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仏教と人類の発展について

最近、仏教に興味を持ち始めて3ヶ月のものです。 仏教では欲を捨てると悟りを開けるという考えがあると思いますが、 人類が発展してきたのは、人間に欲があるからだと思います。 たとえば、車や携帯電話などもそうだと思います。 もし全人類が悟りを開き欲をなくしてしまった状態になった場合に、 人類は新しい価値を生み出せなくなるのではと思ってしまいます。 そのあたりを仏教ではどう考えているのか教えて頂けないでしょうか?

みんなの回答

回答No.19

悟るとは、何を悟ることなのでしょうか。悟ると、全ての苦しみから逃れることが出来ます。人間には、どうしても逃れることの出来ない苦しみが三つあります。一つ目は病の苦しみ、二つ目は老いの苦しみ、三つ目は死の苦しみです。  これらの苦しみから逃れるには、宇宙の仕組み全てを悟ることが必要でしょうか。宇宙の仕組みの全てを解明すれば、人間は病を治し、老いることを止め、不死の肉体を手に入れることが出来ます。不慮の事故を、避けることも出来ます。  しかし、今の私たちが生きている間には、到底解明することは出来ません。  では、どうすれば、苦しみから逃れることが出来るのでしょうか。病・老い・死の苦しみは、自分は肉体であると考えることから起ります。肉体は必ず病気になり、老いて、死にます。苦しみから逃れる為には、人体の仕組み全てを解明しなければなりません。  しかし、人体を構成する物質は3年に1度の割合で入れ替わります。私が肉体なのであれば、3年後の私は今の私ではないこととなります。  花を見て赤いとか、やかんに触れて熱いとか感じているのが私です。本当の私は、言わば鏡の様な感受性です。  私は、肉体が送る信号を受け取り、世界や感覚・感情・思考を感じます。これが心です。心は物質と精神とのコラボレーションです。その感受性は、肉体が死んでも何ら変わらず存在し続けます。この宇宙の始まりから終りまで、何ら変わらずに存在し続けます。  生まれる前と死んだ後を比べても、何ら違いを見出すことは出来ません。人は、生まれる前の状態から生まれて来ました。死んだ後の状態からまた生まれることは、何ら不思議なことではありません。人間の脳より遥かに優れた脳が、私である感受性に信号を送るようになると、今よりも遥かに豊かな世界が心に広がります。そういう意味で、私は無限です。限界はありません。  この様に、私は感受性と言う精神であり、肉体が病に罹り老い死んでも、何ら変わらず存在し続けます。生まれることも滅っすることも無く、清らかになることも穢れることも無く、増えることも減ることもありません。  肉体は生まれ変わり続け、この宇宙が終わるまで私は存在し続けます。般若心経では、不生不滅・不垢不浄・不増不減と言います。  この様に考えれば、自分は老いることも無く、病にかかることも無く、死ぬこともありません。愛する人と別れることもありません。又お互いに生まれ出会うからです。  私の感じている宇宙は、私の心が作り出したものです。私の心の中の小さな私が、私なのではありません。心全体が私なのです。私の敵も、私の心の一部です。だから愛することが出来るのです。  欲しい物は既に貴方のものです。何故ならば、欲しいものは貴方の心が作り出した貴方の一部なのですから。 これが悟りの内容です。 私の欲しいものは既に全て私のものです。ですから、これ以上何も欲しがらないのです。諦めとは、欲しいのにそれを諦めることです。  この様に、仏教は人間の避けることのできない苦しみを取り除く教えです。仏教では、中道を主張します。どちらの極端にも偏らない普通の生き方です。正しい欲まで否定している訳ではありません。努力して社会で成功して豊かになることは良いことです。その努力が、社会を豊かにするのですから。  仏教で否定しているのは、自己を破壊し社会を破壊する様な欲望です。飲む・打つ・買うに狂い、自分を破滅させ、社会に害を与える様な欲望です。その様な欲望が沸いたとき、お金や女は私が心の中に作り出したものであり、既に私のものだと言うことが分かれば、狂うまでにそれを追求しなくなると言う教えです。

