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ゴータマは、解脱者のなのか?

仏教の開祖・《ゴータマ》さんは、《解脱者》なのかどうか? ゴータマさん出家の動機が、《生・老・病・死》という《四苦》の克服であったことは、 多くの仏伝の伝えるところです。 しかし、 ゴータマさんは、 《老》い、《病》気になり、その病気がもとで《死》亡しています。 実際問題として、四苦を克服していない!! はてはて、 これはどうしたことか??? という疑問が、 数日前、わたしの頭に浮かびました。 1 ゴータマさんは、《苦》を克服、超克できたのか? 2 《解脱》は何からの解脱であったのか? 3 ゴータマさんは、本当に《解脱者》であったのか? 4 成道後のゴータマさんに、《煩悩・klesa》はあったのか? 教えてください。 よろしくお願いします。 大乗的な観点、南伝上座部的観点、原始仏教的な観点、 スピリチュアルからのアプローチ、 わたしの《ゴータマさん論》、《ゴータマ観》、 「仏教の説く《苦・duhka》とは」 などなど、 この質問に多少なりとも縁のある回答ならば、 大歓迎です。 よろしくお願いします(ペコリ)。

質問者が選んだベストアンサー

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  • 0fool0
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回答No.14

解脱と言うのは平たく言えば、迷いの束縛を受けなくなる事です。 煩悩は生涯消える事はありません。 それの最たるものが『生老病死』です。 生の苦しみを受け入れる。 老いの苦しみを受け入れる。 病の苦しみを受け入れる。 死の苦しみを受け入れる。 そして苦しみの意味ですが、喜怒哀楽、及びその感情を引き起こす存在全てが苦しみです。 ちなみにお釈迦様が解脱者かどうかはお会いした事が無いのとご本人の言を直接聞いた訳ではないので、私には断言する事は出来ません。

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 ☆そして苦しみの意味ですが、喜怒哀楽、及びその感情を引き起こす存在全てが苦しみです。 ◇苦しみとは、主観的なものではなく、心外に存在する客観だという意味ですか? ☆ちなみにお釈迦様が解脱者かどうかはお会いした事が無いのとご本人の言を直接聞いた訳ではないので、私には断言する事は出来ません。 ◇YESかNO、どちらだとお考えですか? このどちらでもない、 あるいは、 「わたくしは、解脱者であると信じています」でも結構です。 わたしは、皆さんがどのように考えていらっしゃるのか、そのことを知りたいもので。

その他の回答 (15)

  • 0fool0
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回答No.16

>◇苦しみとは、主観的なものではなく、心外に存在する客観だという意味ですか? すみません、説明があやふたでした。 もちろん全ての事は、自己の認識で起きていますので、苦しみが外にある(自分に理由が無い)と思う事も苦しみです。 >◇YESかNO、どちらだとお考えですか? もちろん私の思いとしては、Yesですが、ただ、『解脱者』と言う単語はどうも好きになれません。 どうしても『解脱』と言う単語には、物理的な響きを感じてしまうのです。 私だけかもしれませんが。 生きている限り、肉体・生命からついて回る苦しみを逃れる事は出来ません。 『解脱』には『身解脱』と言う言葉があるように、死後に輪廻から外れる時に使う言葉の様に私には感じられるのですよ。 もちろん『心解脱』もありますから、間違いではないのですが、単に『解脱』では片手落ちなのです。 それに『心解脱』と言う言葉も誰が考えたのか知りませんが、変な言葉です。 だって心は体と不可分なのですから。 つまり『解脱』は死後の世界に触れる言葉なので、本来の釈尊の教えとは乖離しているのです。。 『超人思想』の響きを感じてしまうのですよ。 仏教は本来、死後の世界を約束する宗教では無く、あくまで生きている間の「快楽主義」の宗教です。 ですんで『解脱』の思想自体何時からあるのか私は疑問ですし、誤訳じゃないかと思います。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんばんは。 ☆>◇YESかNO、どちらだとお考えですか? もちろん私の思いとしては、Yesです ◇これで十分です。 ☆ですんで『解脱』の思想自体何時からあるのか私は疑問ですし、誤訳じゃないかと思います。 ◇英語ですと、「release」や「being free」くらいの訳語を当てているようです。 日本語ですと、「自由」や「自在」くらいの意味になるのでしょうか。 回答、ありがとうございました。

