ブディズムの再生はあるか

このQ&Aのポイント
  • ブディズムの再生について考える
  • 神を信じない信仰とブディズムの関係について
  • 神と信仰の類型的な関係とブディズムの信仰
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ブディズムの再生はあるか。

 ブディズムの再生はあるか。  ( a ) 《信仰》という一人ひとりの動態においてしかないのではないか?  ( b ) 《神を信じない》つまり《無い神を信じる》つまり一般に《信じないと信じる》という類型の信仰を持つと確認することから 再出発することではないか?  ( c ) なぜなら マハーワイローチャナ(大日如来)やアミターユス(阿弥陀如来)とそれぞれ名づけられた《神とその信仰》が やはり類型的に 上の無神論なる信仰と同等にあり得ていると考えられるから。    *  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|      *  ( e ) 《神》とは何か? また《信じる》とは どういう経験行為か? を問うことにもなるかと思いますが。  ( f ) ブディズムは もし死んだのなら 葬送の儀礼をしておくとよいと考えられますか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.9

 引用していただいた《経》は、確かに文面には「核」は見えませんが、“空”の論法?の無い無い尽くしを思わせます。  最近手にした岩波文庫『般若心経・中村元訳』に、「この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、この故に、空の中には色もなく、受も想も行も識もなく・・・」と云う処が“心経”の訳として有りますが、引用していただいた文の内容はこの「核」を通しているが故に、こうした師の表現になっていると解釈してよいのではないでしょうか。  今回はブディズムを否定しようとするブラジュロンヌさんの「意」が経典の解かりにくさに「因」が在るのだとすれば、私の“二千年以上も前の経典に頼り切っていて、その当時の言葉に囚われている宗教界に異議あり”という立場とクロスするところもあるように思うのですが。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 経典の解かりにくさ  ★ 私の“二千年以上も前の経典に頼り切っていて、その当時の言葉に囚われている宗教界に異議あり”という立場  ☆ そうですね。おっしゃるように (1) 翻訳のわかりにくさと (2) 現代の哲学・科学の水準に合わせた解釈や展開 こういったふたつの事柄も 大きくかかわっているかとわたしも考えます。  ただ この質問にかぎっては そうではありませんで(微妙に違っていまして) ブッダの頭と心の中の・あるいはそれらを上回る境地としての《中核》について問おうとしています。それは 何か? と。  すなわちそれは  ★ 確かに文面には「核」は見えませんが、“空”の論法?の無い無い尽くしを思わせます。  ☆ の《無い無いづくし》が それではどういう《核》を捉えたところから出て来たものか? こういう問題だと思います。  ★ 引用していただいた(=スッタニパータの)文の内容はこの「核」を通しているが故に、こうした師(=ブッダ)の表現になっていると解釈してよいのではないでしょうか。  ☆ と見るとすれば その《核》は どういう内容なのか? です。  ★ “空”の論法?  ☆ なのだと さらにふたたびわたしも思いますが では それで納得しえたかというと どうでしょう?  《空》ないしその論法が 《核》だというのは いったいどういうことなのか?  ですから この質問は このいまの《核》の把握とその処理にかんする問いです。  いっそのこと 《空》を 神 もしくは《無い神》として はっきりと信仰の問題なのだと言ったほうがよいのではないか? こういう問いです。  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  思考や認識としての《論法》の次元を超えて 《神》の問題なのだと見てはどうか? というものです。  そしてさらに出しゃばった言い方をすれば もうその方法よりほかに ブディズムの再生の道はないのではないか? こういう問い詰めになっています。  たとえばこうです。  ★ 最近手にした岩波文庫『般若心経・中村元訳』に、「この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、この故に、空の中には色もなく、受も想も行も識もなく・・・」と云う処が“心経”の訳として有りますが、  ☆ この場合  (あ) 《空相》は ものごとを仮りの現象であると見ることだと考えられます。  (い) 《諸法》がそうなら この《空相》と見ること自体も 空であり仮りの現象だとなります。   ▲ 垢つかず、浄からず、  に対して   ○ 客塵煩悩 自性清浄心(垢はつくが もともと浄い)  という言い方も成されるわけですから どちらも仮りの姿だと捉えられるということでしょう。   (う) この《世界を仮りの現象と見ること》なる空観は それを経てさとりに到ったなら もう要らなくなる。だから 仮りの現象としての空相でも おしえと成り得るのだという論法なのでしょう。  (え) では その《さとり》の境地は いったい誰が じっさいにどういう姿において 到ることが出来たのか? ゴータマ氏は どうだったのか?   (お) ゴータマ氏は ブッダである。つまりさとりを得たのだ。とするなら それは どのように言葉で表現されて伝えられているのか?   (か) 言葉による表現は 無理だとすれば そのさとりという境地は いったいどこにあるのか? ただの《張ったり》ではないか?  (き) うんぬん。といううたがいが 千年も二千年もつづきます。まだまだ続こうかという状態です。  (く) だったら いっそのこと 《空》を 神ないし無い神として想定するかたちを採ればよいではないか? 《無い神=すなわち 空》と《われ》との関係としてのわが心の非思考の庭は ブッダであるか または ブッダなる境地の潜在的なチカラを宿すと言って行くことができる。  (け) 趣旨説明の( d )に述べたように この《空》なる神の信仰であれば 世界の中で信仰についての普遍的な類型を成すものと考えられる。どうか?  (こ) 言いかえると ゴータマさんは     ○ ヒンドゥーイズム   |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  なる梵我一如の観点と自説とのあいだでその間の取り方が へただった。ブラフマンないしアートマン〔なる神〕を ただ《空》なる神(つまり 無い神)と言いかえただけだったのに それについて はっきりと明らかにし得なかった。これは 詐欺師のやり方である。という物言いも添えてあります。《葬送》というのが それです。  こういう問いです。どうでしょう?

