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《神は有る》のみや《神は無い》のみはアホバカ教

 神は 《神は有る》なる表現も《神は無い》なる表現をも 許容する。  どちらか一つに定まったとしたら それはどちらにしても 人間が勝手にそのように神を規定し創ったに過ぎない。  あるいはつまり その人間たる人が 神は何であるかが分かったと言っていることになる。  つまりは その人は神になったか もしくは神と同等の存在になったことを意味する。  あり得ない。  あり得るのは 神をその人の人間という見方に引き下ろして来たというだけである。  《かみ》は 言葉でもあるから いかようにも想像し作文することが出来る。  《神は存在する。これを信じないのはバカだ》派も《神などはいない。いるというのは阿呆だ》派もいづれも ひとしくアホバカ教である。  人間が神になったつもりでいる。  なんで神の心が人間に分かるのか。  という問いです。

みんなの回答

回答No.10

#9です。 >《非知》ということですが 《絶対》という言葉で言ったほうが分かりやすい。 >( b ) これを擬人化して 絶対者である。 > 《無限》でもいいですよ。無限に一を足そうが引こうが 無限に変わりありませんから。二で割っても三で割っても 商はやはり無限です。人間がどうにかすると言っても どうにかされる気遣いはありません。これが 性質として言えば 神です。 : いや、ですから、象徴としての神を否定しているわけではない、と申し上げたはずなんですけどねえ。 絶対的な摂理とか法則とかいうものがあることぐらいは誰も否定していないんじゃないですか? 『性質として言えば 神』ぐらいのことは無神論者だってわかっているでしょう。 しかし、象徴なり、単なる擬人化ではなく、意志を持つ存在として「人化」してしまうから問題ではないか、というのが無神論の本質的立場だと思います。 そういった牽強付会的な神解釈から、 >( g ) この創造主なる愛の神・真理の神であるなら 《すくい主》でもあるはずだ。 : といった勘違いが生まれ、自己救済としての自爆テロなども納得されたりする。 誤解していただきたくないのですが、自爆テロという行為自体の是非を論じるつもりはありません。 そうした行為の根拠となるものに、捏造があってはいかんのじゃないか、ということです。 「救い主」の存在を否定するわけではないのです。 しかし、それは、あくまで幻想としての、虚像としての救い主であるはずです。 つまり、信仰者自らが、なんの迷いもなく一途に信仰する、という、その行為そのものによって生み出されているのが「救い主」でしょう。 神がいるから信仰するのではなく、信仰するから神が生まれる。 要するに思い込みが神を生むわけですが、思い込みによって救われることはしばしば起こり得ますから、それはそれで効用があるでしょうし、とやかく言われる筋合いはないとは言えます。 そんなことは、頭脳明晰なブラジュさんだってとうにご存知のはずです。 > 神は 有る神も無い神をもふくめて 非知なるナゾとして普遍神ひとつだという了解が共有されたら どんなに世界は風通しがよくなることか。と思います。 : そんなことをしなくとも、そもそも、個の存在というものは、あくまで偶然の産物にすぎないのだ、という客観的事実を認めるだけで、風通しは大いによくなると思いますけどね。 ただ、人は不安から、自らを絶対的存在だと思わなければアイデンティティを保つことができないようにできているようで、ある程度の勇気が必要とされる点が、人類進化のネックになっているのでしょう。 「非知なるナゾとして普遍神」などとい捏造はすぐにメッキが剥がれてしまいませんか。 「非知なるもの」という概念はよくわかりますが、別にそれが「(意志を持つ)神」である必然性はないでしょう。 くどいようですが象徴としての神は、当然の如くいます(あります)。 象徴であることを否定するなら、科学によって仕組みがすでに解明された雷も神が怒って起こしていると信じてしまうことになる。 余談ですが、本気で(意志を持つ)神を信じている人たちは、よもや宇宙人の存在を否定するようなことはないのでしょうね。 明らかにこちらの確率が高いはずですから。 それとも、非思考の場の事は信じるが、思考の場のことは信じない、ということでしょうか。 基本的にわたしの理解力不足だと思いますので、水掛け論になるのかもしれませんね。 一般的には、このように考えるのではないか、というところをお示ししただけで、特に他意はありませんから、適当に聞き流していただいて結構です。     

