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神のにすがた

 聖書のどこかで、『人は神の “にすがた”に 創られた』 ということばがあることは間接に知っております。  これは英語など、欧州語では“image”ということばの翻訳なのですね。  そして、この“にすがた”を漢字では、“似像”と漢字表示するということも、このOKWAaveでbrageloneさんから教わりました。  いろんな表示や訳語があるのでしょうが、    1. “image”本当に“image”いうことばで、聖書の思想を表示することができているでしょうか。    2. 神の“image”とはどういうことなのでしょうか?   3. 日本語の“にすがた”や“似像”、或いは“似すがた”で聖書のいうことを表現しているでしょうか?  どうもはっきり、理解したり、観念を持ったりすることができないものですから、質問を投稿して、教えを乞うしだいです。  どうかお願い申しあげます。

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noname#80116
noname#80116
回答No.3

 krya1998さん たいへんそうですね。でも ノーベル賞学者も 風呂でころんだそうですから。いつものお元気な筆致でしたので 気軽にまいります。でもご養生してください。  どうしましょう。でっかい議論になります。しかも きわめて凝り固まったドグマです。例の《三位一体》説のことです。  1. 神は 三つの位格(ペルソナ)が 絶対として 一体となった一つの本質(存在)である。  2. 人は 一人ひとりの存在に 三つの行為能力が――相対的に・つまりは時間的な過程として―― 一体となった自然本性を持つ。  3. 三つの行為能力の――時間的な懸隔をともなった―― 一体性が すでに次元を別にしていて はなはだ不類似ながら いくらかは 神の三位一体に似ている。これが 《ひとは 神のかたちに似せて 造られた》の意味です。  4. 神の三位一体の説明には 光の喩えが 用いられる。  ・光源が 父なるペルソナの神。  ・光源からの発耀が あたかも父から生まれた子なるペルソナの神。  ・光源および発耀から発出する明るさ・暖かさが 父および子から発出する第三のペルソナである聖霊なる神。  5. 光源も発耀も明・暖も 光として 一体であるように 神の位格も 子の父と 父の子と 父および子から発出する聖霊と 三者は 一体である。  6. その一体性というのは 《絶対》としてであるゆえ 父なる神も 子なる神も 聖霊なる神も 各個が 各個と 各個は全体と 全体は各個と それぞれ 等しいというものである。  7. 無限は――絶対であるが―― それを仮りに分割すれば じつは 分割しても その各部分は やはり 無限である。こういう想定である。  8. 人は 経験的な知識や知恵を 記憶します。心の体験や あるいは 魂の発動をも 記憶します。また 記憶する前から 精神の秩序が この記憶という行為能力には あると考えられる。  9. 記憶という宝庫から 人は もろもろのことを 知解します。あたかも記憶から生まれるかのように。  10. 人の自然本性として備わる行為能力には さらに 三つ目がある。すでに 記憶するに際して あるいは そこからの知解を得るときに 何の問題についてか また その問題のために どういうことを知りたいか そういった主題や方法の意識をもって はたらく行為能力。これは 意志と呼ばれる。  11. ここで 早道をすれば 単純な類似関係として 《記憶》が 父なる神に 《知解》が子なる神に 《意志》が聖霊なる神に それぞれ 比べられるという。  12.意志は 意志行為として 社会にあって 相手がいる。相手との関係が 具体化して 交通し合うとなれば そこに 方向性と向きとが 決まる。こういった関係性を 一般的な意味での愛と言う。  13. つまり 意志は 個なる独立存在として 自由意志であり ひととの関係性において 愛である。聖霊は 父と子から発出する明るさや暖かさである。この《人の意志》と《神の位格としての聖霊》との類似は その内実が 《愛》である。  14. 意志=愛は 家族にあって 愛。組織にあって 経営。社会にあって 自治・共同自治。  15. 社会全体としては 記憶が 法秩序。知解は 経済。意志は 政治。  16. 三権分立としては 記憶が 司法。知解は 立法。意志が 行政。つまりは 三権分立も 三権の分業かつ協業としての一体性を持つと考えられる。つまり 《似像》であると思われる。  このような人間と社会の成り立ち つまりは全体として 世界の構造だという理論です。

krya1998
質問者

お礼

brageloneさん ありがとう御座いました。 ちょいとした顔面の怪我で、昼間、近所の医者に行きましたが、夜間に出血がひどくなり、救急の診療を受けました。 暖かいお見舞いのお言葉、ありがとう。 ノーベル賞の方の引き合いは恐れ多いことであります。 大分軽くなってきましたが、数十分ごとの発作の際は、とても意気地なしになります。 人はいろんな事情があるものだと、しみじみと、たいへんな方々を思いやっており、元気で同情の不十分であった、今までの不遜を反省しております。  允にいい経験です。この教えを忘れないようにしたいと存じます。  ありがとう御座いました。