回答No.15

13だよ。 レッツチチをもげダンスだ。 解脱とは、苦しみから解放され、あんた達は相変わらずのたくってるけど、私ばっかりは幸せよーん、と言う境地だ。 したがって苦しみもがく人々をしり目に、あーらかわいそーねーなんて口先からこぼれるほど余裕があったのだ。 私からの助言だが、他者の苦を理解してはならない。 他者の幸福を理解しろ。 ただしこれは救いたいと願う者の心得だ。 君達の場合、自らが苦のさなかにいる事だろう。

NemurinekoNya
質問者

お礼

う~ん、 掘り下げなければよかった・・・、 と後悔しています。 NO12の回答より、 13、15とヴァージョンUPするたびに、 ダウングレードしているように感じてしまうのは、 わたしだけでしょうか。 回答、ありがとうございました。

回答No.13

12だよ。 レッツチチをもげダンスだ。 君に周囲に君よりも明らかに心清らかな人がいるとするだろう。 君とは親しくはないがたとえば私のような人だ。 君はその人の行いを到底まねできないと感じるだろう。 その辺りがおおむね、私にとっては苦しいからまねできないとか何とかだろう。 こういうのが身近な例で、お釈迦様の生き方は尊敬を集めるほど、苦行の延長であったのではないかな。 けらけらと笑っていたからそれでも幸福だと認識されたのだろう。 たとえば私の様にだ。

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 あれこれ質問したいところは、数多く存在しますけれども、  ☆けらけらと笑っていたからそれでも幸福だと認識されたのだろう。 の一点に絞ります。 釈尊は、目の前に困っている人がいたとして、 「けらけらと笑っていたからそれでも幸福だ」ったのでしょうか? あるいは、そのように、他の人たちの目には映っていたのでしょうか? 矛盾や葛藤、懊悩はなかったのでしょうか?

回答No.12

一切皆苦が娑婆のおきてで、それから解き放たれて死すらも苦と思わずにくたばっちまったんなら解脱者だよ。 自らの死さえも釈迦の幸福を揺るがすことはなかった。 今ではお釈迦さまでなくても珍しい事ではないよ。

NemurinekoNya
質問者

お礼

あまりにアバウトな回答なので、弱ったな・・・。 遅れましたが、 回答、ありがとうございます。 確認します。 釈尊といえども、他者から見ると《苦》と思えるような状況はある。 しかし、 そのような状況、境遇も、釈尊の《心の平安・zAnti:シャーンティ)を揺るがすことができない。 その意味において、 釈尊の境地は、《苦》から自由であり、《苦》から《解脱》している。 このように、おっしゃりたいのですか? では、 この時の《苦》とは何ですか? 仏教でよく言われる「思い通りにならない《苦》しみ」の意味ですか? この意味の《苦》は、 釈尊にあったのか、なかったのか、 どのようにお考えですか?

