• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?)

フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?

このQ&Aのポイント
  • 神とは何か?人間の知性を超えた超経験の領域であり、経験合理性によっては判定しがたい存在である。
  • 人間の精神は有限であり、経験領域に属している。神を信じることは、考えることではなく、信じることである。
  • 超自然な存在である神が経験世界や人間の歴史に介在するかどうかは判断できない。信仰の基本形態は個人ごとに異なり、明確に保持することが重要である。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#180507
noname#180507
回答No.22

こんばんは。 詳しいコメントありがとうございます。 コメントと、質問にある内容(信仰類型論)を再度読み直してみました。 (質問・信仰類型論)にある 》X(X-Z)はY(Y-Z)ではない。後者(Y-Z)には、特に、精神とその 》産物を含むゆえ、この想像物としての神(Y-Z)と想定上の神( X-Z) 》とは峻別しなければならない。 (コメント)にある 》聖職者や教会の公式見解に従わねばならないといった事態は、まさしく 》観念の神になったかたちで 《 YXが混在しているように》なっている 》と言わざるを得ないかと思います。 ※(質問・信仰類型論)と(コメント)を擦り合わせながら考えてみたのですが、大きくは、想像物としての神(Y-Z)、想定上の神( X-Z)で捉えたほうが、全体からの位置づけが整理しやすいように感じました。 キリスト教は、イエスが語ったことや生き方を原点に置くと、弟子の布教やその後の聖職者や教会の見解の介入によって、Yの傾向が強まったという印象も受けました。原点の時点でも、Yだったのかもしれませんが・・。 唯一神(ヤーウェ)は、想像物の神(Y) 、または、想定上の神(X)のどちらにも捉えれるようにも感じました。 関連して・・(質問・信仰類型論)にある 》わたしZi は、信じる(つまり信じないの場合も同じの対象(したがって、 》すでに非対象)を《空(欠如)》X-Za と言おうが、《アミターバ(無量光)・ 》アミターユス(無量寿)・ブッダ》X-Zb と言おうが自由であろうし《神》 》X-Zcとも、《ヤハヱー》X-Zdとも《アッラーフ》X-Ze 等々とも ※《空(欠如)》X-Za 、《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》X-Zb ・・・は、人間が捉えきれないものとしてX-Zですが、人間がつくった宗教のなかの概念としてY-Zでもあるようにも思うのですが。 Bragelonneさんがおっしゃる「主観内面における――非思考の庭にいだかれた――神Xが所謂る宗教のオシエの中に表現=外化=疎外されたかたちで・つまりは観念として持たれているそれ」が、私のなかでは、まだ十分に消化しきれてないような気がしました。 あと、こまごました点で、前後しますが・・ ※聖書の《心のきよい者》と、仏教の《自性清浄心》は、質的には違うような気がするのですが、 「信仰とは ひとがみづからすすんで努力して得るというものではなく ナゾの何ものかから与えられるものだと思われる。」 信仰とは・・について、どちらの宗教にも共通するという点は共感します。 》☆ですから( Y-Z )に属す神は想像の産物であり、観念の神だと考えます。 》宗教におけるオシエの神であり《神は死んだ》と宣言された神のこと 》ではないでしょうか?  《神は死んだ》と宣言された神というのは、ニーチェのでしょうか。 信仰類型論のなかで、位置づけていいものかどうかわかりませんが・・ キリスト教や既存の道徳などをルサンチマンの産物として否定しましたが・・新しく教条的なもの(~すべき)を与えるのではなく、人間の課題(苦痛を受け入れ、超越していき、肯定する運命愛)として、哲学または倫理学の分野に示したと捉えています。 それとも、あの世や「神」のない時代に、課せられた強者の生き方を「神」と捉えるのか。 う~ん、どうでしょ。 どちらでもいいのですが、宗教と哲学や倫理学まで拡大して、「神」の位置づけをしたほうがいいのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 frwicat さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  ※(質問・信仰類型論)と(コメント)を擦り合わせながら考えてみたのですが、大きくは、想像物としての神(Y-Z)、想定上の神( X-Z)で捉えたほうが、全体からの位置づけが整理しやすいように感じました。  ~~~~~~  ☆ ごもっともです。おっしゃるとおりです。  言いにくいことですが frwicat さんを含めみなさんの用語などに振りまわされてしまいました。むろん わたしがわるかったことです。  ★ 想像物としての神(Y-Z)、想定上の神( X-Z)  ☆ すっきりしています。ぜひこの用語ですすめたいと考えます。  ★ ~~~~~  キリスト教は、イエスが語ったことや生き方を原点に置くと、弟子の布教やその後の聖職者や教会の見解の介入によって、Yの傾向が強まったという印象も受けました。原点の時点でも、Yだったのかもしれませんが・・。  唯一神(ヤーウェ)は、想像物の神(Y) 、または、想定上の神(X)のどちらにも捉えれるようにも感じました。  ~~~~~~~  ☆ 聖書ないしキリスト・イエスが指し示した神について やはりたたき台をかかげてみます。  1. 神( X )は アブラム(のちのアブラハム)に 故地を去って行けと言った。という神のお告げとも神がかりとも見られる事件が起こった。  2. ということは アブラムはおのが心にナゾの何ものかのおとづれを感じ そこに神の名(エローヒーム)を捉えこの名を受け容れた。かれの心に――神は《思考に非ず》なるナゾであるゆえに――《非思考の庭》が成った。その庭におけるヒラメキとして 具体的に《父祖の土地を去って 行け》という内容として受け取った。  3. 《行けと言われたから 行った》。ここに信仰が始まり その信仰として神がいだかれた。つまり《想定上の神 X 》である。(ちなみに この・あてもなく出かけて行くことになったとき かれは 七十五歳だったとか)。  4. アブラムは この非思考の庭のほうが 思考の緑野や感性の原野よりも 考え方としてまた生き方として先行すると思っていた。  5. よって たとえば世間一般におこなわれていた神へのささげものとしての生け贄にかんして 自分の長子をそれに当てることが出来るかと考え始めた。  6. 信仰が 思考や感性に先行すると思っていたアブラムは 来る日も来る日も考え悩み考えた。収穫の初穂は 神のものだ。しかるに 神へのささげものが 人間の子どもとしての初穂なる長子であることは――つまり子をそして人をころすことは―― 成るものなのか? と。  7. おそらく精神錯乱の寸前で そのもやもやのあたまの中で《ひとは 自分をも他人(ひと)をも ころさない》とさとったのだと思われる。  8. やがてそののちこの命題は モーセには 同じ神から 《なんぢ ころすなかれ》という倫理規範として(つまり 律法として)あたえられた。  9. すなわちアブラハムと名乗るようになっていたアブラムにあっては 《人は人をころさない》という内容のヒラメキを得ていた。これが 《ころすなかれ》という言葉で――そして集団においてそれを規範として受け取るかたちで――表現されるようになった。  10. 律法は 共同体の秩序を維持するのに必要であったのかも知れないようなのですが 事ここにおよべば 非思考の庭なるナゾの神が 或る種の仕方で外にお出ましになった。《ころすなかれ》なる道徳律が神ではないことは分かっているけれども その規範としての命題は 人びとのあたまの中に刻みつけられた。という一面が現われた。  11. すなわち――このひとつの事例に見る限りでですが―― アブラハムにおける《想定上の神( X )》は 或る種の仕方で《想像物なる神( Y )》として受け取られる〔部分的なでしょうか〕事態があらわれた。  12. イエスは モーセの律法の神を アブラハムの非思考の庭なる神に言わばもどした。と同時に その《想定上の神( X )》は 非経験の場あるいはそのチカラとして人間にとって《全体としてひとつ》である つまり人類に共通の《神 X 》だと指し示した。  13. (イエスは キリストとしては この《神 X 》をひとが受け容れるなら その心に汲めども尽きない水の湧き出る泉が生まれるとつたえた)。  14. のちイエスの生涯が聖書として文章化がなされたあとでは ちょうどアブラハムの信仰内容がモーセによって律法化されたのと同じように 想定上の神( X )が 想像物なる神( Y )として受け取られる事態は まぬかれなかった。  ここからは  15. 《想定上の神( X )》であったとしても それが人間の言葉において表わされ概念として扱われるようになったときには つねに《想像物なる神( Y )》に成ってしまいうる。  と考えられます。  ちょうどこのことが 次の問題として指摘されているようです。  ★ ※《空(欠如)》X-Za 、《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》X-Zb ・・・は、人間が捉えきれないものとしてX-Zですが、人間がつくった宗教のなかの概念としてY-Zでもあるようにも思うのですが。  ☆ ということだと思います。  つまりパウロが言うには      文字はころし 霊は生かす。  ということかと捉えられます。  ☆☆ 「主観内面における――非思考の庭にいだかれた――神Xが所謂る宗教のオシエの中に表現=外化=疎外されたかたちで・つまりは観念として持たれているそれ」  ☆ というようにわたしは ややこしい言い方をしていたようです。    ★ ※聖書の《心のきよい者》と、仏教の《自性清浄心》は、質的には違うような気がするのですが  ☆ 何ごともわたしは 類型化して捉えるクセがありますので 注意しなければならないと思うですが つまりは    神の霊がやどるその霊 ≒ 如来蔵=ブッダター(仏性)=自性清浄心  だと見てよいとは思います。問題は 《心のきよい》ことと どう同じでどう違うか?  おそらくですが        わが心なる非思考の庭にやどる神の霊は わが心をきよくする  とは思ったわけでした。  ★ 《神は死んだ》と宣言された神というのは、ニーチェのでしょうか。  ☆ これは 議論の焦点が拡散するという意味で不用意な発言でした。  言わんとするところは 《想像物なる神 Y 》は――文字なるかたちになっていて その文字をそのまま神 X として受け容れるなら それはころすものとなると言うように―― すでに信仰にとっては蝉の抜け殻のようなものである。だから 誰からにせよ その神は死んでいると言われても 仕方がないのだ。――こういう意味合いでした。  この神論は X と Y との区別が 重要だということになりますね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (37)

回答No.8

あなた頭良いですね。論理的な文章書くの上手いですね。 だっから、ちょっと勿体ないなぁ・・・思います。 哲学的分野以外には興味はありませんか? 今のその力を神とか哲学ではなくて、社会全体を幸福にするべく利用してくれたりしたら良いと思うし、そうであれば私は貴方を、より強く尊敬できるという事ですね。 いま、私はネット上で副総理の麻生太郎と繋がってます。 私の様なイレギュラーな境遇の者が偶然にも貴方に出会うというのは、恐らく、なんらかの運命に導かれるものと感じました。 もし、興味があるのであれば、一緒に政治アイデアを創造したりして遊びません?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  お褒めにあずかりました。  ただですね ただ もうこういうことは ここで数年にわたって問い求めて来ています。(過去の質問履歴で分かります)。考えたのは 二十年くらい前です。  ですので 憎ったらしく図々しくおごり高ぶった言い方をしますが このような《神の定義》をみんなが――つまり差し詰めここでの多くの人びとが――ふつうに持って身につけたかたちになれば よほどそしてうんと身の周りの生活情況はあたらしいものへと変わって行くでしょう。  そういう社会貢献の仕方はありだと思っているのですが。・・・  《いじめ》をめぐっては 確かに正面から取り上げたことはなかったかと思います。  ひとつ 間接的にどういうことを考えどう問い求めているかにつきまして 次の質問を挙げてみます。  【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7775052.html  クウキは 読めないほうが 健全である。ただしいまの段階では それはあたかも陰画(ネガ)の状態になっている。やがてあたらしい社会になるときには KY やヒキコモリの人びとの思想は 陽画と成って 主人公の役割を大いに果たすことになる。――こういう趣旨です。  いじめにも当てはまると思ってのことです。  もう一個 かかげましょうか。  【Q:パワ・ハラ電磁波はアース役が核反応させうるか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7847204.html  《アース役》のいじめられ役の人たちよ 自然においてがんばれと。  《共同自治》につきましては 社会のあり方や運営の仕方にかんして インタムライズムという旗印をかかげています。ムラ=村つまり市町村のことです。  たとえば 次のような質問での問い求めです。  【Q:アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7485189.html  ☆☆(その趣旨説明欄より) ~~~~~~  アマテラスお二階さんは 一階のスサノヲ市民社会に大政奉還すべし。  