krya1998
質問者

補足

 brageloneさん、brageloneさんの真髄ともなるお話をありがとうございました。  “神の似像”ということばは、門の外から聞き知っていた言葉でして、安直な質問を投稿して、brageloneさんやwbhuntさんのご回答を賜り感謝しております。それにしても、ご紹介のHPは異言語であり、深く専門の知見を総合的に述べるものでして、当然ながらまだ十分読むことはできてはおりません。  創世記(1955)の第一章の第二十六節では、“われわれ”という言葉がでてきて戸惑いましたが、brageloneさんの三つの位格(ペルソナ)を参考にしながら、理解に努めます。三つの位格(ペルソナ)のご説明は、聖書のいろんなことを理解するためには大層役に立つお話です。  意志と愛、社会や家庭の成り立ち、国家権力機構の三権性についても、そういうものにも現れている性格なのかと存じました。  神による創造、似像、そしてこの現れて見えている世界の関係についての、brageloneさんとご紹介のHPでのご説明をその基盤から理解することは、まだ難しいので、これから、また何度も立ち返りながら、何度も読み返して、自分でも精進や実践をし、いろんな経験の中で、独断にならないように、思いを形成していけたらと存じます。  そういうふうに理解に努めようとするものです。  ですから、無論、こういうことを物象(物証)を以って、物象(物証)の中で、理解・把握しようとする人が求める理解ではない理解となるのでしょうね。  何かを現象や現出させて、判ってもらうことは無理でしょうし、自分もそんな理解を、求めていくことにはならないと存じます。  でも独断にならないように、背伸びしたり、無理に解釈しないで、だんだんにわかるようにしたいと存じます。  ありがとう御座いました。

その他の回答 (2)

noname#80116
noname#80116
回答No.2

 krya1998さん krya1998さんご自身のねらいが どこにあるか 測りがたく 参照サイトをお示しするにとどめます。  なお 《創世記》1:26-27に出て来ます。  ● God, Image Of:http://www.blueletterbible.org/search/Dictionary/viewTopic.cfm?type=getTopic&topic=GOD,%20IMAGE%20OF&DictID=4#ISBE  :《神のにすがた》の意味を 旧約・新約を通じての用例を添えて 説明しています。  ● tselem (image のへブル語原語):http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?strongs=H6754  :この原語について 説明しています。  :すべての用例とその原文の英訳が 分かります。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     image     a) images (of tumours, mice, heathen gods)     b) image, likeness (of resemblance)     c) mere, empty, image, semblance (fig.) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     ●  Image:http://www.blueletterbible.org/search/Dictionary/viewTopic.cfm?type=getTopic&topic=Image http://www.blueletterbible.org/search/lexiconc.cfm?Criteria=image&st=any    :英文で《 image 》として訳される語の使用例とその意味を網羅しています。

krya1998
質問者

お礼

 brageloneはまた私の質問にお教えをくださいました。  ありがとうございます。私事、昨晩、齢もあって外科的なことで、救急車で運ばれ、今朝帰宅。睡眠もしていなく、少し苦しいので、とりあえず、心からの感謝も申し上げます。  よく勉強して、再度お教えを乞いたいと存じます。  私の意図ってないのです。つまり聖書での似像(漢字入力しております)って、人間の真なる存在の仕方として、どういう意味に理解すればいいのかな、と。神ではない、似像。似ているが違う。  違うとは、なんなのだろうかな。というまぁこねくり回しみたいで、実践や信仰に遠いかなと存じます。  でもお教えを頂きたいと存じ、質問させていただきました。  ありがとう御座います。

krya1998
質問者

補足

 brageloneさんありがとう御座いました。  お礼欄では敬称をつけないで、失礼しました。  やはり異言語ということと、自分の勉強している教えの論理やタームとも異なりますので、とても理解に時間がかかります。  ありがとう御座いました。

  • wbhunt
  • ベストアンサー率35% (287/802)
回答No.1

元々旧約聖書は「旧ヘブライ語」で、新約聖書は「ギリシャ語」で 書かれていました。 それぞれが、翻訳を繰り返していくうちに、「元々のニュアンス」を 留めていない可能性が高く、(要は、翻訳された場所・時期、時代背景 や翻訳者の感情・考え方) 質問者さんが、「どの時代の・どの聖書と比べて」によるかと思います。 これは、個人的な意見ですが、日本語の「にすがた」は高貴・崇高な ものに当てはめるものですので、英語の“image”よりは、よほど ぴったりくる表現だとは思いますが。。

krya1998
質問者

お礼

 早速ありがとう御座いました。  なにとぞよろしくお願い申しあげます。

krya1998
質問者

補足

 早速にありがとう御座います  ☆ 「どの時代の・どの聖書と比べて」   ・質問者:実はそれほどしっかりと考証的なことをかんがえておりませんでして、一般に(なんていうと余計質問になりにくいのですが、)『キリスト教の教理とか教えにおいては』ということであります。  そしてまた、wbhunt様がじゃぁこの辺りの時代や、時期、場所などについて、一つ教えてあげよう、ということでも、無論結構であります。  すみません、どうかよろしくおねがいします。

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  • 何と言う《神は死んだ》のか?

