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仏教に感じる矛盾について

素朴な疑問です。こういう場所で訊くのは野暮な気がする一方、一度は訊いておいた方がよい気がするので思い切って質問します。 以下は最近、私が頂戴した回答の一節です。著作権に敏感な方があってはいけないので出典を記せば、 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5114865.html のNo.2です。 ここに、 >>仏教の目的は、「成仏」、つまり、お釈迦様と同じ境地、境涯に至るというです。 お釈迦様の境地、境涯というのは、お釈迦様と同じ境地、境涯になった者だけが解ると言われています。<<・・・・・(*) とあります。 私に仏教の素養はありませんが、多分、この一節は正しいのだと思います。「言われています。」と伝聞形であることからNo.2の回答者特有の認識ではなく仏教界全体に共通した理解らしいと見て取れます。そうだとすると大いなる素朴な疑問が生じます。 ・釈尊は出家し乞食生活に入りました(スッタニパータ)。 ・在家にあって帰依する者は法による供養に努めるのは勿論のこと、財物の布施によっても出家者を供養せねばなりません(維摩経、第12章「法供養」)。 さて、在俗の者が解脱を目指し精進するとします。よく精進し境地が進めば何時しか在俗のままでは修行の限界に達して乞食生活に入る必要が生じるでしょう。この結果、釈尊の境地に近づく者が増えれば増えるほど出家者が増え、これはまた、在家が減少することを意味します。救われる者の生活(出家)が救われない者(在家)によって支えられているために釈尊の境地に近づく者が増えれば増えるほど救われない者の負担が増え、よってまた救われる者の生活も破綻に向かいます。共倒れにならないためには圧倒的少数の救われる者と圧倒的多数の救われない者の存在を維持しなくてはなりません。救われない者の存在が条件になるのでは教えの根本に矛盾があるというしかありません。 人類の規範たりえる思想は経済的自立を主張することが必須の条件の一つだと思います。 この疑問は次のどれかに根ざしていると思います。 1 私が何かを誤解をしている。 2 (*)が誤っている。 3 釈尊は究極に於いて出家も在家も餓死してよいと考えている。 4 釈尊の思想には欠落があり仏教は人類の規範たりえない。 5 その他。 この質問は視点が非仏教徒の立場にあります。信徒向け限定ではなく万人向けの解説を望みます。また、アンケートでもないし詩歌の鑑賞でもありませんから、皆様の考えの開陳を望んでいる訳ではありません。単なる感情の吐露ではなく論理による説得を期待します。必要であれば宗派の明示を頼みます。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • darumazen
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回答No.15

>人類の規範たりえる思想は経済的自立を主張することが必須の条件の一つだと思います。 宗派によるでしょうが自給自足しているところもあります。 曹洞宗の本山である永平寺は今でこそ完全な自給自足ではありませんが昔は完全に自給自足でした。 一休さんの伝記を読むと師匠が「托鉢は仏教を売り物にして食べ物を得ようとする行為だ」と言って托鉢を禁止したと言う記載があったりします。 大乗仏教が中国に入ってから中国では仏教を禁止して僧を還俗させ、寺や経典を焼いた時期がありました。当然、托鉢は禁止ですから還俗させられた僧は在家の普通の人と同じ生活をして悟りを得るための方法が考えられました。そこで中国では普通の生活をしていても悟りを開くことができる、いや、普通の生活の中にこそ悟りがある。という考えが出てきました。その考えを日本に持ってきたのが道元で永平寺はその曹洞宗の本山です。 禅宗では食べ物の問題はもうクリアされている。と言ってよいでしょう。 浄土真宗には托鉢の習慣がありません。在家で十分という考えだからでしょう。

sono-higurashi
質問者

お礼

このご回答は具体的でとても分かり易かったです。 >>普通の生活の中にこそ悟りがある。という考えが出てきました。その考えを日本に持ってきたのが道元<< >>浄土真宗には托鉢の習慣がありません。在家で十分という考えだからでしょう。<< ・ 先ずは曹洞宗(浄土真宗)に帰依する。 ・ 曹洞宗(浄土真宗)の「論」に従って道元(親鸞)の「論」を学ぶ。 ・ 道元(親鸞)の「論」に従って釈尊の「法」と「律」を学ぶ。 ・ 各自の事情に応じて教団への財物供養をする。 在家のまま解脱できるというのですから、この手順でよさそうです。他の要因を一切考えずに経済的側面だけを考えれば何の障害もなく、曹洞宗と浄土真宗は人類の規範たり得ると思います。他の要因からの検討は今回の質問とは別問題です。 また、これがdarumazenさんの主観に過ぎないのか、客観性があるのかは道元と親鸞の著作を読めば分かる理屈ですから、曹洞宗と浄土真宗に関する限り、このご回答で十分です。 有り難うございました。

