聖書とは一体どういう経典なのか?

このQ&Aのポイント
  • 学問的興味からキリスト教の聖書を読んだが、教えのロジカルさが感じられなかった。全知全能な神が人類を苦しめたり、わがままな権力者の寓意に思える。ただの面白い読み物かもしれない。
  • 他の宗教の経典と比べると、キリスト教の聖書は対話や寓話が多く、内容をそのままに受け取るのではなく、知恵や思考法を読み取るものとされる。しかし、そのレベルは寓話と同じと感じる。
  • 聖書は宗教における経典としては理解し難い。感動する要素は理解できず、この物語が聖典としてふさわしいのか疑問に思う。キリスト教に詳しい方に解説を求める。
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聖書って経典としてどうなんでしょうか?

聖書って経典としてどうなんでしょうか? 私は宗教に関しては無関心というか、知的好奇心の対象ではあっても信仰の対象ではない、そういう人間です。 学生時代、仏教系学校に通っていたので、仏教の考えや般若心経の和訳などを学びました。その内容は非常にロジカルで、無宗教の自分もなるほど、と思う内容でした。人間の認識機能や思考法など、現代の脳科学にもつながってくるのではないか、と思ったほどでした。 般若心経など、まるで学術書のようです。 ただ、そんなに優れた思考法を伝える仏教が変な儀式(オカルティックな思想とかひたすらお教をつぶやくとか、煌びやかなご本尊を崇めるとか死者の何回忌をやってお金を取るとか)ばかりなのは理不尽に思いましたが、まあこれは釈尊の教えではなく、現世組織としての仏教が存続するための営利行為として必要悪であると認識しています。 そこでほかの宗教の経典(に当たる書物)もそういう優れた思想で出来ているのだろうと思い、世界的な宗教であるキリスト教の聖書を読んでみました。 しかしながら、聖書は小説としては非常に面白い読み物であるとは思いましたが、教えと言いますか、ロジカルさが欠片も感じられませんでした。 ただのファンタジー小説、あるいは神話をより歴史的な形式にした読み物、といった感じです。 しかも神は全知全能と銘打ってる割にいきなりサタンにアダムとイブを騙されたりとか、増えすぎた人類を自分で手綱を取れず、大洪水で滅ぼしてしまうとか、全知全能ならサタンを改心させるとか、人類を調節するとか片手間でできるだろ、というか、悪魔にそそのかされて信者を散々苦しめるとか、客観的に見て、単なるわがままな権力者の寓意にしか思えないわけで、なんでこれが世界的に信仰されてるのかさっぱり理解できません。 確かに読み物としてはそこそこ面白い。それに良くも悪くも、寓話的な話も多いので、内容をそのまま鵜呑みにするのではなく、そこからなんらかの知恵というか思考法を読み取るものなのかもしれません。 しかし、そういうのってただのイソップとかそういう寓話と同レベルな気もしますし。 般若心経のほうが経典としてはずっと理路整然としてて分かりやすくてシンプルに思うのですが…… なんというか、般若心経は学術書、聖書は俗っぽい小説、という感じで、これが宗教における経典として同じものなのか、と驚きました。 でも聖書を読んで感動した、という人も実際にいるようですし。 こんな、ただの読み物が聖典でいいのか? というか、こんなDQN権力者の我がまま物語のどこに感動する要素があるのか? 僕の理解力が悪いのかそういうふうにしか感じられないわけですが、キリスト教に詳しい方、解説をお願いできないでしょうか?

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  • hisya
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回答No.7

宗教へのアプローチはいろいろ面があります。 理路整然としたものは哲学的な側面であり、 キリスト教においては神学がこれに当たります。 現代のキリスト教神学には二つの立場があります。 (1)原理主義=ファンダメンタル 聖書を文字通りに信じる立場です=進化論の否定 (2)近代主義=リベラル 聖書を批判的に理解する立場です=聖書の高等批評 あなたが言うファンタジー小説または寓話的な話の部分は 神話や伝説とみなす立場です。 こういう立場の神学者がキリスト教の教えを 理路整然とした学術書のようにまとめています。 宗教におけるアプローチにはほかに 感情的というか心理的な側面があります。 信仰の対象に対するそういう面ではイメージや物語のほうが とても大切な要素になります。 抽象的な教義や理論には人は感情移入が難しいのです そして世界宗教における物語には普遍的な主題があります。 昔、ETという映画が感動を呼びましたか、 あれはイエスの死と再生の物語が下敷きになってます。 また、イエスはよく譬話をしましたが こういうのが教え(教義)より人の心に訴えたのです。 たとえば、よきサマリア人の譬え話=隣人愛などです。

