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スッタニパータのゴータマ批判

 コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。  ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~    http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  【 第一 蛇の章 】        <1、蛇>  1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。  (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。  (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。  いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。  (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。  (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。  (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。  (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。   (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。  (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。  (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。  (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。  (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。  (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう?         *  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。  【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。  【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

みんなの回答

回答No.23

あっ、間違っている。 ~~~~~~ ○楽・・・究極完全なアートマン ~~~~~~ ではなくて、 ~~~~~ ○楽・・・究極完全な安楽性 ~~~~~ ですね。 この《楽》は、  楽しい、気持ちいい、 の意味ではなくて、・・・。 いや、やめておこう。

bragelonne
質問者

お礼

 それは そうなのでしょうけれど。  ご回答をありがとうございます。  ゴータマ批判が 問いです。  この人間に見るべきものはあるか? です。

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回答No.22

~~~~~~~~~~~ 〈如来の法身〉こそは、究極完全な常住性、究極完全なアートマン、究極完全な安楽性、究極完全な清浄性でございます ~~~~~~~~~~~  ○常(住)・・・究極完全な常住性  ○我(Atman)・・・究極完全なアートマン  ○楽・・・究極完全なアートマン  ○(清)浄・・・究極完全な清浄性 仏教は、《常・楽・我・浄》を否定するのであるから、《自性清浄心》、《如来蔵》などは基体〈dhatu〉概念であり、仏教の教えとして認められない。 唯識は、たしかに、この問題を克服しているが、《二重底》であって、《阿頼耶識》《種子》などは基体・dhatu概念である。 ───《阿頼耶識》など基体的存在ですが、最終的には消えてなくなる、temporaryな存在。だから、《二重底》─── などという仏教研究者もいます。 さらに、 法身、《法界・dharma 〈dhatu〉》を、ゴータマさんの教説の上位に置くかのような、こうした考え方は認められない。 ゴータマさん、釈尊の上に、法身、法界を立てる(か)のような教義・オシエは認められない と批判されます。 しかし、 《常・楽・我・浄》の否定は《有為法》・《有漏法》について当てはまるのであって、 《無漏の法》には当てはまらない。 《無漏の法》は《常・楽・我・浄》であってもいいのだ、 と主張する学者もおります(こちらが主流派)。 勝鬘経のこの部分との関係性でのべますと、 引用した部分の前に「これは外道が説かれる《アートマン》とはちがう」とあります。 まぁ、《如来蔵》が外道で説かえる《アートマン》が同じかどうかはひとまず置いておきまして、 ここで否定されるのは、  わたしが思う《わたし》 とでもしておけばいいのでしょう。 わたしたちの執著の対象となる《わたし》、《Congito ergo sum》のような《わたし》、概念設定された《わたし》etc.・・・。 《仮設の我》!! これは否定される、《常・楽・我・浄》ではない。 《如来蔵》などは違う。 《無為(法)》を《有為(法)》の論理で語っている。 《諸行無常》の《行》は《klesa》で形成されたもの。論理の拡大適用だ!! まぁ、 お・そ・ら・く、こういうふうに説明される。 一度、〈アートマン〉は否定されないといけない。 bragelonneさんの言葉ですと、この〈アートマン〉は《非思考・非経験》のそれではない。観念としての神だ、となる。 