聖書とは一体どういう経典なのか?

このQ&Aのポイント
  • 学問的興味からキリスト教の聖書を読んだが、教えのロジカルさが感じられなかった。全知全能な神が人類を苦しめたり、わがままな権力者の寓意に思える。ただの面白い読み物かもしれない。
  • 他の宗教の経典と比べると、キリスト教の聖書は対話や寓話が多く、内容をそのままに受け取るのではなく、知恵や思考法を読み取るものとされる。しかし、そのレベルは寓話と同じと感じる。
  • 聖書は宗教における経典としては理解し難い。感動する要素は理解できず、この物語が聖典としてふさわしいのか疑問に思う。キリスト教に詳しい方に解説を求める。
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聖書って経典としてどうなんでしょうか?

聖書って経典としてどうなんでしょうか? 私は宗教に関しては無関心というか、知的好奇心の対象ではあっても信仰の対象ではない、そういう人間です。 学生時代、仏教系学校に通っていたので、仏教の考えや般若心経の和訳などを学びました。その内容は非常にロジカルで、無宗教の自分もなるほど、と思う内容でした。人間の認識機能や思考法など、現代の脳科学にもつながってくるのではないか、と思ったほどでした。 般若心経など、まるで学術書のようです。 ただ、そんなに優れた思考法を伝える仏教が変な儀式(オカルティックな思想とかひたすらお教をつぶやくとか、煌びやかなご本尊を崇めるとか死者の何回忌をやってお金を取るとか)ばかりなのは理不尽に思いましたが、まあこれは釈尊の教えではなく、現世組織としての仏教が存続するための営利行為として必要悪であると認識しています。 そこでほかの宗教の経典(に当たる書物)もそういう優れた思想で出来ているのだろうと思い、世界的な宗教であるキリスト教の聖書を読んでみました。 しかしながら、聖書は小説としては非常に面白い読み物であるとは思いましたが、教えと言いますか、ロジカルさが欠片も感じられませんでした。 ただのファンタジー小説、あるいは神話をより歴史的な形式にした読み物、といった感じです。 しかも神は全知全能と銘打ってる割にいきなりサタンにアダムとイブを騙されたりとか、増えすぎた人類を自分で手綱を取れず、大洪水で滅ぼしてしまうとか、全知全能ならサタンを改心させるとか、人類を調節するとか片手間でできるだろ、というか、悪魔にそそのかされて信者を散々苦しめるとか、客観的に見て、単なるわがままな権力者の寓意にしか思えないわけで、なんでこれが世界的に信仰されてるのかさっぱり理解できません。 確かに読み物としてはそこそこ面白い。それに良くも悪くも、寓話的な話も多いので、内容をそのまま鵜呑みにするのではなく、そこからなんらかの知恵というか思考法を読み取るものなのかもしれません。 しかし、そういうのってただのイソップとかそういう寓話と同レベルな気もしますし。 般若心経のほうが経典としてはずっと理路整然としてて分かりやすくてシンプルに思うのですが…… なんというか、般若心経は学術書、聖書は俗っぽい小説、という感じで、これが宗教における経典として同じものなのか、と驚きました。 でも聖書を読んで感動した、という人も実際にいるようですし。 こんな、ただの読み物が聖典でいいのか? というか、こんなDQN権力者の我がまま物語のどこに感動する要素があるのか? 僕の理解力が悪いのかそういうふうにしか感じられないわけですが、キリスト教に詳しい方、解説をお願いできないでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • hisya
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回答No.7

宗教へのアプローチはいろいろ面があります。 理路整然としたものは哲学的な側面であり、 キリスト教においては神学がこれに当たります。 現代のキリスト教神学には二つの立場があります。 (1)原理主義=ファンダメンタル 聖書を文字通りに信じる立場です=進化論の否定 (2)近代主義=リベラル 聖書を批判的に理解する立場です=聖書の高等批評 あなたが言うファンタジー小説または寓話的な話の部分は 神話や伝説とみなす立場です。 こういう立場の神学者がキリスト教の教えを 理路整然とした学術書のようにまとめています。 宗教におけるアプローチにはほかに 感情的というか心理的な側面があります。 信仰の対象に対するそういう面ではイメージや物語のほうが とても大切な要素になります。 抽象的な教義や理論には人は感情移入が難しいのです そして世界宗教における物語には普遍的な主題があります。 昔、ETという映画が感動を呼びましたか、 あれはイエスの死と再生の物語が下敷きになってます。 また、イエスはよく譬話をしましたが こういうのが教え(教義)より人の心に訴えたのです。 たとえば、よきサマリア人の譬え話=隣人愛などです。

temtem1
質問者

お礼

ありがとうございます。 心に訴える、ですか。そう考えると聖書というのは現実として確かな力を持っているのかもしれませんね。 ただ、そういうのに合わない僕のような人間もいるというだけで。 ただキリスト教の神学は聖書の解読や解釈に終始しているだけというイメージがありますね。

その他の回答 (13)