その他の回答 (21)

noname#91067
noname#91067
回答No.22

申し訳ないです。#21のお礼を読んで横入りになってしまいます。 ホームレスさんは働いていて、資産と呼べるものがなくとも、野たれ死 ぬことがあっても立派な犯罪も犯しません。寄生してるニートや万引き 老人とは違います。なので無償で支援する人も出てきます。寧ろ立派な 犯罪者、社会不適合者ともなれば警察や病院が手厚く保護してくれ、世 間の目に苛まれることもなくなるのにと、誇りもあるのでしょう。不憫 には映りますが。 「働いたら負け」という生き方もなくはない?けれど労働者がいてこそ 進学や研究に勤しむことが可能になっています。なので労働を拒んだり 弱者扱いするのは支援を拒むことになってしまう。 「病理は簡単、しかし治療に反対者が多い」「助け人を拒むのは勝手だ が、助けようとしてくれた人の幸せを願って溺れていくべき」 >仏教の現代化を視野に入れて ここで私見を一杯述べたいところですが、又の機会に。では。

sono-higurashi
質問者

お礼

>>ホームレスさんは働いていて、・・・・・・願って溺れていくべき」<< どうぞ、miko-desiさんはmiko-desiさんの感受性で読んでくださいまし。私は私の感受性で読みます。これはお互いの立脚点の一つですから違いがあれば鮮明にしておくのが互いのためです。 私は「働いたら負けだ」という一言が、>>労働を拒んだり弱者扱いする<<言葉とは受け取りません。大脳を経由しないで感じるものこそ、その人の核を形成しているのでしょうから歩み寄る必要はないのだと思います。お互いに吾が道を歩めばよいのだと思います。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 回答を寄せて下さる皆様へ この質問はNo.17までによって、疑問が解決しています。締め切らずにいるのはNo.17以前の回答者に対して問い合わせをしているからです。問い合わせていながら勝手にさっさと締め切ることはできません。 といっても、それぞれ忙しい訳でご返事がないとしても、それも無理からないことです。そこで週末を挟むという意味で8月2日(日)22時までは明けておくことにします。 新たな回答を拒否する訳ではありませんが、締め切らない事情と寄せられようとする原稿内容を勘案の上、判断くださるようお願いします。No.17のお礼欄をご一読くださると有り難いです。

回答No.21

 そのひぐらしさん、回答番号:No.19です。  そうですか、同じものと観られたのですね。あれはシフトさんですね、シフトさんの繰り返しという理解、受け取りもありうると存じました。  どうも私はそのひぐらしさんに無駄なことを提供申し上げました。  日の下に新しきものはないと、至言。  しかも同じ日本語、同じ心性、花鳥風月も、山川渓谷も変わることない。  そせいて日々いろんな歌いびとが、それを詩歌(しいか)にしていますね。  人間の歴史もその日暮さんのご質問も、今までたくさんの方が抱き、師にぶつけ、それぞれの世界、同じであって異なる己を創成してきておりますね。  あぁ、良寛さんの玄関が無数になる。懼れ。  だからそれは成立し得ない。  どうしてか、成立し得ないから。そのように宇宙が造られおります。  先生になる人ばかりではないという話とは異なります。    宇宙にも歴史にも“もし”はありえないが、喜捨する人が減るではないかということ。  減っていいのです。そんなことに出家は依存しませんから。  これが出家です。まったく大丈夫なのです。そのようになっております。  宇宙をどこまで、透徹してみるかの問題です。  そのひぐらしさんとしての、お答えがもうえられているのに、締め切ることなく、またここにお尋ねできたことを感謝申し上げます。  亦、繰り返しですね。

sono-higurashi
質問者

補足

問い合わせは何もありません。字数制限により、こちらを拝借します。 >>先生になる人ばかりではないという話とは異なります。<< いや、この質問の立場から言えば同じなのです。No.6とNo.19とでは理由に違いがあるのは分かります。ですから「背景は異なっていますが」と断わりました。この質問は関心の在り処が「規範たり得るのか」ですから「理想が実現した状態で社会が機能するのか否か」を考えない訳にはいかないのです。私の方もNo.6のお礼欄の繰り返しになるのは止むを得ないのです。 Kryaさんには違って見えても、私には同じに見えます。Kryaさんは実にジレッタイ思いをされているでしょう。私も実にジレッタイ思いをしています。これは已むを得ないのです。こういう制約の多い媒体で、こういう感覚のズレを擂り合わせるのは私の能力では無理です。これはお互いに話が通じないことを理解して、お互いにシャンシャンで円満に終了すればよいのだと思います。哀しかろうと哀しくあるまいと。読む人が読めばKryaさんが正しいと読むことを確信して頂くより仕方ないと思います。ワカランチンで済みません。 No.21に登場した、 >>喜捨する人が減るではないかということ。  減っていいのです。そんなことに出家は依存しませんから。  これが出家です。まったく大丈夫なのです。そのようになっております。<< この考えだと理想の究極に於いては喜捨する人間が皆無になります。もちろん、「あぁ、それでいいとも」という立場があるのは分かります。この立場はN0.10に共通したものがあります。私の反応もNo.10のお礼欄と同じです。ご面倒でも一読願えるとありがたいです。 No.18には琴線に触れる文言が各所にあります。私の心に色んなことが届いています。例示すればこういうことです。 1 Kryaさんは、何時ぞやホームレスさんと、敬称をつけていて、ここにも私と感覚の近い人がいる。そもそもホームレスなる呼称は適切なのか。社会が彼らに冷たいのではなく、実は社会が彼らに見捨てられたのではないのか。だったらホームレスではなく、「社会を捨てる、社会を見限る」という意味合いの命名を考えるべきでないのか。 2 Kryaさんの周囲には、いい高校生がいたのを知って、ある言葉を連想しました。最近、印象に残っている言葉は「働いたら負けだ」、これです。俗に言う「ニート(NEET)」をテーマとした掲示板に、ポツンと一言だけ置き忘れられたように書かれていました。こういう戦い方もあるのだな、文学や思想や映画やら芝居やらを前進させうるのは、こういう戦い方のできる人間だろうな。 他に幾つも私の心に届いています。Kryaさんの回答は心を耕してくれているのです。しかし、こういう話題は通じる人間にしか通じません。こういう場所で語るのは無理です。こういう場所では質問もお礼も能吏のように努めて事務的に処理するのが最善だと心得ています。 万端をご賢察の上、了とされたく存じます。勝手をいって済みません。 有り難うございました。