temtem1
質問者

お礼

ありがとうございます。 心に訴える、ですか。そう考えると聖書というのは現実として確かな力を持っているのかもしれませんね。 ただ、そういうのに合わない僕のような人間もいるというだけで。 ただキリスト教の神学は聖書の解読や解釈に終始しているだけというイメージがありますね。

その他の回答 (13)

  • hisya
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回答No.14

No7です。アドバイスをします >こんなDQN権力者の我がまま物語のどこに感動する要素があるのか? あなたは旧約聖書を主に読んでいませんか?旧約の神は恐ろしい裁きの神です ここで感動する人はほとんどいません。歴史としては面白いですが。 キリスト教の中心は新約聖書にあります。弱い人への愛やキリストの救いなどです 聖書の中で福音書が一番感動を与えてるのでそこを読むのを勧めます

temtem1
質問者

お礼

確かにキリストの話は素直に物語として面白かったです。 実在のキリストが神の子なのか、奇跡を起こしたかは置いておいて、きっと人格的にも魅力的な人物だったのだろうと思います。 ただ、だからころ、単なる面白い小説を読んだ気分にしかならないのです。 これは、宗教行事は無節操に行いつつも特定宗教への信仰心を一切もたない現代日本人の自分の感性的な問題かもしれないですね。

  • hisya
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回答No.13

 No.7です。補足します >ただキリスト教の神学は聖書の解読や解釈に 終始しているだけというイメージがありますね。 キリスト教の神学にはいろいろな部門があります。 「聖書釈義」=聖書の解読や解釈です 「組織神学」=キリスト教の神学を体系的に論じてます 般若心経の講義を読んだことがありますが、 組織神学が論理的な部分では似ています ただ、組織神学はキリスト教の信仰がないと 神論、人間論、堕落論、キリスト論、救済論、終末論など 読んでも机上の空論のように感じるかもしれませんね。

temtem1
質問者

お礼

やはりキリスト教を信仰する下地がないと理解は非常に難しいということでしょうか。 宗教は感覚的な部分も多いと思いますのでしょうがないのかもしれませんね。

回答No.12

>こんな、ただの読み物が聖典でいいのか? そうですね。イエス・キリストの記録としては、約2000年前の記録ですね。そして、旧約聖書はそれ以前の記録。言葉を話せない人は別としても、最初から口述とは思えないので、伝承の時代もあって不思議は無いでしょう。人類の初めの記述を見ていた人は居なかったので、書いたのは人間でも知っていたのは、神様しか居なかった事になります。  書き手としての人間と、神様の共同制作と言えます。しかし、神を否定する人にはこの神は存在しないので、人間の書物としか成り得ない。記述内容は神が人間を通して書いたと見る事が出来ますが、客観的な物証とは言えない。だからこそ信仰上の聖典と言えるのでしょう。  見方、(1)物語(文学書) (2)歴史(飽くまで神と選民、他民族などの関係) (3)預言書(神の約束と成就) (4)その他(西洋音楽や絵画への影響、地動説や天動説、道徳観や教育の基礎)  ※律法の書に関しては省略(~しなさい、~するなの規定、約束)  (1)ではヨブ記やコヘレトから人生観を考えさせられる人も多い。(2)人類の誕生は時代が変わっても生物学的な学説が変わっても、永遠のテーマである。そして、人類が存在する宇宙も現時点では普遍のテーマである。(3)聖書が人間の手に依って記述という表記をした書である限り、100%完全であるとは言えない。そもそも人間には間違う事がある。神の言葉である聖書は、完全であるとする主張はあるとしても。(4)現代は、この部分に当る係わりが多い。例えば、最近”死生学”が注目されている。自殺予防やガン末期患者のケア、高齢者の死に対する関わり方など(ホスピスと言われる)。キリスト教の生と死は価値観の転換を意図している。そこから生と死に対するキリスト教的な救いが語られていると思う。この死の見方に仏教との大きな違いがあるように思う。  唯の読み物と見るか、人生の指針となるか、研究対象となるか、或いは仕事の領域になるかはその人との関わりになると思う。 

temtem1
質問者

お礼

ありがとうございます。 本気で神の書物と考えると胡散臭いことこの上無いですが、当時のユダヤ人たちの人生観を導くためのものだと考えれば納得いきます。 人生の理不尽な出来事を、ただの不幸と嘆けば気が滅入りますが、神の与えた試練と解釈すれば多少は前向きに捉えることができるかもしれない。 ようはそういった形で教訓を物語の形にしている、ということでしょうか。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.11