回答No.3

 こんにちは。  そうですね。これまでいくつか聖書についての質問に投稿して来ましたので できればそれらを見ていただきたいとも思いますが コツはありますので それを述べてみます。  聖書に書いてあることはすべて 表現の問題です。人間のことばで 神について仮りに表わすとすると こうなるというふうに表現しています。  《わたしは ねたむ神 怒る神である》という表現に出くわします。  これも 表現の問題であるとともに その昔 人びとは民族を単位体として生きていたという事情がからんでいます。  旧い契約として成り立った旧約の時代のことですが 極端に言ってみれば民族はわたし わたしは民族というようなかたちで人びとは生きていました。その村の井戸がおそわれたら 全員が戦って奪い返すものですし はらからの一人が傷つけられたら それぞれ自分への被害であると認識し その借りを返して同等の関係に戻すというようなことだったと思います。  この民族が そしてその一人ひとりが 《ねたむ》のですし《怒る》のです。そのことを あからさまに《神》に託すようなかたちで表現しています。  よく言うのですが 《楽しい我が家》とか《楽しいペチカ》と言いますが きびしく言えば《楽しい》のは《家》がでも《ペチカ》がでもなく そこに住みそれを囲む人びとが です。  これが表現の問題です。《ねたむ神 怒る神》というときも 同じです。言ってみれば神は 家やペチカと同じように 中立です。  そしてさらに大事なことがあります。  このとき 《家やペチカ》は この世のものごとであり かたちのある見えるものですが 《神》は そうではないということです。このカミという言葉じたいが いま表わそうとする《かみ》そのものではないという意味です。言いかえれば 仮りに表わしているものです。  かみ・カミ・神その他その他の 言葉が《かみ》でもなく その文字や発音が《かみ》でもないわけです。たとえば全知全能とその属性をやはり人間のことばで説明したりしますが この概念すらも 《かみ》そのものではありません。概念は あたまの中で表象しうるものであり そのようにかたちがあり 心の目に見えるものです。  《かみ》は したがって この経験世界を超えています。したがって 人の経験思考をも超えています。表象し得ません。《非思考》です。  しかもそれを 単純にまた擬人化して《神》として描いているというわけだと思います。  人びとは 異民族を皆殺しにせよと 神が言った(命令した)と表現しています。  旧約聖書の神は そういうふうに描かれています。    民族を単位体として 人びとは生きていた。  その生活情況に沿って 人間が人間の言葉で 非思考であるところの神について それを擬人化して 描いていた。  この二点について述べました。どうでしょう?

temtem1
質問者

お礼

なるほど。ようは当時のユダヤ民族の集団的な思考を神という概念に置き換えて書いたということですね。 興味深いです。

  • hhituji
  • ベストアンサー率30% (15/49)
回答No.2

私も最初は聖書を物語としか思っていなかった人間です。 そして、キリストを尊敬はしていましたが、人間だと思っていました。 が、ある日、聖書とはどこからどこまでが史実で、どこからどこからが作り話なのか調べてみようと思ったのです。そして、本当にイエスが言った言葉のみを抜き出して、その言葉のみを自分の支えにしようと思ったのです。 が、調べれば調べるほど驚くようなことがわかってきたのです。 まず、イエスが、自分のことを神と考えていたこと、そしてそのことが史実であることがわかりました。 その時の正直な感想は「この人大丈夫だったのか?」でした。 そして次にわかってきたのが、イエスの登場を正確に言い当てた、「預言」というものが旧約聖書の中に300箇所以上もあり、しかもイエスの正確な登場年や、死に方、生まれ方など、絶対に偶然とは考えられないことを言い当てているということです。 このころから、私は、聖書と、キリスト教について、あらゆる偏見を排除し、できるだけ正確な情報を集めるということを始めたのです。それは、考古学、聖書学、そして科学の領域にまで渡りました。 聖書を、物語のような空想小説と片付けるのは簡単です。だが、それが本当かどうか真剣に調べてい見ると、馬鹿らしいと思ったことが以外に否定するのが難しかったり、違った見方ができたりするものです。 現在、聖書が、世界的にこれだけ読まれているのは、このような背景があるのです。 聖書を調べれば調べるほど、これは全部本当か全部うそかどちらかしかありえないという考えを持つようになります。 全部本当と考える人がクリスチャンです。 聖書がベストセラーになったのは、このような背景があります。

temtem1
質問者

お礼

ありがとうございます。 個人的には聖書の全てが真実とはちょっと思えませんね。 予言についても、単純に聖書に記述するときに、後から予言していたかのように記述することはできますし、単純に自然科学や社会学に従って予言しただけかもしれない。 まぁ、そういうふうに穿った見方をするのは僕がキリスト教徒じゃないからかもしれないですが。 お気を悪くされたらすいません。

回答No.1

大方間違ったことは言っていないが、 訂正されたこともある。 地動説を認めてなかったしね。 でも人間によって起こされる多くの場面隅々までは対応できていないと思う。 また、作られた時期には一般的であったことも、 現世じゃそれをアレンジして当てはめるという回りくどい手法をとっている。 それをしても、経典を書き換えるなんてことは人間はできる筈も無く。 キリスト教儀が本物であるのなら、時代時代にみつかいがやってきて、 修正してくれないと、益々解りにくくなっていく。 しかし、その発生の時期に対して、今は、人が世界を飛び回る。 行き先別に文化もそれこそ宗教も違うであろう。 そんな融合の時代に、どこに行っても通づる真理を示してほしいものだ。

temtem1
質問者

お礼

ありがとうございます。 良くも悪くも伝統、と言う奴なんですかね…… なんでも、衛生的な意味で、豚肉は血抜きしないと不衛生、と記述している部分を鵜呑みにして血そのものを悪と考えて輸血禁止としている宗派もあると聞いたことがありますし。

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