noname#91067
noname#91067
回答No.20

>末法に於ける仏教は人類の規範たり得ますか。たり得る場合、何か客 観的な根拠を挙げることができますか。 仏教界もよく知らずに仏教の規範の何を根拠に示せるのかは?お門違い と叱られそう(よく叱られてますけど)。所詮欲深い凡婦?であること を前提としてお聞き入れください。お許しください!? 仏教の規範も既得概念ですが、概念に振り回された生活(托鉢で生計を 立てるとか、山に篭って自給自足の生活をするとか、禁欲するとか、慈 善活動に勤しむ…等)を望むでは無いです。 所謂、日本国憲法25条で保証されている「全ての国民は健康で文化的 な最低限度の生活を営む権利を有する」に甘んじるのが私の哲学とする ところです。←褒められたもんじゃない。 それには一応、民主主義の根拠「税を通して善政が成される」よう宗教 側からも積極的に民間と同じレベルで働きかけていくべきだと思います。

sono-higurashi
質問者

お礼

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95  ここには、 「仏の在世から遠く隔たったため、教法が次第に微細・瑣末になり、僧侶が戒律を修めず、争いばかりを起こして邪見がはびこり、釈迦の仏教がその効力をなくしてしまう時期とされる。」と、あります。 だとすると、miko-desiさんが希望する「善政が成されるようにとの働きかけ」も期待薄の感があります(しかし、一部の人には既に仏教界が与党を支え善政を布いているとの主張があるかもしれません)。 一方また、 「末法は畢竟して否定されるものである、という説が近年になって登場している。」ともあります。 だとすると、順序として先ず末法思想の否定を定説にする「論」を確立することが先決のようです。その暁にはmiko-desiさんの期待が実現する可能性が生まれます。 私見を述べてよければ、釈尊には(という言い方に抵抗があれば、末法思想の登場する「大集経」の筆記者には)将来、文明がある幅を食み出してしまった時代には教説が通用しないとの認識があったのではないかと思います。 憲法25条を持ち出す辺りから、どうやらmiko-desiさんには仏教の現代化が視野に入っているらしいと読みました。<衣食足りて仏道を知る>、これも真理かもしれません。私は餓鬼畜生の類ですから生存中に仏道を知ることはなさそうです。つまり、<衣食断ちて仏道を知る>、こちらの方です。 有り難うございました。

回答No.19

 そのひぐらしさん、回答番号:No.18です。  補足:真の出家にそれはなれるものではないのですよ。  乞食にだって普通の人はなれないものでしょうね、なろうとしては。  私たちのグルにしろ、教えにしろ、一般的に出家をしなさいとは決していいはしません。  でも特定の方には出家することを認め、また、勧めることもあります。  組織で奉仕者っていうのがありましょうね。協力者っていうのが。  それは仰せの出家とは違いますね。  出家も隠棲も、仏道にしろ、今の私の道にしろ決して不可欠の道や条件でもないですね。    常人には市井での、俗人とての経験と鍛錬こそ一番だ。出家や隠棲したから何かが可能になるとか、雑念から解放されるなどと思ったら大間違いだ、第一閑静な山中が都会化したら不衛生だ、などといっています。  まぁ、ご心配のことはあまり現実には起りえない、いえ絶対にありえない、ということを言いたいだけですが。  みんな家庭に戻りますよ。私は今まで一度も出家したことはないが、自己の脳裏に経験と状況の記憶が刻みこまれています。  そして山中や山道を杖ついて、そしてまた、辻辻を一笠一蓑一杖で托鉢している姿の自分を記憶しております。或いは自分が庫裏や本堂で行じたり、説教したり、立ち働いている姿を見ることがあります。  そして出家の気持ちも、出家しての修行の気持ちもよく理解できます。  仰せのご心配はまずむようであることを明言します。

sono-higurashi
質問者

お礼

>>仰せのご心配はまずむようであることを明言します。<< このご見解は、背景は異なっていますが結論はN0.6と同じです。したがって私の反応もNo.6のお礼欄と同じです。ご面倒でもありましょうがNo.6のお礼欄を一読頂けると有り難いです。 有り難うございました。