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ いや、ですから、象徴としての神を否定しているわけではない、と申し上げたはずなんですけどねえ。 / 絶対的な摂理とか法則とかいうものがあることぐらいは誰も否定していないんじゃないですか?  ☆ そうですか。そちらの議論をしっかりと捉えられなかったみたいですね。  ただし  ★ 絶対的な摂理とか法則とかいうもの  ☆ というのも ビミョウですよ。非知や絶対や無限も 神本体を知ろうとするための補助線ですが この摂理や法則は もっと二次的な派生としての概念であるように思います。  摂理は 真理として 1.5次的かも分かりませんが。  ただし 《かみ》という言葉も あくまで神本体にとっての仮りのシルシであり補助線です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかし、象徴なり、単なる擬人化ではなく、意志を持つ存在として「人化」してしまうから問題ではないか、というのが無神論の本質的立場だと思います。  そういった牽強付会的な神解釈から、   >( g ) この創造主なる愛の神・真理の神であるなら 《すくい主》でもあるはずだ。  :  といった勘違いが生まれ、自己救済としての自爆テロなども納得されたりする。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (あ) 《人化》は 表現の問題です。分かりやすく言ったまでです。神は人ではないのですから。  (い) 天にましますわれらが父よというふうに父親として呼びかける存在とするのも 表現の問題ですし あくまで補助線としての物語です。  (う) 仮りの説明や補助線としての物語をつかまえて問題だということが 《無神論の本質的立ち場》だとは考えません。無神論の本質は 信仰であることです。あくまで派生的な事柄についての批判的な見方だとなるはずです。  (え) 神を《すくい主》として仮りに説明することから 人間の《自己救済》の話は出て来ません。自己救済が出来るのなら 神は要りません。  (お) 神をすくい主と見るのは 派生的な事柄でありそのように補助線を引いただけのお話ですが 非知の想定から派生するという限りで 《勘違い》ではないですよ。勘違いと見るから 自爆テロなどの自己救済の話が仕立て上げられて来ます。 勘違いでない時には すくい主としての神と我れとの関係が保たれます。  ★ しかし、それは、あくまで幻想としての、虚像としての救い主であるはずです。  ☆ ビミョウに違うと思います。  (か) すくい主なる神の仮象は 派生的な事柄としては想定された神に合っています。  (き) すなわち そのすくいが どれだけ経験事実となるかは まったくすでに初めから関知していない(定まらない)かたちの補助線としてあります。    (く) 《幻想・虚像》ではなく 《現実か夢かが 人間には分からない》ナゾとしてその物語が持たれています。  (け) つまり 或る人にとっては 現実となったという場合があるかも知れないのです。しかもその・その人にとっての現実は 万人にとって検証されることはないと言うべきでしょう。  (こ) 万人にとってその同じ現実が共有されたとすればそれは 信仰が多様性としてあるのではなく 一様なかたちとなって持たれているときだとなります。そういう時が来るのかどうなのか。・・・  ★ つまり、信仰者自らが、なんの迷いもなく一途に信仰する、という、その行為そのものによって生み出されているのが「救い主」でしょう。  ☆ (さ) それは 信仰者としては 特殊な事例であり おそらく例外的事態でしょう。  (し) 派生的な事柄は 仮象です。補助線です。補助線が 神本体ではないのですから その《すくい主》論が《信じる》の対象になるということは あり得ないことです。あったとしたら 例外です。つまり 信仰としてマチガイです。その《一途さ》は 何の意味もありません。  ★ 神がいるから信仰するのではなく、信仰するから神が生まれる。  ☆ (す) 《神がいる》とは だれが言ったのですか? だれがそのことを証明したのですか?  (せ) 《神が生まれる》とは どういうことですか? 神はすでに想定されています。それが あらためて生まれるという意味ですか? ――それが意味を持つのは すでに始まっている信仰が深められるという場合のことでしょうね。《神が生まれる》わけではありません。  ★ 要するに思い込みが神を生むわけですが、  ☆ (そ) という神であれば そのような頭の中のただの観念の神として 生んだと同時に死んでいるでしょうね。《思い込みやその想念じたい》は まだつづくとしても。  (た) このあたりから あなたは 神ではない神を持ち出しています。  ★ 思い込みによって救われることはしばしば起こり得ますから、それはそれで効用があるでしょうし、とやかく言われる筋合いはないとは言えます。  ☆ (ち) つまり それは 想定されるべき神ではないのですから 問題外の外の論外です ここでは。    ★ そんなことをしなくとも、そもそも、個の存在というものは、あくまで偶然の産物にすぎないのだ、という客観的事実を認めるだけで、風通しは大いによくなると思いますけどね。  ☆ (つ) 《客観》という問題があるようですが それを除いても おっしゃていることがよく飲み込めません。そんなうまい手があるのですか?  (て)  ★ 「(意志を持つ)神」  ☆ は おかしい。  ★ 象徴としての神は、当然の如くいます(あります)。  ☆ ということでしょうか。神が《意志を持つ》というのは これも派生して来た事柄です。  (と) だとすると この《象徴としての神》について もっとしっかりと定義を尋ねておくべきでした。よく分かりません。  (な) もしその象徴を――非知としての想定ではなく―― 人間が経験事象にかかわる概念として持ち何か特殊な意味合いを持たせて みんなで共有している。といったことだとすれば それは神ではないですね。おままごとの神でしかありません。  ★ それとも、非思考の場の事は信じるが、思考の場のことは信じない、ということでしょうか。  ☆ (に) 《非知なるナゾ》を受け容れたなら わが心に《非思考の庭》が成るという。そしてこれが 信仰なる動態であると。  (ぬ) 思考やその緑野と 信じるとは 関係しません。なじみません。《宇宙人》も 経験事象です。