いわゆる地域主権について問うものです。  ムラ=市町村 の主体性を発揮する時代へと移行しましょうか?  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずだ。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。  うんぬん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といったかたちです。    そしてこれを――つまり スサノヲ市民社会(=ムラムラ)の主導による社会の運営を 日本だけではなく 国際的なムラムラの連携形態において実現して行くという展望です。    インタナショナルなインタムライズムとは 日本のひとつのムラが 日本のほかのムラムラと連携し また中国や韓国その他その他の国のそれぞれムラムラと――ムラが主体となって ムラどうしで――やはり連携していくという仕組みです。    社会生活のあらゆる分野や領域で 交流し交通します。  ムラ議会の議員に 外国人をも容れます。互いに選挙しあって容れます。  企業との連携も 欠かせないでしょう。  うんぬんとつづきます。(むしろあまり考えておらず 歴史の流れにつれて 必要な制度をつくっていけばよいと考えています)。    そしてそれには あらゆる名の神を世界中の人びとが互いに受け容れあうこと。これは 基礎的なしごとのひとつとして大事なことだと思っています。  お察しのとおりわたしは お二階のおえらい方々から見ると けしからぬヤツだと思われると思います。  とりあえず このようにご返答をいたします。  おまけです。  【Q:アマテラス公民の世は終わらせるがは どうですろうか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6682085.html  (回答の中には あまり関係ないことを書いて来ている場合がありますので 気をつけてください。スルーしてください)。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.7

>神とは何か?  良くも悪くも世界に対して強い影響力があると思う。  今だって、神についての話題を広げて文章書いてますが、この文章を書いてる時間、例えば「いじめ相談カテゴリ」で悩める人の相談に乗る事ができました。  神という概念がこの世になければ、人々の目は、もっと社会的な有意義時間に使われたかもしれない。  虐め自殺なんて起こらない社会だったかもしれない。  良くも悪くも神は世界に対して強い影響力がある。

bragelonne
質問者

お礼

 さくどぅらださん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  なるほど。神の信仰についての現実的な効用を問題にしておられます。  ★ 良くも悪くも世界に対して強い影響力があると思う。  ☆ ただしわたしが思うには 神についてというのは    個人の主観内面における信仰の神と そして   その信仰の抜け殻のようなオシエを集団として規範のごとく受け取っている宗教と  これらふたつの場合があると思います。  次のような場合は明らかに後者の宗教のことでありオシエとしての神(神もどき。ないし観念の神)のことだとわたしは考えます。  ★ ~~~~~  神という概念がこの世になければ、人々の目は、もっと社会的な有意義時間に使われたかもしれない。  虐め自殺なんて起こらない社会だったかもしれない。  良くも悪くも神は世界に対して強い影響力がある。  ~~~~~~  ☆ なぜなら 個人としてのワタシの主観における神は ワタシの思惟や行動に――実際にはわが心の意志をつうじてですが――かかわっているかも知れないとしても これが(つまり神がとそして神へのわが思いが)直接にオモテに出るというわけではないからです。  主観の内なるわが心の神が もしオモテで出てしまったなら それはもはや神ではありません。神という言葉です。( kami というただの発音だけかも知れません)。概念です。観念です。神もどきです。あるいは そういうオシエです。ただのオシエです。  オシエは 言わば命令にまで成り得ますが それはあくまで内面における信仰が 言葉で表わされてすでにモノとして取り扱われるようになったかたちです。つまりは 規範です。一般に倫理としての規範です。  このオシエないし規範としての神がこの世になければ 人びとは・つまりわれわれは もっと自由に振る舞い生活していたでしょう。  《むさぼるなと言われなかったなら わたしは むさぼりなる概念を知らなかった》かも知れません。  《いじめ》は ここで安易に論じるわけには行かないと思いました。考えて行きたいと思います。  どうすればよいか お考えがありましたら またお立ち寄りくいただきたいと思います。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#181644
