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量子相互作用は 言葉・貨幣・法律にまで及ぶか?

  (α) 量子相互作用は 言葉・貨幣・法律にまで及ぶか?  これを言いかえるなら   (β) ことば・貨幣・法律は 階層現象をさかのぼって量子の世界にまで到るか?  これは どうも人間存在という段階において断層があるのではないか?  というのも   (γ) モノと対応していると考えられるのは 身と心なる存在までであって 身と心なる人間存在が 言うなれば共生性――社会的動物であること――としてそなえているものは ヒトに独自の存在の活用術(またその発明品)であると考えられる。つまり ことば・貨幣・法律がである。   (δ) だとすると 自然本性としての身と心――感性および理性――のほかにさらに ヒトとしての独自の自然本性として いまの社会的共生性がある。のだろうか?   (ε) しかもこれら縁起共生のための文明の利器であるコトバ・貨幣・法律は すでに人間のワタシが生まれる前から社会にあったとすら思われるほど自然生成的なものである。そうすると ひるがえってあたかもモノとして量子相互作用に遡れるかにも思われる。   果たしてどうか?    

みんなの回答

回答No.2

有限な存在性は、本質的確定化によって無限発散(=無)に 還元される原理性を把握せずに、経験的に階層現象を表面 的に捉える事(量子性の潜在化)によって生じている。 つまり、間違った分だけ生じているのだ。 それは貨幣や言葉、あるいは宗教といった方便=“経験的に うまく行くために作り上げた社会的虚構”も同じだ。 量子性に基づいて、自我の相補として時空を感じる事ができ れば、その自律的社会行動(物理的相補性~環境との物質 循環~社会の自覚化(博愛))において、お金も宗教も不要だ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづ  ★ 量子性の潜在化  ☆ という規定において    (α) 量子相互作用は 言葉・貨幣・法律にまで及ぶか?  の問いについては 《潜在化》されたかたちで及んでいる。と受け取りました。  (ちなみに このように潜在化かどうかを別として マクロの通常の世界とミクロの量子の世界とが――不確定性原理によってでしょうか――断ち切れつつ しかも全体世界としてつながっているという捉え方として マクロとミクロとの相補性と言うのだと ddtddtddt さんからはおそわりました)。  さて なおさらに前提事項の処理ですが:  ★ ~~~~~~~~~~~~  それは貨幣や言葉、あるいは宗教といった方便=“経験的に  うまく行くために作り上げた社会的虚構”も同じだ。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というとき まづ なぜ《法律》を除外されたのかはよく分かりませんが 保留とします。  そしてちなみに《組織宗教》が オシエという思考の問題となるものを神としていただく(オシエを至上命令とする)なら そもそも宗教というのは 自己矛盾である。神を信じるというところから得られたヒラメキなどの観想(テオーリア)を オシエとしたものを どう血迷ったのかご丁寧にも《信じる》という矛盾を起こしている。という意味であり この一事によって 宗教はその成立じたいが精神錯乱であると言っています。  つまり 《社会的虚構》だというよりは 虚構をつむぐ以前に《考える》と《信じる》とを区別できない精神の錯乱状態にあるという批判です。  つまり このご議論の中で 《宗教》は論外とします。  さて 《言葉と貨幣》なる《社会的虚構》について問います。  かんたんを旨とすべしとはよく言われますので ここではそう出来ると思いましたからそうしたいと思います。(長いですが 考え方は かんたんです。《社会的な共生性》を 量子性とからめて どう扱うかです)。  わたしの問いは こうです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  量子性に基づいて、自我の相補として時空を感じる事ができ  れば、その自律的社会行動(物理的相補性~環境との物質  循環~社会の自覚化(博愛))において、お金も宗教も不要だ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 1. 宗教は 論外です。  2. おカネは ひとの社会的な共生性として 意志疎通をおこなうとき 経済生活において役に立ちます。次に述べるように その価値測定の手段としてです。  3. その大きくコミュニケーションの手段として つぎに問いたいと思う《ことば》が 重要なものとしてあるところにおいて 特に経済的な価値を表わすために考案されたその測定の基準と言いますか単位と言いますかであると考えられます。  4. つまりは おカネにおいて 人びとは言語交通の中で 生活上の交易のためのモノなどについては すなわち経済的な価値を取り決め この貨幣の示す価値によって 民主的な等価交換を実現しようとしている。  5. この測定単位であることは――大きな視点に立てば ひとつの仮象でありましょうが それでも――有益な社会装置であるのではないか?  6. そこまでは マクロの通常の世界におけるひとつの現実だと見るのですが そのとき《量子性は 潜在している》とまづ受け取ったわけです。  7. 《ことば》は どうでしょう?  8. というのは おそらく人間がコトバを話し意志疎通をおこなうというその行為は そこにも――人間存在そのものがそうであるのと同じように―― そこに量子性が潜在していると見ても それほど違和感がないほどなのですが それでもこのコトバ自体 これには 量子性との関係があるのかどうか?   9. おそらく貨幣とともにコトバも 人間がおのづからのようにしてでも持つに到ったものであり 一方で単純に人間が作ったものだと見るのなら やはり潜在する量子性にまでさかのぼれるかと思われますが 他方で あたかも共生性という自然本性の中から たとえば曲りなりにでも近親婚を禁忌とするような交通の取り決めを普遍的に持ったのと同じように 表出して来たものを言語として持つに到った。――こう見るとき どう扱うか?  10. 経済生活の上でという前提がありますが 貨幣は 民主的な等価交換のための――つまりは その意味で《共生性》なる自然本性が機能していると見られるような――社会的な仕組みである。また 言語は その貨幣のハタラキをも大きくつつむような・やはり共生性全体のための社会装置である。  11. 量子性は そういう共生性を内容として持つか? 持つなら マクロの世界において それは潜在性としてではなく すでにほとんど顕在するかたちで つながっている。  12. もし持たないなら 量子性は 潜在もしていないと見られるのかも知れない。  どうでしょう?

