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奇蹟と宗教との関係

以下、まじめな質問なので、ひやかしでのご回答はご遠慮ください。 キリスト教や仏教・神道他の聖職者の方や信徒の方、宗教や霊的なことに詳しい方のご回答をお待ちします。 1.奇蹟と宗教との関係はあるのでしょうか? 例えば、宗教心が厚ければ、奇蹟を起こすことは可能なのでしょうか? 2.カトリックでは、直接の関連を認めていないようですが、それではなぜ、カトリックでは、列聖の条件として、奇蹟を必要とするのでしょうか? プロテスタントでは、聖人を認めていないようですが、奇蹟については、どのように捉えているのでしょうか? 3.宗教心がなくても、霊感が強ければ、奇蹟は行えるのか? 街中で見られるいわゆる霊感師や占い師は、全部が全部宗教心があるとは思えませんが、こうした人たちが施すいわゆる「おまじない」と奇蹟の違いは何でしょうか? 4.人に見えないものが見える人は、どういう人でしょうか? 原因として考えられる両極端として、(1)幻覚・妄想 (2)心眼・信仰心 があると思いますが、他にもあるのでしょうか? 神や聖人の姿が見える人は、やはり素晴らしい人なのでしょうか? 例えば、カトリックでは、ルルド・ファチマ・グァダルーペの三大聖母出現がありますが、聖なる心を持っていたから、俗人には見えない聖母マリアの姿が見えたのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mmky
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回答No.13

キリストの持ち込んだ「隣人愛」を前面に出した母性的な宗教となり、神と人間の距離が近づいたという印象があります。神の懐に抱かれて、神と「祈り」を通じて直接対話も出来る関係になり、その「祈り」が神に通じれば、奇蹟を起こすことも可能になったのではないでしょうか? ○多少の誤解があるのかもしれません。ユダヤ教の祖はモーゼです。モーゼは「脱エジプト記」にあるように凄まじい奇跡を起こしてエジプトからカナンの地を目指したのです。当然、この時、モーゼは祈りによって神の力を借りていますが、後代のイエスのような隣人愛は説いていません。 イエスも祈りによって奇跡を起こしていることは明らかです。また、イエスより時代の古い釈尊も奇跡を起こしています。更に言えば、インドの仙人や日本の仙人も大いなる奇跡を起こしています。 さて、なにを言いたいかといえば、奇跡は誰にでも起こせる可能性があるということなのです。特定の信仰に依存するものではないということなのです。人間はそのような存在であるということを教えているのが高等宗教ということだけなのです。 愛を持って奇跡を起こし、美をもって奇跡を起こし、知恵を持って奇跡を起こし、力を持って奇跡を起こし、そのような存在として根本神は人霊たる人間を造られているのです。その証明のためにモーゼも釈尊もイエスも仙人も存在したのですね。祈りは信仰の目覚めであり、信仰は信じる力の源ということですね。 人は何を信じるかによって望むものになれるのです。それだけの力と知恵を与えられたのは根本神の「火の試練も水の試練もあたえよう、しかして我のようになれ、限りなく我に近づき来よ」という念いがすべてのものの中に内在するからですね。その内在する普遍の力を忘れないようにすれば良いだけなのです。 誤てる宗教や唯物教育が内在する力を否定するがゆえに自らを卑しめ出来なくしているだけなのです。

oozora2000
質問者

お礼

最初の3行で言われていることは、まさにその通りだと思います。神と人間の距離が近づいたので、祈りが届くようになった。これに類することは土井健郎氏も、確か「祈り」は「神への甘え」のようなもので、人がおねだりすれば、神様は言うことをかなえて下さるようなものだと、書いておられたような気がします。 ただ、キリストや釈迦も奇蹟を起こした・・・という前半の記述から見ると、「おや、やはり奇跡は教祖級の徳の高い人にしか起こせないのかなと思っていましたら、やがて「仙人」もそれに加わり、ついに、「奇跡は誰にでも起こせる可能性がある」とおっしゃるのは、ちょっと飛躍があるようにも感じるのです。 キリスト教の絶対神を信じる立場からすると、東洋的な「神と人間の一体化」的考えを反映した「火の試練も水の試練もあたえよう、しかして我のようになれ、限りなく我に近づき来よ」という考えには、やはり抵抗を感じざるを得ない部分がある一方で、私も一面、仏教や東洋的な神のあり方に共鳴するので、神とお友達のような関係になり、当方の祈りを気軽に聞いてほしい、と言う気持ちもあり、悩ましい所です。

