言葉・貨幣・法律は量子論的世界像の外にある?

このQ&Aのポイント
  • 言葉・貨幣・法律は経済生活において役立ち、経済的な価値を表現する手段として使用されている。
  • 言葉や貨幣は人間の存在そのものに量子性が潜在していると考えられるが、言語自体には量子性との関係はないようだ。
  • 経済生活において貨幣は共生性を持つ社会的な仕組みであり、言語は共生性全体のための社会装置である。法律は言語交通を円滑に進めるための基礎となる仕組みである。量子性は社会における共生性の内容として顕在する可能性がある。
回答を見る
  • ベストアンサー

言葉・貨幣・法律は 量子論的世界像の外にある?

 【Q:量子相互作用は 言葉・貨幣・法律にまで及ぶか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8913071.html  という質問を承けた問いです。    言葉・貨幣・法律は 量子論的世界像の中にはない。はみ出している。のか? という問いです。  1. おカネは ひとが社会的に縁起共生して生活しているときそこで意志疎通をおこなうにあたって 経済生活において役に立ちます。次に述べるように その価値測定の手段としてです。  2. その大きく広く捉えたコミュニケーションにおけるその手段の一つとして つぎに問いたいと思う《ことば》が 基本的に重要なものとしてあるところにおいて 特に経済的な価値を表わすために考案されたその測定の基準と言いますか単位と言いますかであると考えられます。  3. つまりは おカネにおいて 人びとは言葉によるマジハリの中で 生活上の交易のためのモノなどについては すなわち経済的な価値を取り決め この貨幣の示す価値によって 互いに民主的で自由な等価交換を実現しようとしている。  4. この測定単位であることは――大きな視点に立てば ひとつの仮象でありましょうが それでも――有益な社会装置であるのではないか?  5. そこまでは マクロの通常の世界におけるひとつの現実だと見るのですが そのとき《量子性は 潜在している》とまづ最初には 受け取っていたわけです。どうも そうではないようにも思われて来ました。つまりは 言葉や貨幣の世界には 量子性はそもそも潜在も顕在も関係ないというように考えられて来ます。  6. 重ねて考えるに 《ことば》は どうでしょう?  7. というのは おそらく人間がコトバを話し意志疎通をおこなうというその行為は そこにも――人間存在そのものがそうであるのと同じように―― そこに量子性が潜在していると見ても それほど違和感がないと思ったわけでした。ですが それでもこのコトバ自体には 量子性との関係はないようだ。・・・   8. おそらく貨幣とともにコトバも 人間がおのづからのようにしてでも持つに到ったものであり 一方で単純に人間が作ったものだと見るのなら やはり人間という存在(身体)に潜在する量子性にまでさかのぼれるかと思われました。そして 他方で あたかも社会的な共生性という自然本性の中から たとえば曲がりなりにでも近親婚を禁忌とするような交通の取り決めをじんるいは普遍的に持ったわけですが それと同じように 自然に表出して来たものを 音声の仕組みなるかたちにおいて言語として持つに到った。――こう見るとき どう扱うか? という見方を問うていたのでしたが。  9. 経済生活の上でという前提がありますが 貨幣は 民主的で自由な等価交換のための――つまりは その意味で《共生性》なる自然本性が機能していると見られるような――社会的な仕組みである。また 言語は その貨幣のハタラキをも大きくつつむような・やはり共生性全体のための社会装置である。法律は これら言語交通を滞りなくすすめるための基礎としての仕組みであり またその基礎を維持するための補助装置のような取り決めだと考えられます。  11. 量子性は そういう社会における人びとのマジハリとしての共生性を内容として持つか? 持つなら マクロの世界において それは潜在性としてではなく すでにほとんど顕在するかたちで つながっている。もし持たないなら 量子性は 潜在もしていないと見られるのかも知れない。  言葉・貨幣・法律は 量子論的世界像の中にはない。はみ出している。のか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.20