あくまで、仏教内部での議論・論理でございます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ 法身、《法界・dharma 〈dhatu〉》を、ゴータマさんの教説の上位に置くかのような、こうした考え方は認められない。  ☆ 法身や如来蔵は ゴータマ説をおぎなうかたちで提出されたと受け取ったからこそ 議論の中に採り入れたのです。  関係なかったのなら 放っておきます。    話が違って来ています。  ◇ まぁ、《如来蔵》が外道で説かえる《アートマン》が同じかどうかはひとまず置いておきまして、  ☆ 放っておかないかたちに また戻りますが この同じかどうかは 前回の世界観――特に神観をめぐるそれ――にとっては 核心的主題です。措いておくことは出来ません。  同じ想定のもとにある。とこちらは 説明しています。  ◇ 《仮設の我》!! / これは否定される、  ☆ そんなことは あたりまえです。世界のものごとは 仮象だと分かっています。だからこそ ブラフマニズムは 《非経験の場》として ブラフマン神およびそれと一体でありうる人間における霊我としてのアートマンを想定したのですから。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  bragelonneさんの言葉ですと、この〈アートマン〉は《非思考・非経験》のそれではない。観念としての神だ、となる。  あくまで、仏教内部での議論・論理でございます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《非経験の場》もしくは《非知》として想定されるチカラは 《観念》ではあり得ません。それを《人間が 思考によって 否定しようと肯定しようと何の変わりもありません》。  ゴータマ論ないしゴータマ批判からずれないように願います。    

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回答No.21

☆☆ そういう説明をゴータマがしておいてあるのでなければ おかしい。という物言いです。 ◇ですから、わたしがこうして説明しているんです。 ゴータマさんの弁護、大変なんですよ~。 ☆この自性清浄心は アートマンと同じであり アン‐アートマンとも同じであり ◇『勝鬘経』には、 ~~~~~~~ そのわけは、〈如来の法身〉こそは、究極完全な常住性、究極完全なアートマン、究極完全な安楽性、究極完全な清浄性でございます。 ~~~~~~~ ~~~~~~~ 〈如来蔵〉は、真実の教えを生み出す根源、〈如来の法身〉そのもの、世間的価値を超越した存在、本性として清浄な存在であります。 世尊よ、〈如来蔵〉が本性として清浄であるということは、それが〈自性清浄心〉といいふるされたものに他ならないということであります。 ~~~~~~~ とございます。 ☆大法螺吹いてごめんとは言わなかった。 ◇「方便だよ」と言っているじゃないですか。 √2は、有理数ではないので、(有理数に)そんな数はないと言うのは正しい。 虚数単位√(-1)は、実数ではないので、(実数に)そんな数はないと言うのは正しい。 教育的方法として、 自然数→整数→有理数→実数→複素数 と段階的に教えることは、是認されるのではないですか。 ゴータマさんとその弟子が教師と生徒の関係であったならば、相手の理解を確かめながら段階的に教えを授けるという方法があっても良いのではないですか。 そして、ゴータマさんは、最終的に、自身の教えをすべて授けています。何一つ隠していませんよ。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ◇ ゴータマさんの弁護、大変なんですよ~。  ☆ ではなくて そうではなく で・き・な・いんですよ。いえいえ。してはいけないんです。その説法は内容が支離滅裂であり 無意味であるとまづは言わなければ 話が始まらない。という見方からの批判を問うています。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆この自性清浄心は アートマンと同じであり アン‐アートマンとも同じであり   ◇『勝鬘経』には、   ~~~~~~~~   そのわけは、〈如来の法身〉こそは、究極完全な常住性、究極完全なアートマン、究極完全な安楽性、究極完全な清浄性でございます。   ~~~~~~~   ~~~~~~~   〈如来蔵〉は、真実の教えを生み出す根源、〈如来の法身〉そのもの、世間的価値を超越した存在、本性として清浄な存在であります。   世尊よ、〈如来蔵〉が本性として清浄であるということは、それが〈自性清浄心〉といいふるされたものに他ならないということであります。   ~~~~~~~   とございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このことが 人間と世界とについての見方としてきちんと位置づけられているかが問われるでしょうね。  あるいは 面倒なことは言わないとしたら おのれの理論に閉じこもるのではなく 《如来の法身》は けっきょく煮詰めて言えば 《ブラフマン神》と同じであると位置づけた世界観に立つことが問われている。  ここに帰着すると考えます。  ▲ 究極完全なアートマン・・・でございます。  ☆ とまで言っているのなら そこのところを完成させておくという問題だと思います。    あるいはつまり どうしてそれとは別に 《アン‐アートマン》ということを言ったのか? について整合性が問われます。   ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)    ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________     ↓   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ○ 《非知 と 非思考の庭 との一体》 ~~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 大法螺吹いてごめんとは言わなかった。   ◇ 「方便だよ」と言っているじゃないですか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 《成道》宣言のことです。《この上なきさとりを得た》というのは じつはハッタリだったという問題です。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  教育的方法として、   自然数→整数→有理数→実数→複素数  と段階的に教えることは、是認されるのではないですか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という問題ではないと考えます。  自然数だけでオシエを説いたあと 複素数にまでオシエを広げるという問題ではなく そうではなく 初めに《複素数》をその世界観にふくむと見ることが出来たはずのブラフマニズムに対して アン‐アートマンをとなえ 否定した。そのようなブラフマニズム批判をしておいてから 自性清浄心はアートマンと同じであったと あとから言い出すのは どういうことか? という問題です。    ◇ そして、ゴータマさんは、最終的に、自身の教えをすべて授けています。何一つ隠していませんよ。  ☆ ゴータマ氏は どうもシャーリプトラが煙たくて仕様がなかった? かも知れません。  その気持ちは 方言で《けなるい》と言い表わしますが。ねたましい・うらやましいといった意味です。  ○ (けなるい) http://www.weblio.jp/content/%E3%81%91%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%84

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回答No.20

こんにちは。 ☆☆ ですから それは 何なんですか? 具体的にどういうことですか? とシャーリプトラは質問しているのではありませんか? 方便品だったかで。この高弟にしても ゴータマの言っていることは ただ言葉だけであると見ています。味噌も具もない味噌汁だと。ゆーだけ。 ◇みそ汁の作り方、みそ汁の具、食べたときの感じ・味 これらは、手をかえ、品をかえ、いろいろな形で説いていると思いますよ。 でも、 これを他人から教えてもらって、みそ汁をわかった、理解できた、と言えるのか? ゴータマさんは、「実際に作って、食べてみないと、わからない」と言っているんですよ。 だから、「作って、食べてみろ」と言っている。 シャーリプトラは、みそ汁の話はいろいろと聞いている、そして、それを推測はできる。自己の経験と知識に基づき、推測する段階で止まっている。そして、俺はわかった、と思っていた。 だけれども、それを全否定された。 だから、驚いて、釈迦牟尼に尋ねるわけでしょう。 中には、「俺、わかってるんで、もう、いいです」と立ち去る人たちも出てきます。 法華経は、そういうストーリー立てになっているんですよ。 ☆☆ 少なくとも 梵我一如というふうに それは非思考の庭(信仰)つまり 神の霊の問題であると示しています。 ◇《如理作意・yoniso-manasikara》、この言葉はパーリ語聖典に出てきますよ。一般に知られていないだけです。なんなら《簡択(けんちゃく)無為》でもいいです。これもパーリ語聖典にある言葉です。 これらは、神の霊のハタラキとでもいうべきものですよ。 ☆ もしこのブッダターが 自性清浄心にひとしいと言うのであれば ゴータマは そのようにやはり説明していればよかった。 ◇自性清浄心はパーリ語聖典に出てきますし、 説一切有部でさえ、これを仏説として認めています(ただし、浅い教えとし、重視しなかった)。  自性清浄心 + 煩悩 → こころ  こころ ─ 煩悩 → 自性清浄心 うるさいことをいわなければ、 現勢態の《こころ》に重点をおくか、可能態の自性清浄心に重点を置くかくらいの差です。 ☆☆ これは ヒラメキであり ◇ヒラメキ → 《如理作意》系

bragelonne
質問者

お礼

 もう白旗が挙がってもよいとさえ思っていたのですが。  ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  でも、  これを他人から教えてもらって、みそ汁をわかった、理解できた、と言えるのか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 言えます。というのは きちんと言葉でも説明がなされておかれれば あとで人びとは何度もそれを読み 考え反省しまた実行して行けるからです。そんなかんたんな知恵すらも ご存じでなかったのでしょうか。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマさんは、「実際に作って、食べてみないと、わからない」と言っているんですよ。  だから、「作って、食べてみろ」と言っている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ だから ここで例の《唯仏与仏》なるジョーカーが出されて来るわけです。  《作って食べた。それは こうでした》という場合にも 《作って食べたが 一向に何の成果もない。どうしたことか》という場合にも それは 《ブッダどうしでなければ分からない境地なのだよ》という答えが返ってくるという寸法です。  これからまた二千年は ゴータマ教は安泰のようですね。    ◇ 《如理作意・yoniso-manasikara》 / 《簡択(けんちゃく)無為》  ☆ ですから そういう《非思考の庭(信仰)》の 人間における位置づけをしておいたら さすがさとった人だわいとなります。