oozora2000
質問者

補足

長い間、ほっぽらかしにしてすみませんでした。 しかし、決して関心が失せた訳ではなく、あまりにも大きなテーマを前にして、独力である程度詰めた上で、皆様のご回答に向かい合おうとしていました。 自分なりに何らかの回答を得るために、昨年以来、以下のような「祈り」の本を読み漁ったり、この分野に詳しい人の話を聞きました。 A) C.M.デ・エレディア著 大滝 玲子訳 『求めよさらばあたえられん』 B) 菊地多嘉子著『リジュのテレーズ』(祈りを重んじたカトリックの聖女の伝記) C) ラリー・ドッシー著 大塚晃志郎訳『祈る心は、治る力』 D) 対本宗訓著『祈る力』 更に「愛」や「希望」に関する次の本からも色々示唆を得ました。 E) ヴィクトール・フランクル『夜と霧』 F) エーリッヒ・フロム『愛するということ』 そして得た結論は、以下のようなものです。 1.「信仰」と「祈り」の心があり、「自分が儲けよう」とか「人をコントロールしよう」などという私利・私欲・邪念やこだわりがない人は、本来人間が持っている能力がスムーズに出せることが多い。(霊力があった私の近親者の人生を振り返って得た結論) 2.人間の切実な思いは、祈り・希望・願望という形を取って、物事を良い方向に進めることが多い。(上記A等より) 3.現在では、医者の中にも、治療の過程で祈りを取り入れている人は多く、成果を挙げているという話も多い。(上記Cより) 4.祈りとは・・・宗教を問わず(時には無宗教者であろうと)絶対的な存在とコミュニケートしようとする人間のこころみのこと。キリスト教であろうと、仏教であろうと、それ以外の宗教であろうと、真剣に神に向かい合う限り、祈りの効用に大差はない。(上記Cより) 5.病院やクリニックや実験室において、実際に実験をしてみると、離れた場所からの祈りというものは、たとえ祈りを受ける人が、誰かから祈られていることを知らない場合であっても、そして、人間以外の存在に対しても、はっきりとした効果を示すことが多い。(上記Cより) 6.愛や希望から人が生きる力を得ることは多く、時には不治の病からも復帰させることがある。(上記C, E, Fから) 7.人は「奇蹟」というと、とかく「超能力」の範疇で考えることが多い。確かに、「信仰」に関係なく、霊感の強い人はおり、「おまじない」や「占い」を商売にしている人も多いが、「信仰」や「祈り」の結果、「奇蹟」が起きることもある。

その他の回答 (14)

回答No.15

こんにちは 私は聖書を神の言葉として信じ 研究しているので聖書に基づいてお答え致します 聖書の中は大きく分けると神が行われた奇跡と悪魔サタンが行う奇跡があると指摘しています モーセが紅海の水を分けたり イエスが死者を生き返らせたりされたことは全能の神がその力によって行われた奇跡です それに対して悪魔が人を誤導するためにする奇跡もあります 終わりの日には「偽預言者が起こり 惑わそうとして 大きな奇跡や不思議を行う」と予告しています(マタイ24:24) ですから真の神か悪魔かいずれかの力をもってすれば人間も奇跡を起こすことが出来ます 信仰が有るか無いかは端的に言えば関係ありません ですから奇跡を起こせるというだけで何かを信用するのは大変危険なことです その背後に悪魔が関わっていることが多いからです 本当に信頼できるものは理性によって証拠を調べることによって見極めることが出来ます

oozora2000
質問者

お礼

長い間、ほっぽらかしにしてすみませんでした。 しかし、決して関心が失せた訳ではなく、あまりにも大きなテーマを前にして、独力である程度詰めた上で、皆様のご回答に向かい合おうとしていました。 私の考えの詳細は、No.13さんへの「補足」を見て下さい。 さて、神も悪魔も常人もそれぞれ奇蹟を起こすことが出来る、そして、信仰が有るか無いかは関係ない、というご意見は非常に新味がありますね。確かに、そうした奇蹟を起こす能力があっても、それを悪用する輩は、昔から多かったと思います。

oozora2000
質問者

補足

久し振りにお礼をまとめてしました。 回答して頂いた方には、大変お待たせしました。 尚、少し反応を見て、一両日中に、締め切ることに致します。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.14

No.5です。 >自分の力量だけで、そういうことを行える霊能者という存在は何なのでしょうか? 私はそういった能力も何も無いので、マジックか真実かは判りませんが、真実としてもそれはそれだけの事としか思いません。 仮に誰も目を持っていない世界で、初めて目を手入れた人間が、それを駆使して繁栄に導いたら、それは奇蹟として賞賛されるでしょうし、逆に悪用して私利私欲に走れば、悪魔と契約したと言われる事でしょう。 では、今度は逆に目の見えるのが当たり前の今の社会で、目の見えない人間は悪人でしょうか、善人でしょうか? 霊能力も能力の一つでしょう。 奇蹟も現象の一つでしょう。 それに縋る事で幸せならば、それも生き方の一つです。 私はそれを間違っているとは言えませんし、心豊かに生きる事が何より大切だと考えます。 大体、私が言っている事が正しい等と誰が決められるでしょう?

oozora2000
質問者

お礼

長い間、ほっぽらかしにしてすみませんでした。 しかし、決して関心が失せた訳ではなく、あまりにも大きなテーマを前にして、独力である程度詰めた上で、皆様のご回答に向かい合おうとしていました。 私の考えの詳細は、前回答への「補足」を見て下さい。 さて、ご回答では、奇蹟や霊能力も、一つの現象或いは能力、生き方と見ておられますが、確かにその面はあるでしょう。但し、私は、前の補足に書きました通り、それらがその人のタレントとして偶々与えられた場合と、信仰や祈りの結果んものとがあるような気がします。或いは、タレントが先にあり、それを信仰に生かした人もいるのでしょう。