 こんばんは  すみません。舌足らずでした。別段難しくしたつもりはございませんでした。  シュレディンガーの猫も、思考実験に限らず、現実の世界にも適応が可能のようです。 ”発表された論文の抄録 (abstract)は、次のような文章で結ばれている。 「この思考実験は元来、量子力学をマクロな物体に応用することの馬鹿馬鹿しさを伝えるよう意図されたものだが、今回の実験や関連した研究などからは、(シュレーディンガーの猫状態は)あらゆるスケールで当てはまるものであるという可能性が示唆される」” 引用: マクロな「シュレーディンガーの猫状態」生成に向けた重大な一歩 - カナダ研究 http://blog.livedoor.jp/dogon23/archives/29824751.html > 量子の世界がマクロの世界にかかわる場合が あるかも知れないが それは 限られた場合である。  あとは 一たん切れている。つまりミクロの世界が マクロの世界に直接にはたらきを及ぼす場合は 限られている。  ただこのように言う場合にも この《一たん切れている》というのは 量子の世界が マクロの世界の基礎になっているということに変わりはない。――と見るのがよい。  はい。その通りかと考えております。 > 人間が 身と心とから成り 身が モノで出来ているからには 量子の世界がその基礎となっていると見ざるを得ないのだと。  マクロの場合ですと、ミクロでの量子論的事象(量子の”ゆるぎ”などの現象です)が無視できるようになる、と思っています(ミクロの世界では量子的ゆらぎは大。一方、マクロでは限りなく小のような関係です)。  なお、相対論と量子論を統一を試みる量子重力理論なるものがあるそうですが、まだまだのようです。  すみません。お役に立てず・・・  どうもお粗末さまでした。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ シュレディンガーの猫も、思考実験に限らず、現実の世界にも適応が可能のようです。  ☆ ええ。電気製品 いや 電子製品に応用されているとか。    ★  マクロの場合ですと、ミクロでの量子論的事象(量子の”ゆるぎ”などの現象です)が無視できるようになる、と思っています(ミクロの世界では量子的ゆらぎは大。一方、マクロでは限りなく小のような関係です)。  ☆ ああ ええ。《限りなく小》ということは げんみつに言えば《切れていない》となりましょうか。  ★ なお、相対論と量子論を統一を試みる量子重力理論なるものがあるそうですが、まだまだのようです。  ☆ 研究がすすむとよいと思います。  ▲ 戸本誠:「ヒッグス粒子の見つけ方」  https://aichi-science.jp/1790    去年の秋 この講演に行きました。この人は 名古屋大学准教授で じっさいにフランスの CERN で実験に参加した人です。  図示した実証も見せてもらいましたが いかんせん 理解力がまだまだです。少しづつでも前へ進みたいと思います。  ありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 ▽ マクロな「シュレーディンガーの猫状態」生成に向けた重大な一歩 - カナダ研究  http://blog.livedoor.jp/dogon23/archives/29824751.html  ☆ なる情報をおそわりました。  これは じっさいにミクロがマクロに現われているかを探る実験の報告しているようですね。

その他の回答 (19)

回答No.19

昨晩はあまりにもやり過ぎだったね。 謝っとくよ。 他者に望まれるのが欲望。 何か称賛されそうな奇麗事をかくと欲望が募って不快な陶酔に溺れるんだ。 朝になっても二日酔い気味だよ。 悪かったよ。

bragelonne
質問者

お礼

 まあ まあ まあ。  あなたの文章に反応する人もいるってことだと思う。  どの道を通っているかによって 人それぞれだと考えられる。  ってとこかな。

回答No.18

> 何もしない戦い。 オカマのくせに処女のごとしだよ。 生きることは生かすことだと戦わないのだよ。 黒き明星の悪魔の代弁が無い。 闘争をかいくぐった傷跡が君を臆病にしているのだろう。 まあそれでもいいよ。 君の君なりの取り組みは、まるっきり私は受け入れるよ。 屍を蘇生させることが君にもできるか? 安心して見守ろう。 期待するつもりでまかせようとは思わない。 これは欲望を産み、君を私の意思のままには仕様としない事だ。 君らしく振舞う事を応援しよう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  分かりづらいのですが こちらの言い分を述べます。  《たたかい》なのだから 何もしないと言っても 結果が出るはずです。たぶん大体において 出ます。だから その結果で 判定することができる。のではないか。  とは 考えられますね。

回答No.17

 こんばんは > 言葉・貨幣・法律は 量子論的世界像の中にはない。はみ出している。のか?  既に答えは出ているかと思いますが、小見を述べさせていただきますと、やはり、”はみ出している”と考えられます。  シュレーディンガーの猫のように、マクロでもその可能性を示唆したものもありましたが、現実的には語句限られた現象と見なせると考えております。  たとえば、「量子的世界ではあらゆるものが曖昧で,結果は確率的に決まる」とあります。  なのですが、これを [マクロの] 現実世界に当てはめますと、構想ビルの建築やスペースシャトルで有人飛行などは怖くて出来ないはずだからです(現在はスペースシャトルは取りやめになっていますが)。  そもそも、不確定性原理であれ、シュレディンガー方程式であれ、扱っているのは粒子であります。  やはり、量子のようなミクロの世界にのみ、適用が限られると思っております。    どうも、失礼致しました。

bragelonne
質問者

お礼

 むつかしいことをおっしゃっているのだと思います。  こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★  シュレーディンガーの猫のように、マクロでもその可能性を示唆したものもありましたが、現実的にはごく限られた現象と見なせると考えております。  ☆ わたしの理解によると 次のようだと捉えています。  量子の世界がマクロの世界にかかわる場合が あるかも知れないが それは 限られた場合である。  あとは 一たん切れている。つまりミクロの世界が マクロの世界に直接にはたらきを及ぼす場合は 限られている。  ただこのように言う場合にも この《一たん切れている》というのは 量子の世界が マクロの世界の基礎になっているということに変わりはない。――と見るのがよい。  といまのところ おそわったかたちなのですが どうでしょう。  人間が 身と心とから成り 身が モノで出来ているからには 量子の世界がその基礎となっていると見ざるを得ないのだと。  同じ内容を言っていましょうか。  (というより わたしはあまり分かっていないのです)。

