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仏教と人類の発展について

最近、仏教に興味を持ち始めて3ヶ月のものです。 仏教では欲を捨てると悟りを開けるという考えがあると思いますが、 人類が発展してきたのは、人間に欲があるからだと思います。 たとえば、車や携帯電話などもそうだと思います。 もし全人類が悟りを開き欲をなくしてしまった状態になった場合に、 人類は新しい価値を生み出せなくなるのではと思ってしまいます。 そのあたりを仏教ではどう考えているのか教えて頂けないでしょうか?

みんなの回答

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.9

”仏教では欲を捨てると悟りを開けるという考えがあると思いますが、 人類が発展してきたのは、人間に欲があるからだと思います。 たとえば、車や携帯電話などもそうだと思います。 もし全人類が悟りを開き欲をなくしてしまった状態になった場合に、 人類は新しい価値を生み出せなくなるのではと思ってしまいます。”     ↑ 新しい価値が生み出せないどころの話ではありません。 餓死者が続出し、ついには人類が滅亡します。 そもそも欲を捨てるなどというのは不可能です。 不可能なことをあえて教義とする、というのは どういうことでしょうか。 それは、不可能だが、欲望をなるべく抑制して 少しでも平和にしよう、ということです。 つまり欲望に対するブレーキを期待したのです。 そういう宗教によるブレーキが無いと、それこそ アクセルだけの暴走車、ということになってしまう からです。 だから、欲を完全に無くそう、などと考えてはいけない のです。 欲に目を眩ますな、人間にはもっと大切なことがある という程度で良いのです。 釈迦が言いたいのも、そういうことでしょう。

noname#181697
noname#181697
回答No.8

仏教は、この世界と人類はどうにもならないという視点で語っています。輪廻からの解脱が最終目的であるのはその為です。ですから、仏教をそのまま受け止めると、世を捨てざるを得ませんよ。 いわゆる大乗仏教は、生きとし生けるもの全てが救われるまで・・・みたいな綺麗事を言ってますけど、そもそも自分が仏にならないと本当の意味では誰も救えないのに、一体何を言ってんだろなって感じです。 あと、欲を捨てると悟れるのではなくて、悟りを開くと欲を持てなくなるんです。ここは結構大事な所なので、お間違えの無い様に。 それに悟ったら悟ったで、個人的な欲とは異なる動機と価値観を持って、新たに行動し始めるだけです。具体的には、一定の距離感を保ちつつも、可能な限り世界の調和とバランスの為に行動したり、病んだり狂ったりしている部分を訂正しようとする、って感じですか。 その過程で必要となるなら、新たな「何か」を全力で生み出そうとするでしょう。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.7

>仏教では欲を捨てると悟りを開けるという考えがあると思いますが、 そういう考えは仏教にはない。そういう単純な思い込みが災いを招くと仏教は教えている。仏教は欲を捨てろなどとは教えていません。仏教は欲に囚われる心が災いを招くと教えているのです。また仏教は悟りを開く為の宗教でもない。経典とは本屋で売っている安っぽいノウハウ本とは違います。質問者さんは二重三重にも思い違い、勘違いをしている。 仏教には顕教と密教があります。それは決して2つの流派があるという意味ではない。仏教は顕教と密教で構成されているという意味です。顕教とは文章化可能な教えのことで、密教は文章化不可能な教えのことです。文章化できない教えは容易に他人に伝えることができません。今、私はPCで漢字仮名交じり文を入力していますが、こうした文章で他人とやり取り可能なのは仏教の顕教の部分だけなのです。密教はそういう形では伝えることができません。 だから仏教は、他の世界宗教とくらべて難解で敷居が高い。3ヶ月どころか一生かかっても仏教の1/100も理解できないのが普通。それが凡夫の悲しさですから。