回答No.18

 出家(宗教専門家)と在家(信者、devotee)の関係ですよね。  ご出家といいながら、乞食や寄食者もいるでしょうね。  裕福でありながら信者やdevoteeにもならず、宗教や宗教者に無関心の方もおられるでしょうね。  事実としては一定の非労働者を養うことのできない歴史段階や社会では、全く労働しない層の人は存在できないかも知れませんね。  昔であれば遍歴や隠遁の僧もいることが出来たでしょうが、今はそういうのはホームレスといわれますよね。  高校ですから、もう55年も前。民衆の哲学者になるんだ、という友は定職や、喰うため、生活の心配を蹴飛ばしていました。  天にのみ生きさせてもらうのですね。  事実は信奉者はいますよ。でも信奉者には頼りませんよ。  肩あって着ずということなし。なんですね。  そういう宗教者っていうのはいるし(彼は宗教を評価してはおりませんが)、なんとか協力しようという人も絶える事はないようですね。  インドでは求道精進の方と、単なる(ではなく、結果として)乞食となっている方と区別がつけにくいそうですね。  私は、寄食者ではない、専一の出家というのはいつの時代にも可能だし、存在してきていると存じます。  偶々支える人が出ようが出まいがそれは、その出家の出家たることとは関係ない。  時には在家の信仰者、devoteeを通してであれ、そうでない媒介であれ、出家を支えることは天というか、宇宙として当然に行っている。  理論とか、なんとかではなく、そうなっている。  それが宇宙である。と存じます。そういうものなんです。  あぁ更に蛇足:先の、人口に膾炙の偈『肩あって、・・・』のお坊さん、凄まじいことをいうのが禅家ですが、何とか天皇が国師になってくれというと、いやだよ、といって乞食にでてしまった。  どうもなんとか河原で乞食と一緒にいるという噂があり、天皇は乞食に施しをする。  そして手なくして受けよという言葉に返答するのがその僧侶だ、という。正にそのとおりだったそうです。  つまり施しでもなんでも、天からのものとして受けているのですね。  そして一々それらに頼らない。そんなところなのですよ。  心配しない、私たちはrenunciationというもですが。どこにいても、なにしていても。難しいのです、これがね。  簡単にわかろうとすることが、判らないことの原因です。  ひさしぶりでしたね、そのひぐらしさん。全くに、そのひぐらしができないと、真のrenunciationは無理ですね。  孔子はいう『賢なるかな回(顔回)や、櫃に一粒の穀なくも、憂えず』ということなんです。  それは実は可能かどうか以前に、そのひぐらしさんの御名前通り、正に可能であってきたのが、人間の歴史でした。  これからどうか。さぁどうでしょうね。  公的扶助制度もあるけど、知っている専一求道は、公的扶助を受けていないですね。  でも不思議に生きていますよ、良寛さんの庵みたいに、何か玄関においていく人が居るようです。

sono-higurashi
質問者

お礼

>>良寛さんの庵みたいに、何か玄関においていく人が居るようです。<< 良寛さんの庵がどんどん増えます。そうすると何か玄関においていく人がどんどん減ります。究極として破綻しませんか、という質問でした。 No.17までに皆さんが見解を寄せて下さっていて、私なりの納得の仕方ができています。 有り難うございました。

  • magga
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回答No.17

<<1 パーリ語の経典とは何ですか。原始仏教ですか、部派仏教ですか。>> もともと仏教経典は、お釈迦様の言葉をまとめ口伝してきたものを、当時の公用語のひとつパーリ語でまとめ形にしてのこしたもので、後にサンスクリット語~漢文に翻訳を繰り返してきたものと、他には途中で創作されたものが在ると思います。 原始・初期・部派仏教でとられる経典といってもいいかもしれませんね。 <<学んでおられる経典名を挙げて頂くほうが通じがよさそうです。>> 二カーヤといわれる分類でしょうか。 マッジマ(中部)・ディーガ(長部)・サンユッタ(相応部)・アングラッタ(増支部)・クッダカ(小部)二カーヤの五部 とアビダルマなどでしょうかね。 具体的な経典は…いろいろ読んでますが…お気に入りは 慈経・箭経とかですかね スッタニパータやダンマパダも好きで読んでます <<2 比丘サンガとは既に出家していないのですか。比丘サンガが出家を目指すという理屈が分かりません。>> ここでは一般の意味での「出家」の意味で使ってないことは理解してくださっていると思いますw 形だけの出家でなく心として出家しなければ意味が無いというのが仏教の立場だと理解してます。ここではそういう意味で「出家」と使ってます。煩悩の根を絶つという意味です。 <<3 >>在家サンガでも比丘サンガでも皆、悟ることが出来るといわれていると思います。<<これならばパーリ語の経典に基づく仏教は人類の規範になり得るかもしれません。在家サンガと比丘サンガが共倒れになることはありませんから。この説の権威ある根拠を挙げられますか。>> 基本的姿勢の一つだと思います。いたるところに悟った在家話が出てくるの経典がありますよ。在家が比丘に冥想指導することもあったようですしね。ただ役割の問題でしょう。教えを内から守るか外から守るかの。 「権威」が具体的に何を意味するか解りませんが、パーリ語の経典にはそれに当たるものがあるとは思います。 片山さんの長部・中部のパーリ経典日本語訳や中村さんの岩波文庫系の書籍、スマナサーラ長老の書籍などに手を伸ばしてみたら如何でしょう。「訳」なので言葉にひっかからないように。 すぐに相当量の根拠が見つかると思いますよ。 実践すれば誰でも悟れると、、八正道自体そういう性質のものだと思います。 (いつもなら暇でしたので、いろいろ調べられたのですが…ご自分で学んでみてください、すぐ見つかると思うので) <<4 布施が強制でなく自ら進んでなすべきもの(功徳?供養?)であるのは分かります。それにしたところで在家サンガと比丘サンガの均衡が崩れれば機能しなくなります。しかし、この欠点は3が事実であれば露呈することはない筈です。在家のまま悟れるのですから。3が事実であれば心配無用です。>> 心配無用かな?