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

B様、こんばんは。 >「社会的共生性」 はいはい(「そんなもん、ありゃしねー」、か) >[しかもこれら縁起共生のための文明の利器であるコトバ・貨幣・法律は すでに人間のワタシが生まれる前から社会にあったとすら思われるほど自然生成的なものである。」 へえ、それは、どうかねえ。 (日本は、歴史的に、それらを輸入しまくった経緯が、あるんじゃない)

bragelonne
質問者

お礼

 そうでしょうか。  ありがとうございました。

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      ☆☆(問い) ~~~~~~~~~~~~~~   (α) 量子相互作用は 言葉・貨幣・法律にまで及ぶか?  これを言いかえるなら   (β) ことば・貨幣・法律は 階層現象をさかのぼって量子の世界にまで到るか?  これは どうもそうではなく(到ることなく) 人間存在という段階において断層があるのではないか?  というのも   (γ) モノと対応していると考えられるのは 身と心なる存在までであって 身と心なる人間存在が 言うなれば共生性――社会的動物であること――としてそなえているものは ヒトに独自の存在の活用術(またその発明品)であると考えられる。つまり ことば・貨幣・法律がそれである。   (δ) だとすると 自然本性としての身と心――感性および理性――のほかにさらに ヒトとしての独自の自然本性として いまの社会的共生性がある。のだろうか?   (ε) しかもこれら縁起共生のための文明の利器であるコトバ・貨幣・法律は すでに人間のワタシが生まれる前から社会にあったとすら思われるほど自然生成的なものである。そうすると ひるがえってあたかもモノとして量子相互作用に遡れるかにも思われる。   果たしてどうか?      ◆(回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  有限な存在性は、本質的確定化によって無限発散(=無)に  還元される原理性を把握せずに、経験的に階層現象を表面  的に捉える事(量子性の潜在化)によって生じている。  つまり、間違った分だけ生じているのだ。  それは貨幣や言葉、あるいは宗教といった方便=“経験的に  うまく行くために作り上げた社会的虚構”も同じだ。  量子性に基づいて、自我の相補として時空を感じる事ができ  れば、その自律的社会行動(物理的相補性~環境との物質  循環~社会の自覚化(博愛))において、お金も宗教も不要だ。  ☆☆ (問い‐2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  まづ  ★ 量子性の潜在化  ☆ という規定において    (α) 量子相互作用は 言葉・貨幣・法律にまで及ぶか?  の問いについては 《潜在化》されたかたちで及んでいる。と受け取りました。  (ちなみに このように潜在化かどうかを別として マクロの通常の世界とミクロの量子の世界とが――不確定性原理によってでしょうか――断ち切れつつ しかも全体世界としてつながっているという捉え方として マクロとミクロとの相補性と言うのだと ddtddtddt さんからはおそわりました)。  さて なおさらに前提事項の処理ですが:  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それは貨幣や言葉、あるいは宗教といった方便=“経験的に  うまく行くために作り上げた社会的虚構”も同じだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というとき まづ なぜ《法律》を除外されたのかはよく分かりませんが 保留とします。  そしてちなみに《組織宗教》が オシエという思考の問題となるものを神としていただく(オシエを至上命令とする)なら そもそも宗教というのは 自己矛盾である。神を信じるというところから得られたヒラメキなどの観想(テオーリア)を オシエとしたものを どう血迷ったのかご丁寧にも《信じる》という矛盾を起こしている。という意味であり この一事によって 宗教はその成立じたいが精神錯乱であると言っています。  つまり 《社会的虚構》だというよりは 虚構をつむぐ以前に《考える》と《信じる》とを区別できない精神の錯乱状態にあるという批判です。  