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.18

現代仏教のうち欲(DNAに基づく人間に刷り込まれたもの、煩悩)は世界の人にとって害悪であるとして否定するものは少ないと思います。例えば 浄土真宗(親鸞)の煩悩具足のように人間にとって切り離すことが出来ないこととして捉えていると思います。 質問者さんの言われるように 全人が欲を否定したとしたら 人は新しい価値を生み出していくことは無理でしょう。文明の進展はないということでしょう。ブータン(文明化されつつあります)とかアーミッシュの世界と思います。 問題は仏教も後押しした文明の進展は 人類にとってどのような意味があるか ということです。人類は100年後か あるいは100万年後か 必ず死滅すると思います。生物史は 生物種は必ず滅びる と教えています。生きた化石といわれる長生命種もいますが やがて死滅するでしょう。人間の場合新しく文明を創って行き ついには原水爆弾まで手にいれたのです。あるいはips細胞により個の命を最大にする手段まで手にいれたのです。文明の進展は固体生命を長引かせ固体数が増え結果として食糧難になるかもしれません。これら新しい価値あるものが人間種あるいは他の生命体種の滅亡を早めるかもかもしれないのです。滅亡と文明の関係は誰にも分かっていないかの ように思われます。文明進展のマイナス面を考えれば とりあえず文明をここでストップさせた方がいいかもしれないのです。質問者の仏教が評価されるかもしれないのです。キリスト教の原罪の結果が今日の文明なのです。原爆のボタンをアホトップ政治家が何時押してもおかしくないのです。根本原因は人の欲からきているのです。であるなら全ての欲を考えて 文明展開は出来ない仕掛けを 欲の否定から始めてもよいのではないか という発想です。仏陀の初期仏教を発展させてもいいのです。欲の否定は 今や大いに意味があるのではないか という指摘です。 しかし、欲の肯定の考えも勿論あります。18Cに始まる産業革命からの欲肯定の文明展開の結果、多くの病気を無くして個の延命をし、食料を増産し飢えを無くし、暑さ寒さをしのぎ快適な生活空間を作り 等々人を幸福にしてきたことは事実でしょう。個体の延命化が種の延命化になり人が幸福になるとするなら 原水爆弾があるにせよ 文明展開は大いにするべきということでしょう。 結局、文明進展の是非は 人間はいかに生きるべきか の答えと直結しています。人間いかに生きるかの 答えがあって 手段として文明進展をどうするべきか と思います。例えば、恐る恐るよりよい未来を模索するという 欲の制御という考え方をとるなら天台宗の教えに含まれるかもしれません。

回答No.17

一口に仏教といっても、時間的にはBC400の古代から中世近世を経て現代まで、 空間的にはインドから中国、日本、朝鮮、東南アジア、チベットまでと非常に幅広く、 「欲望」の取り扱いも極端な禁欲から性欲まで大肯定する理趣経のようなものまであります。 ここではお釈迦様の原始仏教ということで話をすると、 古代のインドでは人生は時期に応じて、学生期、家住期、林棲期の3つに別れていました。 学生期は勉強、家住期は結婚して子育てして家業に努める、長男が成長したら自分は隠居して林棲期に入る。 林棲期では苦行などをして精神修行をする。この時に欲望の放棄という話になります。 社会を運営・発展させてゆくのは家住期の人たちの役目なんですね。 林棲期の人たちはそういうことは考えない。 林棲期で出家できない人は、在家として出家者を支えます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.16

こんばんは。 >「仏教では欲を捨てると悟りを開けるという考えがあると思いますが、 人類が発展してきたのは、人間に欲があるからだと思います。」 仏教では、「「とらわれ」からは「自由」」なんですね、多分。