  • mmky
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回答No.12

>でもちょっと待って下さい。キリスト教的には、こうした人間が神にもなりうるという考えは、「神をも恐れぬ思考」で、厳しく指弾されるのではないかと思います。神に近づきすぎたために、神の怒りを買った話は、アダムがイヴや蛇にそそのかされて、りんごを食べた話とか、「バベルの塔」を天にも届くように建てようとして崩れてしまった話など、聖書にも沢山書かれていますよね。 ○人間神の子は自身がトップの神になれることではありません。トップの神に近づけるという可能性を備えたものです。神は合理的で神秘的な存在です。人の修行は、いろんな方向から頂上の見えない山を登るようなもので、神秘性の部分も鍛えることができるという意味です。信じる力は神秘の部分を鍛える道ということです。 人間が小さき才能に溺れ、自身が神のような振る舞い、つまり慢心した時に叱られたということですね。 更に、人間神の子の反対側に人間罪の子という、悪魔の世界もあります。霊界の知識や合理的な判断ができないと、逆の方向に進んでしまうこともあるわけです。そのようなとき滅ぼされることもありますね。 キリスト教にも歴史的に神秘思想の一派はあったのですが、弾圧されていますね。これがキリスト教思想が唯物論のマルクス思想に転化していった理由でもあるのですね。神秘な部分を削除していかに世界宗教となっても間違えば聖書にあるように滅びますね。それがキリスト教における終末思想ですね。まあ、神秘思想を受け入れてキリスト教世界も進化しないとそのようになるかもしれませんね。どのような技術も努力も神の前にはアリのようなものですね。その怖さを知って、感謝を忘れず正しく正しい道を歩めば良いだけですね。

oozora2000
質問者

お礼

唯一絶対の神を崇敬するキリスト教では、人間を神と同列に位置づけることは限りなく不遜だという考え方が基本だと思います。一方、仏教や神道などでは、神或いは自然と人間を一体化する考えが一般的なのかもしれません。私は、両方の感性・考え方がある程度理解出来ます。 ただ、そのキリスト教も、キリスト誕生前の旧約時代(即ち「ユダヤ教」として存在していた時代)には、父性的な「罰する神」だったのでしょうが、キリスト以後(即ち「キリスト教」と呼ばれるようになってから)は、キリストの持ち込んだ「隣人愛」を前面に出した母性的な宗教となり、神と人間の距離が近づいたという印象があります。神の懐に抱かれて、神と「祈り」を通じて直接対話も出来る関係になり、その「祈り」が神に通じれば、奇蹟を起こすことも可能になったのではないでしょうか?

oozora2000
質問者

補足

4回も回答頂き、有難うございます。 いずれも「お礼」で述べましたように、キリスト教カトリックの立場からすれば、人間を神と同列に扱うことには抵抗がありますが、元々創世記にありますように、人間は神の姿に似せて作られたものであり、「神の子」として、ある程度、神に近い存在として考えられてきた面はあると思います。仏教の「人間は皆仏性を持っている。」という言葉にも相通じますが、人間は本来無限の力を持っている訳であり、「祈り」と言う行為を通じて、奇蹟を起こす能力も備わっていると思います。勿論、そういった「信仰」や「祈り」抜きに、超能力的な霊感を持っている人間もおり、そういう人の起こす「奇蹟」との関連が尚不明ですが、回答者様の回答(特に最後のNo.13)は、私のイメージつくりに役立ったので、No.13をベストアンサーにさせて頂きます。(スペースの関係で、ここにその理由を記しました。)

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.11

>ホントですか? ○ホントですよ。どの高等宗教でも書いてますね。根本仏あるいは全知全能の神が「かくあれ」と思ってこの大宇宙が創造されたとね。人間の魂はその一部ですから、規模の程度は異なりますが同じことができるようになっているのです。これが人間神の子の意味ですね。仏教的には仏性が宿っているといいます。 ここがロボットと人間の違いですね。人間が単なるロボットと考える人は、プログラムされたロボットとしてしか動きません。人間神の子に目覚めると神の技の一部が使えるようになるということですね。 肉体は単なる意識のエネルギーの入れ物、宇宙服みたいなものですが、意識のエネルギーは本来自由自在なものですね。これを教えるのが本来の正しい宗教ですね。意思エネルギーの分散、集中、方向をコントロールする方法が正しい信仰や信じるという行為なのです。 方向を間違えると人生さえ狂ってしまいますから、宗教的には秘技の部分だったので宗教が大衆化するにつれわからなくなってしまったのですね。科学技術も進化し、基礎知識としてもつ人も増えてきましたので、宗教の秘技も理解できる段階になってきたということですね。ただ、逆に人間が教育的に退化して、おれは猿だとかロボットだとか思うようになってきたのでわからないということでしょう。 心のエネルギーを根本仏への感謝に向けている限りにおいては間違いはないでしょうから、そのように心を鍛えれば物理力を持ってくることが誰にでもわかるようになります。21世紀の新人類はそのような人々のことですね。新人類たらんと望むなら20世紀の無知によるゴミ知識は捨て去らないとね。