その他の回答 (18)

回答No.19

 凡人には非経験の世界、そこを経験した人を悟れる人、と云うのだと思います。  個としての肉体に宿った「心」が「神」の世界と同化して“この世の理(ことわり)”を知ったが故にスッタニパータが生まれ、マーガンディヤとのやり取りがあったのでしょう。  こうしたやり取りでの表現は、善とか悪とかに捉われるという事は、この世の相対性が生み出すもので、宇宙の本体、神の世界に入ってみると、そこは相対的という世界ではなく、それ故にあのような表現、やり取りになったのだと思います。  あいまいさではなく、その当時はこうした表現をするしかなかったのでしょう。  それから二千年以上過ぎた現在に、この日本に誕生した彼のお坊さんが神の世界を「体験」し、お坊さんご自身の言葉で、宇宙(如来)の本体は絶体の大心霊体である、と現在の言葉と知識を以って表現しました。  そう思うと、二千年後には言葉も知識もさらに進んで、今よりもっと明快に「神」の世界を表現する人が現れると思います。  それがあの“弥勒菩薩”なのかは知りませんが。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  限りなき可能性を秘めたものであればいいがと まづは 思います。  ★ それから二千年以上過ぎた現在に、この日本に誕生した彼のお坊さんが神の世界を「体験」し、お坊さんご自身の言葉で、宇宙(如来)の本体は絶体の大心霊体である、と現在の言葉と知識を以って表現しました。  ☆ その方向づけについては あるいは そのとおりであるかも知れません。  問題は 分かりやすく語ることではないでしょうか?  言いかえると   ★ 神の世界を「体験」し  ☆ その神の世界について表現することではなく じつは そうではなく 神を或る種の仕方で見た者は この経験世界についてどう観るか。それを語ることではないでしょうか?  それでしたら 《或る種の仕方で神を見た》というその体験も活きて来ましょう。つまりその体験が実証しえたかに思われるほどになります。  つまり たぶんいちどお伝えしたかと思いますが 《この世に降りて来て欲しい》 これです。  それがないと いつまでも 抽象の世界にとどまって おまえたち凡人よ はやくさとりを得て この《神の世界》にまで上がって来たまえと言っているに過ぎなくなります。  そんな《さとり》は あり得ません。くそくらえです。つまり詐欺です。ゴータマゆづりのチョンボが いつまで続きましょう。  ★ 弥勒菩薩  ☆ という言葉は まったく何の意味もありません。詐欺を完成させるために作った物語の一環でしかありません。中身がないのです。玉ねぎの皮だけ見間違えるほどうまく作り上げた。ただそれだけです。未来にわたっての話も 過去にさかのぼっての話も みな詐欺を完成させるための大がかりの装置であるに過ぎません。  中 身 は ゼ ロ で す。  それなのに さとりがあるよと言うのは こんどは マイナスになります。  人間の屑です。  その罠にかかった人びとは どう表現すればよいでしょう。

