孔子の徳治主義と法家の法治主義について

このQ&Aのポイント
  • 孔子は徳治主義を唱え、法治主義と対立していました。
  • しかし、孔子の時代には法治主義の考えも存在し、その勢力が大きかったことが分かります。
  • 中国史に詳しい方、法治主義を唱えた孔子の時代の政治家を教えてください。
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孔子(儒家)の徳治主義と法家の法治主義について

今、論語の一節である『子曰、導之以政、斉之以刑、民免而無恥、導之以徳、斉之以礼、有恥且格。』 について調べています。 前半部分が法家の主張していた法治主義であり、それに対して孔子は徳治主義を唱えたということはわかりました。 ですが、法治主義を主張していた人物を調べると荀子や李斯、韓非といった孔子よりも後の時代の、孔子の考えから分化した人たちばかりでした。 孔子が徳と礼をもって政治を行うべきだと言うからには、当時から法治主義の考えがあり、その勢力が大きかったことがわかります。 孔子と同じ時代、もしくはそれ以前に法治主義を唱え、そのような政治を行った人はいるのでしょうか。 中国史に詳しい方、よろしくお願いします。

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  • 0fool0
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回答No.2

春秋戦国時代は五百五十年程の長期に渡ります。 統治形態が都市国家体制から、中央集権国家体制へと変化する中で統治学として様々な諸子百家が生まれました。 孔子は周王朝の都市国家体制を最上の統治として理想化したのです。 孔子以前の法家と言えば「管仲」が第一に挙がります。 法家の思想そのものは以前からあり、重用されるようになったのが中央集権化が進んでからだというだけです。 一般的には法治主義の対語は人治主義になります。 論語での法と礼と言うものに対する考え方を良く表している記述があります。 子路第十三の十八 「父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す、直きこと其の内に在り」 葉公が親の罪を訴えた息子を正直者と表現した際に、孔子が返した言葉です。 父は子の為に隠し、子は父の為に隠す、正直は其の心の中にある。 親子愛と言えば確かにそうでしょうが、国家としては統治上、如何な物かと思います。 荀子は孟子の「性善説」に対抗し「性悪説」を唱えた思想家で、法家ではなく、礼を説きました。 其の弟子の韓非子が礼学では人は導けないとし、礼を推し進めたものとして法学を掲げました。

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  • ithi
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回答No.1

lotonotate さん、こんばんわ。 斉の管仲はいかがでしょうか?詳細は下記のURLを参照してください。 管仲 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%A1%E4%BB%B2 孔子 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90 その他の法家 http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%B3%95%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9

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