noname#181644
回答No.5

残念ながら、批判するためではなく理解するためにきたのですが、。 さて、クレドという言葉には、志という意味があるそうです。 ブラジュロンさんは、志している、何を?神を。 神というものを求めているらしい、と。そしてそれを、信仰とも言っておられる。さらに、時に閃きがあり、それも、神への志向性の中で行われていると。 して、そのような作用によって神を希求するブラジュロンさんにとって、神とは、あえて言語化すると、永遠、無限、絶対と言ったような言葉でいうことができる。 つまり、ブラジュロンさんは、信仰を通じて、そう言った性質を持つ神を求めている。 この様な概観でよろしいでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 雨語りさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  一文づつお応えしていまいります。  ★ クレドという言葉には、志という意味があるそうです。  ☆ けれども ここでは(わたしの場合) 《われ信じる( I believe. )》という本来の意味で使っています。    《信じる》には たとえば《われ 親友の無実を信じる》といったように《神を》ではなく《人や経験的なものごと》について使う場合もあります。  それは 《非思考においてナゾの何ものか(つまり神)を心に受け容れる。また それを心にいだく。したがってそのような信仰の動態が過程されること》を表わすその本来の意味を別の意味に転用しています。  すなわち 《・・・無実をつよく思って うたがわない》というように《経験的なものごとについて 思う・考える》ことを強調するための用法です。  《確信する》とか《信念・信条》とも言って《信》を用いますが これらはみな《経験思考》の問題です。  一般にその内容の妥当性を疑っていないというような強調の用法です。この用法では 《神》は関係ありません。  それと同じように 《こころざし》という意味でのクレドの用法は もはや神とは関係ありません。(直接には かかわりません)。  (信仰個条としてのクレドつまりその意味での信条の場合は 信仰の動態においてわたしは・そしてその宗教は 神についてこれこれこうだと明らかにして表わすというふうにオシエを持ち出して来る場合です。げんみつに言えば オシエはすでに人間の思考にそのまま呼応しているものですから 本来の《信じる》とは別です。信仰の外郭ないし蝉の抜け殻が 宗教のオシエです)。    (現代スペイン語では 《信じる》という本来の用法のほかに ごくふつうに《わたしは思う》という意味でも使われています。 クレドは クレオと変わっていますが 《クレオ ケ スィ。》と言えば 自信はないけれどたぶんそう(スィ)ぢゃないかと思うといったうたがわしい意味にも使っています。つまり I think so. のことですね)。  ★ ブラジュロンさんは、志している、何を? 神を。  ☆ すなわち 《神》は 《その名を心に受け容れる》というかたちで《信じる》ものであり 《心差し》は思いや考えのおもむくところとして 経験思考の問題です。  ★ 神というものを求めているらしい、と。そしてそれを、信仰とも言っておられる。  ☆ 《聖霊を信じる》と《経験的なものごとを信じる》との区別は もう明らかだと考えます。  ちなみに その信じる問題を取り上げるにしても 《神を求める》という表現は 必ずしも意味が明解ではありません。一般に――いえ 問い求めても むろん よいわけですが それにしても一般的に言って―― 人間のほうから神の方へ進み入るというようなことではなく むしろぎゃくでしょう。その一般に従えば 《神を求める》という表現は 微妙でしょうね。  たとえば 次のような考え方をひとしく持ちます。  ▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~~~    自己を運びて万法を修証するを迷とす。    万法進みて自己を修証するは悟りなり。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ さらに、時に閃きがあり、それも、神への志向性の中で行われていると。  ☆ 非思考の庭において(つまり 信仰の動態過程にあって) ヒラメキが得られるというのは そのままそうだと思っています。そのように表明しています。  