  • kurinal
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回答No.18

bragelonneさん、こんばんは。 経験論なら、「そのうち、判るだろう」でも仕方ないのかな、と思います。 (「合理論」は、なんですか。・・・「違うこと」が証明されるかもしれませんね)

bragelonne
質問者

お礼

 ひと夜あけまして お早うございます くりなるさん。ご回答をありがとうございます。  ★ 経験論なら、「そのうち、判るだろう」でも仕方ないのかな、と思います。  ☆ ひとつに 《経験論》というのは 一般にその人のいだく神は 《無い神》のことです。つまり 無神論です。  ただし 有神論のばあいでも 信仰と経験思考とは別ですから 経験世界についての認識は 基本的に経験論に立つはずです。  ひとつに    ★ 「そのうち、判るだろう」でも仕方ないのかな、と思います。  ☆ については 忍耐づよい方なのですね と思います。  そのあいだの不首尾は 時間の無駄だと思いませんか?  というより 人びとをして玉ねぎの皮むきに奔走せしめるゴータマという人は いったいどういう人間なのでしょう?

  • kurinal
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回答No.17

bragelonneさん、こんばんは。 >「どこに ブディズムの特徴や良さがあると言うのか 分からなくなりませんか?」 ・・・ならない、かと思います。 むしろ、上記(e)「《神》とは何か? また《信じる》とは どういう経験行為か? を問うことにもなるかと思いますが。」

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん ご回答をありがとうございます。    つづいてです。  いえいえ。  ★ むしろ、上記(e)「《神》とは何か? また《信じる》とは どういう経験行為か? を問うことにもなるかと思いますが。」  ☆ というのは そういう見直し・解釈のし直しをして初めて ゴータマ・ブッダの説は生きて来るという意味なのです。  いまのままでは あいまいであり というよりも中身がないと見られます。  さとりを得たら・ブッダに成ったら そのうち分かるだろう。という説得だけが つづいて来た。こういうことではないでしょうか?  《さとり》の中身などは ついぞ説明されたことがないのではありませんか?

  • kurinal
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回答No.16

bragelonneさん、こんばんは。 「あるがままに見る」というような立場に、「再生」というようなことは、あるのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。    《再生》があるか無いかを措いておいて  ★ 「あるがままに見る」というような立場  ☆ これは これも あいまいですよね?  あるがままに見るのは 科学の立ち場かと思われます。そのことにおかしなことはないものと思います。  でももしそれだけだとしたら どうして また どこに ブディズムの特徴や良さがあると言うのか 分からなくなりませんか?

  • kurinal
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回答No.15

bragelonneさん、こんばんは。 「非経験の場」とか、「信仰」ということは、あまり関係が無い。と思います。 「いや、関係があるんだ」とbragelonneさんが主張されるのは、それも自由ですが。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  いえ。関係させる必要がなければ それでよいわけです。  ただし いまのままだと 非常にそのおしえは あいまいだと思います。  あいまいさを直すためには 《非経験の場》を想定して そこにブラフマニズムでしたら《アートマン》を置き ブディズムなら《空》をそれに当てる。こういう修正の方法があると思うが どうか? という問いです。  言いかえると 《直す必要はない》《いまのままでよい》というお考えなのでしょうか?  どうも 玉ねぎの皮を剥いているだけであって ゴータマ氏のブディズムには 芯が見当たらない。こう思うのです。  重ねて述べるなら 《空》という神(つまり この場合 無い神)を想定する無神論なる信仰。こう捉えるのが いちばん合っていると思うのが どうか? という問いです。

