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《神》という言葉は 《方便》だ。

never-nessの回答

回答No.8

bragelonneさん、こんにちは。 >《神》という言葉は 《方便》である。 そうではなく、かつ、そうであったのでしょう。恐らく、「祈り、願う」対象=こころの作り出したもの=に名称をつけたものが、「そのもの」に転化し、同一視されたものだと思います。 この場合、名称=対象という関係を結びます。仏教でいう「真言」はことばです。 信じるという行為が、必然として、自分以外の場所に信じる対象を求めるからでしょう。 偶像は禁じられてもつくられる。それに向かい手を合わせる。実際に作られなくても、それがあるとされる方向を拝む。その行為や祈りの言葉が向けられる対象が「かみ」や「神」と呼ばれる。そういう機構です。 目に見えず、触れられもせず、ただ「ある」と信じ、信じ続けるために「名称」を必要とします。それが日本語では「神=かみ」であるという「音」によって言い表せる対象として広く定着してきたのだと思います。もちろん具体的暴力や示威行為が権威という鎧を纏って、上から下へと命じられた場合が多いでしょうが。 したがって、 >方便として用いているに過ぎない。 のだけれども、それが全てである、それ以外はない、そういう理解をしています。 もちろん人により、「神」「かみ」ということばの他にその実体をもとめようとし、かつその実体について、ことばを主に崇める人たちに対して、「お前たちは何も分かっていない」と云い募るのが自分の「宗教」活動であると思う人もいるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ねわーねすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  簡潔にお応えできると考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって、   >方便として用いているに過ぎない。  のだけれども、それが全てである、それ以外はない、そういう理解をしています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ○ 神は 神という言葉=文字=音韻としてのシルシであるが これは 何か別の・すなわち神本体といった存在のための《方便》でも何でもない。  つまり 神は そういう記号でありシルシとして使われているのみだ。それ以外に何もない。  こういうご見解ですよね?  ということは いわゆる無神論としての神論であり信仰である。こう捉えます。  こうです。:    神本体は有るか無いか?     ――分からない。人間には 分かるか分からないかが分からない。    それでも 神という言葉が用いられ シルシでありときに方便である。    シルシに過ぎない――つまりその背後には もう何も本体などはない――と見る向きは 《無い神》を受け留めている。有る神を信じないというかたちで 信じている(受け留めている)。    方便でもあると見る向きは そのまま背後に本体が有ると思っている。そういうかたちで 受け留めている。そういう役目を 神という言葉は その人たち――すなわち有神論者たち――には になっている。  はっきりしたと思いますが どうでしょう?  すなわち どちらの神論・信仰形態も ありであり 互いに同等である。こう考えます。

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