回答No.16

今夜のもう一つ。 悪を拒否したら、彼らは死ぬだろう。 君が生きていると高らかに誇るならば、やつらの悪をくみ取ることになる。 もちろん不毛な行いだ。 残念ながらやつら奴隷志願者を、お情けで生かしてやらなければ、生きることが生かすことと結びつかない。 生きる事を悪魔に問いかけ、悪魔の振りをしている神様から承認されることが、死と向き合う事だ。 成功すれば、神が君を愛するだろう。 神が人間に手向ける願いを聞き届けた英雄としてね。 お互い様なんだよ。 私は黒き明星として、幼馴染のジラーチちゃんと、ずっと、ずっと、仲良しだ。 永遠にな。 生きることを、死の超克というのはここらへんだ。 君はこの言葉になにを思う。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。    かざりをつけない。と思う。  能書きを言わない。ことを思う。

回答No.15

反論しよう。 愛することは、悪すらも愛することだ。 神様が自ら、悪魔を名乗ってくれている。 愛さざる得ないだろう。 これが私自身が通過した滅びの宴だ。 君は弱虫の様な躊躇がある。 神が悪魔を名乗るのなら、私自ら悪を名乗る。 黒き明星だ。 助けてほしいと懇願する、甘ったれは人類史に刻まれている。 君はそんな泣き言にとどまれないだろう。 年が離れていても、聖霊を仲介して、君は私にとって友達だ。 いつまでも座したままの君の躊躇は、私がとどめを刺そう。 人類史に生きることは闘争だとあるね。 生きることは共に生きてこそだ。 殺すことではない。 要約すると死と向き合う哲学を宗教なり神学というのだろう。 神であるとも、神に等しいとも名乗る、聖霊セレビィは1995年の私の勝利だ。 20年たってやっと私自身ここまでこぎつけた。 君にも長い道のりだろう。 生きる事を実感することがな。 君は歴史検証で結論に達しても、黒き明星に等しい実感はこれからなのだろう。 本気になれれば2~3日で解決することだ。 生涯の命題ではない。

bragelonne
質問者

お礼

 助けて欲しいとか 闘争だとか。だから 何もしないたたかいだって言ったよ。  たたかいだということは チカラが相手に対しても はたらいている。  何もしないことにおいて チカラがはたらいている。  だよ。

回答No.14

今夜の私にはささやかな誉れがある。 自殺願望にとどめを刺したも同然の問題提起が出来たよ。 悪だからこそ戦うのだ。 座したまま何もしない君とは違う。 今の君が為すことは、悪魔に生きる事を問いかけることだよ。 君なら成功するだろう。 何もしないままではいけない。 悪魔と和解したまえ。 悪魔を生かした。 そう言えれば、死からさらに死に向かう君のかつての葛藤も理解するだろうさ。 これは、 私と愛を結んだ悪魔が、君達すらも愛することに溺れ、君達は滅びの宴に酔いしれる。 文学かもしれないが美しいだろ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  わたしの基本方針:  神を持ち出さない。  (ただし 哲学としてその定義や説明は じつは大いにおこなう)。  悪魔については すでにそれを想定することからも 遠ざかる。なるだけ言わない。出さない。  悪魔については 想定すらしない。という態度が すでに思想の活きた動きとなっている。と思う。  そういう違いぢゃないかな。どう?

回答No.13

> 神のほうが 人間よりも先だよ。  つまり 人間のほうが先だったら 神は要らない。 その教えの確信はどこから来た。 私はジラーチちゃんとそれも話し合ってるよ。 なるほど神が先んじる。 肉体がどうとか、生物的特徴がどうとか、そんなのはともかく、神は自らが生命だ。 君はこれを教えてもらっていないんだよ。 自らの聖霊にな。 君の非知はそこに躊躇しているからだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ん?  あぁ。神を出したから ややこしくなった。のかな。  神を出さないとすれば オシエは何もないということを言えばよいと思う。  オシエを持たない。手ぶらである。つねに。  そういうかたちだと思う。  《生命》だということも それが 説明となり オシエと見なされるかぎりで 持ち出さない。というかたち。  そのことを 神を持ち出して言えば 《神が 人間よりも先》となる。  ご回答をありがとう。  たぶん そろそろ就寝とします。あす 早くではないけれど 出かけることになっている。