回答No.14

 取り上げた経典に“あいまいさ”を感じると云ってますが、確かに言葉上では“何を言ってるんだよ!”なんて思ってしまいます。  でも、私は・・・  私が釈尊を知ったのはあの有名な般若心経で、その時は色は空で、空は色?なんて何の事だかさっぱりわかりませんでしたが、その後「発句経」を知り、人の心の“働きを”教えられ、気づかされ、したので釈尊と云う人を信じることになりました。  だからどうしても、釈尊の残された“経”は分かりにくくても否定的にみることがなく、ここに取り上げている“経”の文面を見ても、言葉上ではなくその裏をみようとしてしまうのです。  そうすると、あいまいな感じの表現も、このように表現するしかない、と云った“世界”を思うのです。  悟れる人が体感するその世界、真理の世界には善とか悪とかそういうものは無いのだ、という言葉もありますが、これは“真理の世界は相対的世界ではない”ということを云っているのだと思います。  でも、その心理(神)に備わる意志という働き(エネルギー)が物質世界を現象させ、その世界はどうしても 相対性が存在してしまう。  この世が相対的であるから、善とか悪とか、有るとか無いとか、かしましくなりますが、真理の世界は相対ではないのでそのことを、表現しようとして、ブラジュロンヌさんが指摘する“あいまいさ”のある言葉になってしまうのだろうと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  今回は 残念ながら 取り上げるに足る中身をもって 反論なさっているとは思われません。  経験世界は 相対的である。非経験の場は 絶対である。  《絶対》の場は 善悪の彼岸である。有無をも超えている。《真理》と呼ばれる。  こういったふつう一般の議論を提出なさっているだけです。  そのどこが ブッダなのか? ブッダに関係なく 上のことは言えます。  ですから ただしたしかに  ★ 私が釈尊を知ったのはあの有名な般若心経で、その時は色は空で、空は色?なんて何の事だかさっぱりわかりませんでしたが、その後「発句経」を知り、人の心の“働きを”教えられ、気づかされ、したので釈尊と云う人を信じることになりました。  ☆ というくだりには 求めるべき《中核》があるかも知れません。ので そこのところを明らかにして ゴータマ・ブッダは 活きているという議論をしていただくとよいかと思います。  ★ 人の心の“働きを”教えられ、気づかされ  ☆ というのであれば これはまったくふつう一般のことがらです。ひとりブッダにのみ関係するとは 口が裂けても言えません。

回答No.13

考えていることを正確に表現することは大変ですね。 ブラジュロンヌさんは私に分かる様に丁寧に説明してくれました。 でも私の頭がいまいちなので、何となくの受け止め方になります。 ブラジュロンヌさんは神、そして信仰、について言葉を尽くしてくれました。 それから推し量ってみれば、釈尊は物のことわりをハッキリと言ってるので、釈尊があいまいなのではなく、その教えに接する悟りの世界をしらない人びとが、あいまいさを作り出してしまったように思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  二点あると思います。  ★ 釈尊は物のことわりをハッキリと言ってる  ☆ これは 全部ではないと思いますが 大方の了解しているところだと思います。    けっきょく《ハッキリと言っている》場合と《あいまいなまま語っている》場合とがあると思われます。  たとえば:  ▲ ( a )(スッタニパータ:人を迷わすおしえ。 =No.8お礼欄) 諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って 諸々の見解における〔過誤を〕見て固執することなく 省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。  ☆ これは《執着》や《過誤》とは何か? という問題を残しますが 《物のことわりをハッキリと言っている》場合の文章です。  ただし ちょうどその直前の一文は どうでしょう?  ▲ ( b )(同上) わたくしはこのことを説く ということがわたくしにはない。  ☆ これは《ものごとのコトワリをはっきりと言っている》でしょうか? どうでしょう?    以上が一点です。  もう一点は やはり《非経験の場》についてけっきょく何も知らないと言わざるをえないところが ゴータマ氏にはある。このことです。  同じスッタニパータからですが つぎのくだりは《内心のやすらぎ》とは何かを説明しています。  ▲ ( c )(同上) ~~~~  師は答えた。    ――マーガンディヤよ。見解によっても 学問によっても 知識によっても 戒律や道徳によっても清らかになることができる とわたくしが説くのではない。無見解・無学・無知識によっても 戒律や道徳を守らないでも 清らかになることができる とも説かない。それらを捨て去って 固執することなく こだわることなく 平安であって 変化的生存を願ってはならぬ。〔これが内心の平安である〕。  ~~~~~~~~~~  ☆ すなわち( b )は 何を言っているのか 必ずしも明らかではなかった。それだから 説明したくだりです。  ですが どうでしょう? はっきりと語っていますか?  このあいまいさは けっきょく《非経験の場》ないしそれを人が受け容れたあとの心なる《非思考の庭》 この主題について ゴータマ氏は知らない。ことから来るものと見ます。  問題は にんげんの境地が 一方でふつうは経験世界に立脚していること これは あたりまえです。他方で しかしながら 経験世界を超えているのではないかという問題があります。分かりやすく言えば ヒラメキです。  そして ヒラメキは 《非経験の場》とのかかわりがあると考えられます。それこそ その神ないしその霊としてのアートマンの問題であるとも言えるはずです。  ですが ゴータマ氏は アン-アートマン(無我)を打ち出したからには この神ないしヒラメキの問題は ついぞ明らかにし得なかった。のではないでしょうか?  という背景の事情から よく言えばかろうじてこのような《無い無いづくし》の論法を使って述べている。こう思われます。  ですが それは いまこのようにヒラメキないし信仰の観点を補助線として引いて解いて来たから 分かったことであって そうしなければ いつまで経っても 無い無いづくしの文章が延々とつづくことになります。  つまりは 玉ねぎの皮を二千年ものあいだ剥きつづけている。ということではないでしょうか?  これは 《さとり ないし ブッダ》を大前提に立てたゴータマ氏の――詐欺師としての――勝利です。皮をいくら剥いても 《中核》はないのですから。つまり ないにもかかわらず それを求めよと言っているわけですから。  求道心というのは 宗教のいかんにかかわらず 人ならだれでも多少は持っている。ゆえに そこにつけこんでいる。という堂々巡りが いたづらに おこなわれて来た。  と見ますが いかがでしょう?

