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回答(6件中 1~5件目)
例のマキムク遺跡の発掘によって、畿内説にぐっと傾いてる印象ですね。
ある学識者によると、考古学者の10人に質問したら9人は畿内説と答えるだろう、とのこと。
しかし、九州の吉野ケ里遺跡が発掘されたとき、当時の邪馬台国論争は急激に九州説に傾きました。今後九州で有力な発見があれば、また九州説に傾く可能性もあります。
もっともその九州説にしても、なんか負け惜しみみたいな説になってますよね。現在のところ。
つまり、九州説の中にも「邪馬台国東遷説」ってなものが出てきてます。これは邪馬台国はもともと九州にあったのだが、卑弥呼の時代に近畿に移転したというもので、「なんじゃそりゃw」みたいな説です。
ほとんどこじつけにしか聞こえないのは、私だけでしょうかww
そんな説が出てくるのも、やはりマキムク遺跡のインパクトがそれほど大きいからでしょう。
なにしろこの時代としてはケタ外れの巨大遺跡で、もしこれが邪馬台国でないとしたら、これほどのクニについて、魏志倭人伝にその記録が見当たらないのは、きわめて不自然だということになってしまうからです。
投稿日時 - 2010-12-23 20:19:28
魏志倭人伝
種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、[糸+兼]緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。
これに書いてあるように、邪馬台国では、イネ、アサ、養蚕、絹織物の産業がありました。 牛馬やトラ、ヒョウ、羊、カササギはいない。軍隊があり兵器の名称が書かれ、弓矢の構造や矢じりの素材も具体的に書かれています。
この魏の使者は、羊はいないと言っていますが、山陰の青谷上寺地遺跡や美作の遺跡の出土品には羊が描かれています。山陰に羊がいたということがあるのならば、一部にある神話の古里・『山陰邪馬台国説』は薄いということですね。
養蚕~絹織物まで比較的詳しく書かれています。日本には弥生時代前期に四眠蚕(華中)が渡来しその後三眠蚕(河北&朝鮮)が入って来ていますが、これらは北九州で主に出土しています。近畿では珍しいようです。ということは、近畿では無い可能性が高い。
この記述部分の『物証』から素直に考えると、これは北九州のことを書いてあるということになります。
ただ後の時代の話に610年に遣隋使の返礼の使者が日本に来ていますが、その時代でも「対馬」と「壱岐」は独立国のように記述されているようで、その随書によると邪馬台国は小国に滅ぼされ、滅ぼしたその国が倭国であるとかあるようです。このことから、邪馬台国は現在の国家という規模ではなく、地域の人口の多いクニであり、類似のクニは九州にもあり近畿にもありだったのでしょう。
倭国で一番賑やかな街は桜井市にある万葉集にもよまれている「海柘榴市」ですし、最古級の前方後円墳・箸墓古墳がありますね。前方後円墳はその後の時代に続きますので、邪馬台国を滅ぼした勝者のクニの埋葬法が残ったと考えるならば、箸墓古墳の主は邪馬台国の卑弥呼なのか、後の倭国を築いた小国の主なのか、どちらでしょう。普通は勝者の埋葬法が残るような気がしますが、分かりませんねぇ。
私の結論、酋長国の主がどこに住んでいたのか分からない、です。
投稿日時 - 2010-12-11 22:33:22
考古学成果による畿内説と有力の風潮ですが、
畿内で大型の古墳が見つかっていることと、それが邪馬台国であるかどうかとは、本来別問題です。
あくまでも、邪馬台国があったのと同じ時代に、畿内に大きな勢力が存在していたことが明らかになっただけであり、それが邪馬台国なのか、それとも他の国なのかはわからないというのが正確でしょう。
若井敏明『邪馬台国の滅亡』(吉川弘文館 2010年)では、
もし九州の諸大名による天正遣欧使節の派遣主体がわからなくなっていたとしたら、当時のもっとも有力な大名が派遣したと考えられて、織田信長が派遣したと推測されるだろう。安土城や堺でギヤマンの壺でも出土すれば、決定的な証拠といわれるかもしれない。
という面白い例え話がされています。
報道などによる世間の風潮としては、畿内説が有力ですが、学問的には必ずしも有力とは言えないと思います。かといって九州説が学問的に有力なわけでもないようですが。
投稿日時 - 2010-12-10 21:38:05