>ユダヤ教徒は信仰になにも期待はしていないということでしょうか。 信仰、、また難しいことを、、、、 が、非力ですがトライしてみますね。 <全知全能ならサタンを改心させるとか、人類を調節するとか片手間でできるだろ、というか、悪魔にそそのかされて信者を散々苦しめるとか、客観的に見て、単なるわがままな権力者の寓意にしか思えないわけで、> ええ 私も前 同じことを思っていました。 「全知全能なら、アダムとイヴが蛇にそそのかされるってわかっていたはずだから、未然に防げばいいなじゃないか」 「全知全能なら悪魔をさっさと退治しちゃえばいいじゃないか」 「悪魔と談合して人間を試して苦しめるなんて なんてひどい神だ」って。 ですが後に、全能とはあらゆることを<すぐ>するということではないとわかりました。 ラビ文学のコヘレトの言葉を読んだから。 http://asianblue.info/christ/esei_tokihtm.htm この内容の一片を知ったのはネットだったんですね。 アメリカのイラク戦争を支持するかしないかをネットでバトっている中、ある人がこの言葉を掲示板に書いた。 「この信念に沿って行動をするまで」と書いていた。 圧倒的な説得力だったので、私は彼の書いた<言葉>に非常に興味を持ち、一体この言葉はどこからきたのかと調べ、聖書の中の言葉だったと知り、全編が欲しくなりあの高い聖書を買ってしまったんです。 リンク先に<それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。>と書いてありますでしょ? 神とサタンが信仰深く義人と世間でも評判のヨブについて「この人は見返りがあるから信仰しているのか、それとも根っからの全員だから善い行いをしているのか どっちなんだろう」と話し、サタンは「ヨブは見返りが無くなれば信仰しなくなるはずだ」と主張した。 真実を確かめるために、神はサタンがヨブを丸裸にすることを止めなかった。 途端にヨブの家畜は全滅、家は燃え、子どもは全員死亡し、自らも思い皮膚病をわずらい地面を転げる苦しみを味わった。 ひどい話です。 ヨブはその理由がわからなかった。 3人の友人は、それぞれの見解を述べたのだがヨブは納得しなかった。 そればかりかものすごい演説をもって3人の友人を黙らせてしまった。はい ヨブの勝ちぃ。 ヨブと3人のやりとりを聞いていたエリフは、「若造だけど言わせてくれ」と介入した。 しかしヨブはエリフの解説でも納得しなかった。 「言っていることはわりますよ、だけど私の問いの答えになっていない。私だって人間ですから小さな過ちは犯してきたでしょう。だけど、それがこれほどの苦しみを受けるほどのことだったのですか? 仮に私に過ちがあったのだとしたら、神は罰するのではなく取り除いてくれたらいいではないのですか? 何故そうせずに罰するのか その理由はなんですかって聞いているんですよ」と。 読者は超越した場所から神、サタン、ヨブ、妻、3人の友人、エリフのやっていることを眺めているので、全容を知っている。 が、全部を知っている読者は別次元にいるので、神にかわってヨブに答えることはできないし、神の計画はまだ完了していないので読者が途中で介入するわけにもいかない。 読者が何もしないで見守っていると、ついにヨブを相手にできる人が1人もいなくなり、残りは神しかいなくなったわけです。 ヨブ ついに生まれて初めて神の前に立つ! 神とヨブのがちんこ対決(義人ヨブは生まれて初めて神の前に立った。)を読者は超越した場所から眺める。 ヨブの受けた災いは因果応報を超越したものでしたよね。 どう考えても理由がわからないって時は、もう聖職者に質問しても納得できないはずだから、直に神の前に立つしかなくなる。 「神の義を追い求めたものは幸いなり」って新約にも書いてありますし。 ただし誤訳で「神の義により迫害されたものは幸いなり。天の国は彼らのものなり」ってなってしまってますが Orz。 「神を畏れ敬え」って言葉を聖職者がいくら言っても信者はピンとこない。 それでヨブ物語を作ったんじゃないか と。 だからヨブ物語は神とサタンに人間イジメについて書いたものじゃないんです。 信仰について書かれたもの。