回答No.9

#8です。 >《絶対》ということについてないがしろにし過ぎだと思います。 > つまり・つまり 人間の中には人によって《おれは何故神を信じたか その理由が分かっている》と言う人もいる。ということになります。  ただし そのことの妥当性・信憑性は 分かりません。定まりません。その人が おれは神を見たと言うということは そこまでのことは あり得ます。そして そこまでです。検証することは 出来ません。(出来るか出来ないかが 分かりません)。 : いわしの頭を神様だと言って信心するのも、神を信じるひとつの形態だ、ということですね。 まあ、それはあえて否定しませんが、そうすると、どんな宗教であっても、それに対する批判というものはできないことになりそうですね。 『そして そこまでです。検証することは 出来ません。』という非知なのですから。 > ☆ 《確率》といった経験事象は 絶対なる神になじみません。お呼びではありません。《非知》は 《未知》ではないのです。 : 丁寧に説明していただき感謝しておりますが、おそらく、このような論理が、わたしには理解できないのだと思います。 「神はいるのかいないのか」を論じているのに、「絶対なる神になじみません」のように、絶対なる神がいることを前提に話が進んでしまうわけですからね。 絶対なる神などいない、と考えている人に対して、こうした解説が意味を為すとお思いでしょうか。 > ☆ 信仰したから何がもたらされるか。その議論には関係なく 信仰は成り立つというのが 神です。 : 信じれば(神によって)救われる、というのは嘘ですか。 >実際の事情は 《有る神》派でも 世界の出来事が神の意志によると見るかどうかは 分かれます。 : 神の意志によらないと考える信仰者は、何を求めて信仰をするようになったのでしょうか。 自身の思考の停止を求めたのでしょうか。 >この非知の信仰については 有るか無いかを人が自由にえらべばよいのですが 無い場合も有る場合とまったくひとしく同等で対等であり 互いにえらぶところがありません。 : 「有る」は選ぶ必要がありますが、「無い」を選ぶ必要があるでしょうか。 「無い=考えたこともない」という場合がほとんどですから、アプリオリに「無い」と無意識のうちに認識しているのが無神論の大体ではないかと思うのですが。 「非知」というのはわかるのですが、「非知の信仰」という概念が理解できません。信仰という意志行為が、あるかどうかわからないものに対して成立するとは思われないからです。 > 非思考として――非知に向き合う我れとして――神を 無い神として受け容れた。というのが いま取り上げている無神論です。 : くどいかもしれませんが、「神を 無い神として受け容れた」という行為は意識的に行なわれるのでしょうか、それとも無意識的な営為ですか。 >この神論が分かっている人は 現在わたしの周りにいる数人ではないかと思います。 : 現在のほとんどの信仰者は、神の何たるかを知らないまま神を信じ、信仰の意味を知らないまま信仰している、ということでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ いわしの頭を神様だと言って信心するのも、神を信じるひとつの形態だ、ということですね。  ☆ 経験事物としての鰯の頭を神とするのなら それは――《非知》ではないのですから―― 要を成しません。  イワシノアタマなる神だと言うのなら ただ名前がそうであるだけですから あり得ます。  ★ そうすると、どんな宗教であっても、それに対する批判というものはできないことになりそうですね。 / 『そして そこまでです。検証することは 出来ません。』という非知なのですから。  ☆ 揚げ足取りになりますが 《宗教》となると別です。《オシエ》があるからです。オシエを神とする場合がありますから。    オシエは 人間のことばで書かれていますから それは 経験事物です。非知ではありません。  経験合理性に照らして いつでも自由に批判できます。  《どんな信仰であっても》と言いかえます。その場合は そのとおりだとわたしは考えます。  ★ 「絶対なる神になじみません」のように、絶対なる神がいることを前提に話が進んでしまうわけですからね。  ☆ 《非知=非経験の場》は 一たん想定したなら 人間はその内容をさらに概念的に詮索します。  有無を超え因果関係から自由な場は けっきょく《絶対・無限》だという概念で捉えることができるようになります。  《確率》は 経験事象なのですから 《非知なる神》にはなじみませんと言っても同じことです。  ★ 絶対なる神などいない、と考えている人に対して、こうした解説が意味を為すとお思いでしょうか。  ☆ 《絶対》という概念でも捉えられる《非知》は 人間がそれを肯定しようが否定しようが 嫌おうが好こうが 泣こうが笑おうが つねに想定されています。  《神はいない》派をえらんだということは 《非知を 無い神として(つまり無い神という神として)えらんだ》ことにほかなりません。《非知あるいは絶対・無限》が 人間の認識や判断によって消えたり現われたりするわけがありません。