回答No.12

 “あいまいさ”は私のもの。  「人間には分からない」のではなく、“凡人のままでは分からない”のです。  悟りに達した人は分かったから“絶体”という言葉が使えたのだと思います。  そのことを凡人が受け入れることが、「信仰」なのでしょう。    我々凡人は、“想像”の域を出ません。  

bragelonne
質問者

お礼

 いえ。違います。――まづは ご回答をありがとうございます。  《絶対》は この相対的で時間的で移ろいゆく経験世界を超えたところに想定される《非経験の場》です。  経験世界を超えるとは そこにおける因果関係から自由であるという意味です。因果関係から影響を受けることなく しかもその因果の過程に介在することも出来るという存在が 想定されています。つまり 神です。  ★ あいまい  ☆ というのは 両義性また多義性のことです。A とも B ともあるいは C とも受け取れるような意味を持つ場合を言います。  いづれかひとつに決めるべきものは決めなければいけません。思想として失格だと思われます。  ★ 信仰  ☆ は この経験世界におけるいっさいのものごととは別です。  《にんげんに分かるか分からないかが分からない非経験の場》を 神なら神として・アートマンならアートマンとして・キリストならキリストとしてその名を受け容れるかたちで わが心に受け留めることです。  この《受け容れ》は じつは経験行為に属します。しかも その受け容れる対象は 《非経験の場》です。  ですから 思考・つまり経験合理性にもとづく推理の対象ではありません。神は 思考するものではありません。ゆえに その受け容れ行為は経験的な意志行為なのですが その対象は 非経験であるゆえ この神を《考える》とは言わず・またそれはあり得ず 神を《信じる》と言います。  思考と信仰とは 別です。  経験世界と非経験の場とにそれぞれ対応します。  以上のことにかんするかぎり 多義性なるあいまいさはありません。  非経験の場は ナゾであるゆえ あいまいだという表現は また別です。  ★ 悟りに達した人は分かった  ★ “凡人のままでは分からない”  ☆ これが 忍法《のらりくらり》の術です。ほんにおまえは うなぎのよう。となります。  この蒟蒻問答が 二千年のよう延々とつづいています。  これは犯罪行為です。人びとの貴重な時間を奪って行きます。  なんでそんな詐欺師の肩を持つのでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 おとなになったら 分かるようになるから いまはお父さんお母さんの言うことを聞いて そのとおりにしてね。と言うようなものです。  そのように従うのは 《信仰》ではありません。  対象が 経験的なものごとであるからです。それを子どもゆえに分からないというだけのことですから。  経験思考が自分でも出来るようにときを俟つというかたちです。信仰ではありません。  親の言うことを聞くのは せいぜい親への信頼からです。信仰とは言いません。  このように人びとをバカにする態度とその思考回路は ゴータマの阿呆が切り拓いたものなのでしょう。

