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大日本帝国

知れば知るほどざくざくいろいろなことがわかる大日本帝国。 最近勉強しなおしたり映画見たりしています。いろいろお尋ねしたいところがあります。 1明治維新とはなんだったのか? 2日本の主権は関税自主権が奪われただけだったのか? 3坂本竜馬は莫大な資金をどこから手に入れた? 4居留地に関するあれこれ。 5天皇陛下は何回狙われた? 6そのとき歴史が動いた。あの時こうだったら、日本はこうなった的な。 7第一次世界大戦に関する情報が最近の日本には少ないような。ヨーロッパの戦いだったのか。いっぱい知りたいです。 8さすがに知る人は少ないかと思われますが、演歌のおおもとは演説だったという。やはり立憲君主運動のようなものをさすのですか?庶民が皆演説に参加したのか。 9アヘン戦争の影響を受けて明治維新へと突入したということで間違いないですか? 10江戸時代の金から貨幣経済に移行する苦労。 11傀儡?明治維新以降開国を余儀なくされ、本質は傀儡だったのか? 12その他、お徳情報あれば^-^。 わかる情報のみで結構です。ご意見お待ちしてます。

noname#181422
noname#181422
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  • PopoAmin
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回答No.7

疲れてきました。 問1.明治維新とは? 日本という国が一気に近代国家へ脱皮するための苦しい関門だったと思います。 問2.日本の主権は、、、 日本が失った主権は関税自主権ともう一つは領事裁判権です。 問4.居留地についてはあまり詳しくありません。ただ清国に存在したような租界のように 日本の主権が通用しない土地ではありませんでした。 問5.天皇が狙われたのは?大逆事件とかいろいろありましたが、 それらは反政府活動ではあっても天皇を狙った暗殺計画ではなかったようです。 第二次大戦で皇居も爆撃されましたが天皇を狙ったものではなかったようです。 敗戦時に皇居も占拠されましたがこれも天皇を狙った暗殺計画ではありません。 問6.その時歴史が動いたというのでは終戦を決定した御前会議ですね。あの時徹底抗戦の 決定がなされていたら、今の日本があったかどうか? 問11.傀儡? 開国を余儀なくされたというのはその通りなんですが、良いときに開国できたというほうが 正しいような気がします。まだ世界の動きに何とか追いつける段階だったように思います。 列強がたがいに対抗しあっていたことが幸いして傀儡にならずに済んだということでしょう。

noname#181422
質問者

お礼

ありがとうございます。お返事遅れてすいません。

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  • PopoAmin
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回答No.6

10.江戸時代の金から貨幣経済に移行する苦労 この質問の書き方を見ると江戸時代の貨幣制が劣ったものであったと 感じているように思われます。 江戸時代の貨幣制度に劣るところがあったとすれば、 秤量貨幣としての丁銀や豆板銀が残っていたこととか 一文銭と金貨との交換比率が変動相場だったことでしょうね。 一方素晴らしかったのは一両=四分=十六朱という金銀貨幣のシステムですね。 これは当時のヨーロッパよりも優れていました。 何が優れていたかというと一分銀や一朱銀という貨幣が銀貨なのに金貨と同等の価値を 持っていたことです。つまり今でいう補助貨幣の発想ですね。 元禄のころ貨幣改鋳で悪名高い荻原重秀は貨幣の価値は金や銀の含有量によるのではないと 喝破しています。 「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」 まさに天才です。(庶民には天災だったかな?) これを継いだのはこれまた悪役の田沼意次でした。金として通用する銀貨をこしらえたのは 田沼です。 17世紀末~18世紀初頭のヨーロッパ人に、この意味が分かったでしょうかね? まさに近代的発想です。 悲しいのは幕末の役人もこの意味を知らなかったということですね。 結局金として通用する安物の一分銀を同じ重量の銀貨と交換するなどという お馬鹿な条約を結んでしまったおかげで天保小判はあっという間に大量流出。 (毎日毎日三千両から四千両は流出したそうです) 金の流出を止めようとして幕府は小判の重量をとことん落とすんですが間に合いません。 開国したおかげで安定していた貨幣制度はもうグチャグチャになりました。 慶応などギリギリの幕末になるともう幕府はバンザイしてしまいます。 各藩は勝手に(許可を得たものもありますが)自藩内通用の地方貨幣を作り始めます。 地方通貨ならましですが、平気の平左で贋金を作り始めるんです。 大政奉還後の明治政府までが贋金と変わらない金メッキみたいな二分金を大量発行します。 とうとう英国大使のオールコックは激怒して、新政府の役人を吊し上げます。 明治政府はこういった滅茶苦茶な貨幣をきちんと整理すると約束しました。 (特に外国人には迷惑をかけないようにね) 明治政府はとりあえず太政官札という紙幣を発行し、贋金まがいの二分金100両を 紙幣30両と交換するんです。続いてゲルマン札といわれる明治通宝という不換紙幣を発行しますが 偽札事件が起き、信用が失われてしまいます。 さらに明治政府は銅銭と鉄銭の交換比率や小判との交換比率を完全に見直します。 当時は鉄の一文銭が多かったんです。 銅の一文銭は鉄銭12枚相当、寛永通宝の四文銭は鉄銭24枚相当、文久四文銭は鉄銭16枚相当、 といった具合です。これは銅の流出を抑えるためだったようですね。 小判一両は昔は4000文だったのですが鉄銭10000文になりました。 いってみれば昔の貨幣交換比率をひっくり返した訳です。 それから外国の貨幣制度を取り入れ、貨幣製造装置を買い入れて大阪に造幣寮を作り 明治4年に新貨条例という法律を作って新しい金銀貨を発行します。 それでも一気に交換するのは無理ですから古い銭も新しい交換比率を決めて 並行使用できることになりました。一文銭なんて昭和まで通用したんですよ。 昔100文銭だった天保銭が8厘通用になり、ちょっと足りない意味になったのはこれ以後です。 合わせて兌換の新紙幣が発行されました。 とにかく明治末のインチキ二分金は明治政府の作ったメッキ品だけで 300万両を超えていたようですから、その後始末は大変だったんです。 混乱に乗じ、二分金は通用停止になるから早く使ったほうが良いと嘘のうわさを流して 安く買い取りそれを新しい貨幣に交換して儲けるといった詐欺も横行したようです。