だから 《絶対》ということをないがしろにし過ぎです。《非知》ということですが 《絶対》という言葉で言ったほうが分かりやすい。  《無限》でもいいですよ。無限に一を足そうが引こうが 無限に変わりありませんから。二で割っても三で割っても 商はやはり無限です。人間がどうにかすると言っても どうにかされる気遣いはありません。これが 性質として言えば 神です。  ★ 信じれば(神によって)救われる、というのは嘘ですか。  ☆ それは またまた 最初の《非知=非経験の場》としての想定から派生した事柄です。  《非知=非経験の場》であるなら:  ( a ) 絶対・無限である。  ( b ) これを擬人化して 絶対者である。  ( c ) ならばそのチカラないしハタラキは 全知全能と言える。  ( d ) 真理・至高の愛・慈悲・善・正義をその属性とするはずだ。  ( e ) かくて 世界のすべてを造り得ると捉えられた。  ( f ) 造物主としてその世界創造の物語が編まれた  ( g ) この創造主なる愛の神・真理の神であるなら 《すくい主》でもあるはずだ。  つまり 神は――有る神にしろ無い神にしろ―― 人間をすくうと言っても ただちにこれを否定することは出来ない。イワシノアタマなる神の信仰が成り立つように すくいの神という見方も 全知全能なる絶対者という派生概念がみとめられる限りで――その信じる本人にとっては――成り立つと考えられます。  ★ 神の意志によらないと考える信仰者は、何を求めて信仰をするようになったのでしょうか。 / 自身の思考の停止を求めたのでしょうか。  ☆ 思考は 信仰には関係ありません。  非知なる非経験の場が想定されたかぎりで その神と我れとの関係が 自動的に成り立ちます。  《神の意志によらないと考える信仰者》――そう受け取られたとするなら 舌足らずでした。じっさいは《経験世界における出来事が 神の意志によるかどうかは 人間には分からないと捉えている信仰者》のことです。つまり 思考は 信仰と関係ありません。  ★ 「有る」は選ぶ必要がありますが、「無い」を選ぶ必要があるでしょうか。  ☆ はい。すなわち  ☆☆ 非知なる非経験の場が想定されたかぎりで その神と我れとの関係が 自動的に成り立ちます。   ☆ というとき その神ならわたしは 存在しないと見ているよとこたえたなら そういう見方をえらんだことになります。  ★ 「無い=考えたこともない」という場合がほとんどですから、アプリオリに「無い」と無意識のうちに認識しているのが無神論の大体ではないかと思うのですが。  ☆ 《考える》ことや《認識する》ことを超えて だれでも《神と我れとの関係》が自動的に成り立ちます。そう言われて そんな神は もともとないんだと答えたとき 無神論派をえらんだことになります。  ★ 「非知」というのはわかるのですが、「非知の信仰」という概念が理解できません。信仰という意志行為が、あるかどうかわからないものに対して成立するとは思われないからです。  ☆ 経験事象(つまり 可知(既知と未知)および不可知)については人間は《考えるおよび感じる》。非経験の場については それら思考と知覚を超えた関係であるゆえに《非思考》関係です。これを 《信じる》という言葉で一般に表わしています。  神ならわたしは信じていますよとか 神ねぇ そんなものはないよねとか そのように発言したとき――そういう意志行為であるゆえに―― 言ってみればすでに《有る神》派や《無い神》派であったそのことを確認したことになります。  そのときには 考えて言っていますが その考えるによって神との関係を決めたわけではないと見るわけです。神が経験事象ではないからです。ただし 先ほど概念での説明もが派生して来ていると見ましたが そのように概念を補助として用いるときには 思考をもおこなってはいます。ですが その思考はあくまで補助としておこなうものであって それが決定因になるわけではない。言わば賭けのごとく 有る派か無い派を決めているはずです。  この《賭けのごとくえらぶ》の意志行為は 一般に意識的です。  ★ 「神を 無い神として受け容れた」という行為は意識的に行なわれるのでしょうか、それとも無意識的な営為ですか。  ☆ でも すでにそれまでに潜在意識において だいたい本人としては 決めていたかも知れません。  ★ 現在のほとんどの信仰者は、神の何たるかを知らないまま神を信じ、信仰の意味を知らないまま信仰している、ということでしょうか。  ☆ 信仰としては 非思考であるゆえに 他人がとやかく言うことは出来ませんし あり得ません。おのれの信仰を――あるいは神を――説明してみよと言われたときに 説明しうる人は まれだと思います。  自己表現し得ないからと言って やはりその信仰をなじることはこれまたあり得ません。  あくまで信仰についての説明――あるいはつまり 神論―― これを人びとのあいだで共通の了解事項として 話し合って持つことは大事だと思います。  神は 有る神も無い神をもふくめて 非知なるナゾとして普遍神ひとつだという了解が共有されたら どんなに世界は風通しがよくなることか。と思います。