sono-higurashi
質問者

お礼

1に関して キーワード「二カーヤ」と具体的な経典名によって通りがよくなりました。 2に関して 出家が「不還果」と「阿羅漢果」を指すことは読み落としていませんでしたが、一般的にいう出家との絡みが掴めず全体を読み取れませんでした。 3に関して 「法」が絶対の存在と理解していましたので、「権威」の意味は「経典なり経典を代弁できるものなりの存在」を想定していました。 No.4に「在家サンガでも比丘サンガでも皆、悟ることが出来るといわれていると思います。」とあって、今回それを裏付ける文言を探るべき経典の的が絞られたので、あとは自分で調べればよいだけです。 この結果、No.4に疑問は何も残りません。 結局、部派仏教でも在家のまま解脱できるのですから、他の要因を一切考えずに経済的側面だけを考えれば何の障害もなく、部派仏教は人類の規範たり得ます。他の要因からの検討は今回の質問とは別問題です。 お忙しいところを二度手間を掛けて頂き、有り難うございました。 No.4とNo.15から類推するに、どんな仏教でも経済面から破綻することはなく、この面での矛盾はなさそうなことが分かりました。素朴な疑問は解決です。数日をおいて特別な寄稿がなければ締め切ることにします。

回答No.16

スッタニパータとして、中村氏の記述している岩波文庫版(今回参照しているのはワイド版)の註が詳しく述べています。 >>> p.257 インド思想は西洋の思想や他の東洋諸国の思想に比べて若干の著しい特徴を示しているが(中略)そうしてこのような思惟方法は、ややもすれば人間の社会性に関する自覚を希薄ならしめ、人間はむしろ孤独を楽しむに至る。(中略)ギリシア人の伝えるところによると、すでに最古代において、インドの農業生産は、さほど労働力を必要とすることなしに、極めて安易に行われた。(中略)適度の氾濫は、土地を肥沃ならしめ、また酷熱の気候は、農作物の生長を迅速ならしめる。(後略) <<< スッタニパータの「82」の乳粥を捨てる行為と、その場所については、まさに、上記背景を知る必要があると思います。 その後、仏教がインドを離れた後、上記のような環境であったということを顧みずに(いや、顧みることが出来ないまま)各宗派に分裂した後も、(ブッダが行ったということで)出家と布施といった概念の正当性を存続させていったのかも知れません。

sono-higurashi
質問者

お礼

スッタニパータの「82」の読み方も確信がもてませんが、以下の如く読んでいます。 バーラドヴァージャが解脱を希望していて、それなら勤労の対価として得た報酬を生活の糧にしていてはいけないとの説教であろうと、読んでいます。つまり、出家の勧めです。この章句だけからは在家を肯定しているようには、私には読めません。他の章句、他の経典との矛盾、整合の関係は私には判断できません。中村説の背景があって、ほんの初期だからこそ、可能な訓えのようにも思えます。帰依する者がどの程度にか増えた後は、釈尊自身がNo.15でいう「普通の生活の中にこそ悟りがある」との考え方に到達するような気がします。 お答えの最終行が正しいのかもしれませんし、インドに於いて既にNo.15の考えに到達していたのかもしれませんし、後年、矛盾も何も承知の上で修行の一環としてだけ托鉢を残したのかもしれませんし、私には分かりません。今日では出家と在家は経済的に五分五分の関係になっているように思います。 有り難うございました。

