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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:邪馬台国=九州説と記紀)

邪馬台国=九州説と記紀

chiha2525の回答

  • chiha2525
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回答No.2

日本書紀には、三国志(魏志倭人伝)に書かれている卑弥呼は神功皇后のことであろう、という旨の記述があったと記憶しています。これがヤマト王権の、いわば公式見解です。 神功皇后でないと考えるならば、日本書紀には卑弥呼に相当する人物は書かれていないということです。 卑弥呼や邪馬台国は三国志(魏志倭人伝)に書かれているものです。まずはこちらを読まれることをおすすめします。(読んだことないでしょ?)

noname#190665
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ですが、質問の趣旨を勘違いされているようです。 質問の趣旨は、邪馬台国=九州説とする立場からは、卑弥呼は記紀の誰に該当すると考えているのかということです。 回答者様がおっしゃる神宮皇后=卑弥呼というのは、日本書紀を記した人物あるいは大和朝廷の見解だと、回答者様自身がおっしゃっておられます。 回答がずれていること、わかりますか? 日本書紀に記されているのは次のようなことですね。 神功皇后39年(239年)、魏志によると明帝の景初3年(239年)6月に、倭の女王は太夫・難斗米を派遣して朝貢した。 40年(240年)、魏志によると、正始元年(240年)、詔書や印綬をもたせて建忠校尉梯携を倭国へ派遣した。 43年(243年)、魏志によると正始4年(243年)、倭王は使者の太夫・伊声者掖耶ら8人を遣わして献上品を届けた。 ちなみに魏志倭人伝の記述は次のようになっていますね。 (すいませんね、魏志倭人伝の和訳は読みましたので。原文はちょっと手においかねます。) 景初2年(238年)6月、倭の女王は太夫・難斗米を派遣して朝貢した。 正始元年(240年)、太守弓遵は詔書・印授をもたせて建中校尉梯儁等を派遣した。 正始四年(243年)、倭王、使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わして献上品を届けた。 魏志では景初2年となっているのが、日本書紀では景初3年になっています。 また魏志では伊声耆・掖邪狗となっているところが日本書紀では伊声者掖耶となっています。 でも、その他はほぼ同じ内容ですね。 これらの記述から回答者様がおっしゃるように、日本書紀は卑弥呼とは神宮皇后だといいたいのだと思われます。 しかし邪馬台国=畿内説では、卑弥呼は神宮皇后のことだと考える人は少ないと思います。 そうではなく、卑弥呼とは倭迹迹日百襲姫命のことだと考えていると思います。 それはやはり箸墓が倭迹迹日百襲姫命の墓だとされているということが大きいと思いますが、 日本書紀の神宮皇后の記事にはちょっとおかしいところもあるせいではないかと思います。 日本書紀にはこうも記されています。 神功皇后66年(266年)、この年は晋の武帝の泰初2年。『起居注(晋の天子の言動などを記した書)』に『泰初2年、倭の女王が貢献した』としるされている。 神宮皇后が没したとされるのは神宮皇后69年(269年/泰初5年)なので、泰初2年に朝貢した倭の女王もまた神宮皇后だと日本書紀は言いたいのでしょうか。 魏志倭人伝の記述は次のようになっています。 正始8年(247年)、卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼との争いを報告。太守は激文をもって卑弥呼に告諭した。 卑弥呼死亡。直径100余歩の塚をつくり、奴婢100余人殉葬。 男王を立てるが国中が服従せず、お互いに殺し合った。 卑弥呼の宗女トヨ(13歳)を立てて王とすることで国は治まった。  張政らは激文を発し、トヨに告諭を与えた。 トヨは、倭の大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人を派遣して朝貢した。 魏志倭人伝には卑弥呼が死んだのがいつなのか、はっきりと記されてはいません。 でも、文の流れからみて、狗奴国の男王と争った247年ごろのことのように思われます。 しかし、日本書紀では神宮皇后がなくなったのは、269年となっていて、247年とは大きくかけ離れています。 また魏志倭人伝には泰初2年の朝貢についてはふれられておらず、卑弥呼の宗女・トヨの朝貢についてのみ記されています。 私は日本書紀の抜粋を読んだだけなので誤りがあるかもしれません。 でも回答者さまはもちろん日本書紀お読みになったんですよね?

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