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.11

回答者のみんなが心優しいとは限らんやろう。 確かに猫君はいろいろ知識が豊富なようやが、賢いという印象は受けないな。馬鹿とも思わないが。 まぁそれはともかく。 流れで言えば、俺もこのことには懐疑的だが、俺が仏伝を読んだり聞いたりした限りでは、仏は人間ではないというのが妥当なんやろうな。 大人と子供の違いの様に、仏と人間は違うと。 心の話やけど、心が心によって終滅されているということやから、もはや心というものがないということになるんやろうな。どんな境地なんかは俺にもわからん。 なんかの仏典にも書いていたが、伝承によらず、自ら励むのが仏道のような気がするな。さとりも、こんこんと調べをつけるよりも、自分で考えた方が案外近いところの理解にたどり着くかもしれん。 俺のゴータマ観と言えば、前言と矛盾するようやが、彼以前の伝統的なヴェーダの下地あっての彼の思想のような気がするな。決して唯我独尊ではなくて。 俺のさとり観と、ゴータマ観は特別な関係にある訳じゃない。俺のさとり観は雑食の上に培われたみたいなもんやから、伝統的な仏教からはほど遠い。それを披露するまでもないと思うし、ここでの主題は、ゴータマのさとりやしな。 1、人格的には諸行無常とは別の世界に住んでいた 2、迷いの生存、苦しみからの解脱 3、知っていなければ語れないようなことを多く語っているので、俺は解脱していたと考える。 4、ない

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 ☆回答者のみんなが心優しいとは限らんやろう。 ◇わたしの質問に回答を寄せていただける方は、皆さん、心やさしい方だと思っています。 ☆確かに猫君はいろいろ知識が豊富なようやが、賢いという印象は受けないな。馬鹿とも思わないが。 ◇猫をかぶっているだけかもしれませんよ(ニコニコ)。 ☆俺のゴータマ観と言えば、前言と矛盾するようやが、彼以前の伝統的なヴェーダの下地あっての彼の思想のような気がするな。決して唯我独尊ではなくて。 ◇はい。ゴータマの教えとされるものの多くは、ヴェーダやウパニシャッドのそれを踏襲しています。 ゴータマさんのオリジナルしそうといえるのは、 《中道》と《縁起説》くらいでしょうか。 ☆俺のさとり観と、ゴータマ観は特別な関係にある訳じゃない。俺のさとり観は雑食の上に培われたみたいなもんやから、伝統的な仏教からはほど遠い。それを披露するまでもないと思うし……。 ◇それで構わないのではないでしょうか。 でも、時々、立ち止まって、もう一度、よく考えてみることは、必要なのかもしれませんね。 ~~~~~~~ 1、人格的には諸行無常とは別の世界に住んでいた 2、迷いの生存、苦しみからの解脱 3、知っていなければ語れないようなことを多く語っているので、俺は解脱していたと考える。 4、ない ~~~~~~~ で結構でございます。 借り物の思想や言葉ではなく、 回答者さんたちの、自分の言葉で語った、皆さん一人一人の回答が欲しかったもので。 回答、ありがとうございました。