noname#107497
noname#107497
回答No.14

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5114865.html​ のRF2244です。 上の回答でも書いてありますが、改めて書きます。 私は、仏教の日蓮宗の宗派の1つである、日蓮正宗の信徒です。御経は法華経です。 私自身、単なる仏教徒の一人であり、まだ、修業の期間も浅いので、法華経の内容をすべて覚えてもいません。さらに、他の経も読んでいません。ただ、今、1つ1つ勉強中しています。そんな私なので、仏様でもなければ、優れた回答ができませんが、私なりにがんばって回答します。 前の回答と重複する箇所があるかもしれませんが、ご了承ください。 また、ここでの回答と質問者さんのお礼や補足をすべて見ていないので、かぶるところや、質問する次第において、質問の趣旨が変わっているかもしれませんが、初めの質問文に対して回答します。 私が感じるに、仏教の目的は、「救い」だと思います。言いかえれば成仏ですが、 救われたい、救いたいが故に仏の境地を目指すのと、 それがなくして、仏の境地に成りたいというのは、 理想とするものが違ってくると思います。 では、救われるとはいったいどういうことか? 救われると考えた時に、 今と未来があります。 理想は、今も救われ、未来も救われる。 あるいは、今も幸せであり、未来も幸せである。です。 法華経の一文に、毒家深入、心本失故・・・とあります。 この文章を書いて、その書き下し文を書き、書の訳を書くと、それだけで、かなりの文章量になるので割愛します。(要望があり、私に時間があれば書きます) 私が、訳するに、この文章は、人は、業(仏性を隠すもの)が深く、物事を正しく判断する力、また、救われるための行動ができない。というものです。 救われたいと願うが、その救いの法を説いても、業が深いために、その救いの方が救いの法と感じられないと意味です。 また、業が深いものが救いの行を行えば、それは、苛立ち、憎しみ、苦しみといったものが生じます。 例えるなら、長年の肩こりを解消するのに、激しい痛みを伴いながらも、ほぐしていくようなものです。 その辛さに耐えられる人はいいですが、耐えられない人は、救いの法だと思わないで、辞めてしまう。 ですから、その人、その人に「適した」修業や、行が必要です。 なぜ、こんなことを書いたかと言うと、 救われるためには、救いの行を行われなればならない。 しかし、その人、その人あった、できる救いの行をしなければならない。 また、社会全体においても、その時の条件や状態に応じても、「適切なこと」をしなければ救いには繋がらないということです。 つまり、真意という目的を考え、 それを実現するために、 現状を把握し、 その上で適切な行動方法を考え それを行動する。 仏様に近づくためには、功徳を積むことが大事です。 功徳を積むところに、業が消滅する。 功徳を積むところに、仏性が現れる。 ・・・そして、普通の人や程度の人に低いものには、目に見えず、感じることもできませんが、功徳を積むところに、積んだ分だけの救われる因、幸福の因、仏様に近づける因を持つことができるのです。 法華経の中で、如来とは、このような因を持つものであるとか、常不軽菩薩が、礼拝修業をしたおかで仏様になれたとかあります(常不軽菩薩は、釈尊の過去世) 徳の因を持つが故に、悟り、 業の因を持つが故に、苦悩に続く、苦悩する 徳の因を持つが故に、苦悩の末に悟り 徳の因を持つが故に、苦行の末に仏に近づく 業の因を持つが故に、刹那の快楽を欲し、未来に苦しむ 業の因を持つが故に、悪法に魅了され、それを行じ、国を破滅する。 因があるが故に、業があるが故に 功徳がある故に、功徳が無き故に これを感じることができるならば、 仏道修行において、大切なのは、行ではなく、因となる。 仏様に近づく因を持つことが仏様に近づくことができる。 因を積むたいがために、行をする。 これに救いの因があるか、疑問を持ち、 それが救い結果として現れるなら、それが救いの行となる。 逆に悪果となるなら、それは、苦しみの行となる。 という、前置きを書いて、質問者さんの質問に回答します。 質問者さんの質問を私なりの解釈すると、 仏様に近づくためには、いずれ出家しなければならない。 出家をすれば、食糧生産が量が減る 故に、社会や国家は貧しくなる。 これを考えると、出家することになる、仏教は、社会において、混乱を招くものではないか。 ということだと思います。 まず、上記に書いたように、仏様に近づく因を持つことが、仏様に近づくことになります。 修業をして、自他供に救われたいと思う者が求めるのは、出家ではなく、皆が、仏様様に近づく因を持ちやすい環境作りです。 逆に言えば、出家し、自分だけが仏様により近づくやすくなったと思い、よしよしと思う人は、他の為に教えを進めて説くことはしないでしょう。 常不軽菩薩は、人でも多くの人に未来に置いて成仏できるとその人の仏心を見据えて、修業しました。その寿命が尽きて、来世において法華経を聞き、その後に成仏できたとされます。 また、自他供の救いなくして、自分の救いは決してありません。自分さえ良ければいいと言えども、他人の影響は必ず受けます。他人が自分に対し、心から愛して、良いことをしてくれるようでなければ、不快、迷惑、あるいは、苦悩となるようなことをしてきます。法華経にも、そのような者は、慢心している者と言われています。 難解だと思いますが、 自分が救われるためには、自分も救われ、他人も救われることです。 (他人がだけを救い、自分が救われることはない) 人によって、得意、不得意、あるいは、修業の好き、嫌いというものがあります。 得意、不得意というのは、その道において、良い結果を出せるかどうか、 好き、嫌いというのは、その道を進んでするか、しないかどうか。 初めに書いたように、人の徳、仏性の現れの度合い、あるいは得た智慧によって、修業できる事が違います。 それによって、自分がどういった方法で仏道修行をしていけばいいかも変わります。 話を変わり、優秀なリーダー的素質の持ち、優秀な判断力を持ち、自己の活躍よりも、物事の成就の求める人方が数人いたとします。 リーダーになる人は、一人しかしません。この人たちは、自己の活躍よりも、物事の成就を求めるために、適した人を選ぶでしょう。 人には限界があり、その役割を果たすことによって、別の役割を果たすことができないでしょう。物事の成就を求める人なら、それを進んでします。 この修業をして、最近感じたことですが、苦の原因は、自尊心にあることがあります。 自尊心、言葉を変えるなら、私利私欲、自己中心、誇り、名誉、自分はこうであるという思い込み、人に傷つけられたくない心です。 上記の言葉、すぐに苦に繋がる訳でもなく、また、すべてが苦に繋がる訳でもありません。 ただ、上記のものは、真意や道理、適切性というものの前に、「怒り」や「恐怖」が先にきます。 自分が、あることをしていて、何か、指摘をされた。それを冷静になって考えてみれば、相手のいうことは最もである。しかし、自分の地位や誇り、名誉が傷つけられたので、相手のことを受け入れるよりも、相手を言う事を無視し、相手に怒った。相手の言うことを無視したしために、良いことができず、徐々に周りから信頼を失っていった。(自己経験談) 自己の経験上、自尊心が強い者は、地位欲が強いと思います。○○には言われたくはないというのが強いと思います。 自尊心が強い者は、地位が上の者に対してへつらいます。 出家した僧侶と信徒には、いばりとへつらいの関係は無用です。 信徒が、出家し、知識を持つ僧侶から教えを聞く時は感謝し、 僧侶が、信徒から、供養を頂いた時にはそれに感謝する。 供に、根本なる仏道修行をし、仏教がより広まるために、それぞれの役割を果たす。それがあるべき僧侶と信徒の関係だと私は思いますし、御僧侶様からそう言われました。 以上、無駄周りな部分もありますが、お許しください。 また、この場に回答することにより、不透明なところを調べ、考えながら書けたのでより知識が深まりました。ありがとうございます。 お礼の部分に根拠を求めます、というのがあり、質問さんが納得し得る根拠が回答の中にあるかどうか解りませんが、 以上、参考になれば幸いです。 なかなか時間がとれなく、お礼&補足に対し、再回答するのに4日ほどかかるかもしれません。御了承ください。

