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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:邪馬台国=九州説と記紀)

邪馬台国=九州説と記紀

GZZ04000の回答

  • GZZ04000
  • ベストアンサー率22% (2/9)
回答No.1

 まあ、邪馬台国の時代ともなると、実際に活躍していた人物の数に比べて、われわれが文献から知ることのできる人物の数など限られていますから、あまり無理やり対比させるのもどうかと思いますが。ただ、卑弥呼の場合はそれなりの領域を治めていた女王であるので、日本側の記録のどこかに書いてある可能性は高いと思われます。  やはり女王なのですから、天照大神が最もそれらしいとは思いますが。  倭迹迹日百襲姫命は王でもなんでもなく、事跡もにていないので、多分違うでしょう。  卑弥呼の墓については魏志倭人伝の記述からすると余り大きくない円墳のようですから、現在あまり目立つものではないでしょう。

noname#190665
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 もしかしたら質問の趣旨がうまく伝えられていなかったかもしれません。 申し訳ありません。 九州説の一般論について質問したつもりでした。 その上で、余力があれば自説なども聞かせていただければありがたいなと。 例えば、古田武彦という研究者は邪馬台国はなかった、あったのは邪馬一国である。 邪馬一国は九州にあった。 邪馬一国は大和朝廷となり、7世紀まで九州にあった。 としておられるそうです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC この説に従えば、記紀の記述は九州王朝を記述したものだということになると思うんですが それならば、卑弥呼とは記紀に記された誰のことだとしているのか、と思ったわけです。 質問がわかりにくくて申し訳ありませんでした。 回答くださったのは、回答者様の自説ということでよろしいでしょうか? もちろん、文献というのは限られたことしか記されない上に、 誤りや偽りもあると思います。 また、記紀に記されているのは大和朝廷の記録なので 九州に別の王朝があったとすれば、記紀に記されていなくとも当然だといえるでしょう。 なるほど、卑弥呼は天照大神ですか。 すると男弟はスサノオですね。 天照大神の孫のニニギは宮崎の高千穂に天下ったとされていますから、そう考えることもできると思いました。 倭迹迹日百襲姫命は王ではなかったですが、事跡が似ていないというのは考え方によるかもしれません。 卑弥呼は巫女的な性格をもっていますが、倭迹迹日百襲姫命も大物主の託宣をしたり、乱を予見したり、巫女的な性格をもっているとはいえると思います。 また籠神社で発見された系図には日女命(ひめのみこと)とあり、その脇に「またの名を倭迹迹日百襲姫命」「日神ともいう」などと記されていました。 卑弥呼とは日女命の音に漢字をあてたものだとする説があります。 また、日神というのは天照大神をイメージさせます。 >卑弥呼の墓については魏志倭人伝の記述からすると余り大きくない円墳のようですから、現在あまり目立つものではないでしょう。 魏志倭人伝では卑弥呼の墓は径百余歩と記されていました。 一歩は145cmなので、径百余歩は直径約150m。 (ちなみに倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓は直径155m) これは最大級の大きさの古墳だといえるんじゃないかと思いますが。 もちろん、長い年月の間に草木が生い茂って古墳であることがわからなくなってしまった、などということもありますから 卑弥呼の墓がないからといって、邪馬台国=九州説ではない、などとは結論づけられないとは思いますが。

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