回答No.15

欲を捨てよ!と言う意味は貴方が考えているような意味ではありません。宗教の根本とは『魂の救済』がその使命ですので、その根本は西洋でも、東洋でも違いはありません。 又キリスト教でも仏教でも全く同じです。只表現の仕方に差異があるだけと思います。魂が救われた姿は良く『幼子』に例えられる事がありますので、魂が救われた形としての一つの例として、天国に一番近い存在としての幼子=宗教の最終目標としての『大人の嬰児』=『涅槃』に達する悟り=見性成仏=神と和解して、神の僕となる事、の共通性を書いてみます。 幼子には、元々『我』は在りません。此処に天国に一番近い存在としての理由があります。未だ『我』が生じていない事によって、天国に一番近い存在としての理由があります。 『我』が無くとも幼子には『生命』があります。この生命の『発生装置兼維持装置』を『命の働き』=『仏性や神』と表現しています。 生命として生じた瞬間から働く働きが『生命の発生装置』です。全てを知り尽くして働き始める働きです。その知っている内容は『細胞分裂の順番までも知り尽くして働く働き』を云います。この生命発生装置が、正しく作動した証拠として誕生が待っています。 生まれた時既に『生命維持機能』は完全に機能しています。その機能に付いて少し書いてみます。 赤ん坊が、何も学ぶ事無しで生きている事は『もう既にその体内に命の働き』が存在している事が証明されていますので、その機能をもう少し詳しく書いてみます。 命の働きは、主に三つに大別した方が分かり易いと思いますので、三つに分けて説明したいと思いますが、人間の全体像を示すには、この三つと言う分け方も適切ではない事を始めに断っておきます、その理由は、三つに分けたとしても、その三つはお互いに絡み合いもつれ合ながら働いていると言う観点で見た場合では、整合性を書く事もあるからです。 命の働き(生命維持機能)の一つは『身体全体の生命体としての維持装置』として働く機能を指しています。血液の循環機能や呼吸機能や消化器系統や神経系統も、ホルモンの分泌系統も全ての生命維持機能を統括して働いている働きを働いている者を指しています。心臓の動かし方を知らない赤ん坊など存在していない事で証明済みです。 命の働き(生命維持機能)の一つは『心的な作用を通しての生命維持装置』と言う意味です。つまり『湧き上る感情や、湧き上る考え』を湧き上がらせている者として働いている機能です。その証拠は腑あにゃ恐怖や安心する事は既に知り抜いて生まれている事で証明されています。 命の働き(生命維持機能)の一つは『行動を通じての生命維持機能を果たしている者』としての働きと言う意味です。手や足の動かし方を知らない赤ん坊など存在していない事で証明されていいます。 この働きを働く者と『自我』が一つの物として『一体になって働いている事』が、幼子が天国に一番近い存在としての理由です。この場合を『神に疑いを抱かない』と表現しています。 心理的には『見ている自分一人だけの自分としての存在』です、このために、自分の裸を人に晒す事に恥らうと言う感情が湧き上がりません、心理的には自分を疑う事が無いという理由から『自分を疑わない存在』=自分は何者か?という発想など思いも付かない存在と言う意味です。 人間の生命活動は『脳』に依存していますので、人間の脳の機能を科学的な文献から紹介します。ウイキペデアからです。 『”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』 この事実を、脳卒中と言う体験を通して、内部から脳の機能を追体験した脳科学者の動画を紹介します。良く観察して下さい。 『脳卒中、ジル、ボルト、テイラー博士』と検索をしてみて下さい、動画が出てくる筈です。 テイラー博士が語っている内容は正に『宗教体験』です。結論から書くなら『右脳の人格』は神や仏という意味です。右脳の人格の機能は『生命発生装置兼生命維持機能』です。 この『命の働き』=『仏性』との脳内での出会いを見性体験=悟りを開くと表現します。 この場合での『自分が自分の人生の全てを諦めた事』=『我を捨てた事』で『右脳の意識』と出会う事が出来ています。 心を病む事や、自律神経失調症や過敏性腸症候群や、神経症等は、先ほど三つに分けた自分自身の機能を疑っている事を意味します。 つまり自分の心が分裂や対立や矛盾に苦しんでいる事を意味します。ですが医学的な検査では『脳の機能も身体の機能も』異常無しとなっています。つまり脳の機能も身体の機能も健常者と同じと言う意味です。この事によって『現代の医学では原因の特定がされていない』と結論付けられています。 何処に原因があるのかが判らない状態で、治療が開始されています。この意味するところは『もしも寛快にまでなったとしても』現代の医学では、どうしたら悪くなるのかも、良くなるのかも分かっていない事』を意味します。 闇雲に薬を出し続けていて、自殺者の数が交通事故死者数を超えて尚、下げ止らない理由になっていると感じています。 現代の医学の盲点は『意識する自分=顕在意識』VS『無意識の自分』の解明が進んでいない事に原因があります。 神経症に例を取って説明するなら、『自我意識単独での行動』が神経症の症状になっている事です。言い換えるなら『自分の無意識の力を借りる事が出来な状態』と言う意味です。 不眠症の場合も同じです、自我意識単独で睡眠を求めている事が原因です。自我意識が『眠る事を諦めた場合では』自動的に睡眠が始まります。何故なら睡眠と言う意味は『自我意識が休む事を意味します。』 自我意識が休むと言う意味は、『自分の身体と心の支配権を、無意識の自分に預ける事を意味するからです。 自分の意識が無くなって『初めて睡眠が始まる事』を意味するからです。 そろそろ結論です。 欲を捨てよ、と言う意味は、これ等の障害からの開放を意味します。例えば是も神経症の症状ですが『吃音』を例にとって話すならば、吃音で苦しんでいる人に『吃音のままで良いですよ』と言う説得は効果がありません。ですが吃音の完治とは『吃音を受容れる事』以外はありません。 吃音を受容れた時が『見性』に相当します。何故なら吃音を起こしている意識と出会うからです。この時の心境は『嗚呼このままで全て整っていた事』を了解した時です 吃音にならないようにする事が『欲』に相当します。吃音にならないようにする事がなくなった時、吃音でさえ頭に浮かばなくなります。吃音を治そうとしたくなった時『吃音を忘れ果てています。』此処まできた時が完治です。 吃音にならないように『意識する事』が吃音になる理由です。是は吃音を治したい『欲』に相当します。吃音を受け入れる事が、吃音にならないようにする欲を捨てた事を意味します。 人間の意識性が生きる邪魔をするという意味が在ります。 欲しいものがある場合に、欲しいと意識する事で、返って欲しいものが逃げてゆきます。そういう場合では『欲しがらないで手に入れよ!』=『我を捨てよ!』に相当します。 優勝が掛かった一打を打つ場合と同じです。『優勝が頭ににちらつく時』欲が出ています。自我意識と自分の無意識が一体となって働く時『我は出ていません』 欲しがらないで手に入れよ!と言う意味になります。 他の言葉で言い表すなら、メンタル面が強いという意味です。自我意識が出ないようにして『優勝が掛かった一打を打つことを意味します。』 自我意識が出ないようにして打つという意味は、『自分の無意識に、身体も心も任せて打つ』と言うい意味です。 思春期頃に機能分化が完成します。自我が自分に疑いを向けると言う意味が『人生とは何ぞや?』を意味します。機能分化した右脳の意識=仏性は『無意識の底に封印された形で』自我意識から姿をくらませてしまいます。此処の解明が進まない事が今の医学の盲点になっています。 自我意識が出たままになって、幼子の心を忘れてしまった事が、障害の元をなしていると言う意味です。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.14