回答No.8

#7です。 > そこで人びとは 一方で《神はいる》をえらび〔どの名の神かをもえらび〕 他方では《神はいない――避けることは出来ないと承知したが あとはいっさいおれには関係ない――》派と成った。  つまり 無神論派は 《神はおれには関係ない》という関係を具体的に想定した。〔《絶対》とは そういう存在です〕。そういうふうに《無条件に受け容れた つまり 信じた》。 : 「信じた」理由が妥当であるか否か、が問題になると思うのですが。 「信仰」とは、 1 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること。「―が厚い」「守護神として―する」 2 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。「古典的理論への―」「ブランド―」 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/114011/m1u/%E4%BF%A1%E4%BB%B0/ ですよね。 気休めとしての効果は否定しませんし、信仰自体を否定するつもりもありません。 それは、あくまで個人の自由でしょう。 しかし、いるかどうかわからない対象に、こうした信仰を為すことが、一体何をもたらすのだろうか、と思うわけですよ。 そこに神は有るかもしれませんが人は無いでしょう。 象徴としての神ならわかりますが、実際に意志を持った神がいると信じているわけですよね? この点がどうしても理解できません。 つまり、信じている人は、ある事象に対して、それは「神の意志による」と考えると思います。 それに対して、「それはないでしょう」というのが無神論。 簡単な話じゃないですかね。 ブラジュさんは、「神の意志による」も「それはない」も証明できないのだから、どちらもアホバカだ、と言っているように見えます。 しかし、これを同列に論じるのは無理があるのでは。 たとえば、「雨乞い」に対して「効果がある派」と「効果が無い派」は同じだと言っているようなものでしょう。 雨乞いしてもしなくても雨は降るわけだから、どちらが正しいとも言えない、と言っていることになる。 問題は因果関係を想定するのが妥当か否か、ということだと思います。 何らかの効果があるから信仰するわけでしょうが、それは、あくまで信仰という行為そのものがもたらす効果に他なりません。 「神がいるから」ではないはず。 しかし、「神はいる」と信じなければ、こうした効果も期待できないわけで、その方便として「神はいる」と前提せざるを得ない。 これが実際のところではないかと思いますね。 つまり、後付けである、という点で「神はいる」は論理的に破綻した命題と言えるのではないでしょうか。 無神論は、正確に言うと、「現時点では何ら証明されていないのだから、神がいるとは思われない」というスタンスだと思います。 論理的に整合性がとれているとは思いませんか。 その意味では「神なんか絶対いない。いるなんて言ってる人、信じらんな~い」と言うのは、たしかにアホバカなのかもしれませんが、そういうタイプとは一線を画して論じられるべきじゃないですかね。 絶対いないと言っているわけではなく、いない確率が高い、ということです。 100億光年の銀河系に神様が住んでいることが判明する可能性を完全に否定しているわけではない。 それが証明されていないうちから、いると信じてしまうのはおかしいでしょう、という単純な話なんですけどね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「信じた」理由が妥当であるか否か、が問題になると思うのですが。  ☆ なりません。  《絶対》ということについてないがしろにし過ぎだと思います。    相対的な経験世界(有る無し・また因果関係で成る)      可知        既知        未知       不可知(知り得ないと人間が知ったナゾ)    絶対なる非経験の場(経験世界を超えたところとして想定)      非知(知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ)  この《非知》が 神を説明しています。  ★ 「信じた」理由が妥当であるか否か  ☆ それが分かった(既知)かまだ分からない(未知)かでもなく 数学じょうの或る種の定理にあるようなのですが 人間には分かり得ないと分かった(不可知)かでもないのが 《非知》です。  ですからその問いは 問題にならない。あるいはもっと細かく言えば神を信じた(無条件にわが心に受け容れた)理由については 妥当かどうかだけではなく なぜ・どのようにしてかも・つまり理由が何であるかも 分からないのですし 分かるか分からないかが人間には分からない。  つまり・つまり 人間の中には人によって《おれは何故神を信じたか その理由が分かっている》と言う人もいる。ということになります。  ただし そのことの妥当性・信憑性は 分かりません。定まりません。その人が おれは神を見たと言うということは そこまでのことは あり得ます。そして そこまでです。検証することは 出来ません。(出来るか出来ないかが 分かりません)。  辞書の説明や定義などは ことごとく浅はかです。どのシュウキョウも正解を言っていません。  いまのわたしの神論を参照してください。  ★ 気休めとしての効果は否定しませんし、信仰自体を否定するつもりもありません。  ☆ 《絶対なる非知》にとって(つまりその非知を心に受け容れている人間にとって) 気休めがどうのは何の関係もありません。この非知の信仰については 有るか無いかを人が自由にえらべばよいのですが 無い場合も有る場合とまったくひとしく同等で対等であり 互いにえらぶところがありません。  《絶対》と人間たる我れとの関係は そういうものです。  いままで誰も知らなかった。知っていたとしても言わなかった。  すでに言っていてわたしが知らないだけだとすれば それはそういう事情にあるということです。  じつは 似たような《神論》に出会っています。  ▲ (山本巍:神とは何か?) ~~~~~~~~~~  《神は何であるか》 人間はこれを把握できるであろうか。しかしそれは・・・《神が何であるか》という問題そのものが理解しがたいということではなかろうか。  それは理解不可能性自体が把握できないことである。  人は《神が何であるか》を掴めない。しかしその掴み不可能性自体が掴めない( incomprehensibilis incomprehensibilitas )。  (山本巍:第一章 聖書の言語宇宙――ソクラテスとイエス in 宮本久雄・大貫隆・山本巍共著:『聖書の言語を超えて―ソクラテス・イエス・グノーシス』1997  pp.105-106 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《知り得るか知り得ないかが知り得ない》と似ています。《つかめるか掴めないかが掴めない》という意味ですから。残念ながら その本には出典が書いてありませんでした。西欧の人間が書いたものだと思われますが。  ★ しかし、いるかどうかわからない対象に、こうした信仰を為すことが、一体何をもたらすのだろうか、と思うわけですよ。  ☆ 信仰したから何がもたらされるか。その議論には関係なく 信仰は成り立つというのが 神です。  (ちなみに もし観念として頭の中に描いているのではなく 普遍神の受け容れであるなら人は 元気になります)。  ★ 実際に意志を持った神がいると信じているわけですよね?  ☆ それは 受け容れたあとの神について さらに理解したいというときにいろんな説明を人間がおこなうということ。その一つとして 人格神や創造主としての神といった物語が出て来ています。それだけのことです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり、信じている人は、ある事象に対して、それは「神の意志による」と考えると思います。  それに対して、「それはないでしょう」というのが無神論。  簡単な話じゃないですかね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ その結果が簡単な話であることは そのとおりでしょう。  実際の事情は 《有る神》派でも 世界の出来事が神の意志によると見るかどうかは 分かれます。《それは無いでしょう》と見る無神論派だって 中にはおそらく《理性の狡知》といった具合いに《非知》のハタラキを見る人もいるかも知れません。いろいろでしょう。  ★ ブラジュさんは、「神の意志による」も「それはない」も証明できないのだから、どちらもアホバカだ、と言っているように見えます。  ☆ 有る派と無い派とでそれぞれ神の意志が人間や自然に介入したと見るか見ないかに分かれてつごう四派が出来ますが 問題はどれか一派が おれたちの派の見方こそが 唯一の真理だ おまえたちの信仰はマチガイだと言ったとすれば それがアホバカ教だと言っています。  ★ 雨乞い  ☆ 関係の議論も 上の捉え方でよろしいでしょうか。  ★ 無神論は、正確に言うと、「現時点では何ら証明されていないのだから、神がいるとは思われない」というスタンスだと思います。  ☆ これは 思想としての――《信じる》ではなく《考える》による経験思想としての――神論です。いまはお呼びではありません。《非知》は 《未知〔→既知〕》とは別ですから。  非思考として――非知に向き合う我れとして――神を 無い神として受け容れた。というのが いま取り上げている無神論です。  ★ 絶対いないと言っているわけではなく、いない確率が高い、ということです。  ☆ 《確率》といった経験事象は 絶対なる神になじみません。お呼びではありません。《非知》は 《未知》ではないのです。  この神論が分かっている人は 現在わたしの周りにいる数人ではないかと思います。