そして しかもそのときには ブラフマニズムの梵我一如と同じ類型なのだと説明しなくてはいけないでしょうね。  同じことを アン‐アートマンというふうに無神論のほうで言いかえたんだ。じつは 同じことなんだ。とその内容説明を添えていなければいけないでしょうね。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~   自性清浄心 + 煩悩 → こころ   こころ ─ 煩悩 → 自性清浄心  うるさいことをいわなければ、  現勢態の《こころ》に重点をおくか、可能態の自性清浄心に重点を置くかくらいの差です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう説明をゴータマがしておいてあるのでなければ おかしい。という物言いです。  しかも この自性清浄心は アートマンと同じであり アン‐アートマンとも同じであり 霊我として のちには ブッダターと呼ぶようになるであろうと言っておかなければ おかしいわけです。(予言は 余計ですが)。    すなわち もしゴータマは これらの非思考の庭なる理論を知っていたとするならば じつに ブラフマニズムと何ら基本の内容は変わらないと分かっていたはずです。そこのところに 問題は帰着しましょう。  シャーリプトラは 慈悲深く深慮に富む人間であったので そのことをすでに知っていた。けれども ゴータマ氏じしんが 自分からそれを明らかにすることを俟った。決して出過ぎたまねはしなかった。それだけのことです。  師匠に仕える弟子のこころ 師匠知らずで 依然として 《化城》を人びとに見せて それが化城であることをも暴露しつつ おれの味噌汁が一番だし ほかにないぞと言いつづけて 死んだ。ひょっとして シャーリプトラをころしていたかも知れない。  大法螺吹いてごめんとは言わなかった。自性清浄心への自浄作用は ついぞ はたらかなかった。こういう人間です。  

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回答No.19

多くの方々がご回答されてて申し訳ないですが、形而上のことを色々論理的に算段されても無理があるのではないでしょうか? 理屈で宗教を分かって救われたら、修業もいらないではと思います。 あくまでも言葉による説明は分かる人に対してのものだと思いますが、現代の仏教学は釈迦の言葉そのものを人知で全て解明しようとするおこがましいものに感じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《めざめた状態になること》は  ★ 形而上のこと  ☆ ではありません。よ。  ☆☆ (No.14お礼欄) ~~~~~~~~~~   たとえばこうです。:   《真理がすべてにおいてすべてである状態》を ブッダであることとすれば よいでしょう。   ▼ (正しい教えの白蓮・二 巧妙な手段) --------   〔如来こそあらゆる現象を正に知っているのだ〕。すなわち それらの現象が何であるか それらの現象がどのようなものであるか それらの現象がいかなるものであるか それらの現象がいかなる特徴をもっているのか それらの現象がいかなる本質を持つか ということである。・・・   ----------------------------------------------   ☆ というごとく そのとき・その場の人びとそれぞれの心について知っているならば その意志疎通はそれほど困難をきわめることもなく なめらかに進めることが出来るかも知れない。つねにその人の精神のあり方について 相い向かい合うことで 知ることが出来るならば それに越したことはありません。    あのとき・あの場で あいつは これこれと言ったが それは あれそれの事情があったんだと分かれば かなりの程度で 互いの理解は得られるし 深めて行くことができます。  過去のわだかまりや恨みについても 真理がすべてにおいてすべてであるなら そのシコリも溶けて行き わたしたち人間どうしの話し合いは よほど無理なく滞りなく推し進められて行きましょう。  ただしこのさとりは あくまで生身の人間にとっては 動態であり過程的なものにとどまります。そこまで分かっていて ことに処すれば 少しはこの世の中もすこやかになりましょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 理論は 一般性において推論を展開しますから 具体的な事象を捨象して抽象的な・その意味で形而上のことがらとして表現するようなかたちで語っていると言うに過ぎません。  ★ 理屈で宗教を分かって救われたら、修業もいらないではと思います。  ☆ この問いは そうではありません。    すでに修行を終えて得たというさとりについて 具体的な状態とは何かを説明して欲しいという問いです。 その説明は 《理屈》でも構いません。その意味で形而上的な表現になってもかまわないということです。  ★ ・・・現代の仏教学は釈迦の言葉そのものを人知で全て解明しようとするおこがましいものに感じます。  ☆ こういう議論の仕方には 嫌悪感を通り過ぎてあきれてしまうのですが がらのわるいところを丸出しにして言えば 《ぢゃあ あんたは その〈解明すべきこと〉を知っているのか? じっさいにその境地になっているのか?》という問い返しが行くはずです。  つまり 《あなたは 〈人知〉を超えたのか?》です。  だから ゴータマ・マジックが 隅々にまで行き届いている。と言っています。  中身が分からないでも 一人前の言い方をするようになっています。  これが 永遠につづきます。  ゴータマの罪は 重い。  (はじめての回答者さんに あからさまな言い方をしましたが それは《多くの方々がご回答されてて》と言ったからには それ相応の振る舞いを受けるはめになります)。

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noname#195588
