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囚拘偏の語源???

元の薬師寺管長 高田好胤先生の般若心経の説話の最後に 囚われない心、拘らない心、偏らない心 これが般若心経 空の教えなり とあります (1) 囚 は人間が囲い込まれているので トラワレル ← 独断です (2) 拘 の寄って来たるところが全く分かりません (3) 偏 は人偏ですから人間が関係しているのでしょう でも扁とは何ですか? 高田好胤先生の説話は40年ほど昔、銀座の三越ホールで拝聴致しました でも今だに分かりません いい加減に理解しておかないと、近々往くであろうあの世とやらで高田先生に叱られます 是非このボンクラでも理解出来るようにご指導をお願い申し上げます

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回答No.1

高田管長さんのご法話はお聞きしたことがないのですが、そのご法話では、「囚」「拘」「偏」の漢字の字義の説明をなさったのですか。 字義の説明ならば、 「囚」=「囗」(=かこい)+「人」。人をかこいの中に閉じこめる意。 「拘」=「手」+音符「句」(=ひっかけてとめる)。手でさえぎりとめる意。 「偏」=「人」+音符「扁」(=薄くて平ら)。薄く平らに引き延ばしたはしの方、中心から離れかたよったところの意。 になります(『広辞苑』第6版DVD-ROM版附属の漢字辞典より)。 ご法話では、分かりやすくするために、このような漢字の字義にからめたお話をされることもありますが、『般若心経』自体に、漢字の字義を説いている箇所はありません。 そんなややこしいことを考えずとも、単純に、《何事にも「とらわれず」「こだわらず」「かたよらず」、心を自由に(「空」に)することを、『般若心経』は説いているのだ》ということをおっしゃったのではないでしょうか。 漢字の字義をあれやこれやと穿鑿することこそ、「漢字」というものに「とらわれ」「こだわり」「かたよる」ことになってしまいます。 管長のご法話を聞いたこともない人間があまり偉そうなことは言えませんが……。 管長のご法話を纏めた書籍は何種類も出ています。図書館にもたいていは置いてあると思いますので、お読みになってみては如何でしょうか。 http://www.honyaclub.com/shop/goods/search.aspx?sort=kw&search=%8c%9f%8d%f5&cat_p=00&image.y=0&image.x=0&keyw=%8d%82%93c+%8dD%88%fb#g_list

sato-may
質問者

お礼

ありがとうございます わかり易い説明に感謝致します 今度ともよろしくお願い申し上げます 有難うございました

その他の回答 (1)

  • kine-ore
  • ベストアンサー率54% (808/1481)
回答No.2

「般若心経」において、例えば「照見五蘊皆空」「是故空中 無色無受想行識」のくだりが思い起こされます。 心のあつまりであるべき、 その第一「受(感覚器官)」には「囚われない心」を、 その第二「想(現象の分別)」には「偏らない心」を、 その第三「行(所作の選択)」には「拘らない心」を、 そうすれば第四段階での「識」において、「空相(とらわれ、けがれに染まる以前の本質)」を照見する「般若の智慧」へと至るであろう、と。それが「般若の心の経(おしえ)」なのだと薬師寺第百二十四世管主は説かれたのではないでしょうか。 五蘊縁起において、 色(シキ) =地水火風   :世界の滞(とどこおり);滞礙 受(ジュ) =喜怒哀楽    :感覚の囚(とらわれ);囚縛 想(ソウ) =是に非に    :分別の偏(かたより);偏執 行(ギョウ)=文字に言語に :表象の拘(こだわり);拘泥 識(シキ) =教法に修道に :認識の迷(まどわし);迷昧 参考: 和辻哲郎 「原始仏教の実践哲学」(岩波書店 昭和7) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223893/117 玉置韜晃 述「般若心経講話」(顕真学苑出版部 昭和6) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1027166/59

sato-may
質問者

お礼

ありがとうございます 大変高度なご解説ですので、正直なところ理解出来ておりません じっくりと拝読させて頂きます 有難うございました

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