  • PopoAmin
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回答No.5

質問7.第一次大戦に関する情報? 第一次大戦が勃発したとき日本と英国は日英同盟を結んでいましたから 日本にも参戦の要請が来ました。 そこで1914年に日本は中国の青島と膠州湾にあるドイツの要塞と軍港を 攻略します。 続いて当時ドイツの植民地だった南洋諸島(マリアナ、カロリン、マーシャル)を占領します。 当時この地にいたドイツ海軍は撤退して本国へ戻りました。 その後海軍はインド洋に艦船を派遣して英国のインドやアジアへの航路の船舶護衛を実施します。 ヨーロッパからはもっと本格的に参戦し陸軍をヨーロッパ戦線に投入するよう 要請されましたが断って巡洋艦と駆逐艦8隻からなる艦隊を地中海に派遣、 船舶護衛にあたります。 この時期、駆逐艦「榊」がUボートからの雷撃を受け被雷大損害を受けています。 さらにロシアで革命が起きましたのでシベリアに取り残されたチェッコ軍を救出するとの名目で 主にアメリカと共同でシベリアに出兵しました。 さて、アジアにおけるドイツの権益ですが英仏露は日本が権益を引き継ぐことを承認しましたので 日本はそれをバックに中国に対し対支21カ条の要求を出します。 これで反日運動が燃えさかることになり、後の日支事変につながります。 シベリアの出兵ではアメリカが撤退した後も居残り領土的野心があるのではないかと アメリカに疑われます。 この時シベリアから旧ロシア帝国の金塊が日本にもたらされたはずなのですが消えてしまいました。 田中義一がネコババしてその金で総理になったと噂されています。 この戦争によって日本がアジアで強くなりすぎたとアメリカは不安にかられます。 アメリカは英国に働きかけ、日英同盟の延長に反対します。 これで日英同盟は消滅し、日本はどこの国とも同盟関係がなくなります。 アメリカの反日政策は次第に厳しくなります。 結局第一次大戦が日本でも日支事変の泥沼化と第二次大戦へとつながってしまったんですね。

noname#181422
質問者

お礼

ありがとうございます。重要事項が多く丸暗記したいです^-^。日本の支配と、欧米の奴隷支配の比較はどうでしょうか?日本人は優しかったと聞きますが。ついでに、大日本大国を描いた映画か、坂の上の雲にちなんだ作品で名作はありますか?

  • PopoAmin
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回答No.4

質問9.アヘン戦争の影響を受けて明治維新に突入したのか? アヘン戦争で清国が敗れて列強の餌食にされているというのは 先進的な攘夷の志士たちの間では結構広まっていたようです。 高杉晋作などは実際に上海へ行って、 「犬と清国人入るべからず」という租界を見て、生々しい体験を 他の志士たちに伝えています。 攘夷運動も最初は外国人への恐怖心や強引なやり方に対する反発だったでしょうし、 さらには貿易による物価騰貴での生活困窮が原因になっていたのでしょうが アヘン戦争の情報が広まるにつれ、いかにして外国からの侵略を防ぐかと いうことを真剣に考えるようになります。 攘夷派の志士たちが、ただ異人を斬るといったテロ行為を止め、 海外の新しい武器や産業を取り入れて国を強くしなければならない。 旧態依然とした幕藩体制を倒し新しい統一国家を作らなければいけない。 そうすることで本当の意味の攘夷を目指すべきであるといった方向へ 進んでいったのはやはり、アヘン戦争の影響と言えると思います。

