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恋愛における<ハードル>とは?

・<ハードル>,「ガードの固さ/難さ」って何? よく,恋愛にかんする言説や,イメージにかんするものに,<ハードル>というものがあります。このことは,「ガードの固さ/難さ」であると受けとめている人々もいます。 たとえば,パートナーになってくれる人にたいして,一定の社会的地位をもっていることや,一定の金銭的収入があることを求めることが<ハードル>であり,「ガードの固さ/難さ」でもあるとされます。 <ハードル>が高い,あるいは,「ガードの固い/難い」ということは,たとえば,「高給取りじゃないとパートナーにしたくない」,などという考え方が,ひとつの例とされます。 では,あなたにとっての,恋愛における<ハードル>とはどのようなものであり,どのような例が考えられるのでしょうか? わたし自身の場合は: ・基本的には,「来るものを歓迎する」姿勢です。少しでもわたし自身のことに興味をもってくれれば,パートナーとして受けいれたいと思います。あとは,いろいろとコミュニケーションを重ねたいと思います。 ・いわゆる「後天的なもの」については,特に問わない。 ・ただし,他者を差別すること,偏見のまなざしをもつこと,異文化理解につとめないこと,寛容の精神に欠ける行為をすることについては,厳しい態度をとります。

noname#181693
noname#181693

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回答No.1

私の趣味・嗜好を理解してくれて、 絶対に否定しないことですね。 私自身、相当偏ってるそうなのでww(周囲の人間いわく) ニジオタ・ゲーマー(重症)・歴女の三拍子ですからwww 私がこれらを愛していることを理解してくれて、 決して否定的なことを言わず、むしろこっちの世界に 足を踏み入れてくれるような人がいれば最高ですねー。 単なるわがままですがwww

noname#181693
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  • 「ないものねだり」の恋愛観

    パートナーを選ぶにあたって,「条件」ばかりをつけることは,パートナーをつくることにならず,他者を遠ざけてしまうことになりませんか? 参考までに: パートナーを選ぶにあたって,「ないものねだり」をする人々は,少なくありません。これは,パートナーを選ぶにあたって,「多くの条件」をつけることでもあります。 ・カッコイイ人,可愛い人 ・お金を稼ぐことができる人 ・背の高い人 ・筋肉質の人 ・積極的にスキンシップをしてくれる人 ・外国語ができる人 ・スポーツ万能な人 ・楽器が演奏できる人 多くの人々は,自分にはできないことができる人をパートナーに選ぶ傾向にあると,わたしはおもいます。自分にはできなくても,彼氏や,彼女ができれば,ある種の満足感,あるいは,満足感のようなものを,得ることができるからです。「トラの威を借るキツネ」のごとく,ということです。当の本人にしてみれば,迷惑千万,ということになるでしょう。 パートナーがいなくて困っている人々の多くは,上に挙げたような「条件」ばかりをつけてしまうので,パートナーになってくれる人がいなくなってしまい,「悩み事」になってしまうと,わたしはおもいます。 わたし自身は,いわゆる恋愛にかんしては,未経験なので,どんな人でも受けいれるつもりでいます。交際してみて,いろいろなことがわかるからです。そういった「経験」をとおして,パートナーの魅力や,良いところが見つかることは,素晴らしいことだと,わたしはおもいます。 わたし自身がよくおもうことは,わたし自身は,「誰でもウェルカム!」なのにもかかわらず,そういう人々に関心をもたずに,みずからの「条件」ばかりを高くして,パートナーが見つけられないと,愚痴をこぼす人々がいることです。そういう人々の周囲にも,わたしのように,「誰でもウェルカム!」という人がいることでしょう。 「条件をつけすぎ!」 「選びすぎ!」 「ワガママがすぎている!」 ということにもなります。 たとえば,彼氏を探している人にたいして,「地味にみえるかもしれないけど,目立つようなタイプではないけれど,パッと見は良くないけれども,実は,パートナーのことを第一に考えてくれる人」がいたら,どうしますか?,とわたしは問いたくなります。 「理想像」ばかりを追い求め,気がついたら,何も得ていない…ということは,よくあるとおもいます。