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天皇について
(1)明治以降は直系で天皇が即位していますが、明治以前はどのようにして天皇を決めていたのでしょうか? (2)上皇や法皇になる理由はなんでしょうか?また、今は上皇や法皇になる事はできないのでしょうか? よろしくお願いします。
- y-t-000-cm
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- Tacosan
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院が出す正式な命令は「院庁下文」という形式をとるんだけど, これはいろいろ手続をふまなきゃならないので面倒くさい. ということで, 略式の命令である院宣を使うのが普通. 上皇も「院」を名乗るので, 当然上皇も院宣を出せます. ま, 上皇と法皇が両方いるときは「法皇の方が上位」であることが多いんだけど. あと, 「一元一世」という奇妙奇天烈なシステムをとっていたところはないはず.
- あずき なな(@azuki-7)
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1 時の権力者によって決められていました 平安時代は摂関の藤原氏が 鎌倉以降だと天皇が世継ぎを定めたりしてますね 2 上皇は天皇を退いて尚 権力を保持し続けた者 大上天皇とも言います 法皇は出家した天皇のことですね 上皇は天皇を退位していますが出家はしていません 単に出家してでも天皇の権力が欲しいってだけでしょう ちなみに法皇の出す命令書は「院宣」と言い 上皇や天皇が出す「綸旨」や皇太子が出す「令旨」よりも 強制力がありました 今の天皇は上皇にはなれません 一元一世と言って生きてるうちは天皇を退位できない決まりだからです また 天皇は神道の法皇でもあるので 仏教である「出家」を行い 法皇になることはできないのです
- chiha2525
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時々、時の権力者が自分の意のままに操れる人物を、7代孫などと称して天皇にしていました。 って誰かが言ってたw
- Tacosan
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余談ですが, 上皇や法皇が院政を行うためには「現在の天皇の直系尊属であること」が条件になります (あてはまる人物が複数いるときは最上位のもの). 例1: 承久の乱の直前, そのときの天皇である仲恭天皇に対し ・順徳上皇 (仲恭天皇の父) ・土御門上皇 (順徳上皇の兄) ・後鳥羽上皇 (順徳・土御門上皇の父) と 3人の上皇がいましたが, 院政をしいていたのは後鳥羽上皇でした (ちなみに承久の乱に関与したとして流罪にされたのは仲恭天皇・順徳上皇・後鳥羽上皇の 3人). 例2: 鎌倉時代の両統迭立の時代, 後宇多天皇が伏見天皇に譲位したあと, 後宇多天皇ではなく(伏見天皇の父である) 後深草上皇が院政をしいています.
- oska
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>明治以前はどのようにして天皇を決めていたのでしょうか? 鎌倉時代までは、天皇の血筋を持っていれば直系でも傍系でも即位できました。 ですから、親子・兄弟・従兄弟・叔父(伯父)・祖父・孫と血みどろの争いを行っています。 まぁ、取り巻き連中も「誰が即位するのかで、一族の将来が決まる」のですから必死です。^^; 有名なのは、天智・天武天皇時代でしようか? 鎌倉時代でも、天皇になりたい者が多かった様です。 結果、大覚寺派・持明院派に天皇家は分裂。幕府の仲裁で、天皇在位は10年と決まります。 同時に、大覚寺派・持明院派のみが天皇即位可能の血筋となります。 後醍醐天皇(大覚寺派)は、我が子を天皇にしたい野望を持っていたのに幕府は拒否。 ※文保和談により、既に後二条天皇の子供が皇太子になっていた。 幕府に反感を持った後醍醐天皇は「倒幕」を決意します。 結局、鎌倉幕府は滅びましたが室町幕府が誕生。 尊氏は、古来の通りに従って光厳天皇を即位させます。後醍醐天皇は、吉野に逃げます。 ※93代・後伏見(持明院派)⇒94代・後二条(大覚寺派)⇒95代・花園(持明院派)⇒96代・後醍醐(大覚寺派)⇒北朝・光厳(持明院派)となります。同派が2代続けて即位する事は、先例がありません。 