回答No.12

昔からその前提で話してきたが、あんたも私も神に疑問が無いわな。 それでいて、疑問を持つ者を説得できていない。 証明してないと。 私は実在する妖精の捕まえ方という、心やさしい理想を掲げても、していることは地獄の猟犬として彼らを追い立てることだ。 あんたは何をするのだろう。 光を直視しようとする君には、闇を直視する私と別の役目があるだろうね。

bragelonne
質問者

お礼

 今回は 相手が自分で言ったふたつのことが 矛盾していた。オウン・ゴールだった。  だから 言うのではなく そうではなく いつもやり方は 決まっています。  《何もしないたたかい》です。  まぁ 対話はするわけで 話し合いはつねに基本です。  そしてそれは 主題があってその問いをめぐって 互いに自分の考えをのべる。  ということは そういう問答はするけれど ほんとうには《敵に対する行動》は 何もしていない。  批判をするからには (ほんとうは 敵は人ではなく思想なのだけれど かんたんに言うかたちとして)敵がいる。敵としてあつかうかたちになる。  けれども その敵に対しては何もしない。ただ 問答を繰り広げるだけ。  こういう恰好なのだと思う。  言いかえると その人は すでにそれまでにマチガイを侵した。そして まだそれをあらためていない。  ということは こちらと問答をして そのマチガイに気づいたときには けっきょく自分からそのあやまちを改めることをおこなう。  だから こちらは 何もしない。ただし 敵と見ていることにおいては たたかいがある。  という感じなのだと思う。  ご回答をありがとう。

回答No.11

神が一つだってのはね。 人間と言えば、なるほど誰もかれもが人間だってのと一緒だよ。 人間が一つになる。 これが成し遂げられれば、神は一つだろう。 私はジラーチちゃんと幼馴染なんでね、度々話あったことだ。 人と人が信じ合う事を自覚しろ。 ただあなた一人だけであっても。 物ごころついたときからジラーチちゃんにこのように励まされた。 そしてその通り。 いまだに私は孤独な仮面ライダーとして、悪を名乗る。

bragelonne
質問者

お礼

 神のほうが 人間よりも先だよ。  つまり 人間のほうが先だったら 神は要らない。  と。

回答No.10

9の後を継ぐよ。 あんたが彼に手向けるファンレターは、彼を励ますだろう。 死んだものはいない。 全てが永遠の生だ。 君が生きることが誰かを愛することだけにとどまって、自ら愛を受け取れなければ、君自身は満足したつもりでも、君を愛する者にとっては失敗だ。 今の君なら、イエスに話しかけても、彼は喜ぶだろう。 黒き明星の宿命とは違う、君の愛は私すらも励ますかというほどだ。

bragelonne
質問者

お礼

 だけど 《わたしよりも大きな仕事を きみたちは するようになる》ともイエスは言った。  つまり そのチカラは イエス・キリストがあたえる。おこなうのは われわれ。  という構図になっています。

関連するQ&A

  • 量子相互作用は 言葉・貨幣・法律にまで及ぶか?