temtem1
質問者

お礼

う~ん、やっぱり僕には理解は難しいようです。 ただ、なんというか、結局は人生はどういう災いに会うか分からない。でもそれを恨んでも仕方がない。 神の御技だと考えて粛々と受け入れようという、心のありようを示した寓話、と解釈すべきものということでいいんですかね。 当時のユダヤ人の不遇な境遇の中ではそういう考え方を広めることでコミュニティの維持を図った、と言うふうに思えます。

回答No.10

 No.3です。ご返答をありがとうございます。  おぎないます。もうひとこと添えます。  聖書は 存在論です。  すでに虚構であるとお伝えしましたが その物語の中に――つまり 新しい契約としてのキリスト・イエスの物語に到るまでの物語の中に―― 《存在》の理論が延々と表わされていると考えます。   《存在》とは おのおのの主観にとっての自同律すなわち自己同一性のことですよね。《人が人である / わたしが 人である / わたしが わたしである / わたしが わたしする》というそのあり方だと思います。     よく出すのですが ニ千年の物語を 次のような短い話しに縮めてみました。  その昔 アブラハムという人は もう七十歳を過ぎているのに     《その父祖の土地を離れ去って 行け》  という声(お告げ?)を聞いたそうです。ぢゃあ どこへかとも定まらずに これに従ったそうです。たいていは 《神がかり》と見なすようなことでしょうね。  次に この《神がかり》が昂じてと言いますか 或る人は――仮りにダヰ゛デとしますが ダヰ゛デは―― こう表現したと言います。つまり その神が言うには    《きょう わたしは おまえを生んだ》    というのだそうです。そのダヰ゛デは 《その〈なぞの何ものか〉によって その日 生まれた》と表現するような体験を持ったということらしい。  目覚めた(ブッダ)というようなことでしょうか。この自己表現も 《存在》にかかわりますよね。  また 先ほどの《行けと言われたから 行った》 これも そういう――受け身のかたちですが―― 自己表現になっており その表現のごとく生きることが おのれの存在だと言っている場合だと考えられます。  さらに イザヤという別の人が 神がかりに遭います。つまり   《存在せしめるものの霊が わたしに臨んだ》  とまで表現しました。そして 社会的な弱者を 自分のこととして 受け取ったのでしょう こう表現します。    これは 《なぞの何ものか》がわたしに油を注いで     貧しい者に良き知らせを宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げるためである。     (『イザヤ書』61:1-3)  さらに時は飛びます。イエスの話です。かれが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り これらアブラハムやダヰ゛デの詩編やイザヤを書いた書物を朗読しようとして立ち上がった》時のことだそうです。    すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い   てある箇所が目に留まった。     《存在せしめる者の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。      存在せしめる者がわたしを遣わしたのは       貧しい人に福音を伝え 捕らわれ人に解放を      告げ知らせるためである。》     (=つまり『イザヤ書』61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人   びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは       ――この書物のことばは 今日 耳を傾けているあなたたち       に実現した。   と話し始めた。      (ルカ4:17-21)  以上のような《存在》をめぐる歴史物語です。その後かれは やがて はりつけに遭って死を死んだあと キリストと呼ばれ 人間であるイエスが同時に神の子であり神である存在であったとうわさされるようになったという物語です。  どうでしょうかねぇ?    * たぶんですが 聖書の系譜では もう初めから開かれた――出家と在家を区別しないかたちの――《四方サンガ》が前提になっていたものと考えられます。旧約の時代は ユダヤ民族の内部だけとして限られていたわけです。イエスが これを開きました。  でもその当時 聖書と言えば今で言う旧約しかなかったわけですから イエスもそのアブラハムやモーセの神に従って 振る舞ったとしか考えられません。  なお《新しい契約》については エレミヤ書31:31-34をご覧ください。そしてそれについては新約聖書のヘブル書8:7-13が解説しています。    「見よ、わたしがイスラエルの家と新しい契約を結ぶ    時が来る」と主は言われる。     ・・・    彼らはそれぞれ自分の同胞に、    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。    小さな者から大きな者に至るまで    彼らはすべて、わたしを知るようになり、    わたしは、彼らの不義を赦し、    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。  ということは おそらく《宗教》が要らなくなることを意味するでしょう。