回答No.7

#6です。 >☆ どちらか一方に 自分の信仰としては決めてかまわないわけです。 : では、アルケーの神を信仰するのも構わないわけですよね。 それにしては、結構きびしい応答のように感じますが。 「構わない」とおっしゃるのは本音なんですか? また、無神論も信仰のひとつというお立場だと思いますが、それは詭弁でしょう。 なぜなら、神はいないと考えることに、特に何かに頼ろうとする意図は存在していないからです。 頼ろう、すがろうというのは信仰の本質だと思いますが、それが無いものを信仰としてしまうのはいかがなものでしょう。 > そのとき他の一方をアホだとかバカだとかというのは そのこと自体がアホバカ教になりますよというお話です。 : しかし、「どちらか一方に 自分の信仰としては決めてかまわない」のですよね。 であれば、自分の信仰以外のものをアホバカよばわりするのも仕方ないんじゃありませんか? 矛盾していますよ。 >神は 《神は有る》なる表現も《神は無い》なる表現をも 許容する。  どちらか一つに定まったとしたら それはどちらにしても 人間が勝手にそのように神を規定し創ったに過ぎない。 : ここもわからないのですが、 神は 《神は有る》なる表現も《神は無い》なる表現をも 許容する。 【ゆえに】  どちらか一つに定まったとしたら それはどちらにしても 人間が勝手にそのように神を規定し創ったに過ぎない。 という論理展開ですよね。 しかし、「神は許容する。」と言う時点で、すでに《神は有る》立場に立っていることになりますよ。 神はいるかいないかわからない~ゆえに、と言うのならわかりますが。 ブラジュさんご自身は信じておられるわけでしょうか。   

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ では、アルケーの神を信仰するのも構わないわけですよね。  ☆ 一人ひとりは 自分の好きな神をえらべばよいわけです。自分の神以外の神は ダメだというのはダメなわけです。なぜなら:  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  神は 《神は有る》なる表現も《神は無い》なる表現をも 許容する。  どちらか一つに定まったとしたら それはどちらにしても 人間が勝手にそのように神を規定し創ったに過ぎない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ なぜなら、神はいないと考えることに、特に何かに頼ろうとする意図は存在していないからです。  ☆ 《神はいない》という信仰をえらんだ場合のことだと思いますが それは そのように《いない神》と我れとの関係が さだまったということです。そのときに 《何かに頼ろうとする・しない》は関係ないです。  《非思考の庭》として 信仰は成ります。《神はいないと考えることに》よって成るのではありません。  《無い神と我れとの関》がさだまってから 神について・つまり無神論についていくらかのことを考えるようになってもおかしくありません。というのであって 考えること・あるいは頼ろうとすることによって信仰が成るのではありません。    もし考えることによって神が規定されたとするなら その神はただの紙に描かれた図像としての観念でしかありません。その図像があたまの中にあるという意味です。人間の思いや願いが 神に成ってしまったに過ぎません。  ★ 頼ろう、すがろうというのは信仰の本質だと思いますが、それが無いものを信仰としてしまうのはいかがなものでしょう。  ☆ ちがいます。信仰が成ったあと そうしたければ 頼ろう・すがろうとします。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  しかし、「どちらか一方に 自分の信仰としては決めてかまわない」のですよね。  であれば、自分の信仰以外のものをアホバカよばわりするのも仕方ないんじゃありませんか?  矛盾していますよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 信仰は 《信じる(無条件に心に受け容れる)》なのですから 《思考にあらず》です。好きな神をえらべばよい。  ただし 《考える》ことによってえらんだわけではない。だから 自分の神についてもほかの人たちのそれぞれの 神について何か《考えたこと》を当てはめるのは マチガイです。  《アホバカ呼ばわり》も《考えて》います。浅はかな考えでそう決めています。人間が神を決められるわけがない。  ★ しかし、「神は許容する。」と言う時点で、すでに《神は有る》立場に立っていることになりますよ。  ☆ この質問では 神学がゆるゆるであることをみとめます。すでに神論が成ったあとの段階として話をすすめています。  それでもしっかりと弁明しますが 《〈神は有る〉立場に立っていることにな》るのではなく そうではなく 《神は――有る神かまたは無い神として――想定されるものだという立ち場に立って》います。  ★ 神はいるかいないかわからない~ゆえに、と言うのならわかりますが。ブラジュさんご自身は信じておられるわけでしょうか。    ☆ 誰もが 《神と我れとの関係》として信仰を持っています。

bragelonne
質問者

補足

 はこぶるさんだったか。  神については 《想定する》ということが 鍵です。  人間としては 神を想定するという捉え方しか出来ない。  この経験世界における《ものごとが有る無し》を超えており その《因果関係から自由である》ところの《非経験の場》を想定するのです。これが 《神》のことです。  これが起こればあれが現われるとか それをすればこれが出来るとかといった因果律から自由であるなら 当然のごとく《考える》をも超えています。想像によってあたまの中に何を描いてもそれが神になる気遣いはありません。  神に頼りたい・すがりつきたい――ゆえに神があることにはならない。神に頼るのは弱い人間である――ゆえに神はないことにはならない。いづれも 想像や願いや考えることによってまるで神を人間みづからが創造しているかのようである。ちゃんちゃらおかしい。  神は それら経験思考のいっさいを超えている。非経験の場として想定する。  この非経験の場は 人間なら誰もが接している。相い対している。いやでも――なぜならこの非経験の場こそが 《絶対》であるゆえ――避けることが出来ない。  そこで人びとは 一方で《神はいる》をえらび〔どの名の神かをもえらび〕 他方では《神はいない――避けることは出来ないと承知したが あとはいっさいおれには関係ない――》派と成った。  つまり 無神論派は 《神はおれには関係ない》という関係を具体的に想定した。〔《絶対》とは そういう存在です〕。そういうふうに《無条件に受け容れた つまり 信じた》。