      ☆☆(問い) ~~~~~~~~~~~~~~   (α) 量子相互作用は 言葉・貨幣・法律にまで及ぶか?  これを言いかえるなら   (β) ことば・貨幣・法律は 階層現象をさかのぼって量子の世界にまで到るか?  これは どうもそうではなく(到ることなく) 人間存在という段階において断層があるのではないか?  というのも   (γ) モノと対応していると考えられるのは 身と心なる存在までであって 身と心なる人間存在が 言うなれば共生性――社会的動物であること――としてそなえているものは ヒトに独自の存在の活用術(またその発明品)であると考えられる。つまり ことば・貨幣・法律がそれである。   (δ) だとすると 自然本性としての身と心――感性および理性――のほかにさらに ヒトとしての独自の自然本性として いまの社会的共生性がある。のだろうか?   (ε) しかもこれら縁起共生のための文明の利器であるコトバ・貨幣・法律は すでに人間のワタシが生まれる前から社会にあったとすら思われるほど自然生成的なものである。そうすると ひるがえってあたかもモノとして量子相互作用に遡れるかにも思われる。   果たしてどうか?      ◆(回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  有限な存在性は、本質的確定化によって無限発散(=無)に  還元される原理性を把握せずに、経験的に階層現象を表面  的に捉える事(量子性の潜在化)によって生じている。  つまり、間違った分だけ生じているのだ。  それは貨幣や言葉、あるいは宗教といった方便=“経験的に  うまく行くために作り上げた社会的虚構”も同じだ。  量子性に基づいて、自我の相補として時空を感じる事ができ  れば、その自律的社会行動(物理的相補性~環境との物質  循環~社会の自覚化(博愛))において、お金も宗教も不要だ。  ☆☆ (問い‐2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  まづ  ★ 量子性の潜在化  ☆ という規定において    (α) 量子相互作用は 言葉・貨幣・法律にまで及ぶか?  の問いについては 《潜在化》されたかたちで及んでいる。と受け取りました。  (ちなみに このように潜在化かどうかを別として マクロの通常の世界とミクロの量子の世界とが――不確定性原理によってでしょうか――断ち切れつつ しかも全体世界としてつながっているという捉え方として マクロとミクロとの相補性と言うのだと ddtddtddt さんからはおそわりました)。  さて なおさらに前提事項の処理ですが:  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それは貨幣や言葉、あるいは宗教といった方便=“経験的に  うまく行くために作り上げた社会的虚構”も同じだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というとき まづ なぜ《法律》を除外されたのかはよく分かりませんが 保留とします。  そしてちなみに《組織宗教》が オシエという思考の問題となるものを神としていただく(オシエを至上命令とする)なら そもそも宗教というのは 自己矛盾である。神を信じるというところから得られたヒラメキなどの観想(テオーリア)を オシエとしたものを どう血迷ったのかご丁寧にも《信じる》という矛盾を起こしている。という意味であり この一事によって 宗教はその成立じたいが精神錯乱であると言っています。  つまり 《社会的虚構》だというよりは 虚構をつむぐ以前に《考える》と《信じる》とを区別できない精神の錯乱状態にあるという批判です。  つまり このご議論の中で 《宗教》は論外とします。  さて 《言葉と貨幣》なる《社会的虚構》について問います。  かんたんを旨とすべしとはよく言われますので ここではそう出来ると思いましたからそうしたいと思います。(長いですが 考え方は かんたんです。《社会的な共生性》を 量子性とからめて どう扱うかです)。  わたしの問いは こうです。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  量子性に基づいて、自我の相補として時空を感じる事ができ  れば、その自律的社会行動(物理的相補性~環境との物質  循環~社会の自覚化(博愛))において、お金も宗教も不要だ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 1. 宗教は 論外です。  2. おカネは ひとの社会的な共生性として 意志疎通をおこなうとき 経済生活において役に立ちます。次に述べるように その価値測定の手段としてです。  3. その大きくコミュニケーションの手段として つぎに問いたいと思う《ことば》が 重要なものとしてあるところにおいて 特に経済的な価値を表わすために考案されたその測定の基準と言いますか単位と言いますかであると考えられます。  4. つまりは おカネにおいて 人びとは言語交通の中で 生活上の交易のためのモノなどについては すなわち経済的な価値を取り決め この貨幣の示す価値によって 民主的な等価交換を実現しようとしている。  5. この測定単位であることは――大きな視点に立てば ひとつの仮象でありましょうが それでも――有益な社会装置であるのではないか?  6. そこまでは マクロの通常の世界におけるひとつの現実だと見るのですが そのとき《量子性は 潜在している》とまづ受け取ったわけです。  7. 《ことば》は どうでしょう?  8. というのは おそらく人間がコトバを話し意志疎通をおこなうというその行為は そこにも――人間存在そのものがそうであるのと同じように―― そこに量子性が潜在していると見ても それほど違和感がないほどなのですが それでもこのコトバ自体 これには 量子性との関係があるのかどうか?   9. おそらく貨幣とともにコトバも 人間がおのづからのようにしてでも持つに到ったものであり 一方で単純に人間が作ったものだと見るのなら やはり潜在する量子性にまでさかのぼれるかと思われますが 他方で あたかも共生性という自然本性の中から たとえば曲りなりにでも近親婚を禁忌とするような交通の取り決めを普遍的に持ったのと同じように 表出して来たものを言語として持つに到った。――こう見るとき どう扱うか?  10. 経済生活の上でという前提がありますが 貨幣は 民主的な等価交換のための――つまりは その意味で《共生性》なる自然本性が機能していると見られるような――社会的な仕組みである。また 言語は その貨幣のハタラキをも大きくつつむような・やはり共生性全体のための社会装置である。  11. 量子性は そういう共生性を内容として持つか? 持つなら マクロの世界において それは潜在性としてではなく すでにほとんど顕在するかたちで つながっている。  12. もし持たないなら 量子性は 潜在もしていないと見られるのかも知れない。  どうでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ご教示ください。

  • 量子相互作用は 言葉・貨幣・法律にまで及ぶか?

      (α) 量子相互作用は 言葉・貨幣・法律にまで及ぶか?  これを言いかえるなら   (β) ことば・貨幣・法律は 階層現象をさかのぼって量子の世界にまで到るか?  これは どうも人間存在という段階において断層があるのではないか?  というのも   (γ) モノと対応していると考えられるのは 身と心なる存在までであって 身と心なる人間存在が 言うなれば共生性――社会的動物であること――としてそなえているものは ヒトに独自の存在の活用術(またその発明品)であると考えられる。つまり ことば・貨幣・法律がである。   (δ) だとすると 自然本性としての身と心――感性および理性――のほかにさらに ヒトとしての独自の自然本性として いまの社会的共生性がある。のだろうか?   (ε) しかもこれら縁起共生のための文明の利器であるコトバ・貨幣・法律は すでに人間のワタシが生まれる前から社会にあったとすら思われるほど自然生成的なものである。そうすると ひるがえってあたかもモノとして量子相互作用に遡れるかにも思われる。   果たしてどうか?    