noname#195588
回答No.18

摩耶夫人 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A9%E8%80%B6%E5%A4%AB%E4%BA%BA 生没年不詳。コーリヤ族の出身とされ、釈迦族の王シュッドーダナ(浄飯王)に嫁いだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ たとえばだけれど、 ゴータマ・ブッダのことを コーリヤ国の女(むすめ)の子だなんていいかたするのかな? それであっているのかどうか知らないけれど コーリヤプッタ? http://suttacentral.net/search?query=koliyaputta 経典に出てくることは、出てくるらしいけれど、ゴータマ・ブッダとは関係がないみたい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 検索したらこんなのもあった。 【補註2】Koliya(コーリヤ国) http://www.sakya-muni.jp/pdf/mono15_s02_02.pdf ~~~~~~~~~~~~~~~~~ それで、個人的な感想というか。 名前の無い、わけではないのだろうけれど、 名前を抹消され、改竄・捏造された聖者かどうかもわからないけれど、 忘却の聖者の痕跡というか影というか そういったものは仏典を読んでいると、出て来るとは思った。 しかし、人々に必要なのはブッダであって、 謎の人物ではないのかもしれない。 まあ、正直これ以上はわからない。 そんな人物がいるのかも私にはわからないから。ただの幻影かもね。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。  ご回答をありがとうございます。

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noname#195588
noname#195588
回答No.17

とりあえず、参考にするため、引用だけ。 誤字とかあるかもしれません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ヴィデーハ国王の女の子――パーリ本、サンスクリット本などには、アジャータサットゥ王のことを、 「ヴィデーハ国の女(むすめ)の子」(Vedehiputta,Vaidehīputra つまりヴィデーハ国から来た妃の子)と 呼んでいる。かれの母は「ヴィデーハ国の女」(韋提希夫人)であったのである。男の名を挙げる場合に、母の名を挙げ、 しかも母のことを「・・・・・・国の女」「・・・・・・家の女」という言い方をするのは古代インドにおける通習であり、 古碑文の中にも多数の実例が存する。これは、インド原住民の間の母系家族制の影響であり、純アーリア人のつくった ヴェーダ聖典のうちには認められない。アジャータサットゥ王の母の個人名は、Vāsavīであったというチベット所伝の伝説 (Rockhill: Life of the Buddha,p.63)があるというが、詳細は不明である。かれの母はヴィデーハ国王の女(むすめ)ではなくて、 コーサラ国王の女であったという説もある。すぐれた偉い人の個人名を明示しないのがインドの通習であり、国王の場合には なおさらである。(アショーカ王の詔勅文でも「アショーカ」という名を挙げていることは稀であり、いつもdevānāṃ priyaḥの 俗語形を用いている。釈尊の最大の弟子も、Upatissaという個人名で示されることは稀であり、Sāriputtaとかdhammasenāpatiという 名で示されている。) ワイド版 岩波文庫 194 ブッダ最後の旅 ――大パリニッバーナ経―― 中村元訳 186から187ページ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔解説〕 「アンギラサ」というのは、遠い昔のヴェーダの聖仙・アンギラスの系統を引く者という意味ですが、ゴータマ・ブッダの 「ゴータマ」自体が、遠い昔のヴェーダの聖仙・ゴータマの系統を引く者という意味ですので、なぜアンギラスの、という点は不明です。 二度にわたって龍王退治を果たしたゴータマ・ブッダがなかなかの人物だということがわかったウルヴェーラ・カッサパは、 ゴータマ・ブッダを食客として丁重にもてなす気持ちになりました。 仏教かく始まりき パーリ仏典『大品』を読む 宮元啓一 春秋社 155ページ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  何処行きかは分かりませんが とりあえずそのバスに乗ってみておきます。

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回答No.16

☆☆ というとき その境地がいっさい説明されていないということにあります。つまり さとりとは何か? です。 ◇《さとり》とは、 貪・瞋・癡・慢・疑・悪見など根本煩悩、および、それに伴う随煩悩が滅した状態、あるいは、制御され発現しない状態、 ということになろうかと。 仏教では、これを菩提、解脱などと呼ぶ、 としか答えようがないです。 涅槃(nirvAna)、菩提(bodhi)にしても解脱(vimukti、mimoksa)にしても、心(?)の状態をさすんですって。 バラモン教のニルヴァーナは、到達可能な最高の意識の状態。 菩提には、確かに、智恵といった意味もありますけれど、無分別智などを表わす般若などであって、とらわれない心のハタラキのようなものです。 ですから、 《さとり》とは何であるか、ゴータマさんは事細かに述べているんですよ。 大体、禅で《さとり》なんて怪しげな言葉、概念を使うから、トンチンカンなことになっちゃうんです。無用な混乱を招くんです。 はっきり言って、禅が悪い!!