回答No.10

 お早うございます。  やはり ニルワーナが鍵でしたか。ニルワーナへの批判が 理論的な主要な批判になるもののようです。  ◇ (No.6お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆《不老不死のファンタジー》をゴータマ氏は 少なくとも字面の上で 求めたということを示そうとしたものです。  ◇いわゆる、《輪廻》説を抜きにしては、  ゴータマさんの説く《解脱》はありえないし、語り得ない。  成立し得ないと?  ゴータマさんの《解脱・mukti》は、  《release from rebirth》、  つまり、  《再生からの解脱》であると。  悟りを得て、もはや、再生が起きないから、  ニルヴァーナすることによって、  その後、  生老病死は成立しえず、  《四苦》から解放される。  これが、ゴータマさんの得た結論であると。  であるならば、  再生を信じない現代に生きる多くの日本人にとって、  ゴータマさんの教えは、まったく無意味であり、役に立たない、  ということになりそうです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  輪廻を――自分はそれから解脱したと言っても 一般には――前提として話をしているということ そして その解脱には しばしば・またはおおむね自分以外のひとについては懐疑的であったと見られること このふたつの事由において その人の言う解脱は 何の意味もない。役に立たないの前に 何の意味もない。こう結論づけられるのでなければ じんるいの七不思議がもうひとつ増えると言うものです。  やはりゴータマにとって 生老病死の苦の原因である無明(割愛・煩悩・無知)は 永遠の苦であり不治の病であるようです。  無明の明知への変換は 口先だけであるようです。  自分だけは 成就したと言っているようです。    なぜそのようなゴータマに人びとは従ったか。  なぜこのような理解できない事態が起きたか。  ふたつあると考えました。  その後後世において ブッダターなる神の霊が人間にやどるという信仰個条がかかげられる以前と以後とに分けられるのではないか。  その以前では おそらく古代インド人のものの考え方が いわゆる《灰身滅智》でもかまわないといったような信条があって それとゴータマ説とは響き合ったのではないか。『髑髏となってもかまわない』のだそうですから。  その以後では アートマンの復活とも言うべきブッダターの命題を得てからは けっきょく《無明は これも移ろいゆくものであって 明知へ相転移する。いや そう言うよりは すでに生まれた初めから ブッダの素は霊としてやどっている。心配ない》というコペルニクス的革命が起きた。それゆえだろうと考えられます。  ただし あかるい側面だけでもないようです。  なぜって すでにブッダターの遍在をそれとして知っているにもかかわらず人びとは いまだに《さとり・解脱》にかんして その周りを延々とまわり続けているだけだからです。  家を建てるというのに その足場だけを半永久的にこしらえ続けている。家のことを 放ったらかしにしてしまっている。  《家》は 人間であり個別にわたしであり その生きる動態であるしかないと見ない。見ようとしていない。  《足場》は 組んでは壊し 壊しては組み シジフォスのような作業に人びとは 歓喜の笑みを浮かべてさえ追従している。  これは どうしたことか。  だれか蔭で糸でも引いているのだろうか。全日本ぼうず協会? それとも ゴータマの呪いだろうか。  あるいはそれとも 現実の社会と生活に不条理を見たゆえのアキラメから来るものだろうか。  《成仏》は 死んでからというアキラメ。そしてそのクウキ。  さいごはクウキ論に行き着くのでしょうか。  苦も煩悩も それらは――という意味は ゴータマの闇なる呪いは―― ブッダター革命によって乗り越えられた。ブッダターの実践は 一人ひとりけっきょくこの世における地道なあゆみにしかない。そういう意味での《只管打坐》。死んだあとのことについては何も言わないというのは これだけはゴータマも言っていたことだった。  この遺産が活用されるには こんどはおそらく生活の問題としての社会の――実際問題としてはその形態の――革命が 日から日へと成されて行くよりほかにないかと思われます。  社会形態の革命には 宗教組織の自己解体もふくまれるかと思います。  これが それでもなお受け継いだところの《解脱》の実践であると考えます。そのとき ゴータマ氏も成仏することでしょう。  すべては あわれみの心から出発するものと思われます。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 ☆ その以前では おそらく古代インド人のものの考え方が いわゆる《灰身滅智》でもかまわないといったような信条があって それとゴータマ説とは響き合ったのではないか。『髑髏となってもかまわない』のだそうですから。 ◇一般的に、 《再死・再生》への恐怖から、宗教的な意味における、解脱だ、涅槃などという考えが生まれた、 とされているようです。 死後、神々の住む世界に行ったとしても、そこで、再び死ぬのではないか? そして、 この世に再び生まれるのではないか? という恐れから、恐怖から、 バラモン教をはじめに、 《再死・再生》からの解脱を求める、 《解脱》教とも呼べるものが誕生した。 で、 ゴータマさんは、少なくとも表立っては《アートマン》を説いていないから、 《灰身滅智》にならざるを得ない。 いわゆる、小乗仏教の目指す境地は、この《灰身滅智》!! 阿羅漢さんは、死んじゃうと、《灰身滅智》しちゃうんですよ。 完全な死、これこそが、最高の境地!! 完全な絶滅、これこそが、不死の境地!! ───────── けしん‐めっち 【▽灰身滅×智】 《身を灰にし、智を滅する意》仏語。煩悩(ぼんのう)を断ち、身も心も無にして執着を捨てること。上座部仏教の理想とする境地。灰断(けだん)。灰滅(けめつ)。 http://kotobank.jp/word/%E7%81%B0%E8%BA%AB%E6%BB%85%E6%99%BA ───────── ☆ これが それでもなお受け継いだところの《解脱》の実践であると考えます。そのとき ゴータマ氏も成仏することでしょう。  すべては あわれみの心から出発するものと思われます。 ◇《無住処涅槃》、《大悲闡提》ということで(ニコニコ)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%97%A1%E6%8F%90 回答、ありがとうございました。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.9