回答No.11

 「有るとも無いとも何も言わない」と云う表現は見当たりません。  「何もない」とは“実体”というものは無い、と云うことを云っていると思いますが、これは我々の心を通して観る世界の事を云っているのだと思います。  宇宙の、この世界の、本体は絶対的観念態であって、これこそが“実体”と云えるものである、と云えるように思いますが、“観念態”故に“実体”とは言えない、とも思えます。  「中核」以降は釈尊の責任ではないのではないでしょうか。    

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ これこそが“実体”と云えるものである、と云えるように思いますが、“観念態”故に“実体”とは言えない、とも思えます。  ☆ というあいまいさは ゴータマ氏からのものであると見ています。  用語の整理をしますが  ★ 実体  ☆ という言い方をすれば じつはそれは すでに《絶対》のことを言い その意味で《神》のことです。  ★ 絶対的観念態  ☆ 《絶対》であるなら それが《観念》であるか《物質》であるか はたまたほかの何かであるのかは 人間には分かりません。分かるか分からないかが分かりません。それゆえ 《絶対》と言います。つまり 《神》のことです。  言いかえると われわれに分かる経験的な事物であるのかどうかが 分からないのですから その神が《有る》と言っても《無い》と言っても その《絶対》は何も変わりません。《空》と呼んでもかまわないわけです。  ですから 有神論と無神論とは 互いにまったく同等です。おそらく第三の道はないはずです。  そして これは・つまりこれが 信仰の次元です。  もし  ★ 絶対的観念態の 相対的現象  ☆ と言うなら それは 《絶対》なる神が この経験的で相対的な世界とつながっていると仮定して そのように〔神が〕経験的現象を起こしていると見ていることになります。(自然現象や生物の事象や人間の行為などのすべてについて 神が起こすのでなくても 神がそれらに関与していると見るかたちです)。  この点は ゴータマ氏の場合には あいまいなのではないでしょうか? いえ 上の信仰の次元のことについても あいまいであると思います。  どっちつかず。です。それゆえ ほんにおまえは屁のような。となります。  のらりくらり どこまでも逃げおおせると思っている節があります。  ゴータマ氏の責任です。  というより そのような責任を感じるまでにも到っていなかったのではないでしょうか?  という意味は 梵我一如というひとつの世界観のもとに ただただ暴れ回っただけの孫悟空なのではないでしょうか?

回答No.10

 「空」は信仰の問題ではないと思います。  この世の理を説明するために使われた言葉であって、“信仰”と結び付けると脱線してしまうのではないでしょうか。  現代の彼のお坊さんは、この宇宙は絶対的観念態で、それが世界の相対的に物象心象の二現象となって現れており、それは本質が同一観念態の相対的現象なのである、と云っていますがこのことを釈尊は「空」と表現したんだと思います。  語弊があるかと思いますが、“つかみ所が無い観念態”故に「空」と表現するしかなかったのでしょう。  この「空」の捉え方の違いから、お互いの考えの枝分かれが始まるように思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ・・・それは本質が同一観念態の相対的現象なのである、と云っていますがこのことを釈尊は「空」と表現したんだと思います。  ☆ そうですよ。そして そこまでは大方の理解は一致しているはずです。  そのあと 《中核》は どうなのか? が問題です。  何もない あるいは 有るとも無いとも何も言わない。ということでしたら それは 相対主義というひとつの思想です。  突き詰めて行くと けっきょくふつうは無神論に行き着きます。つまり その無神をも 別の概念として《空》とよぶという見解もありうるわけです。  単純にそのことを ここでは提案しています。  でも そのことは――けっきょく《信仰》にまで行き着くという意味ですが―― はっきり言わなければならないことだと考えます。  おそらく有神論――たとえば 梵我一如のアートマン――か あるいは 無神論か これらふたつの場合しかあり得ないと思いますが もし経験世界についての世界観として《空》を打ち出すとしたら 言ってみれば《信仰》の次元にかんしては その空でもないとしたら 《第三の道》としておのれの立ち場をはっきりと明らかにしていなければ その思想は活かされないでしょう。  《相対主義》のままですと たとえば《善は悪 悪は善 何でもあり》といったのっぺらぼうの世界観に落ち入ります。声の大きい者がそのチカラにまかせてこの世を支配するといった思想です。

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     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 信じないとは 非思考の庭にて信じないと信じることだ