oozora2000
質問者

お礼

再度回答有難うございます。 人間には誰にでも「神の素質」或いは「仏性」が備わっていて、皆同じこと(奇蹟)を起こす素質があるということでしょうか? 心のエネルギーを根本仏への感謝に向け、心を鍛えれば物理力を持ってくるのですね。 そういえば、『ヒマラヤ聖者の生活探究』〈第1巻〉人間本来無限力―自由自在への道 (1969年) と言う本もありましたね。 神と一体感を得ることで、限りないパワーを得たという話は、古来沢山あったと思います。 インド宗教や仏教にも見られたのでは? 仏教では「即神成仏」の話とか・・・。 でもちょっと待って下さい。キリスト教的には、こうした人間が神にもなりうるという考えは、「神をも恐れぬ思考」で、厳しく指弾されるのではないかと思います。神に近づきすぎたために、神の怒りを買った話は、アダムがイヴや蛇にそそのかされて、りんごを食べた話とか、「バベルの塔」を天にも届くように建てようとして崩れてしまった話など、聖書にも沢山書かれていますよね。

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2725/5435)
回答No.10

奇跡と宗教、貴方は北野武の教祖誕生を読んだ事がありますか?映画にもなっています。世の中には奇跡を以ってそれが聖者の証しだと唱える宗教は多いです。しかしイエスも釈迦も修行の際には悪魔や邪が表われて世界を与えると言った。つまり奇跡は神だけの行いではないのです。 奇跡によって信じるものは悲しい、自ら聖なる物を求め信じるものは幸せだといえます。 少なくともカトリックにおいて、奇跡の発現は人間側の石には関係なく、天の意志によってのみ発現するものです。なので、人間の心の善し悪しは関係ありません。心が清いからとか神に近いからと考える人もいるようですが全く関係ありません。 出エジプト記ではパロの命により魔法使いが杖を蛇に変えています。果たして何を持って奇跡というのか、何を持って異端者の魔法だというのか。現象においての差はほとんど無いのです。だからカトリックでは奇跡=聖者とは見なさず距離を置いていますし、奇跡その者を聖なるものとは考えていません。 一応、奇跡と認めるためにはカトリックに対しての何らかの益があればという事になるのでしょうが、元々さほど重視していないのですから、奇跡と魔術等と差を定義づけてもあまり意味がないと思います。 いわゆるカトリックにおいての奇跡は天の意志によってのみ発現するもので、それは主が必要とする場合だけです。むしろ望んでできるものではないと考えたほうがイイと思います。 正しい意味でのプロテスタントは神とキリストの関係のみを認めています。マリアの存在は重要ではありますが、信仰の対象にするのは偶像崇拝という立場です。だから神、神とキリストのみを神と呼ぶわけです。 “見る”ってなんでしょうか?それは脳において映像を把握した事を言います。以前の科学では視神経を通ったものだけを言っていましたが現代ではそれはありません。 もし視神経を通ったものだけと限定すれば夢や幻想は除外されるでしょう。しかし、最新医学ではカメラで撮影したものを直接脳に刺激を与え像を結ぶ実験がかなりすすんでいます。もし視神経を取ったものだけが「見る」行為であるなら、これらは幻想や夢と同じという事になってしまいます。逆に視神経を通過しなくてもよいということになると幻想や夢との区別が着きません。また電磁波を発して映像を見せる研究もありますから、人為的にもできることです。 私達が霊と呼んでいるものには実は二つあります。一つは真の霊。もう一つは思念です。霊が本人だとすれば思念(残留思念)はエネルギーの雲のようなものです。霊そのものには思考が伴いますが、思念は考えるという事ができません。 思念や霊も正室の一つには電磁波と同じ作用があると考えられます。だから他人には見えないけれど自分だけが、或いは一定のグループだけが見えるわけです 霊視も別に毒主な能力とか、清らかさとか関係ありません。

oozora2000
質問者

お礼

ミカエルさん、いつもご指導頂き、有難うございます。 確かに、カトリックでは奇跡=聖者とは見なさず距離を置いていますね。 奇跡が天の意志によってのみ発現するもので、それは主が必要とする場合だということもわかります。 視神経を通過しなくても「見る」ことは可能とも考えられますし、その中には、霊視も思念も含まれるとなると、必ずしも信仰を持っていなくても可能なのかもしれませんね。

