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オホモノヌシのカミは 《物自体》か

 ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第八章 シントウの神学と世界観  § 8-a オホモノヌシのカミは 《物自体 Ding an sich 》か  あるいは ヒトコトヌシのカミは 《宇宙霊魂 Psyche tou Cosmou 》または《世界霊魂 Anima Mundi 》か? それとも 《世界精神 Weltgeist 》か?  ○ (モノとコト e = mc^2 ) ~~~~~~~~  モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)  コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)   ↓        ↓            ↓  自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

みんなの回答

回答No.2

>見たことはないが 出べそだったとは聞いていない。 >けれども 物自体は 目に見えるモノではないんだよ。  やはりな。物が目に見えなくなったようだ。  物の怪に取り付かれたな。哀れ。  近くの神社でお札をもらって自分の臍に貼っておくといい。  そして、部屋の4隅に盛塩と蝋燭、そして、線香を立てて結界を張れ。急げ。

回答No.1

>オホモノヌシのカミは 《物自体 Ding an sich 》かあるいは ヒトコトヌシのカミは 《宇宙霊魂 Psyche tou Cosmou 》または《世界霊魂 Anima Mundi 》か? それとも 《世界精神 Weltgeist 》か?  私は、私の方からbragelonneの母親の臍について話題にしたことはない。しかし、それは、bragelonneの母親のことだから、オホモノヌシのカミと同様に単なる《物自体 Ding an sich 》ではあるまい。  したがって、こういった質問は、bragelonneの母親の臍が単なるデベソ《出臍 debeso 》かあるいは、《宇宙出臍 Psyche tou debeso 》または《世界出臍 Anima Mundi debeso 》か? それとも 《世界精神 Weltgeist debeso》か? を明らかにしてからしてからにしてもらいたい。

bragelonne
質問者

お礼

 見たことはないが 出べそだったとは聞いていない。  たぶんわたしのへその緒を取り出して来ても 知る手掛かりにはならんだろう。  けれども 物自体は 目に見えるモノではないんだよ。  どこかで説明を見てから 考えるといいよ。

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     1. ひとつには 無神論もひとつの信仰だと思いますので人は 得があろうがなかろうが・人間であるなら誰もが否が応でも 信仰を持つとは考えます。  2. ひとつには きみは真理を知ることができる。真理を知れば きみたちは自由になる。と言われる得がある。  ☆ ただしこれだけでは 話がすすまないでしょうから 信仰とは何か? から始めるたたき台の考え方を述べます。  A 有神論も無神論も 信仰(すなわち 非思考の庭)である。  3. 人の能力は限りあるものゆえ 限りを超えたところのナゾについては 一般に《かみ》と呼ぶようである。  4. このカミを カミは存在すると捉えて《神》と呼ぶか それとも存在しないと捉えて《無い神》と呼ぶかは 互いに同等のコトである。ナゾゆえ。  5. 前者の神を ヤハヱーやらキリストやらアッラーフやらあるいはブラフマンやらアミターユス(阿弥陀仏)やらマハーワ゛イローチャナ(大日如来)やらとそれぞれ呼んでも 有限世界を超えたところのナゾであることに変わりない。  6. それと同じように 《無神ないし 無い神》と呼んでもまったく同じである。  7. われわれ人間の知り得ないところのナゾは したがってほんとうには有るとも無いともわれわれは知り得ない。ゆえにである。  8. ということはこのナゾに対してはわれわれはその心に窓があるかのごとく その窓で触れられているかにも思われる。  9. 無い神をとなえる場合には この心の窓を閉じたように思うかも知れないが じつは《無い神》と捉えて(想定して)開いている。  10. そのように われわれとカミとのかかわりは おのれの心の明けもしくは伸びとして考えられる。心があたかもひらいている。つまり閉じていない。この《閉じていない》ということが肝心であろうと思われる。  11. むろんこの心の窓におけるカミの有る無いの想定は いづれも最終的には思考の問題ではなくなっている。推論の道筋を超えている。あたかも賭けのごとくに どちらか一つに人は判断し決めることになっている。これが 信仰である。  12. したがって 信仰は 非思考の庭がわが心に成ることを言う。成ったあとの持続する動態をも言う。その持続が切れたというのは ほんとうには無神論が有神論に成り変わったか それともその逆かである。  13. もしくは 一般に何か(たいていは いろんな意味でのアイドルであろう)をあたかもカミとしてのごとくただ思いこんでいるかたちでの有神論であったり無神論であったりする。そのような曖昧な信仰という形式の場合が考えられるのみである。  B 信仰は真理を知ることができると言うのは どういうことか? そこにどんな得があるか?  14. 思考に非ず。経験世界をあたかも超えようとする。しかも経験存在としての人間つまり《わたし》がそのナゾすなわちカミ(神および無神)とのかかわりを たとえば畏れとしてのように持つ。  15. おそらくそこでは ヒラメキが得られる。その中身がまだあいまいで混沌としてさえいる直感としてのヒラメキもあれば 或る程度ものごとの本質を見抜くまでに到る直観としてのヒラメキもある。  16. ヒラメキは インスピレーションないし霊感とも呼ばれる。  17. 煮詰めた議論としては このヒラメキにおいて《わたし》は真理に触れ得たと思われることである。むろん主観である。  18. このヒラメキがわたしにあたかも与えられることが おそらく経験思考を超えていて――もしくは経験思考をゆたかにしてくれる内容を持ち得ていて―― 効用を成す。その意味で《現世利益》である。  19. もしここまでの筋道に大きなあやまちがなければ あとは このヒラメキ主観はその内容をどこまで普遍的なこととして明らかにされ得るか。ここに焦点があてられよう。  20. ということは そのためには 対話ないし交通(まじわり)が肝要である。特に主観の見及んでいないところを互いに指摘し合う批判 これが大事である。  21. 一にも対話 二にも対話。三四も対話 五にも六にも対話 対話・・・ということではないだろうか?  22. 信仰の認識ないし自覚がなくても ひとは交通においてコミュニケーションをとるが そこにおいて対話や批判が肝要であることをさらに自覚するのは 信仰という非思考の庭の存在からではないか? おのれの主観が 互いに 問題になっていると知るゆえである。  23. その意味では カミさんはそっちのけで 経験思考で分かる中身としての互いの対話が必要不可欠であろう。カミをそっちのけに出来ることも――しかもヒラメキ霊感において保ちつつということだが―― 信仰の効用であるだろう。  さていかがでしょう