sono-higurashi
質問者

お礼

専門家志向のお方と見受けますので、先刻ご承知かと思いますが順序としてお断りしおきます。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5114865.html のNo.11で、高橋直道著とあるのは高崎直道著の誤りでした。また、行司役が行事役になっていました。済みませんでした。 「在家のままでも解脱できる」 ご回答は、こういう見解だと読みました。この読み方でよければ話は簡単です。 ・ 先ずは日蓮正宗に帰依する。 ・ 日蓮正宗の「論」に従って日蓮の「論」を学ぶ。 ・ 日蓮の「論」に従って釈尊の「法」と「律」を学ぶ。 ・ 各自の事情に応じて教団への財物供養をする。 在家のまま解脱できるというのですから、この手順でよさそうです。他の要因を一切考えずに経済的側面だけを考えれば何の障害もなく、日蓮正宗は人類の規範たり得ると思います。他の要因からの検討は今回の質問とは別問題です。 また、これがRF2244さんの主観に過ぎないのか、客観性があるのかは日蓮の著作を読めば分かる理屈ですから、日蓮正宗に関する限り、このご回答で十分です。ただ、ちょっとだけ心配なのは日蓮には「釈尊は日蓮の先駆けにしか過ぎない」旨の著作がありませんでしたか?こういう教えがあるとすると「釈尊の『論』を学んだ後に日蓮の『法』を学ぶ」、こういう手順になるのかもしれないと危惧しています。部外者には判りません。 有り難うございました。