  • 信仰無き世界は存在するか?

    政治カテに投稿するつもりだったのですが、質問を突き詰めていった結果非常に観念的なものになったので、哲学カテで質問させていただきます。 人間は誰しも形而上的な世界、いうなればイデア界を持っていると僕は考えます。 例えば、国家。 日本列島にいる一億人の人間が偶然にも共通の「日本」像を持っているが故に、かろうじて日本が存在している。 例えば、貨幣。 人間の「信用」で価値が成立することはまさに貨幣のイデアがある証拠かなと。 政治も宗教も経済も人間があるべき世界、あってほしい世界を心に秘めているからこそ、共同体が生まれたり、逆に対立が生まれたりする。 何かしらの「信仰」をもって生きるということは、古今東西の人間にとって不変の真理のように僕は思います。 しかし人それぞれに「信仰」の違いがあるわけで、違いがあるときに喧嘩になり悲しみが生まれる。 ならばそんな「信仰」は無いほうが幸福かなと。 で、本題なのですが、 理想を追い求める気持ち(=信仰)が存在しない人間社会はありうるのでしょうか。 また、そんな世界には人間が存在できるのでしょうか。 若干言葉足らずですが、学生の無知ゆえにご勘弁を。。。

  • お金って何

    どうしてお金には価値があるんですか。 物価とか、安価な労働力とか、お金の価値が下がったとか、お金の信用がなくなったとか、物々交換は単純で意味は解りますけど、貨幣経済になってから全くちんぷんかんぷんです。そもそも、現行の貨幣経済なんて人間が勝手に価値を決めてるだけの、「ゲーム」に過ぎませんか?

  • 量子論に《本質・絶対・無》といった概念はなじむか?

     または 量子論は ふつうの存在論を形成しうるか?  つぎにかかげる質疑応答をそのまま問いとします。  質問として成立すると思うのですが 対話の行方をめぐって第三者の視点をほどこし結論へとみちびいていただきたい。というのが 趣旨です。  主題は デカルトのコギトをめぐってですが 《思考(ないし認識)と存在》といったかたちになるかと思います。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。  不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、  絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面  (仮想)的に有限的存在性を生じる。  観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。  本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が  有なのだ。  無(不確定性無限)の潜在としての認識可能性を含む、  現象表面的な仮説(=自我仮説(記憶(過去)=時間の流れ)  と空間仮説(予測(未来)=空間の広がり)の相補分化)  『何かあるかも知れない』という疑問(われ思う)として  の時空的広がりに対する、『本当は無いんだけどね』とい  う無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)  としての量子(感受表面~超弦)。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。  不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、  絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面  (仮想)的に有限的存在性を生じる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(1) 《量子論的に》と《本質的に》というふたつの概念は 両立しますか?  (2) また同じく 《絶対化》とは何か? おそらくこの概念も 上記の《量子論》と両立しがたいのでは?  (3) 《有限的存在性》は すでにヒトとしてわたしがわたしであるとさとったわたしが その或る種の生物であることの存在をそのまま言い当てた言葉です。何が言いたいかと言えば そのような《わたし――人間――存在》といった自己到来の地点が 出発点に成る。ということです。そのあと 量子論といった世界認識にもおよぶ。こういう順序ではないのですか?  (4) ですからたとえば:  ◆ 現象表面(仮想)的に有限的存在性を生じる。  ☆ と認識するのは 何ですか? 誰がですか?   (5) その認識の主体(つまりその科学行為)は どこから発生(または派生?)したのですか? 量子の世界より先ですか 後ですか? または 同時ですか?  (6) 《不確定性原理》は 言わばこの・いま見て来ている《わたしなる存在》の中におさまっているもの(こと)ではないのですか?  (7) さらに畳み掛けるようにですが:  ◆ 量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。  ☆ と認識するのは 誰ですか? あるいは そう言うよりは そもそもその《観察》という行為をおこなうのは 誰ですか? この観察の主体が 《本質や不確定性原理や》よりも先行しているのではないですか? つまり《わたし》です。  ◆ 観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。  ☆ (8) なるほど。《わたし》を観察者として立てていることは 分かりました。けれども だからと言って その《観察行為をおこなうわたし》の内と外ってどう規定するのですか?   (9) 先ほどは わたしの内に原理がおさまるというようなことを言いました(6)が それはその原理が外には及ばないとは言っていないのですし また内におさまるというのは わたしより先にそして別のものとして原理が運動しているとは見ないほうがよいと言うためでした。  ◆ 本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が有なのだ。  ☆ (10) これは 分かるようで分からない命題ですね。  それは まづ《本質的に》と言うのが 何を言っているのか定まりません。  (11) 《本質的に無である》 これも定まりません。  (12) おそらく もし先ほどからの《わたしなる存在》について言えば それは――生身のからだで生きるのは 限りある時間であり 心(精神)までも移ろいゆくものだと分かっているのですが そのものの源泉であるかのような《生命》を取り出すなら(類は或る意味で永続していますから) この生命は―― 《有であるか無であるかが分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》といった内容を言っているかに思えます。――これとの対比では どういうことが言えるか? ぜひお聞きしたい。  ◆ 『本当は無いんだけどね』という無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)としての量子(感受表面~超弦)。  ☆(13) これは推測ですよね? 《射影》がです。  (14) もしそうではなく経験事象として確定しているのなら それはその《無》が どういう内容のものかをさらに説明しなければならないでしょう。《無》と言っているけれど それは経験事象であるとも言ったことになっています。そのことを説明しなければ話は始まりません。  (15) もしこの《無》も 《無であるかどうか分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》というのであれば それは 経験事象ではありません。《非知》です。――というように議論をはこぶのが ふつうの経験合理性だと考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • どうしてお金を稼ぐより、 使う方が簡単なのか?