そしてそれは 《神を 具体的には神の名を 心に受け容れたそのあとの信仰の動態において》のことです。《神への志向性の中で》というのは すでに触れて来ましたように 大いに不正確です。  ★ 神とは、あえて言語化すると、永遠、無限、絶対と言ったような言葉でいうことができる。  ☆ これは そういうことです。つまり 信仰の中身を どうにかして理解しうるように表わしたいとすれば 神のことを そのような――経験思考における――概念で仮りに代理としての表現において表わしてみる。こういう意味合いにおいてです。  ★ つまり、ブラジュロンさんは、信仰を通じて、そう言った性質を持つ神を求めている。  ☆ つまりは 初めに《志向性》を立ててそれに従うなら そう考えられるということだと思いますが・そしてそういう道筋で捉えると分かりやすいということかも知れませんが ふつうの信仰としては じつは違うわけです。  信仰は 神からあたえられるものです。神は 人間が造ったものではありません。  人間の想像の産物としての神を――神もどきを――後生大事にいただいていても おもしろくありません。(一時的には 強いチカラを得るのかも知れませんが)。  さて《非思考の庭がわが心に成る》という信仰についてそれは どういうことか?  敢えて・返って コテコテの抹香臭い説明を ご披露してみましょう。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~      愛は死のごとく強し。(雅歌8:6)  と言われるわけは 愛は われわれがかつてなかったものになるように われわれがかつてあったものを殺すからである。  愛はわれわれの中にはたらいて われわれの中なる或るものが死滅するのである。  (アウグスティヌス:詩編講解 122・12)  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そのときはるかに高いところから     私はおとなの食べ物だ。     成長して私を食べられるようになれ。     食べると言っても 肉体の食物のように     おまえが私を自分のからだに変えるのではない。     逆に おまえが私に変わるのだ。  というみ声を聞いたように思いました。   (アウグスティヌス:告白 7・10 山田晶訳)  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   私の体験に於いて 神は 私に私自らを示そうとし給うた。  (アウグスティヌス書簡21・1)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#187913
noname#187913
回答No.4

私の回答を『より生活に密着したもの』と捉えられたのは、まさに仰る通りです。 私たちは平常、人しか居ない社会の中に居ますので、どうしてもその社会の成り立ちが思考の根底に据えられがちですし、通常人間社会の中にのみ生活する分にはその論理はなかなか破綻を見せません。 一つ例を挙げると、大きな山が(林や森でも構いませんが)有って、そこに何種類かの野鳥が居る時、その雄雌は生まれて初めて見ても自分と同種の雄雌を区別して交尾します。決して種類の違う鳥と交尾する事はありません。 これは『経験』では説明出来ません。『野生』とか『本能』と呼ばれる物です。 人間の行動の多くもこの『野生』や『本能』に依存して行われますが、一般的に(特にキリスト教的な)神学に於いてこの仕組みを説明出来る理論は存在しません。 動物の神経作用(もちろん『思考』も含めて)は、神経細胞膜上に有るナトリウムイオンとカリウムイオンの代謝によって発生する電気の伝達によってなされますが、それがどう言う仕組みで(あるいはどう言う神の意思で)前述の様な『野生』や『本能』の基幹となっているのかをきちんと説明出来る神学者を見た事がありません。 人の恋愛も同じ事なのですが、単に仰る様な『前頭葉の反応』(思考)としてのみ捉えられ、その思考そのものが動物(人間も動物です)が行っていると言う視点が欠けているので、『本質』(人間が哺乳類で有る事)を考慮に入れて、本能的にはどう思考し行動するのを、神学的にはこう解釈しているのであると言うところまで突っ込むべきではないかと言うのが、『ロボットのプラグラムの様だ』と言う感想になりました。 論旨としては大変面白いと思いますが、『普遍の論理』かと聞かれたら『それは違うよ』と思うと言う意味です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。   お応えしたことの趣旨は    ○ 『より生活に密着したもの』を考慮に入れても     神の定義としての理論は 理論の次元でそのまま有効である。  でした。