     神は 《非知》である。  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________       ↓          ↓     ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。  オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。  《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく:  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。  すなわち中で  《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく  《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。  以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。    

  • 《梵我一如》類型は一般および個別絶対性理論だ 

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知(やがて既知となるであろうと推察しておくもの)      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    【α(霊我)】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ直観・良心    -----------------------    【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト     【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。つまり梵我一如なる類型。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ この仮説でじゅうぶん世界のモヤモヤのあたまは晴れ上がると思うんですけれどねぇ。どうでしょう。

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ

     ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ  1. まづ ほかに確かに ブッダター(仏性・如来蔵・自性清浄心)の理論があります。のちに言う《非思考の庭》の問題です。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。  2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。  3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。  ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ      【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った定理など)    非経験(経験世界を超えた場を想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)     ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ------------------------   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如(有神論)    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらが わが心なる《非思考の庭》における《信》のあり方である。みな同じなのである。ただし思考に非ずとして。  4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは そこにふたたび逆転し名前を変えて ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。  ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。

  • 老子は 無神論〔なる信仰〕か?

     福永光司が まとめとして 書いています。  ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~  (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは   (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し   (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり    (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。  (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。  (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。  (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。  (5) そのとき問題は  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。  (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における    B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。   G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (7) 言いかえると あと一つ問題なのは  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。  とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。  以上を問います。  (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。  (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。  (10) なお親鸞の場合には     C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)     仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)     仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。  ここまでを問います。

  • 自力聖道門と他力易行道とは 次元が違う。

     こうです。   信じる: 他力(絶対他力)   考える: 自力聖道門(時にラッキーな易行道)  その上でまづふたつの文章を見てください。  ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~~~~~    自然といふは    《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。    《然》といふは しからしむといふことばなり。    しからしむといふは行者のはからひにあらず     如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。        * 爾(に・じ):しかり。そうである。  ■ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~    自己を運びて万法を修証するを迷とす。    万法進みて自己を修証するは悟りなり。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち《如来》を持ち出すのは いわゆる――広く取ってください――有神論です。  道元の言う《万法(森羅万象 またそこに見られるという法則)》のさらにその背後になおアミターバ・ブッダと呼ぶ神を想定しているのが 親鸞であるのではないでしょうか。  つまり道元は いわゆる無神論です。  ところが その《無い神》をけっきょく 親鸞のアミターバ・タターガタ(阿弥陀如来)と同じ位置に立てていると帰結されるかのように 道元も《自然法爾》だと言っています。道元が 言っているのです。  つまり そう言っているも同然です。なぜなら 《自己が修証される》のは 《万法が向こうからすすんでやって来るゆえに》だと言っているからです。《おのづから》であり 《行者のはからひにあらず》と言い切っているからです。    つまり 一般に神とわれとの関係――これが《信仰》のはずですが――については 無神論の道元のほうも 決して《自力》ではなく《絶対他力》なのです。そう言ってよいでしょう。  自己の能力と努力は 経験的なことがらについては大いにまじめにおこなうのですが こと信仰にかんしては あちらからのおとづれを俟って成り立つと言っています。        親鸞・・・・・・・・・・・・道元  _______________________  信じる: 他力(絶対他力)  他力   :《はからひ無き》  考える: 自力         自力   :意志行為である。  こうでしょう。どうでしょうか?

  • 一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説

     一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説または宗教の絶対的批判  1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》なる主観を外から否定も肯定も成し得ないというときその神観としての主観を言う。〔(5)に見るごとく 神は 非知ゆえである〕。  2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》なる主観は 外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。  3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けて心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。または 神なる概念の弄びである。宗教は 存在理由が無い。  4. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象     可知       既知(間違いだったと分かることもあるが知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)   非経験の場     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。   【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心   -------------------------   【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト    【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。または 霊霊一如である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  8. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  9. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  10. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  11. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  12. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。  13. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間にとってゆえ――多様性を持つと見られるとき 特殊絶対性として捉えられる。  14. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。オシヘは すでに思想である。  15. ところが もし宗教がこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くなら いまの絶対性理論の外にある。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。神論としてアウトである。  ☆ ご見解をどうぞ。  

  • ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第七章 ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ  1. まづ ほかに ブッダター(仏性)の――非思考の庭にとっての――理論があります。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。  2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。  3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。  ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ      【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。  ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。