回答No.9

 こんにちは。  おのれの信仰から得られたヒラメキなどの観想は むろん 表現の自由にもとづき発表してもかまいませんが それはあくまで主観内面における観念であり思惟であるものです。  外に表出するあるいはつまり自己表現をする これをするしないにかかわわらず 人間の得た思いや考えはすべからく主観としての内容にとどまります。  ★ 奇蹟や 見えないものが見える  ☆ もその例に漏れるものではありません。  言いかえると 経験合理性にもとづいて人間がその当否や是非を判断しがたいものごとについては ほかの人に伝えることも自由であると同時に これをその本人の主観内面にとどまる(それとしての主観真実にとどまる)ものごとであると捉えこたえてやることも 自由であり一般です。    となると あとは――いわゆる非思考の庭にあっておのおの主観がどう判定するかというかたちで――どれだけ説得力があるか というような実際問題となります。  つまりは 単なるイメージのようなものを受け留めその印象を得て 自分がどう考えどう判定するかであり これが 単なるその時その場かぎりのコトであっても あんがい自由にその効力は発揮される場合もあるのであって けっきょくはその人が どのようなインスピレーションを受けるか これにかかっているという問題になります。  つまりは こういった受け取りや受け留め方にかかわるコトというのは 奇蹟の問題に限らず ナゾを持った表現全般にかかわっています。  ヒラメキが その内容としてどこまで経験思想一般として成り立ち得るかだと思います。  そのときの注意点は何か?  宗教は つまりは組織宗教のオシエや権威ある地位についている人の言うことは まったく関係ないでしょう。  本人が どう受け留めるか だけでしょう。  問題は そのあと(受け留めたあと) これについて もし主観真実であることをうったえるのならば どのように自己表現をするか・そしてどこまで説得力があるか にかかっていると考えられます。  そうなると 堂々巡りになります。いまの問題は 経験合理性ですでに判定しがたいものごとを取り扱っていたからです。    という経過をたどって帰着するところは こうです。  《奇蹟》などをどう捉えどう扱うかよりも もしそれを主観真実において受け容れたとしても 問題は そのあと本人が 人間および社会にかんしてどういった内容の思想を打ち出して来るか。これについての判断によって取って代わられる。こういうことではないでしょうか。  そういう意味では 奇蹟は どうでもよいのですし またぎゃくに奇蹟の受け留めによってこそ よい思想が得られたということもあり得る。こういう全体としての捉え方になる。と考えられます。  奇蹟に焦点を当て続け 軌跡そのものにかぎって議論し尽くすことは 無理です。こたえは出ません。  個人の――その心の非思考の庭なる――信仰とは そういうものであり また 宗教はいっさい関係ないしお呼びではないというものである。と考えます。

oozora2000
質問者

お礼

「表現の自由」はあっても、結局は、本人が どう受け留めるか ということだけですか? 問題は、奇蹟の当否よりも、本人がその後、人間および社会にかんしてどういった内容の思想を打ち出して来るか、ということが大事なのですね。 その意味で、宗教・信仰は、奇蹟とは関係ないとの論法ですね?