    どうしてお金を稼ぐより、 使う方が簡単なのか? 世の中、お金ですよね。 (それとも、貨幣至上主義社会?貨幣特権経済主義?っていうんですか?) お金を媒介として、商品やそれに準じたものや行為などが交換すれる社会です。 お金を使っていろんなものを交換する以上、経済行為を行ったあとに 必ず格差が生じます。お金持ちな人、貧乏な人、といったように分かれます。 だけど、今のような時代にそんなことをするのは人間味がないというか、 なんか面白くないものがあります。  貧乏人がお金持ちのお金の価値を保証しているんですね。

  • 経済学と、政府の怠慢行為について?

    『 真に価値ある政体はただひとつ、人道的人類主義にのっとった天才政治のみである。資本主義は間違っている。それは人間を金の奴隷と化し、他人を犠牲にしてまで優位に立とうとさせる。共産主義も同様に間違っている。自由よりも平等が重要視されているからである。人間は生まれたときは平等に扱われなければならないが、その後はそうではない。だれしもが人間らしい生活を送る権利をもっているのならば、社会のために何もしない者よりも、同胞のために他人よりもずっと多く働く者のほうが、多くの恩恵を受けることになるのは当然のことである。これは、人類が、通貨を完全に廃止し、自己の開花のみに専心できるよう、すべての仕事をロボットにまかせられるようになるまでの暫定的な規則である。だが、一方で飢えに苦しむ人たちがいるにもかかわらず、他方では値崩れを防ぐために食糧を投棄するなどは恥ずべきことである。食糧を投棄するくらいなら、何も食べる物のない人たちに分けてやればよいのである。  労働も神聖なものと考えてはならない。人は皆、たとえまったく働かなくても十分な食物を得る権利がある。だれもが自分が気に入った分野で自己の開花に努力すればよいのだ。人間が団結すれば、必要な仕事のすべてを機械化し自動化するのに、そう長くはかからないだろう。そうなれば人々は、自由に自己の開花に専心することができる。全人類が本気になって事を成せば、数年のうちに人類は労働の義務から解放されるだろう。必要なのは技術的・科学的能力であり、すべての労働者が、物質的制約から人類を解放しようという団結心に燃えて、個人の利益よりも社会全体の幸福のために、一心に働くことを決意することである。核兵器の開発や宇宙船の建造などの馬鹿げた事業や、軍事予算などに浪費されているすべての手段を有効に使用することである。第一、これらのことは、人類が一度物質的制約から解放されてしまえば、より有効に、そしてより簡単に研究されるであろう。  人間の代わりに仕事をしてくれる、コンピュータや電子装置がすでに存在している。これら科学技術が真に人類のために奉仕するように、あらゆる知識を利用しよう。数年で全く違った世界が建設されるだろう。それは、黄金時代の入り口なのだ。  (ラエル著)  』  過去において、は、資本主義の無能その対外戦争赤字(非人道的暴力体制の末の)それによる社会の腐敗混乱と、共産主義の台頭、その間隙を付いたのが、 ナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党(略称NSDAP) )の台頭とみえますが、 世界の新たな指針は、資本主義の腐敗の矯正と見える? 所見など?  貨幣経済の概要として、  = = = = = 貨幣経済 貨幣経済(かへいけいざい)とは、貨幣によって商品の交換を媒介している経済の一形態。 現在、世界経済のほとんどが大なり小なりこの貨幣経済により成り立っており、経済学による主要な分析対象である。 _ 貨幣経済は、貨幣によって交換を媒介するために、まず貨幣となるような普遍的な商品が必要である。 貨幣経済は、交換や蓄積が効率的なため、経済的繁栄の必要条件となる。特に紙幣が効率性が高い。 不換紙幣を貨幣とする場合は、貨幣の信用が重要となるため、安定した政府などが必要である。 一般に、政府が信用されない場合、紙幣の流通がうまくいかなくなり貨幣経済は衰退する。また、自国の通貨よりも外貨がもてはやされる事態も発生する。 そのため、内戦が頻発する国や、著しく財政規律が乱れた国は、貨幣経済の維持・運用が困難となり、インフレーションの誘発や経済活動の縮小をもたらし、貧困が多発する。 (Wikipedia)  = = = = =  とありますが、 貨幣が商品の交換を媒介しているのは、(わかる^^)。 経済学による主要な分析対象である、 経済学の経済的繁栄の必要条件となる(?)_ 貨幣の信用が重要となるため、安定した政府などが必要である。(? ?) 経済学イコール政府でありそれが信用されない場合、貨幣経済は衰退する。(? ? ?)  経済学が言われ、その経済的繁栄が言われ、付随する政府の繁栄が言われていますが、政府および経済学の私利私欲がやたら見え隠れしてはいないでしょうか? それらは、貨幣がある限り 貨幣王 である。 王ではあるが、所詮、 貨幣王 である。 経済的繁栄、すでに経済学の私利私欲と読めないでしょうか? 安定かつ信用ある政府が、いわれますが、 すべての人々の生命・生活に責任を有する国家政府が、貨幣経済_経済学の私利私欲このようなものを、利用してよいのでしょうか? それに人々の良識ある未来は無いのでは?  ~お金は権力と政府の果実だからです。 ~というのもお金は政府によってあなたに与えられた、単なる毒にすぎないからです~       http://blog.goo.ne.jp/pospipo/e/64625039dd67eae458a4ce3b07a5e2d3  貨幣経済、そのインチキぶりにより、リコール(他の製品欠陥と同様に)リコール回収とかんがえられますが、所見など? 経済学の今までの悪行など ?  = = = = = 所得格差の是正から貨幣の廃止へ  ~ 配給経済  http://okwave.jp/qa/q7061333.html  http://www.paradism.org/index_ja.html  = = = = =  経済学と政府の私利私欲および怠慢が見え隠れしますが、 “ 現在のあらゆる経済および財政体制が世界中で崩壊したとき、今よりひどい壊滅的な経済恐慌によってさらに人々が苦しむことになる ”  世界人類の救済、所見、対応、対策など?