noname#187913
noname#187913
回答No.6

全ての人が悟りを開き欲を無くす事など出来ません。ゴータマ・シッダルータと言う古代インドの哲学者はそんな事は百も承知です。(多分そのはずです。会って話した事は有りませんが) 光が有って影がある。色が有るから白が有る。当然の事です。 光の無い暗闇の世界に『明るい』と言う概念は存在しません。同様に光だらけの世界に影と言う概念も存在しません。ゴータマ・シッダルータが言いたかった事は『光だらけなら、影を創れば良い』『暗闇なら火を灯せば良い』と言う事に過ぎません。 本来有るべきこの理論を拡大講釈したり商業利用しているのが『仏教』と言われる物に成り下がってしまった事は、きっと彼はあの世で苦笑いしている事でしょう。 『六道』が有るからこそ『人道』や『天道』も有ります。 仏教は本来哲学であり、戒名や念仏に金を取るいわゆる宗教では無かったはずですが、数千年の時の流れの中で今の様な事になっています。 欲を捨てるのは質問者の方御自身であり、回答している私自身です。『欲をすてた全人類』など元々定義としても考察としても存在しません。

回答No.5

仏教は釈迦が説いたものですが、欲望を捨てて と考えるのは駄目だと、釈迦自身が言及しています。 欲に囚われてはダメだが、欲が無いと、質問者の 言うとおり、発展も成長もない。 その質問者が興味を持ってる仏教って、看板だけで パチモンくさい。

noname#181644
noname#181644
回答No.4

覚りとは何か、仏教とは何か、理解できていないので、あくまで感想の様なことを述べるにとどまりますが。 覚りは、おそらく個人的な事柄です。人類的な、つまり大規模な現象では無いことから、覚りを誰が開こうが、関係なく人類は発展してゆくと考えられます。ただ、仏教独特の長久な、天文学的数字の並ぶ時間の中では、人類はみな、覚りの流れの中にあると、読めなくはありません。大乗的な解釈となるでしょうか。久遠の転生を繰り返して、皆いつかは覚る、そのように説いているように思われます。ただ、あくまでも記された、文字による表現なので、事実というよりは、主張のようなものと私は捉えています。実際には、釈尊はじめとする幾人かのブッダが出現してきたといわれていますが、仏教という宗教や哲学が、科学に与えた影響は、少なくはないと思います。ただ、あくまでそれは思想としての影響力であり、覚りが直接的に人類の発展に寄与したと考えるには、また別のファクターが必要なのではないでしょうか。例えば、人間の生き方の分類やそれについての科学などです。 欲望について触れられていますが、これについては倫理的な解釈をすれば、欲望を制することと文明の発展や生活の向上は矛盾しないと考えられます。今よりもさらに人口が増えた場合、省エネや節約は、別の方向性でのクリエイティビティを要求するだろうからです。

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.3

欲というのは行動の原動力になるのは事実です。 ただし、ほとんどの人間は欲というエネルギーによりオーバーヒートしているのではないでしょうか。例えば、おたまさんとか。無駄な妄想するなら稼げと。 また現実も淡々とやるひとの方が成果をあげているように思えます。ここでいえば、木造さんかな。 まあ、たまに浮世とんぼさんみたいに悪のエリートもいますが、悪のエリートも苦労はあります。「週二人から週三人買えるようになりたいです」とか意外とコツコツ型でしょ? 上座部仏教では欲よりも妄想の害をより指摘してます。 欲が原因で発展するのかは何ともいえませんが、妄想は発展の妨げになるのは確実でしょう。そして、欲の大部分は妄想であるような気がしますね。

回答No.2

仏教では人類の発展を定義していません 人類が発展する事と 凡夫が覚醒して悟りを得る事とは 全く違う価値観から齎される結果です 宗教とはどれでもが同じ様に 人としての幸福を念じるものです 人類全体の文明的発展とは対極に位置する概念です 人格の智慧の完成と 人類の技術的な発展的幸福とを同列に論議しても 混乱するだけです

  • aokii
  • ベストアンサー率23% (5210/22062)
回答No.1

人類が発展?する必要はありません。 全人類が悟りを開き欲をなくしてしまった状態になった場合に、人類は新しい価値を生み出す必要がなくなります。

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