回答No.8

 どうも、こんにちは。 >>キリスト教や仏教・神道他の聖職者の方や信徒の方、宗教や霊的なことに詳しい方のご回答をお待ちします。 ということのようなので、聖職者ではありませんが、真宗の俗にボーズと呼ばれるものです。 >> 1.奇蹟と宗教との関係はあるのでしょうか?  宗教としてしまうと範囲が広いので、すべてに共通するとは言えません。しかし、奇跡を説く宗教も存在します。そういった宗教はどのようにできてきたかということに関する岸田秀氏(だったと思うのですが記憶はあいまい)の考察で、こんなのがあったはずです。  大雑把に話しますと、日本人は進化論を「環境が寒冷期になったので、毛を生やして環境に適応した」という感じで進化を理解している方が多いのですが、実はこれは逆です「なんかの拍子に皮膚を毛で覆ってみたら、次に来た寒冷期に適応できた」というのが進化論だったりします。  こういったことを念頭において宗教の起源を考えますと、例えば、イスラム教について考えますと開祖のムハンマドさんはアラビア半島で生まれた人のようですが、アラビア半島ってほとんどアラビア砂漠という砂漠に占められている場所なんですね。砂漠ってとこは今だって大変なんでしょうが、当時の人間にしてみれば今以上に生きていくのが困難な場所だったと考えられます。一つの判断ミスが命取りとなり、奇跡のような判断を迫られる場所だったでしょう。つまり、あの地帯は奇跡と思えるようなことを経験した人でなければ生き残ることができなかったし、生きていた人たちはいわゆる奇跡の経験者だったといえます。そんなところで生まれたイスラム教は奇跡を前提とする宗教であったと考えられます。  ですから、先ほどの進化論と同じです。実は「宗教があるから、奇跡が起きる」のではなく、その起源をたどって考えますと「奇跡のようなことが起きないと生きていけない厳しい環境の地域には、奇跡を前提とする宗教が生まれる」ということだと考えます。  これはあくまで、イスラム教を例に挙げましたが、キリスト教なんかでも同じことが言えます。キリスト教徒は今では地球上にかなり広まっていますが、主にヨーロッパ圏でありコーカソイドが中心ですよね。人類史のアフリカ単一起源説によればわれわれ人類の祖先はすべてネグロイドであったと考えられています。そのネグロイドの中から突然変異等々の理由で、色素のないコーカソイドが生まれたら、どうなったか?岸田氏の説によれば幾人かは神のようにあがめられたかもしれませんが、多くのもの迫害されたのではないかと考えられます。それが、ヨーロッパ圏に住みついたコーカソイドの起源であり、当時のヨーロッパは人間が住みたくなるほど環境が良かったわけではないのに住みつかざるを得なかったのは迫害されたのが理由ではないかといいます。ですから、やっぱり奇跡でもないと生き残れないような場所に住まざるを得なかった人の中に、後にキリスト教も広まったってことが考えられるわけです。  ですから、やっぱり私の1に関する回答は「宗教が奇跡を生むのではなく、奇跡を前提とする環境に奇跡を前提とする宗教が生まれたり根付いたりする」です。 >> 2.カトリックでは、直接の関連を認めていないようですが、それではなぜ、カトリックでは、列聖の条件として、奇蹟を必要とするのでしょうか? >>プロテスタントでは、聖人を認めていないようですが、奇蹟については、どのように捉えているのでしょうか?  わたしカトやプロに関してはシロートなのでここの答えはひかせさせていただき、専門の方に任せたいと思います。 >>3.宗教心がなくても、霊感が強ければ、奇蹟は行えるのか? >>街中で見られるいわゆる霊感師や占い師は、全部が全部宗教心があるとは思えませんが、こうした人たちが施すいわゆる「おまじない」と奇蹟の違いは何でしょうか?  私には結構当たると人気の占い師の友人がいますが、彼女が言うには「私の仕事は相談相手が、二度と来なくていいようにしてあげることだ」言っていました。これは彼女のプロとしての言葉なのでしょう。私も彼女に占ってもらったことがありますが、やっぱりよく当たるんですよ。ただ、私は学生時代から認知科学といわれる分野の勉強をしていたので、彼女は無意識のうちに心理学的な効果や技法を使っているのが分かりました。その効果について心理学者リチャード・ワイズマン氏の説によってお話しします。  まずはは「レイクウォビゴン効果」というもので、多くの人は本来の客観的なものよりも自分をより高く評価するポジティブ幻想があるそうです。海外研究の資料なのですが、車の運転について質問をすると80%以上の人が自分は平均的なドライバーより車の運転がうまいと答えたり(しかも、交通事故で入院中のドライバーもそう答えたということもあるそうです)、ビジネスマン75%が普通のビジネスマン以上に職業倫理を気にしていると答えたり、95%の人が自分は普通の人より面白いことが言えると答えるそうです。謙虚な日本人ではまた違う結果が出るかもしれませんが、人間全体にはこのような傾向があるわけです。だから、よく当たるといわれる占い師は、最初に「あなたは本当は心の優しい方ですね?」とか「なかなか、あなたは勘の鋭う方ですね?」と相手をほめるような言葉で導入をします。  次に「ダートマス・インディアンズ対プリンストン・タイガース効果」というものがあります。1951年にアメリカの大学フットボールチームダートマス・インディアンズ対プリンストン・タイガースのしあいがおこなわれました。試合は大荒れで、片方のチームの選手は鼻の骨を折り、もう片方の選手は足の骨を折るような試合でした。しかも、その後の新聞報道はどちらが悪いかで真っ二つに割れます。プリンストン側はダートマスが悪いと書き、ダートマス側はプリンストンが悪いと書くわけですね。これに興味を持ったのが社会心理学者アルバート・ハストーフ氏とハドリー・カントリス氏です。二人は試合を観戦した双方の学校の学生に面接をしてみます。すると双方の学生は共通して相手校のラフプレーにしか目がいっていないことが分かりました。つまり、どちらともとれるような情報にであった時、人間は自分が見たい方を選択し記憶するのです。これを「選択記憶」というんですが、占いにおいてもこれが働きます。例えば、導入でレイクウォビゴン効果で入ったとして、そこから続けて「あなたは想像力が豊かで創造活動にも向いていますが、いざとなると実行力を発揮しテキパキ仕事ができますね。」とか「あなたは人前では外交的にふるまうこともできますが、一人で物事を考えるのも好きですね」とか、相反することを言っていると、人間は都合のいい方のみを記憶に残していく傾向があります。  あとはコールドリーディングという技法などを駆使して、占い師は相手の事を言い当てていくわけでから、実は奇跡や霊感とはまた違ったものではないかと考えます。ただ、私の友人は心理学には全くのシロートでしたので、無意識のうちにそんな多くの技術が使えるってのは、ある意味超能力や奇跡だなと私は思いましたけどね。  >>4.人に見えないものが見える人は、どういう人でしょうか? >>原因として考えられる両極端として、(1)幻覚・妄想 (2)心眼・信仰心 があると思いますが、他にもあるのでしょうか? >>神や聖人の姿が見える人は、やはり素晴らしい人なのでしょうか?  神を見たり例を見たりするのは実は特殊な人間だからできることではありません。普通の人間が持っている機能で説明が付きます。放射線医学博士のアンドリュー・バーグ等々の研究によれば、仏教者の瞑想中のやキリスト教徒の祈りの最中の人間の脳をSPECTで撮影すると、上頭頂葉後部が不思議な活動をしていることが分かりました。上頭頂葉後部のの主な機能は、自己と非自己を区別することにあり、瞑想中はこの機能が極端に低下しているといいます。しかも、それは薬物を使ったときのような異常な変化ではなく、脳はちゃんと段階を踏んでおり、普段と違う動きをしているものの異常なものではないそうです。さて、この自と他の区別をする機能を持つ上頭頂葉後部の機能が低下するとそれを脳はどのように解釈するのでしょうか?この時仏教徒は「自分が存在するすべてのものと一体となったような感じ」と答え、修道女達は「触れられるほど近い位置に神を感じた」などという感想を口にしています。ただ、上頭頂葉後部の機能の低下によって「自と他の区別の無い感覚」得ることが出来るわけですから、自己の中に神がいると考えてもいいようなものですがそうはならないようです。その理由は、それが普段は正常に働いているからだと考えられます。普段隔絶されているものが、瞑想や祈りによって一体となった感覚をえることで、普段の機能に戻ったときにより隔絶を感じることがあるのでしょう。  上述のように、こういった瞑想の研究において、人が神を感じるのには、実は特殊な霊感等々は必要なく、通常の人間が持ち合わせる脳と訓練次第ではだれもがそれを追体験できるわけです。ですから、この質問対する私の答えは(3)人間の脳が構造上持ち合わせた機能であると考えます。 >>例えば、カトリックでは、ルルド・ファチマ・グァダルーペの三大聖母出現がありますが、聖なる心を持っていたから、俗人には見えない聖母マリアの姿が見えたのでしょうか? つまり、この状態は上述のような状態にあったのではないかと考えられます。  いろいろ書きましたが、まとまってませんね。すみません。誤字脱字乱文ご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛

oozora2000
質問者

お礼

>「宗教があるから、奇跡が起きる」のではなく、その起源をたどって考えますと「奇跡のようなことが起きないと生きて >いけない厳しい環境の地域には、奇跡を前提とする宗教が生まれる」ということだと考えます。 それで、 >「宗教が奇跡を生むのではなく、奇跡を前提とする環境に奇跡を前提とする宗教が生まれたり根付いたりする」 ・・・となるのですね。風土・気候は宗教の気風に大いに関係しますね。和辻哲郎の『風土』を読んでみます。 >「レイクウォビゴン効果」というもので、多くの人は本来の客観的なものよりも自分をより高く評価するポジティブ幻想がある・・・とか、 「ダートマス・インディアンズ対プリンストン・タイガース効果」により、どちらともとれるような情報にであった時、人間は自分が見たい方を選択し記憶する(「選択記憶」)とか・・・・ 瞑想や祈りの最中に人間の脳をSPECTで撮影すると、上頭頂葉後部の「自己と他を区別する」機能が極端に低下し、「自分が存在するすべてのものとの一体感」や「神との至近感」があることから、こうした感覚は、人間の脳が構造上持ち合わせた機能であり、誰でも訓練すれば得られるものと考えられるとか・・・・ 色々示唆に富む博識なご回答を頂き、大変参考になりました。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.7

信じる力が、物事を動かす動力にはなります。 ただ、多くはついつい形を追うので奇跡はおきないでしょう。 奇跡を求めると外部の現象としては変化せず、よくあるのは自己内部が崩壊へ向かいます。 宗教家が、おかしなことをやり始めて道を外したりするのはそこにあります。 自分を信じて生き方を選んでやっていけば、奇跡と思えることは普通におきます。 神にすり替えてしまうこともできますが、やがて歪みが生じるでしょうから 多くは程遠いところへたどり着くと思います。 基本は個人の生き方と内的動向に由来しますから。 見えることが素晴らしいという評価をするのは、その人個人の問題であり 評価は人に決めて貰わなくても、自分で決めたらいいと思います。 私は見えることより、どう生きているかが大切に思えます。 追いかけなくても、付属品と同じで誰しも後から付いてきますよ。 自分の方向さえ間違わなければね。

oozora2000
質問者

お礼

聖書の中の名文句「求めよ、さらば与えられん」や、ナポレオン・ヒル博士が主張した「思考は現実化する」という理論にも見られる通り、人々の切なる「思い」や「祈り」は現実化する、ということは言えると思います。物事は、一生懸命努力すれば、その希望する方向に落ち着く、ということではないでしょうか。 ただ、それが「奇蹟」というレベルにまで達するのは、そう簡単なことではないでしょう。 私が今読んでいる以下の本では、信仰を持った医者が、患者のために祈ることなどについて論じられており、そうした「祈り」はしばしば効力を発することが書かれています。 ラリー・ドッシー著 大塚晃志郎訳『祈る心は、治る力』 又、 「神や霊を認めるお医者さん」矢作直樹氏の共著書『神(サムシング・グレート)と見えない世界』や 対本宗訓著『祈る力』(角川oneテーマ21)更には ノーマン・ヴィンセント・ピール著, 月沢李歌子訳『積極的考え方の力』 も参考になりそうです。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