     主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをした我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思いますが 割愛します。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

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    私はプロテスタント系求道者です。 三位一体論について観念的な理解はしています。 聖書的にもその萌芽が見られますが… 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、 あなたがた一同と共にあるように。」(IIコリント13:13)、 「キリストは、神の身分でありながら、 神と等しい者であることに固執しようと思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、 あらゆる何まさる名をお与えになりました。」 (フィリピ 2:6-9) しかし、「三位一体」という言葉はなく、 ニカイア信条の中で父と子は「同質」(ギリシャ語:ホモウーシオス) であるという、聖書にない言葉が使われた、ことはご存知かと思います。 プロテスタントが標榜している「聖書のみ」の立場からは、とても苦しく、 三位一体を認めない宗派の信者が訪ねてきたとき、この点を突かれ、 私は答えに窮しました。 その宗教団体の教義では、「イエスは神ではなく『神の子』である」と。 私が次のように自説を展開しました。 「それでは、イエス・キリストは、神でもなく人間でもなく、 御使いのような中途半端な存在になる。 そのどんな業も、全て父に帰せられて、 イエスは父の補完的存在に成り下がってしまう。 キリスト教を標榜する限り、 イエス・キリストを神と同等に信仰しなければ、 旧約すなわちユダヤ教へ回帰してしまう。」 しかし、「聖書にそう書いていないですから。 私たちはそう(イエスは『神の子』であると)信じていますから。」 と開き直られました。 そんな宗教団体は、明らかにおかしい論理も展開しているので、 無視するのが賢明だと思いますが、何か釈然としません。 説明が長くなりましたが、 聖書を根拠にして三位一体論を展開できませんか? 私は、口語訳、新共同訳、Greek New Testament、BHS、LXXを持っていて、 時間が掛かりますがギリシャ語もヘブライ語も読めます。 しかし、神学校を上がったわけでもないので、神学には全く明るくないです。 お勧めの神学書があれば、ご紹介して頂きたいのですが。

  • 神の言葉なる聖典も 言葉として 偶像ではないのか?

     (1) 組織宗教の場合に 組織上の権限〔を持つ人間の意向〕が各人の信仰にまで及ぶという――それによって信教・良心の自由を侵すおそれがある――問題があります。具体的には オシエが――それはいかに神の言葉だと言っても 人間の言葉で自己表現された文章であるからには神ではなく信じるものでもなくただ考えるものであるのに――信じるように説かれたりするという問題です。  (2) ここでは 偶像崇拝を禁じるというオシエについて考え問います。  (3) 旧約聖書には こうあります。  ▲ (出エジプト記 20:4-5) ~~~~~~~~~~~  あなたはいかなる像も造ってはならない。  上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。  あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですけれども このオシエは 人間の言葉――声および文字――で発せられ書かれているからには ただの偶像ではないのか? 地上のものであり そうとすれば被造物なのではないか? そのような言葉という素材で表わされたオシエを神の言葉として守ることは 偶像崇拝になるのではないか? こういう問いです。  (2) 新約聖書にも 偶像崇拝を否定する記事が――パウロの書簡などに――ありますが 教会も カトリックもプロテスタントもすったもんだしながら 特に偶像が問題ではないというところに落ちついたと言ってよいのでしょうか。  (3) イスラームにおいては 読誦されるアラビア語によるクルアーンが 神の言葉そのものであると説かれます。その根拠についての説明があります。  ▼ (ヰキぺ:クルアーン) ~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%B3  § 2 特徴  § 2.1 イスラーム教における位置付け  (3-1) クルアーンは、神がムハンマドを通じてアラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉そのものであるとされ、聖典としての内容、意味も、言葉そのものも全てが神に由来する。  (3-2) クルアーンが神の言葉そのものであることを信じることはイスラーム教の信仰の根幹である。  (3-3) イスラーム神学では、クルアーンは神の言葉そのものである以上、神に由来するもので、神の被造物には含まれない。  (3‐4) クルアーンを記した文字や本、クルアーンを人間が読誦したときにあらわれる音は、被造物である人間があらわしているので被造物の一部であるが、その本質である言葉そのものは、本来被造物の世界に存在しない神の言葉である。  (3‐5) 従って、神の言葉であるクルアーンが地上に伝えられていることそれ自体がムハンマドに対して神がもたらした奇跡であると主張される。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (4) さて どうでしょう?   (4‐1) すなわち いかにアラビア語と言えども言語として被造物の一部であってその限りで偶像をつくりうる素材なのであるが そのような偶像要素としての人間の言葉を用いて著わされたクルアーンは しかしながら 被造物ではなくなる。ということか?  (4‐2) 被造物ではない神の言葉が 被造物という素材によって現わされたのではある。  (4‐3) 被造物であるというのは 偶像もしくはその要素だということ。ということは クルアーンは 偶像であって偶像ではない。  (4‐4) さて どういうことでしょう?