  • zatousan
  • ベストアンサー率55% (156/282)
回答No.13

こんにちは、座頭山です。 質問を勘違いしていたでしょうか? >質問の趣旨は正確に掴んで下さっていると思います。 と御返信を頂いたので、良かった。と思っていたら、 >ところで、経済のこともさっぱり不案内なのですが自給自足の生産性はかなり低くありませんか。 >アマゾン、アフリカ、北米、豪州、こういった地域の先住民の一人当たりが必要とする土地の面積は如何ほどなのでしょう。 農学カテに過去質問でこんなのがありました。 http://oshiete.homes.jp/qa2140636.html ただ、出家者は、ご存知と思いますが、一日一鉢しか食べませんので、さらに少なくてもすむでしょう。 >根拠はないのですが地球が60億の人口を扶養し得ているのは人類が高度な分業を編み出したからではないでしょうか。 そうかも知れませんね。 また、農業の機械化、進歩もあるでしょうね。 >zatousanさんのお考えに沿うには人口減を声高に叫ばないといけないように思いますが、どんなものでしょう。私には判断がつきません。 農業の専門家じゃないと分かりませんね。 >しかし、過去の何処かに絶頂期があって現在は衰退期にあるとすると何らかの理由でzatousanさん説には無理があることになりそうです。 ちょっと待った! 僕は「全人類が未来に出家するなんて説」を唱えていませんよ! 御質問が、全人類が出家した場合、在家のサポートなしで出家者が生きていけるのかだったので、 ただ、五欲に捕らわれず、一日一鉢、度々断食し、生きて行けば、在家のサポートは必要ないと言っただけです。 僕には想像も出来ないことですが、空海が私度僧をしていて、野山を放浪していた頃は家も無くその辺の木の実を食べて、たまに五穀も絶ち生活していたようですから。 さらに雪の降る場所でも自分の腕枕で寝ていたそうです。(僕は確実に凍死します。) >こういうところまで考えないと人類の規範たり得るか否か決められないと思います。 結局満足いただけたのか、質問からはピンボケの回答をしてしまったのか良く分からなかったのですが、 『出家者が、穀潰しじゃなかろうか?』という議論は何百年も前から行われているようです。 空海も秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく) の中で、憂国公子と玄関法師という架空のキャラを作り出して議論させ、何故穀潰しの出家者が世の中に必要か説いています。 流石に全人類が出家者になる事は前提ではありませんが、、、。 sono-higurashiさんが抱いた疑問は昔から誰でも抱いていた問題ですから昔の高僧達がどのようにその事に回答していたか、興味があればご覧ください。 空海コレクション1巻(ちくま学芸文庫)の秘蔵宝鑰100~152ページに記されています。 まあ、興味が有りましたら一度よんでみてください。 他にもきっと様々な宗派の高僧がこの問題については何百年も前に答えていると思いますが、残念ながら僕は秘蔵宝鑰でしか見かけていません。 あ、ヒンドゥ教経典なんかでは、出家する時は人里離れた森の中に入って修行しろと書かれたものや、牛と共に生活し牛乳だけを食料として生きた僧侶の話もありますから、、、(すいません経典名失念)そんな生き方もありかも知れませんね。  全員が出家するなんて事は起きないと思いますが、起きても大丈夫でしょう。

sono-higurashi
質問者

お礼

>>全員が出家するなんて事は起きないと思いますが、起きても大丈夫でしょう。<< No.11の時点で、 >>質問者様が心配されている問題は起こらないと思います。<< とあるので、座頭山さんがこういう見解であることは分かっています。私の見解は、一例を挙げれば座頭山さんも私も農業の観点から地球が扶養し得る人口を算出できない訳ですから、この先は考えようがなく行き止まりです。 有り難うございました。

sono-higurashi
質問者

補足

お礼の欄に「No.11の時点で、」とあるのは「No.10の時点で、」の誤りでした。 失礼しました。

noname#91067
noname#91067
回答No.12

お釈迦様と同じ境地を解脱とすると大変なことになると思いました。 不可能でないにしても相当な記憶力を要するからです。 解脱の意味を調べたところ「輪廻的生存から脱した生存状態が解脱であ り、絶対自由の境地といえます」とあって、お釈迦様が生きながら自由 であったのは数十年です。寿命も当時としては長寿だったにせよ80年 ぐらいで、日本の平均寿命はそれに近づいてます。 お釈迦様は生前も人気がありましたが、死後更に多くの人に感銘を与え ています。これは受動的に想われ続けてているということで、想われる ということは生きているのと変わらないということ。「何かしたから何 か想われる能動相」と表裏一体です。 解脱することは肉体が朽ちてもどれだけの人に長く強く覚えていてもら えるか?それが輪廻を断ち切る=忘れ去られてないどころか、お節介に も金ピカにされたり、巨大像にまでされ、生きてるときよりお布施やご 飯を恵んでくれてる。死んでないので生まれ変われない。という意味で はないかと推測します。 未来の人類にも(人間しか人間に価値をつけないから)人気者になれ! ということ。末法は二千年で終わるというのは大体二千年後の人類まで は覚えてくれそうと踏んだのでしょう。

sono-higurashi
質問者

お礼

解脱の意味が「輪廻的生存から脱した生存状態が解脱であり、絶対自由の境地といえます」であり、これを読んで、 >>お釈迦様は生前も人気がありましたが、死後更に・・・・・・という意味ではないかと推測します。<< こういう伝達の仕方ができる能力に目を丸くしました。巷間、僧侶は講演上手として定評があり、僧侶と同道の講演を好まぬ文化人も少なくないやに聞いています。僧侶並みの伝達能力と見受けました。脱帽です。とはいっても、こういう解釈を仏教界がどう評価するか、私には判りません。 さて、大事な話に移ります。 >>末法は二千年で終わるというのは大体二千年後の人類までは覚えてくれそうと踏んだのでしょう。<< 今日は末法の時代にあるのだと思います。末法に於ける仏教は人類の規範たり得ますか。たり得る場合、何か客観的な根拠を挙げることができますか。この問い合わせが質問内であると判断されればご返事下さいませ。質問を逸脱していると判断されれば、このまま終了なさって結構です。 有り難うございました。

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