解脱者は死王に見られない、生存する者として数えられないと言われるし、仏は人間じゃないという言も聞く。喜怒哀楽の作用が静まっていて、人間とは異なる境地にあると。 これ系の話は難しいから答えるのも難儀やけど、仏教でいう苦は、楽に対する苦ではなくて、世俗の快楽も苦と見なす。それは、子供のおもちゃで大人は遊べないようなもんやと言われる。 名称と形態のうち、余計な部分が脱落するというのは信憑性のある話やと俺は考える。感官を制する、つまり感覚器官を制御するなんて言葉も原始経典にはあるし、解脱が生理的なものに関与しているというのはあり得る話やないかな。 シッダールタの人柄を調べて、それを元に彼が解脱者かどうかを判定したいというアプローチには反対ではない。質問者が悟りたいのではなく、ブッダに興味があるというのなら、それも一つの筋やろう。 因みにスジャータとは善友という意味らしい。善友によって人は悟るとも言われている。なんせ奥の深い話やで。 後は煩悩か、煩悩は本能に基づく心の動揺のことを言うと聞いたことがある。又聞きの話ばかりで悪いが、心を解脱せしめた人に心の動揺はないやろう、きっと。だから4つ目の質問にはないと答えるのが俺の回答になるかな。 こんなところで回答になってるかな?猫くん。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 ニコニコニコ。 《スジャータ》さんというのは、 餓死寸前のゴータマさんに、乳粥を施したという、心やさしい女性のことですか? 《sujAtA:スジャーター》と発音するの正しいようです。 意味なのですけれども、 《よい生まれ》 とか 《吉兆の星座のもとでの生まれ》 などです。 ☆後は煩悩か、煩悩は本能に基づく心の動揺のことを言うと聞いたことがある。又聞きの話ばかりで悪いが、心を解脱せしめた人に心の動揺はないやろう、きっと。だから4つ目の質問にはないと答えるのが俺の回答になるかな。 ◇心を解脱したら、人ではないのでは? 幽霊にもなれない(ニコニコ)。 回答者さんのおっしゃっている《心》は、 《有心》の《こころ》の意味ですか? 《有心》とはなんぞ!! とわたしに質問しないでくださいよ。 わたしは、心やさしい、スジャーターさんのような回答者の皆さんから、 《オシエ》を請う、おバカなネコですから。

  • alphaXXX
  • ベストアンサー率40% (108/264)
回答No.8

>歴史上実在したゴータマさんは、《ブッダ》でも、《解脱者》でもなかった。 >せいぜい、 >欲望などの征服者という意味での《勝者・jina》程度である 少なくとも創作に出てくるような神通力を使いこなす超能力者ではなかったことは確かでしょうね。 それをどういう言葉で表現するかは個々人の自由ではないかと思います。 悟りにも解脱にも具体的にこういうものだという実体は存在しませんので。

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 ☆悟りにも解脱にも具体的にこういうものだという実体は存在しませんので。 ◇経験事象で、悟りや解脱は、語れるものなのか? 経験事象においては、 苦もあれば、病もあり、老死もあるのでは? 経験事象として、 ゴータマさんは何から解脱したのでしょうか? 仏教の出発点が、生老病死という経験事象であるとするならば、このことを問うことは当然だと思います。 で、 ゴータマさんは、《何から》解脱したのでしょう。 経験事象で語っているので、 解脱に実体があるないは、関係がないのでは?