1.奇蹟と宗教との関係はあるのでしょうか? 例えば、宗教心が厚ければ、奇蹟を起こすことは可能なのでしょうか? ○信じる力と奇跡には強い相関があります。信じる力を養うのが宗教ですから、奇蹟と宗教との関係は当然ありますね。 見えないものを強く信じることができれば、信じる力は時空を捻じ曲げる物理的力がありますので、別次元の世界、天国、地獄という世界を垣間見ることもできますし、信じることで認識力を拡大することもできますので、例えば、霊界の人々や、宇宙人の力を借りることも可能です。これらのわざが奇跡と呼ばれるものですね。要は、小さな常識から自分を解放することができれば誰にでも可能なことですね。その小さな常識を「無知の知」と呼んでますね。「無知の知」から脱出する方法が「信じる」ことですね。 ただ、何を信じるかで決まりますので、奇跡など起きないという教えを信じれば当然おきませんね。あの世もない、宇宙人もいないというのを信じれば、それもありませんね。宗教で奇跡が起きる起きないもその辺に関係しているのですね。つまり、信じる力と信仰は似ていますが厳密には違うものですね。信仰は信じ仰ぎ見るという意味ですから、「私はあなたの教えを信じます。」という謙虚なものです。ここでの「あなたの教え」に従っての信じる力ですから、奇跡になるかどうかになるわけです。教会に行っても聖書を読んでも奇跡は起きませんが、イエスの表した奇跡を強く信じるなら奇跡は必ず起きますよ。 私たちは多次元の空間のごく一部の3次元空間に住んでいるのが真実なんですよ。目の前に4次元以降の空間があるということなのでいつでも奇跡は起きているし、奇跡の中を生きているのです。それに気がつくか気がつかないかだけなんですね。高等宗教、高等哲学はその手助けをしているだけなのです。ただ向きを間違えた宗教や、教育、思想などは害あって利なしですね。

oozora2000
質問者

お礼

おお!「関係がない。」とする回答が多い中で「信じる力と奇跡には強い相関があります。」と。何と心強い! >信じる力は時空を捻じ曲げる物理的力がありますので、別次元の世界、天国、地獄という世界を垣間見るこ>ともできますし、信じることで認識力を拡大することもできますので、例えば、霊界の人々や、宇宙人の力>を借りることも可能です。 ホントですか? 「時空を捻じ曲げる」ってどこかで聞き覚えのある文句なのでググってみたら、下のなんかが出てきました。 http://kotobukibune.at.webry.info/200909/article_17.html 或いは時間や空間を超えて「思い」や「祈り」が伝わる「念波動」というのがそれに当たるのかな? http://www3.tokai.or.jp/s-w-s/kagaku3.html

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.5

1、宗教家に都合が良ければ「奇蹟」で都合が悪ければ「受難」。 津波で流された方々は全員悪人で、残った人間は一人残らず信仰心の厚い善人だけと言うならそうかも知れません。(ノアの箱舟がモロにそれですが) 2、キリスト社会での「奇蹟」は、神との直接(又は聖人を介した間接)の繋がりを担保します。 そしてそれを偶然では無く、信仰心による必然と考える訳です。 しかし現在は両宗派共、奇蹟とは距離をとる姿勢を示しており、積極的に唱えるのはカルト系に良く見られます。 3、奇蹟を意思の下で行えたら、それはメシヤの再来か悪魔の出現になるでしょうね。 所謂「おまじない」は気休め。 奇蹟は「現象」を都合良く解釈しただけ。 4、私は見えないので何とも言えませんが、一つの可能性の説明として・・・ 私は赤緑色盲で常人よりも、見える色が限られます。 つまり私にとっては皆は私よりも色に溢れた世界で生きている事になります。 「見える」人は更にそれ以上見えているのでしょうが、しかしそれはそれだけの事でしょう。

oozora2000
質問者

お礼

1.仏教には「因果応報」という考えがありますし、何度も生まれ変わって(転生して)「解脱」を目指して進むという「輪廻」思想があります。 仏教・キリスト教ともに、良い人間は報われて、極楽或いは天国に行き、悪い人間は地獄に行くと教えていますが、その詳細は不明です。 又、必ずしも良い人間だからと言って、幸せとは限らず、地震などの犠牲になることもありますし、その逆もありえます。確かに「ノアの方舟」では、義人であったノアの家族のみが救われましたが、現在のキリスト教では、人知では説明できない人間の運命を説明するのに、「天罰」という考え方を採らず、「神の摂理」と言う言い方をしています。 2.キリスト社会で「奇蹟」は、信仰心(祈り)による必然と考えられるとしたら、それは聖人レベルの極めて「深い信仰心」の結果として考えられるのだと思いますが、通常の信徒レベルでは、奇蹟にまで至るケールはあまりないと思います。 3.やはり、その人自身の力量で奇蹟を行えるというのは稀であり、神への祈り・信仰心のなせる業と考えるのが自然だと思います。それなら、自分の力量だけで、そういうことを行える霊能者という存在は何なのでしょうか? 4.確かに見えるものは人それぞれ違う、ということはあり得ると思います。

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