temtem1
質問者

お礼

つまるところ、聖書は神と人間の関わりの物語をもとに精神的なありようを示したもの、ということでしょうか。 それはそれで立派ですし多くの人間のよりどころになったのでしょうが、聖書の文字そのものに執着する原理主義的な、輸血拒否とかID説信者などはなんだかなと思ってしまいますね。 もちろんまともなキリスト教信者がほとんどだとは思いますが。

  • yuniko99
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回答No.9

昔 僕も宗教興味があって 統一教会の勉強をしました 独特な聖書解釈があるのですが イエスは本当は死なない方がよかったそうで 文鮮明氏は再臨のメシア つまり救世主 と言う事でした 「二性性相」とか「万有元力」?とか復帰摂理とか復帰路程とか 聖書に上手く解釈が付けられていました 私はエホバの証人とも勉強しました 仕事も一緒にやったのですが 彼等の解釈は統一教会とは全く違っていました 聖書研究会から始まった 聖書中心主義の人々ですが なにやら10万人以上の人が天から蘇ってくるとか 不義なる人は死んで植物の栄養になるとか 徹底していました 私は実はカトリック幼稚園に一年通ってるのですが そこではマリア様が 信仰の対象のようでした。白いマリア像が裏庭にあったのを憶えています 私はプロテスタントの勉強も幾らかやってみました プロテスタントは何と言ってもイエスです 父と子こそが人を救うのです イエスが生贄に成って 人間の罪を贖った と言う事になっています 総じて言うとまず(1)神を愛すること これは私も無宗教なので出来ませんが しかし真理や愛を追究することも神を愛する事になってるのかも知れません それから隣人を愛する事 (2)自分を愛するように隣人を愛するのです そして(3)敵をも愛する事 これは出来るかどうか・・・キリスト教国アメリカも 敵に対しては容赦はありません。 詰まる所ですが 今となっては聖書は隣人を愛すると言う事を大事に宣言しています お陰で我々は脱脂粉乳くらいで済んだのです 聖書に敵を憎めと書いてあったら 我々は鬼畜日本とか言われてもっと酷い目にあっていたことでしょう。 でも敵を愛する事はガンジーの無抵抗主義の方が現実には勝利しています 自分に敵対するものに愛を込めて聖書的に解決したと言うのは 個人的には多かったでしょうけど 大きな集団同士ではあまりなかったのでは? もしそれがあったのなら 日本との戦争で絨毯爆撃をして民間人を殺しまくったり 原爆をこの時とばかりに市街地に落として実験したり はしなかったでしょう。 つまり聖書は2000年前の時点では新しい教えであったかもしれませんが その歴史的意味は在ったと思いますが 今となってはそれ程在り難い教えでも 敵を愛せる教えでもないと思われます。 聖書は加筆する事を禁じています。それが一つの限界かもしれない 勿論クリスチャンにとってイエスの投げ出した命は 人類の罪を贖ったという 人間の救いになることで 聖書にはそれに至る人間の歴史が書いてあるということではあります。 信じる者にとっては唯一無二の経典ですので 尊重しなければならないという事情はあります。

temtem1
質問者

お礼

ありがとうございます。 聖書はあくまで個人の救いにはなっても集団をどうこうできるものではない、ということですかね。 たしかにキリスト教国のアメリカもとても攻撃的ですしね。 むなしいものです。