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  つまり こうです。  さとりとは何か?――思うように成らない苦から解脱することなり。  苦とは何か?――さとりを得るのをさまたげるものなり。  こういう論理であり説明です。永遠に この堂々巡りがつづきます。  ◇ 涅槃(nirvAna)、菩提(bodhi)にしても解脱(vimukti、mimoksa)にしても、心(?)の状態をさすんですって。  ☆ ですから それは 何なんですか? 具体的にどういうことですか? とシャーリプトラは質問しているのではありませんか? 方便品だったかで。この高弟にしても ゴータマの言っていることは ただ言葉だけであると見ています。味噌も具もない味噌汁だと。ゆーだけ。  ◇ バラモン教のニルヴァーナは、到達可能な最高の意識の状態。  ☆ 少なくとも 梵我一如というふうに それは非思考の庭(信仰)つまり 神の霊の問題であると示しています。あとは そこから得られるヒラメキなどが具体的なさとりの状態であるとまでは――なぜなら 信仰なる動態は 人それぞれの主観においてしか成り立たないことだからですが―― 説明しています。  ゴータマは もしアン‐アートマン(無‐霊我)だと言うのなら それをきちんと やはり無梵無我一如というかたちの信仰動態なのだと説明していなければならなかった。そのことが 分かっていない。ついぞ知り得なかったし 説明し得なかった。  あろうことか 天上天下唯我独尊なる師匠を超えて 後世の人びとが それは・つまりアン‐アートマンとは ブッダターのことだと説明した。つまり アートマンにひとしいことだけれど ゴータマの顔を立てて 別の霊我の名前を ブッダターなりタターガタガルバなりとして 説いた。  もしこのブッダターが 自性清浄心にひとしいと言うのであれば ゴータマは そのようにやはり説明していればよかった。  こんな状態で よくもこの上なきさとりを得たと言ったものです。  ◇ 菩提には、確かに、智恵といった意味もありますけれど、無分別智などを表わす般若などであって、とらわれない心のハタラキのようなものです。  ☆ これは ヒラメキであり それは 無梵無我一如すなわち 言葉だけの違った梵我一如なる信仰として わが心なる非思考の庭なる動態において得られると説明していればよかった。なあんも知らない。  ◇ ですから、 / 《さとり》とは何であるか、ゴータマさんは事細かに述べているんですよ。  ☆ もしそうだったら シャーリプトラが あれほど懇願することはありません。すべては 大化城としての説明なのです。足場だけで 家本体は何も明らかではありません。というより ゴータマ先生みづからが おれの説いたオシエは 大化城すなわちマボロシであるとまでは言っています。  あのくたらさんみゃくさんぼだいとは 何か? 実験ノートをみせなさい。という物言いです。

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回答No.15

ちょっと付け足し。 『かれらは宗教的行為によっても導かれないし』 の宗教的儀式は、 神に生贄を捧げ、それと交換に、神々に何かをやってもらおう、 というバラモン教の儀式、供犠をさしているんでしょうね。 要するに、 そんなことをしても無駄だ、 と言っている。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  それは いまの論点にはしないことにします。  シュウキョウ批判として それがあると捉えておきます。

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回答No.14

☆スッタニパータの中では 欠陥思想だということでよろしいですか? ◇欠陥思想かどうかはわかりませんが、 論理として一貫しているかどうか? と言われれば、 ?????? ですよね。 《論争をいどむ》という言葉がどこから出てくるのか、 理解に苦しみます。 それでもまぁ~、 ~~~~~~~ 842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、──かれらはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。 ~~~~~~~ 諸法無我の理をしらない。この理を知らぬゆえに、 我癡→我愛→我慢 というわけで、己れを誇るような気持ち、慢心が起きる。 諸法無我の理を知れば、それを実践すれば、我癡が消え、我慢が起きない、 とか、仏教内部の論理では、もっともらしい理屈をつけることはできますが・・・。 ~~~~~~~ 846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれらの本性はそのようなものではないからである。かれらは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。 ~~~~~~~ に慢心という言葉が出てきますし。 そして、伝統的な学問を、アートマン論に基づくバラモン教といったふうに置き換えれば、 まぁ、何とか、つながるのでしょうね。 ですが、 ~~~~~~~ 843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれらは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。 ~~~~~~~~ の「『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。」が問題ですね。 この言葉がどこから出てくるのかわかりません。 己れを誇る気持ちがないので、もはや、他者との優劣を決める論争にかかわらない、という意味ならば、まぁ、つながらないこともないのでしょうが。 ~~~~~~ 845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。 ~~~~~~ これは、おそらく、 「わたくし(ゴータマさん)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから 汝ら(修行者、仏弟子、仏子)も、それらに固執して論争してはならない」 の意味なんでしょうね。 そして、 『たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者(ゴータマさん)は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。』 であるから、 汝等もそのように振る舞え!! と言っている。 このように理解すれば、何とか、意味や論理はつながりませんかね~。

bragelonne
質問者

お礼

 つながりません。  ご回答をありがとうございます。  最大のもんだいはですね。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者(ゴータマさん)は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。』  であるから、  汝等もそのように振る舞え!!  と言っている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というとき その境地がいっさい説明されていないということにあります。つまり さとりとは何か? です。 最初から最後までつきまといます。  万能細胞をじっさいにしめしていないからです。しめそうともしていません。法華経で シャーリプトラが是非とも さとりについて明らかにして欲しいと懇願しても のらりくらりです。おまえたちには理解できず 捨て去ってしまうから 説かないとか何とか言っています。ぢゃあ初めっから 転法輪などを始めなさんなってえの。ではありませんか?  ▲ 聖者(ゴータマさん)は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。  ☆ そのように言うことは自由ですが キメラ・マウスをじっさいにしめさねばなりません。  たとえばこうです。:  《真理がすべてにおいてすべてである状態》を ブッダであることとすれば よいでしょう。  ▼ (正しい教えの白蓮・二 巧妙な手段) --------  〔如来こそあらゆる現象を正に知っているのだ〕。すなわち それらの現象が何であるか それらの現象がどのようなものであるか それらの現象がいかなるものであるか それらの現象がいかなる特徴をもっているのか それらの現象がいかなる本質を持つか ということである。・・・  ----------------------------------------------  ☆ というごとく そのとき・その場の人びとそれぞれの心について知っているならば その意志疎通はそれほど困難をきわめることもなく なめらかに進めることが出来るかも知れない。つねにその人の精神のあり方について 相い向かい合うことで 知ることが出来るならば それに越したことはありません。    あのとき・あの場で あいつは これこれと言ったが それは あれそれの事情があったんだと分かれば かなりの程度で 互いの理解は得られるし 深めて行くことができます。  過去のわだかまりや恨みについても 真理がすべてにおいてすべてであるなら そのシコリも溶けて行き わたしたち人間どうしの話し合いは よほど無理なく滞りなく推し進められて行きましょう。  ただしこのさとりは あくまで生身の人間にとっては 動態であり過程的なものにとどまります。そこまで分かっていて ことに処すれば 少しはこの世の中もすこやかになりましょう。     *  これは まだ程度問題ですが・そしてそれは むしろとうぜんそうであらざるを得ないと言ってよいはずですが 動態としてのさとりだと言ってよいと考えます。  

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