つまり このご議論の中で 《宗教》は論外とします。  さて 《言葉と貨幣》なる《社会的虚構》について問います。  かんたんを旨とすべしとはよく言われますので ここではそう出来ると思いましたからそうしたいと思います。(長いですが 考え方は かんたんです。《社会的な共生性》を 量子性とからめて どう扱うかです)。  わたしの問いは こうです。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  量子性に基づいて、自我の相補として時空を感じる事ができ  れば、その自律的社会行動(物理的相補性~環境との物質  循環~社会の自覚化(博愛))において、お金も宗教も不要だ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 1. 宗教は 論外です。  2. おカネは ひとの社会的な共生性として 意志疎通をおこなうとき 経済生活において役に立ちます。次に述べるように その価値測定の手段としてです。  3. その大きくコミュニケーションの手段として つぎに問いたいと思う《ことば》が 重要なものとしてあるところにおいて 特に経済的な価値を表わすために考案されたその測定の基準と言いますか単位と言いますかであると考えられます。  4. つまりは おカネにおいて 人びとは言語交通の中で 生活上の交易のためのモノなどについては すなわち経済的な価値を取り決め この貨幣の示す価値によって 民主的な等価交換を実現しようとしている。  5. この測定単位であることは――大きな視点に立てば ひとつの仮象でありましょうが それでも――有益な社会装置であるのではないか?  6. そこまでは マクロの通常の世界におけるひとつの現実だと見るのですが そのとき《量子性は 潜在している》とまづ受け取ったわけです。  7. 《ことば》は どうでしょう?  8. というのは おそらく人間がコトバを話し意志疎通をおこなうというその行為は そこにも――人間存在そのものがそうであるのと同じように―― そこに量子性が潜在していると見ても それほど違和感がないほどなのですが それでもこのコトバ自体 これには 量子性との関係があるのかどうか?   9. おそらく貨幣とともにコトバも 人間がおのづからのようにしてでも持つに到ったものであり 一方で単純に人間が作ったものだと見るのなら やはり潜在する量子性にまでさかのぼれるかと思われますが 他方で あたかも共生性という自然本性の中から たとえば曲りなりにでも近親婚を禁忌とするような交通の取り決めを普遍的に持ったのと同じように 表出して来たものを言語として持つに到った。――こう見るとき どう扱うか?  10. 経済生活の上でという前提がありますが 貨幣は 民主的な等価交換のための――つまりは その意味で《共生性》なる自然本性が機能していると見られるような――社会的な仕組みである。また 言語は その貨幣のハタラキをも大きくつつむような・やはり共生性全体のための社会装置である。  11. 量子性は そういう共生性を内容として持つか? 持つなら マクロの世界において それは潜在性としてではなく すでにほとんど顕在するかたちで つながっている。  12. もし持たないなら 量子性は 潜在もしていないと見られるのかも知れない。  どうでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ご教示ください。

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  • この言葉は、誰の言葉ですか?

    「人間はバラバラで心の通じない存在と思うことが、悲しみを招く、」 とか、そういう言葉は誰の言葉ですか? 後半部分はあいまいですけど、どこかで聞いたことがあります。

  • 《霊:非知なるナゾ》は 肉(身および心)と込みだ

     (α) 《非知》なるナゾとしての霊は われわれ人間の肉――すなわち身および心から成る自然本性――とつねに一体として捉えるのでなければ 意味がない。  (β) 肉を離れた霊は――つまり死んでからの存在は―― どうでもよい。と考えるほかない。  (γ) 《復活》は いま・ここなる経験世界においてでなければ 意味がない。と言おうとしています。  (δ) 推論ないし論拠は ほとんどありません。そうでなければ 考える必要がなく どうでもよい話題でしかなくなる。というのみです。  どうでしょう。