  • kigurumi
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回答No.8

全知全能ではなく全能です。 なんでもする能力があるってのが全能。 ただし時が来ないとしない、ならない。 すべてのものには時がある。 その時にならないと発動しない。 ヘブライ語で<妨げる者>という意味をもつ単語はサタン。 悪魔という意味ではない。 悪魔という意味はギリシャ語のダイモンから来ていると思う。 http://red.sakura.ne.jp/~co-wards/explain/term/daemon.html 蛇というのは古代では叡智の象徴でした。 知恵を持つことで、今まで見えなかったものが見え、一方はそれで今までできなかったことがやり方がわかりできるようになるが、もう一つはわからなかったからやらなかったことも、わかるのでやってしまえるってこともある。 知らなければ幸福でいられたってこともある。 ユダヤ教では贖罪ってのがある。 日本でも同じ風習がある。 人は生きていたらいろいろつく。 石だってただじっとしているだけでも苔がつくわけだし。 一年の汚れを落とし清い状態で新年を迎えるわけですので、汚れがついたらもう終わりというわけじゃないんです。 で、不完全な人間ですので、時には律法を守り続けることはできないわけです。 その人達にチャンスを与えるというのが贖罪で、個人の贖罪は神殿で随時行われていたが、民族全体の贖罪は大祭司が行っていた。 このユダヤ教の思想が、イエスが民族全体の罪を背負い贖罪をし殺されるという新約聖書につながっていったんです。 ユダヤ暦だと9月の末から10月の始めの頃が一年でもっとも神聖な月とされたので、この頃大贖罪が行われたわけです。 罰を受けるためにやっていたのではない。 カトリックでは何か悪いことをするたびに、裸になって自分で自分の身体を鞭打つそうですが、神から罰を与えられたと想定してなるだけ痛い思いをした方がいいと賢明に身体を傷つけるが、贖罪ってそういう概念じゃあないんですよねぇ・・・ リストカットをする人も、自分の身体を傷つけることでほっとするそうだが、違うんだなぁ・・・。 で、信仰が深くしていれば人から高い評判を得られ争いの無い幸福な人生を歩めるのかというと、現実そんなにシンプルなもんじゃない。 人から義人と称されている人ですら、ひどい目にあうということはある。 そういう現象がどうして起こるのかということをラビ文学の作者たちは考察したんです。 信仰が深く神から愛され、みんなからもまったくの義人と愛されている人の中にもひどい目に会う人がいる。 その理屈は何? 友人たちや妻は災いの原因を推測して述べるが、ヨブはその理論に納得しなかった。 ヨブは神の義を疑ったわけです。 「神を義をしめせ、これじゃおかしいじゃないか、 真面目にやるものがバカを見るんなら、誰も真面目にやらないようになるじゃないか。 誰もルールを守らず無秩序になるじゃないか」とは言わなかった。 だって得を得るために信仰しているんじゃないし、義人だと近所の人の褒められるために善行をやっていたわけじゃないから。 そのヨブに対して神はとうとう現れて言ったんです。 そのシーンを読んで「すばらしい文学作品」としてもいいのですが、人間の叡智の底力をかいま見たような気になりました。 信仰をする 何かを良いことをやるとき、人は見返りと期待しませんか? 例えばこの宗教に信者になればこういう特典があるといわれているので入る とか、人に時間を裂いて何かその人のためにやれば見返りが期待できるからやる。見返りが期待できないことには投資しない とか。 イエス作家も良い隣人のたとえ話で、期待しない愛について述べていますが、当然のことを当然としてやったまでのサマリア人を義人だと称した。 無償の愛とかそいうのじゃなく 当たり前のこと。 浅ましさを持って行動すると代償が得られない時腹がたつわけです。 ユダヤ人の場合、何かを期待して信仰しているわけじゃあない。 無償の愛を提供すれば天国にいける、無償の愛を提供すれば人から褒めら暮らしやすくなる ということ期待してやるキリスト教とはユダヤ教は違う。