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.7

苦を克服するとはどういうことやろね。そもそも苦とはなんやろう。 余計な代物、名色の脱落が解脱であると聞くが、余計な名色とはなんであろう。 解脱とはそもそもなんであろう。 煩悩を吹き消すとはどういうことだろう。 仏教の概念はことさらに難しいが、推測するに、解脱やさとりと言ったものは、かなり生理的な現象でもあるように思われる。脳や脊髄などの主要器官に変成が起こることによって、解脱が起こるんじゃないかと。 解脱は蛇の脱皮に例えられるが、それの人間版、つまり心的現象として解脱は起こるんやと考えられるねん。 シッダールタがどうやったかを論じるより、さとりとは、解脱とはを問う方が、賢いように思うな。 まぁ、俺もわかったようなことは言われへん。参考までに。

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 ☆苦を克服するとはどういうことやろね。そもそも苦とはなんやろう。 ◇わたしは、質問者ですよ(ニコニコ)。 回答者の皆さんから、《おしえ》を請おうとしております。 教えてくださいな(ペコリ)。 ☆余計な代物、名色の脱落が解脱であると聞くが、余計な名色とはなんであろう。 ◇《名色・nama-rupa》が脱(ぬ)け落ちたら、それは、もはや人間ではないですよ。 それは《お化け》、《幽霊》の類(ニコニコ)。 ゴータマさんは、水掻きを持っているので《河童》ですけれども、肉体(nama-rupa》はもっていますよ。 《UMA》ではありますけれども、 《お化け》や《幽霊》ではありません。 そもそも、 《心身脱落》は、そんな意味ではないのでは? ☆解脱とはそもそもなんであろう。 ◇わたしの《し・つ・も・ん》!! もったいをつけず、教えてくださいませ(ペコリ)。 ☆煩悩を吹き消すとはどういうことだろう。 ◇《ニルヴァーナ・NIRVANA》ですか・・・。 1980年代後半から90年代前半に活躍したアメリカのバンドですよ♪ すめるず・らいく・てぃーん・すぴりっと♪ https://www.youtube.com/watch?v=R3XIGon2RjY ☆仏教の概念はことさらに難しいが、推測するに、解脱やさとりと言ったものは、かなり生理的な現象でもあるように思われる。脳や脊髄などの主要器官に変成が起こることによって、解脱が起こるんじゃないかと。 解脱は蛇の脱皮に例えられるが、それの人間版、つまり心的現象として解脱は起こるんやと考えられるねん。 ◇たとえば、《クンダリーニ・ヨガ》とか? 日本だと、《真言立川流》? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%B5%81_%28%E5%AF%86%E6%95%99%29 ☆シッダールタがどうやったかを論じるより、さとりとは、解脱とはを問う方が、賢いように思うな。 ◇《さとり》や《解脱》がどのようなものであるか知るためには、 仏教の開祖、ゴータマさんの《人となり》を知る方が速いのでは? 正直なところ、仏典や論書から、《さとり》や《解脱》がどのようなものか探ろうとすると、 かなり大変。 それはそれとして、 名前からして、ゴータマさんは変なんだよな~♪ gautama:最上の牛(バラモンの由緒ある家系の「うじ・な」) siddhArtha:成就者 回答、ありがとうございました。

回答No.6

 すみません。回答No.5は 《不老不死のファンタジー》をゴータマ氏は 少なくとも字面の上で 求めたということを示そうとしたものです。  ちょっと けんか回答になっていて 申し開きが出来ませんが そういう一面が明らかになればと思い投稿しました。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんばんは。 ☆けんか回答になっていて ◇いえいえ。喧嘩だなんて、まったく思っていません。 ☆《不老不死のファンタジー》をゴータマ氏は 少なくとも字面の上で 求めたということを示そうとしたものです。 ◇いわゆる、《輪廻》説を抜きにしては、 ゴータマさんの説く《解脱》はありえないし、語り得ない。 成立し得ないと? ゴータマさんの《解脱・mukti》は、 《release from rebirth》、 つまり、 《再生からの解脱》であると。 悟りを得て、もはや、再生が起きないから、 ニルヴァーナすることによって、 その後、 生老病死は成立しえず、 《四苦》から解放される。 これが、ゴータマさんの得た結論であると。 であるならば、 再生を信じない現代に生きる多くの日本人にとって、 ゴータマさんの教えは、まったく無意味であり、役に立たない、 ということになりそうです。 回答、ありがとうございました。