回答No.6

どうも。 こちらでは、このIDでお邪魔しております。 おっしゃることは、極めて正論だと思います。 たしかに、いないと証明しろ、と言われて証明できる人はいませんからね。 しかし、いるとも証明できないわけですから、これはもう、いないと判断するのが論理的ではないでしょうか。 まあ、いないと判断するのが嫌なら、少なくとも、いると判断することだけは控えるべきでしょう。 (人間のような意志を持った)神がいると仮定した場合、では、神とはどういう存在なのか、ということにならざるを得ませんが、その場合、神の意志的行為とは、どういったものになるのか、あるいは、どういったものであったのか、ということぐらいは理解させられないと、神はいると言うことはできないと思いますけどね。 いや、わたしとしてもいてくれたほうが面白いとは思うのですが、いるわけないですよね? 雷は神様が怒っている証だ、と言われるのと大差ないと思いませんか。 冒頭、どちらとも言えないというのは正論だと申し上げましたが、そうも言っていられないんじゃないですかね。 いると考えることの弊害を思えば。 いると証明できないのにいることを前提にしたまま話が進んでしまうと、矛盾が生じても、それが矛盾でなくなってしまうんじゃないですか? いないとも証明されていませんが、それを前提に話が進んでも、特に矛盾は生じないように思うのですが、どうなんですかね。     

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ しかし、いるとも証明できないわけですから、これはもう、いないと判断するのが論理的ではないでしょうか。  ☆ と一方の側に決めつけることは ご勝手ですが 哲学じょう意味を持ちません。趣味としてご自由に。  ★ まあ、いないと判断するのが嫌なら、少なくとも、いると判断することだけは控えるべきでしょう。  ☆ というふうにも決めつけることは 哲学としての理論から行けば 無理です。  ★ どちらとも言えないというのは正論だと申し上げましたが、そうも言っていられないんじゃないですかね。  ☆ どちらか一方に 自分の信仰としては決めてかまわないわけです。  そのとき他の一方をアホだとかバカだとかというのは そのこと自体がアホバカ教になりますよというお話です。

回答No.5

  > 《神は存在する。これを信じないのはバカだ》派も《神などはいない。いるというのは阿呆だ》派もいづれも ひとしくアホバカ教である。 相も変わらず無い神はあるとかそーゆーはなしに漬かってますね。 神が何かも分からんもんだからそーゆー下らん考えに明け暮れることになります。 そんな状態だからあと100年経っても答えはでんだろーよ。 しかし神については既に答えは出ているのである。 神は宇宙の法則である。 神は万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神のことであり、アルケーを除いて如何なる神も存在しません。               有瑠慶本願 南無偉大也理有瑠慶 有瑠慶此即万物根源 有瑠慶此即宇宙法則 有瑠慶此即唯一絶対 有瑠慶此即全知全能 有瑠慶此即無辺無際 有瑠慶此即恒常不変 有瑠慶此即不生不滅 有瑠慶非信非拝非願 有瑠慶可能感可能解 無一切神唯除有瑠慶 嗚呼偉大也理有瑠慶  

bragelonne
質問者

お礼

 あいかわらず原始心性から発達していないと見ます。  せっかくのご回答ですが 小学生の作文にも届かない。  あいにくでした。  でも ご投稿をありがとうございます。

回答No.4

N2のお礼で見せた、サラッと答えて見せる姿勢は上出来だ。 正直私は、君ももっとくどくどと言うと思っていた。 しかし彼らにその意味をかみしめさせるには、知的SMプレイで念を押して教える必要があるだろう。 ブチカマシであり、V字開脚だ。 あんたはまだ、三次元惑星人とか、変な茶化し方をする要素があるがね、見事なものだよ。 神秘なら、俗に幽霊体離脱が出来る私が土産話をすることもあるだろう。 その非言語思考を言葉に出来れば、理解できたと言える。 お互いにな。 私は楽しいばかりの実在する妖精の捕まえ方だよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 私は楽しいばかりの実在する妖精の捕まえ方だよ。  ☆ の話に流されるおそれが ある。効果がうすいという場合がある。  のではないだろうか。  ☆ お互いにな。  ご回答をありがとうございます。