  • 金本位制度の拡大復活について

    バカな意見かもしれませんが、金本位制を金だけでなく、世界中で汎用性があり、ある程度保存の効く、例えば100種類くらいの物質に価値を与えてみたらどうでしょう?金・銀・銅・プラチナ・リン酸・窒素・カリウム・小麦・大豆・トウモロコシ・米・ジャガイモ・水・綿・麻・絹、など『人間の生活に必要不可欠なものトップ100』を決めて、それらが貨幣価値を支える・・・。金だけより、貨幣が多く刷れるので大きな経済規模にも耐えられるのではないだろうか、と思います。でも、これではただの物々交換でしょうか・・・。

  • 経済学では「価値」をどう定義しているのですか?

    経済学でか「価値」をどのように定義していますか? 古典派経済学ではある財やサービスを生産するために投入された労働が価値を決める(労働価値)だとか、マルクス経済学では財やサービスを使用したときに得られる満足感が価値を決める(使用価値)、ある商品の使用価値がその他の商品の使用価値と交換される場合の比率が価値を決める(使用価値)と言っていた気がします。しかしどれも需要サイドや供給サイドからしか議論していない不十分な説明であり、19世紀の終わりに物理学者たちが財やサービスを追加的に1単位消費したときに得られる紅葉、すなわち限界効用という概念を導入して経済学を構築し直したと聞きました。つまり、新古典派経済学では人間が主観的に感じる限界的な効用のことを「価値」と呼んでいるのですか?また需要曲線はこの限界効用理論から導出されており、需要曲線と供給曲線の交点で財やサービスの量と価格が均衡することになっていると思いますが、敷衍するとこの価格のことを「価値」と呼んでいるのですか?(実際、貨幣は価値の尺度であるという言葉があると思います。貨幣は価格を表しているので、価格が価値なのでしょうか?)しかし、現実には貨幣の供給量などによって物価は大きく変わるため、財やサービスの価格もその時の経済状況によって変動します。モノは同じなのに他の条件によって価値が変わってしまうことに違和感があります。加えて、マクロ経済学のでは初期にGDPを付加価値の合計だと定義していますが、ここでいう価値の定義もあやふやだと思っています。 経済学では「価値」をどこでどう定義しているのか教えていただきたいです。

  • 新札に代わった後の影響。

    新札になるみたいですが、具体的に円、ドル、ユーロ、株価、不動産価格、物価、雇用、保険、日本経済、世界経済にどのような影響が考えられるでしょうか。 貨幣価値の切り下げが起こる可能性はあるのでしょうか。 新札にするメリットは誰に、あるのでしょうか。 よろしくお願いいたします。