>もし全人類が悟りを開き欲をなくしてしまった状態になった場合に、 人類は新しい価値を生み出せなくなるのではと思ってしまいます。 そのあたりを仏教ではどう考えているのか教えて頂けないでしょうか? ○仏教の悟りに至る過程の表現は「真空妙有」です。ここで「真空」が欲を無くするということと同じ意味ですが、あくまで「真空」は「妙有」を得るための手段でしかないのですね。 つまり、一度、欲を無にして見なさい、そこに本当の人生の意味(これを妙有という)が見えるということですね。 本当の人生の意味とはね。人間、いや全ての生き物は発展・繁栄の義務を負っていることを知ることなのですよ。 何故ならね。人の心、魂は根本仏の一部だからなんですね。根本仏は「光あれ」と言って全宇宙を造り、「我のようになれ」と言って全ての魂を自身の一部から創ったからなんですね。 自分が仏の一部であることの体感、その時の喜びの表現が「妙有」とも言えますね。 これを知ることが、悟の一歩なんですよ。それを知ったものは当然、発展繁栄に努力しますね。 欲や地位や名誉でなく発展繁栄は全ての生き物に与えられた義務であることがわかるのが仏教の悟りなんですよ。 仏陀は根本仏そのものなんですよ。仏教とは根本仏のお考えを教えるものなんですね。 真の教育者はこのことを知っているから、正しく発展繁栄するように指導しているのですね。

noname#183245
noname#183245
回答No.13

バランスの問題ですね。 あなたのおっしゃる通り、欲のおかげで、 野心をもってチャレンジできます。 欲のいい部分です。 一方で「もっともっと」って、欲を制御できなくなると、 いくら満たしても、満たせなくなります。 だから、今もっているモノに感謝するというのも、 大事なのです。 「いま、しあわせだな」と足るを知ることで、心が豊かになるんです。 心が豊かにならないと、物理的にも豊かになれませんからね。 矛盾してますか? そうですね。 「足るを知る」と「強い欲」。 矛盾したものが一体化した時、道は開けるのです。

回答No.12

仏教は人類が発展しても個人が幸せになるとは限らないことを前提にしています。 また、仏教では、発展段階以前のインドの山奥で生れ、死んでいったお釈迦様でさえが幸せになれることを基本にしているのです。 仏教では、人類社会の発展を条件にしません。 あくまで、個人が生きているうちに涅槃寂静の境地に達する事を目指します。 一方、国家や社会は人類の進歩・発展を目指さなくてはなりません。 ですから、国政と宗教の分離(政教の分離)が重要なのです。 特定の仏教勢力を支持母体にしている政治政党は要注意です。

noname#194996
noname#194996
回答No.11

>全人類が悟りを開き欲をなくしてしまった状態になった場合 それはそれでいいのです。 社会が浄化され、浄土が実現したのです。 でも ブッダはそんなことを人類に要求はしていません。 諸欲が苦しみになる人を苦しみから救う教えなのです。 悟りを開き、苦しみがなくなったひとは以後自在に生きられるのです。 イエスは性欲を捨てよと言いました。 これを忠実に進めたら人間は滅亡してしまいます。 それはそれでいいのです。 社会が目的を達成したのですから。 でもイエスはそんなことを人類に要求はしていません。 自分がして欲しいことを隣人にもなせ、とも言っているのです。 男女の関係を促進してもいます。 愛の教えなのです。

回答No.10

捨てるべき欲とは‘人を虐げてでも‘という要素が入った欲で、そういう欲をなくしながら修業(努力)を続けることによって世の中の適材適所の中で自分がどういう役割を生きるべきかということが分かった状態になるのが、悟りなのではないでしょうか。そう考えると欲を捨てることや悟りを開くことは新しい価値を生み出すことに矛盾はしないと思います。

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