブッダが肯定していたという、ご意見ですか。 肯定していた場合、それを何らかの資料で示す事ができますか。 よろしくお願いします。 中論、唯識、龍猛菩薩、世親菩薩は調べてみます。 有り難うございました。

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