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    仏教には四苦という見方があり、それは生苦・老苦・病苦・死苦であると理解しています。病苦は病気にかかったときに何らかの意味で悩むことであると思います。老苦も、老いが意識されるようになってときの、その変化に関する悩みであろうと思います。そうであるならば、両者は、それぞえ、該当する現象の中での苦であると思います。では、生苦と死苦とはいつの時点での悩みなのでしょうか?生も死も継続するのではなく、一瞬のことであると思います。そういう意味で、老苦・病苦とは異質な苦であると思います。生苦が、生まれた後に、生まれたことをどうにもならないこととして呪うような類の苦であれば、理解できます。また、死苦が、将来自分が死ぬということに意識が向いた時点での死から逃れたいという気持ちであるというのならば、理解できます。四苦はそれぞれいつの時点での苦なのでしょうか?

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • スッタニパータのゴータマ批判

     コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。  ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~    http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  【 第一 蛇の章 】        <1、蛇>  1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。  (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。  (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。  いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。  (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。  (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。  (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。  (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。   (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。  (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。  (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。  (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。  (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。  (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう?         *  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。  【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。  【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

  • ゴータマ・シッダッタは解脱したのか、しないのか。

    当否は承知しませんが、私の理解するところを記します。 ゴータマ・シッダッタは修行の甲斐あって解脱しました。解脱をすれば輪廻しないのだと思います。然るに一例として「維摩経 第12章 法供養」では世尊が帝釈の率いる聴衆を前にして、自らの前世を語っています。これは輪廻していることを示していて解脱したことと矛盾しているように思えます。 この疑問は輪廻、解脱の意味を初め、「維摩経 第12章 法供養」の読み方など何かを誤解しているが為に生じるのだと思います。何をどう考え直せば矛盾を感じなくなりますか。 よろしくお願いします。