  • heyboy
  • ベストアンサー率21% (1852/8729)
回答No.3

>☆ あり得ません。 まあ、質問者も含む自分達ではわかりません なぜなら、神様が霊とかを見ないように ロックをかけているからです。 (詳しくは仕組みは忘れましたが、 緑内障の人が視野が無くなっても 全視野見えると勘違いを起こすのは 脳が勝手に視野に補正をかけている と考えられています ですので、その補正によって カメラとかに映る霊とかは 脳では見えないようになっている と考えられております。) あくまで仮説なので主観で結構です。 ただ言えるのは自分の見えてる 聞こえているのが全てだと思わない方がいいです 所詮は肉体で見えたり聞こえる波長の領域は とても狭いですし 他の人と神経が繋がっていないから 「質問者が言葉を疑う」通り 相手が把握してない(できない)部分はありますよ。 ま、でも質問者は この質問を通して 神様気分になっているように思えますけどね。 何が言いたいかと言えば 「神を否定しているのに自分から神なろうとしている」 と言う矛盾に気がつきませんか? そもそも神と言う意味合いは 人間的には一般的には広い意味だと 思えますのでどのような言い方でも出来ますよ。 (おそらく) 愚痴かもしれませんが 神がいるいないに外れている 質問者の考え方が高等なんだと どこからそう思えるのですかね?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ なぜなら、神様が霊とかを見ないように / ロックをかけているからです。  ☆ 見たんかいな? まあ何を思っても何を言っても自由です。ただ そこまでのことです。検証しえないことを 何の但し書きもせずに 哲学の話としてよく出来るものです。  日本人の水準とは こういうものなのでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  (詳しくは仕組みは忘れましたが、  緑内障の人が視野が無くなっても  全視野見えると勘違いを起こすのは  [・・・]  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 神とは何の関係もありません。    (精確に言えば 関係があるか無いかを人間は知り得ない。つまり 知り得るか知り得ないかが 人間には知り得ない)。  ★ あくまで仮説なので主観で結構です。  ☆ 神の問題で《これこれの命題は 主観の問題だ》というのは いづれ分かるときが来るとか 同じことでひょっとしてその仮説が証明されるであろうとか そういった気遣いはいっさいありません。  いつまでも・どこまで行っても 神については人間が知り得るか知り得ないかが知り得ないことだと決まっているからです。神については そもそもそういう定義として想定したのですから。  ★ ただ言えるのは自分の見えてる / 聞こえているのが全てだと思わない方がいいです  ☆ それも 神についてはマチガイです。  《見えないもの・聞こえないもの》が 神のことだとか神にかかわっていることだとかいうことは いっさい検証することができません。いつまでも・どこまで行っても 無理です。   経験事象     可知       既知       未知     不可知(知り得ないと人間が知ったナゾ)   非経験の場(経験事象としての有無や因果関係を超えている        ところとして想定)     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  この非知が 神のことです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  ま、でも質問者は  この質問を通して  神様気分になっているように思えますけどね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう印象を持ったと言っているだけです。検証する以前の独り言です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  何が言いたいかと言えば  「神を否定しているのに自分から神なろうとしている」  と言う矛盾に気がつきませんか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いつ私が神を否定しましたか?   日本語の文章が通じていないようです。ちょうど上に神の定義を示しました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  そもそも神と言う意味合いは  人間的には一般的には広い意味だと  思えますのでどのような言い方でも出来ますよ。  (おそらく)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 無意味な感想文です。絵日記にはこう書いておこうとか。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~  愚痴かもしれませんが  神がいるいないに外れている  質問者の考え方が高等なんだと  どこからそう思えるのですかね?  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《高等》いかんの問題ではなく 世界認識とともに問い求めたいところの神論をめぐって 普遍的な認識を得ようとしたそのひとつの回答です。  この発言は 《愚痴》です。  

回答No.2

思考が哲学的だったりするより、科学的にしこうした方がいいと言う現代らしい事なのだろう。 科学万能教なら、人類はやがて神そのものに昇華するとか予言する人がいてもおかしくない。

bragelonne
質問者

お礼

 ふられおんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ひとのからだを あらゆる部位で再生させる。となれば 或る意味で人間の科学の手が神の手に取って代わったと言ってもいいのでしょう。  人間の存在そのものをも誕生させますからね。  それで 人間は神の位置に上ったことになりますか? 上り切ったことになりますか?  あり得ません。  というふうにしっかりと哲学しなければならないでしょう。

  • heyboy
  • ベストアンサー率21% (1852/8729)
回答No.1

まあ、わかる人にはわかるからです。 ちなみに宗教は違いますが 職業として巫女さんがいます。 ただ、たぶんこうであろうと言う部分もあり 完全に神の言葉を聞き取れるわけでもないと 思われますけどね。 でも、神がいるとか神がいないとかは 神さまがその人の心をそのようにしているので 逆で人間がそのように思い込まされているだけですよ。 (たぶん) まあ、見えないわかりにくいので 自我がある人間は自分が神に なったように思うのでしょうよ。 一応、神の心を知るのは 「シャーマニズム」と言う言葉で表されるので 一度は検索なり書物を見るといいでしょう。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0

bragelonne
質問者

お礼

 へいぼーいさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ まあ、わかる人にはわかるからです。  ☆ あり得ません。  もう少し細かく言えば その人の主観として たとえば《おれは神を見た》とか《神の心は これこれこういうことなのだと分かった》とか思ったりさらには言ったりすることはあります。それだけのことです。  自分の主観の中でいかに真実であったとしても その確かさが人びとに通用するかは まったく別のことです。  そもそも そういった主観における確信は 検証することが出来ないからには 議論の余地はありません。  ★ まあ、わかる人にはわかるからです。  ☆ とおのが主観として言っていることは 自由です。そして そこまでです。  ★ ちなみに宗教は違いますが / 職業として巫女さんがいます。  ☆ これも 主観の問題です。  仮りに百人のうち九十九人が そのことを認めたとしましょう。わたし一人だけが認めなかったとしましょう。けれども わたしにブがあります。なぜなら その主観の内容について検証することなど出来っこないからです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  でも、神がいるとか神がいないとかは  神さまがその人の心をそのようにしているので  逆で人間がそのように思い込まされているだけですよ。  (たぶん)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これも 主観の問題です。この場合は あなたご自身の主観ですが それを心に思うことも他人に言ったりすることも まったく自由です。そして それだけのことです。議論の余地はありません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  まあ、見えないわかりにくいので  自我がある人間は自分が神に  なったように思うのでしょうよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いくらでも思ってください。他人にも言ってください。良心・信教のあるいは思想・表現の自由のもとに 思惟も発言も自由ですが それだけのことであり そこまでです。  そもそもそれ以上のことを こういう場で平気で言うことが おかしいのです。意味がまったくありません。哲学カテが泣きます。  ★ シャーマニズム  ☆ が原始心性であることを知らないのですか? 知性以前の状態です。  何でもかでも勝手に神の心だという占いを決めつけるのです。話になりません。それは 人間以前の状態にある人間です。  早く人間になりましょう。

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