  • PopoAmin
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回答No.3

質問8.演歌のおおもとは? その通りです。演歌のおおもとは演説です。 当時自由民権運動は政府から弾圧されており 演説会などでは巡査が監視していました。 ちょっと政府を批判したらたちまち弁士は降壇させられますし うっかりすると逮捕されてしまいます。 そこで演説内容を歌の歌詞にして下手くそなバイオリンなんかで 決まりきった節回しの伴奏をしながら歌ったんです。 庶民はいつの時代もお上の批判が大好きですから 結構人気があったようです。 このスタイルが大正期には辻演歌となりました。 書生節といって大言壮語するような歌も流行りましたよ。 たとえば「馬賊の歌」みたいなのです。 ~僕も行くから、君も行け~狭い日本にゃ住み飽いた~ 海の向こうにゃ支邦がある~支邦なにゃ四億の民が待つ~

  • PopoAmin
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回答No.2

一番大事なことを書き忘れていました。 竜馬は莫大な資金なんて持っていませんでした。 口は巧みだが金はない。船はみんな借り物で 運ぶ商品も自分で買ったものではなく、中間マージンを取って諸藩に買わせたものです。 亀山社中のメンバーはみんな貧乏でしたから、 なんとか運営資金をこしらえるためカステラの製造販売を考えたこともあるらしいです。 貧乏だと思考も硬直するのでしょう 竜馬の留守中、仲間の近藤長次郎が一人だけ海外留学を画策したといって 仲間を裏切ったと責めたて、とうとう切腹させてしまいました。 貧乏であるほど仲間の結束を重視するんですね。

noname#181422
質問者

お礼

ありがとうございます。僕の友達が言うんですが、明治政府以降の日本はすでにおかしいのだそうです。僕にわかるのは不平等条約だけ。GHQが文書を焚書して学者ですらわからないことが増えたそうですが、焚書された文書のなかでこれだけはとても重要という内容はありますか?

  • PopoAmin
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回答No.1

これだけ沢山の質問を一気に出されると回答する人が大変だと思います。 とりあえず一つ二つ回答させてもらいます。 3.坂本竜馬は莫大な資金をどこから手に入れた?について 竜馬はとにかく口が上手かった。普通なら口もきけない勝海舟の知己を得ると、 海舟のつてをたどって幕府の老中や越前松平候にまで取り入っています。 幕府の老中には過激派の志士を京都の周辺においておくと危険だから 北海道へ連れていきは蝦夷地を開拓させながら外国から北海道を守らせるといった 大ぼらを吹き数千両せしめたようです。 また彼は沢山の船を運用していますが、すべて借り物です。 ユニオン号(乙丑丸)は長州藩の蒸気船、ワイルウェフ号は薩摩藩の帆船、 いろは丸は例の紀州藩の船と衝突沈没した船ですが、これは伊予大洲藩の船。 大極丸は土佐藩の帆船、震天丸は広島藩の蒸気船、胡蝶丸は土佐藩の蒸気船、 三邦丸は薩摩藩の蒸気船、夕顔丸は土佐藩の蒸気船、横笛丸は土佐藩の帆船です。 討幕派の藩の船が多いのですが、結局各藩にしてみれば蒸気船は買ったものの 動かせる船員が少なくて港につなぎっぱなし。そんな船なら竜馬に貸して リース料を取り、その金で新しい武器を買いたいんです。 そういう気持ちにうまく付けこむのが竜馬なんです。 グラバーが後ろ盾になっていましたが、グラバーもしたたかな商人ですし 気前よく金をつぎ込んだりはしません。第一彼は商人の中でそれほどの富豪ではないんです。 竜馬の興味は攘夷よりも商売であったようです。このため明治になっても 日露戦争の時、勝海舟の入れ智慧で皇后が竜馬を海防キャラとしてよみがえらせるまで、 尊王の志士としては忘れ去られかけました。 竜馬という男が破天荒であったことは間違いありません。 新政府を樹立しても運営する資金がないと悩んでいると 竜馬がいとも簡単に、贋金を作れば良いと言い放ったそうです。 暗殺されずに生きていたら、どれほどの大会社を興したことでしょう。 あるいは大詐欺師として犯罪史に名を遺したかもしれませんね。 次に最後の質問について 三井財閥が明治になって旧来の両替商兼呉服商から財閥に転換する際 沢山の会社を興しました。それらは皆株式会社でしたが、 おかしなことにすべての株式は三井の親族の所有でした。 市場から資金を集めて運用するのが株式会社なのですが、これでは株式会社の 意味がありませんね。 市場からの資金を集める気持ちはまるでなく、 株式会社の法人税が6.25%とほかの会社組織にするよりも 半額で済んだためだそうです。

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