  • あなたは ニルワーナ(涅槃寂静)をこいねがうか

     問いまたは/およびたたき台として 次のようです。  1. 《ニルワーナ=さとり》か?     ▼(ヰキぺ:涅槃) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83    涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされる。   ~~~~~~~~~~  ☆ でよいか?  2. 《ニルワーナ=涅槃寂静》か?  ▼(同上・承前) ~~~~~~  しかし、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この特に語義をめぐる議論ないし情報は 次の質問すなわちほかの方の質問ですがそこでのやり取りを参照してください。もしそれについてもご見解があるという向きには のべてください。  【Q:ニルヴァーナを否定する思想】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7792422.html  3. 《ニルワーナ=死》という定義の場合について  ▼(承前) また、涅槃は如来の死そのものを指す。涅槃仏などはまさに、死を描写したものである。  ☆ この意味についてもそれを 《こいねがうか》といちおう問うておきます。  4. 《ニルワーナ=涅槃寂静》について  ▼(承前)  「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれる。  ☆ これについて《こいねがうか?》と問うわけですが おそらくまづは この《ニルワーナ=涅槃寂静》の定義について さらにくわしい説明が必要かと考えます。ご自分の見解を示して お答えいただければさいわいです。  4-1. たとえば《精神の迷いがない》と言っても 生身の人間は あやまちをおかしたり迷いを持ったりするはずです。それでも《さとり》はありうると質問者は考えますが そのあたりのことをはっきりと明らかにして定義していただけるとさいわいです。  4-2. その場合には 《死》という意味での涅槃は あくまでたとえなのだという解釈を前提にしているはずです。それでよいか? ともあらためて問います。  つまりたとえば 次の《ニルワーナ=やすらぎ》という翻訳も 賛否いづれにしても 参照されるものと思われます。  ▲(同上) ~~~~~  南伝のパーリ語教典を訳した中村元はダンマパダ、第十章、「暴力」、百三十四節の訳注において    「安らぎ - Nibbāna(= Nirvāṇa 涅槃):    声を荒らげないだけで、ニルヴァーナに達しえるのであるから、   ここでいうニルヴァーナは 後代の教義学者たちの言うような   うるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる   楽しい境地というほどの意味であろう。」  としている。  ~~~~~~~~~~  4-3. というのは たとえばぎゃくにかのソクラテスの場合には じっさいに死ぬという事態になっています。そのような事例との関連では どう考えるかの問題です。  《よく生きる》ことが 死ぬことにつながった。・・・  5. 《精神の迷い》は 人間の《本能》から来るか?  細かい議論になりますが 前項の引用で   ▲ 人間の本能から起こる精神の迷い  ☆ とヰキぺ氏は書いていますが これは ほんとうでしょうか? つまり《精神の迷い》は 《本能から起こる》とは ほんとうでしょうか?  本能ないしその感性は それを知覚したところで まだ理性的動物であることの要素が現われただけなのではないか?  つまりその知覚のあと むしろ精神が その本能のおもむくままに進め 進んでもよいと決断し よっしゃ進んでやろうと心に――心にさからってでも――決めたときに起こる《迷い》であり《あやまち》なのではないか? これをも問います。  人間のあやまちは 理性主導によるマ(間)の違いから概して生じるのではないか?  6. ゴータマ・ブッダの《成道》とは何だったのか?  ▲(同上) ~~~~~  涅槃を有余と無余との二種に区別する際の有余涅槃は、釈迦が三十五歳で成道して八十歳で入滅するまでの間の「さとり」の姿を言う。  無余涅槃は八十歳で入滅した後の「さとり」の姿とみるのである。  この場合の、「余」とは「身体」のこととみて、身体のある間の「さとり」、身体のなくなった「さとり」とわける。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 有余涅槃は [4-1]の《生身のからだ》でいるときのニルワーナだと受け取られます。  6-1. だとしたら かの《成道》とは 決して最高・究極のさとりだとはとても考えられません。そのオシエは じっさい後世においては無論のこと生前においても 変わって行っていると思われるのですから。  たとえば少なくとも 《空》の概念は ナーガールジュナがあらためてその意味を確定するその前においては ゴータマブッダにしてもはっきりしていない。  (▲ ヰキぺ:空 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)  6-2. 《無我(ないし非我。アナートマン)》にしても 最初ゴータマは《我執の否定》を言っていたと言われます。 《〈わたしの物〉という観念を離れること》。  その後やはりナーガールジュナによる《空》説において ゴータマの縁起説の復活というかたちで 内容が確定したとしても ゴータマの時代には けっきょく明らかではなかった。  つまり ゴータマ説は 解釈においてだけとしても 変化している。言いかえると ゴータマは人びとにはっきりと分かるようには説いていない。  これが 究極の成道であると言ってよいか?  7. あなたはニルワーナをこいねがうか?  単純に言って ニルワーナは《〔風が〕吹き 吹き消されること》を言うらしいのですが そんなマイナスの言葉をわざわざえらんで用いているのですから  ▼ (ヰキぺ:涅槃) 初期の仏教が、正統バラモンから他の新思想と共に虚無主義者(ナースティカ、nāstika)と呼ばれた  ☆ のは 不思議ではないようです。一面ではニヒルな内容を持つこのニルワーナを あなたはほんとうにこいねがい ひとつの理想としますか?  欲張っていろんな論点を盛り込みましたが どの点についてでも自由にご見解をお示しください。  お座なりの説明ではなく ご自身の納得の行っているその中身をお聞かせいただけるとありがたいと思います。