以降、天皇・朝廷の政治力・軍事力は無くなりますから「取り巻きの力」で即位が決まります。 ※南北朝統一も、足利義満の要請という名の命令の結果です。 >上皇や法皇になる理由はなんでしょうか? 天皇の人気が10年ですよね。 若くして天皇に即位すると、任期満了でも「権力を手放したくない」のです。 ですから、天皇を辞職?しても上皇や法皇として権力を維持するのです。 ※天皇が辞職すると、上皇に就任。上皇が出家すると、法皇。 天皇も、OBである上皇や法皇には逆らう事が出来ません。 江戸時代でも、将軍を辞任した後も「大御所」として権力を維持していましたよね。 >また、今は上皇や法皇になる事はできないのでしょうか? 憲法及び皇室典範によって、不可能です。 天皇は、崩御するまで天皇です。定年退職は、ありません。
- princelilac
- ベストアンサー率24% (1607/6586)
直系とは限りません。血の繋がった男系ですが、必ず親・子・孫…と続いた訳ではありません。 (1)古代から中世では皇位継承争いが戦乱に至ったことが数多く教科書に残っています。年長である長男と、能力のある次男、人望の厚い三男や従兄弟…。現代の政権争いよりももっと激しい権力闘争が繰り広げられました。当時は寿命も短く、その時々で勢力を誇る期間も短かったようです。 (2)現在は天皇崩御後に御世代わりが行われますが、明治以前は天皇が存命中に次代へ譲位することがありました。院政の時代は天皇が自分に余力のあるうちに、自分を最も大切にしてくれる後継者を選んで、その後継者が幼いうちは自分が天皇に代わって政治を司ったのです。天皇の座に着いたまま他界してしまうと、後継者が自分の功績を全て潰してしまうかも知れません。それを避けたのです。 >今は上皇や法皇になる事はできないのでしょうか? 皇室典範に規定がありません。と、言うことはなれないということです。象徴天皇は政治に対して発言することは許されません。天皇の方が上位なので、上皇の地位には意味がありません。出家した上皇を法皇といいます。上皇がいないので、法皇もいません。現在は天皇家は神道を継承なさいますので、仏教に改宗して出家することもあり得ません。
- nacci2014
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二番の質問にのみ解答させていただきます。 皇室典範第四条に天皇が崩じたときは皇嗣が直ちに即位するとあります。このことから現状の皇室典範では上皇や法皇をおくことは不可能なようです。 ただ皇太子を摂政として天皇陛下の名代を勤めることは可能なようです。
- suicyo
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(1)明治以前はどのようにして天皇を決めていたか 皇位継承順位などの明確なルールは存在しません。が、下記の運用が概ね守られています。 ・院(上皇)など、天皇家の家長・長老が存命の場合、その指名 ・出生順よりも生母の実家の家格が優先(女官が生んだ兄よりも皇后が生んだ弟の方が優先) ・出家していないこと(出家した兄よりも出家していない弟の方が優先) (2)上皇や法皇になる理由 皇室内の権力闘争、幼帝の擁立、天皇の制約からの解放、天皇家の実権回復、武家政権への抵抗‥ 短文で語るのは困難です。 (2)今は上皇や法皇になる事はできないのか 明治以後は天皇の退位を想定していないので、天皇は終身が前提となり、上皇にはなりません。但し、法律で禁止されている訳でもないので、可能性0でもありません。 法皇とは、出家した上皇です。現在では、仮に退位ができたとしても、皇籍離脱しない限り仏教の特定宗派に帰依し出家したことを公言するのは無理でしょうね。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
天皇及びその関連者の最大の関心事は「次の天皇を誰にするか」 ある天皇が確実に自分の次の天皇に、例えば1番気に入っている息子を就かせたい時にやることは何か? 自分が発言力のある段階で、自分の息子を天皇にすることです。 天皇本人が死んでから次の天皇を決めるということになったら、死人に口なしですから、発言権がない。 これが、太上天皇になるということです。 太上天皇の省略形が上皇で、上皇が法体になると法皇と呼ばれる。 次の天皇は、関係者の談合です。 談合での根拠は先例と、談合の参加者の意向です。
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