temtem1
質問者

お礼

なるほど。ユダヤ教徒は信仰になにも期待はしていないということでしょうか。 ただ粛々と信仰するのみ…… う~ん、今の僕には到底想像できそうにない境地ですね。

  • taco8ch
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回答No.6

もともと物語を下地にして継ぎ接ぎ式に作り上げられた書物です。 以上を確認した上で回答を試みます。物語は経典の一つとして成立するのか。 住む土地さえも奪われた世界史上でも特筆すべき不運な民族が 熱烈に求め続けたものが自前の国土であることは間違いないのですが、 しかしその願いはアッシリア人やローマ人によって完全に絶たれました。 それでも彼らはが求めるのを止めなかったのは民族であること自体です。 アイデンティティーというわりと新しくてよく分からない言葉もあります。 聖書はそこに陶工にまで喩えるほど確信的な書きっぷりで、 男女を創り上げる絶対者の手の業を記します。 今日からここに住めと神が言ったからという理由で住み着き、 奴隷の身となっては威風堂々逃げてきたと胸を張ります。 今日からここをお前に上げると神が言ったからという理由で 先住民を根絶やしにします。どれも史実ではありません。 言うまでもなく史実は、それを遡ることには限界があります。 今日の私たちでさえ自分たちがどこからどのように来たのかほとんど知りません。 つい先日も、鉄も満足に作れなかったはずの日本人が騎馬民族として渡来したのだと ぶっかましたどっかの大物政治家さえいるくらいです。文字がない時代ならなおさらでしょう。 そんな歴史では説明できない暗闇の部分を仮定的に充填するという役割が物語にはあります。 世界中のほとんどの民族の歴史が、神話に始まって、なんとな~く史実へと移行します。 物語がその民族のソースについて語り、かつ現在(いま)ある自分たちの立ち位置を保証する 確かな役割を果たしているのかもしれません。現在の存在の保証のために必要とされたのは logicではなくあくまで起源と連続性です。実にillogicalな話には聞こえますけど。 誤解しないで欲しいのは、回答者は物語が史実になると言っているのではありません。 他の回答者の中にも、聖書が史実だとどこかで吹き込まれちゃった方も見られ ナイーブな俺は若干引いちゃうのですが、聖書は旧約にせよ新約にせよそれらは物語であって、 つまり嘘っぱちです。もし単に歴史本としてのみの価値を問うなら、 おそらく『太陽の法』とセットにして並べて古本屋の店頭にダンボールに 二束三文で出しても売れ残ってしまう程度の書物だと思います 物語は史実と混同してはならないし、ましてや物語が史実を否定してはなりませんと、 『猿の惑星』という映画の中でも言ってました。猿ごときに言わせてはなりません。 ではいったいlogicalな説明がつけば人間はこうしたまやかしから解放されるのでしょうか。 しかしながら回答者は一方で、人間の「物語る」という営為によせる もどかしいほどの(執着? 傾向性? 融通の利かなさ?)の わりと明るい面にも注目したいと思っています。 この世界に自分と違う性の存在があることが不安でならないとか、 自分たちと違う言語を話す民族がいるのはいったいどうしたことかとか、 災害や病気に見舞われたなら何らか意志による手痛い罰に違いないとか、 始まりはそんな程度の漠然とした不安なのだろうと思います。 洪水が起こるのは、降水量や土地の形状など気候と地理によるもので、 誰が悪いわけでもないことは現代の誰もが知っています。 しかしそうは言いながらその一方で災害が続く土地には神様が祭られます。 村長さんが雨乞いの儀式に列席し、社長さんが御祓いに詣でます。 そんなことをかれこれ私たちは何千年もやっているのです。 きっと人間は個々の歴史的事実の羅列ばかりでは満足できない生き物なのかもしれない。 そこにはたとえ嘘っぱちではあれ何らかの意味づけの余地を残さなければ安堵しない、 あるいはそうせざるを得ない傾向性を遺伝的に持っているのではないかと予測します。 単に時を刻むだけの時計の針にさえ意味をこさえあげようとする生き物です。 そして多くの場合、世界を作り上げる点においてそれが成功してしまっているという現実が 物語の功績のひとつかもしれません。 物語を民族のソースに持つことを否定した国家が少なくとも二つ歴史上に出現しました。 一つは自分たちは労働し発展する猿の子孫だという至極当り前の 科学的客観的史実から出発した実験国家です。 もう一つは敗戦のトラウマから神話を罪悪として 自分たちの子孫に受け継ぐことを止めてしまった島国です。 前者は百年もたずに滅びました。はたして後者は大丈夫?

temtem1
質問者

お礼

ありがとうございます。 苦境に陥った民族が自らの救いのために作り上げたストーリーと考えれば神があれだけ攻撃的なのも分かる気がしますね。 一種の英雄譚であると考えれば理解できないこともないです。 我らの神は異民族は一撃で滅ぼすのだぞ!という感じですかね。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.5

キリスト教に詳しい訳じゃないんだけど書きます。 一番最初に、キリスト教聖書は、理性や知性や分析力で読むものじゃありません、本質的に。 史実に基づいているか? 論理的整合性は取れているのか? つじつまは合っているか? などとやってたら、一生聖書の素晴らしい点は分からずじまいだと思います。 別にそういう分析をしても構わないのですが。 基本的に聖書は感情で読んでください。ハートと心と気持ちで読む本です。内容もそういう風に読むようになっています。 悟性や知性は捨ててください。 捨てられない、というのなら、質問者さんは、聖書には向いてないと思います。 仏教哲学なり老荘思想なり当たってください。 これ本質的に、相性の問題だと思いますよ。

temtem1
質問者

お礼

むむむ、相性ですか…… たしかに感情的に読むというのは苦手ですね…… 嫌いというより、やり方がよく分からない。 確かに相性が悪いのかもしれません。

  • lv4u
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回答No.4

質問者さんは、宗教について、かなり勉強されたようですね。確かに旧約聖書や新約聖書を読んでみたり、映画「天地創造」などを観ると、”こんなDQN権力者の我がまま物語のどこに感動する要素があるのか?”って感じるのは当然だと思います。 子供のころから教会などで洗脳され続けていれば、そういった感想を持たない人間になるでしょうが、日本は、戦後、政治や教育界、マスコミ界では、宗教を遠ざけてきているので、わりと素直な目で、聖書を評価することができる人が多いと思います。 私は、キリスト教徒ではなく、幸福の科学の会員ですが、その中で、キリスト教や聖書の評価についても教えてもらっていますので、それをベースに私の理解した範囲で回答します。 >>こんな、ただの読み物が聖典でいいのか? たしかに、聖書の内容は薄いというか、レベルが低いですし、新訳では、イエスの行動記録・日記って面が強いですね。それは、イエスが、たった3年の短期間しか布教活動ができなかったということと、弟子が漁師など無学なものが多かったし、しかも布教活動も、地下組織的な面もあったようで、高度な教えが説きにくい環境だったということもあるようです。 仏教は、大富豪の弟子がいたり、いくつもの国王が帰依していたりで、勉学の環境が整っていたし、仏陀も長生きしたので、十分に教えを説く時間も環境も確保できたってことでしょう。なので、質問者さんの感じるような差があるのもしかたないと思います。 >>というか、こんなDQN権力者の我がまま物語のどこに感動する要素があるのか? これは、霊界の秘密に関連するようですが、キリスト教の聖書にしても、イスラム教の教典にしても、複数の神々の語る言葉を綴っているのです。そして、神々にもレベル差があり、ユダヤ民族の民族神のようなレベルの神さまもいれば、地球全体を統括するレベルの神々を統括するレベルの神(仏)の語った言葉も含まれているってことです。 たとえば、リンゴを食ったので、エデンの園を追い出した神ってのは、心の狭い農家のオヤジってレベルの神が行ったことです。「うちのリンゴを盗って食っただろう。町から追い出してやる」って言っている、農家のオヤジが思い浮かびますね。そして、それを未来永劫にわたって忘れないっていう執念深いやつって感じです。 また、「他の神を祭るな!」って嫉妬する神も、心の狭さを感じさせます。いずれも、ローカルな田舎の権力者って感じでしょう。 実際に、現在の霊界では、ユダヤの神にあたる存在は、その思想と行動により、1段低いというか、裏の霊界に追いやられているようです。 ちなみに、ユダヤの神が伝えた言葉をイエスが語ったことが、イエスが十字架にかかる直接の理由となったようです。イエスは霊媒のように神の言葉を伝えていたわけですが、イエス自身が、自分の放った「我は神なり」という言葉に驚いたようです。 >>でも聖書を読んで感動した、という人も実際にいるようですし。 イエスは、複数の神々の指導を受けていたようです。なので、聖書の中には、民族神から至高神までの言葉が含まれています。そのため、いまでも世界に通じる、感動させる言葉も入っていますので、感動する方がいるのも不思議ではありません。 なお、「宗教立国の精神/大川?法/幸福の科学」という書籍の”「基本的人権」の根拠とは”という章(P.167-171)にキリスト教について書かれていますが、公平なように、イスラム教についての評価も、同書のP.121-132あたりに記載されていますので、興味ある方はごらんください。

temtem1
質問者

お礼

なるほど。ようは、当時の複数の信仰が複合した結果、キリスト教というシステムが出来上がったが、知的レベルや環境の都合で、玉石混交という状況に陥った、ということでしょうか。 たしかにキリスト教やユダヤ教以前の別の宗教の教えも混合されてもおかしくはないですね。

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