これに 初めからのご趣旨において 反論をされていると思います。  ★ 人間の行動の多くもこの『野生』や『本能』に依存して行われますが、一般的に(特にキリスト教的な)神学に於いてこの仕組みを説明出来る理論は存在しません。  ☆ つまり 質問者の言おうとしていることは もし《本能》の問題(その実際)を考慮に入れても 神とその信仰の定義は 何ら影響を受けない。とやはりお応えしようと考えます。  ★ ~~~~  一つ例を挙げると、大きな山が(林や森でも構いませんが)有って、そこに何種類かの野鳥が居る時、その雄雌は生まれて初めて見ても自分と同種の雄雌を区別して交尾します。決して種類の違う鳥と交尾する事はありません。  ~~~~~~  ☆ この事例が そのまま動物のこととしてでもよいでしょうし また同じようなかたちで人間の事例としてでもよいと思うのですが 問題は この《本能》としての行動もすべて 《神 X と 神と我れの関係としての信仰( X-Zi )》のもとにいとなまれる。ということだと見ます。理論は何ら 影響は受けない。ゆえに 神学が本能の仕組みを説明するか・出来るかの問題は 問われることはないと考えます。  どうして 人間の《言わばどろどろしたところもある日常生活のこまごまとした実態》が問題になると 神の理論が影響をこうむるのでしょう? むしろそこに疑義をさしはさむことのほうが 何故なのだろうと思ってしまいます。  このたたき台に 次の自然本性についての図解を添えたいと思います。   ○ (ワタシなる存在における自然本性の内実) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ここで《非思考の庭》が――むろん想定であり仮定なのですが―― 《神の信仰 X-Zi 》を示しています。その《信じる》の問題が 思考や感性といった現実の経験事象のあることによって(またそれらを 考慮に入れることによって) どうして影響を受けるのでしょう? 《信じる》と《特には 本能的な行動》とは 領域と言いますか分担する分野と言いますかが 違っていると捉えられます。  むろん神経組織とそのハタラキには 《非思考の庭》は 少なくとも直接的には関与していません。ですから 神学が そのような思考などにかんする神経作用を説明する必要はないと考えます。  ★ ・・・、『本質』(人間が哺乳類で有る事)を考慮に入れて、本能的にはどう思考し行動するのを、神学的にはこう解釈しているのであると言うところまで突っ込むべきではないかと言うのが・・・  ☆ 《本能の行動》を神学は どう解釈するのか? 本能――それがほんとうに人間にあるとするならですが――については 《非思考の庭》なる動態(――ちなみにそこでは 思考にかかわることとしては ヒラメキが起こります――)とかかわりがない。こう説明するだけのことです。  言いかえると それは 理性の担当する知識や知性のほかに意志の問題であると捉えるでしょうね。  意志を出し置いて 本能的な行動をするわけですが けっきょく事後的にでもそれは 何のなにがしなるワタシの意志行為の範囲に入ります。引き受けますと言って 処理することになります。  たとえば満員電車で 急ブレーキがかかって人びとが押されてしまうというとき 不可抗力であっても となりの人に自分のからだを預けるようなかたちになったなら すみませんと言って 自分の意志行為であるから自分の責任だと見なして 処理する。というたぐいのごとくに 本能的に・つまりは 意志を出し置いて行動してしまった場合にも 同じく意志行為と見なして処理されます。  そういうことは この神の定義としての理論では 扱う必要がないのです。  よって  ★ 論旨としては大変面白いと思いますが、『普遍の論理』かと聞かれたら『それは違うよ』と思うと言う意味です。  ☆ という結論をくだされた根拠は まだ成り立ちません。  普遍妥当性をもった神の定義として提出しているわけですから おいそれとは引き下がれません。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#187913
noname#187913
回答No.3

仰りたい事の意味は分かりますし、その辺の駅前などで『浄霊』等と称して訳の分からない事を言っている人たちよりよほどまともだとは思いますけれど。 ここで大事な事は、そういった思考を(あるいはそれに反対する思考を)しているのが哺乳類の動物であると言う観点が一切抜けて、生理や欲(ここで言う『欲』は一般的に言うところの金銭欲や出世欲でない事はお分かりと思います。食欲・睡眠・排泄など生命を維持する為に必要な物の事です)に関して、わざと触れないのか、そう言った物を抜きにして人間の精神世界を証明する事が可能だと誤解されているのか、まるで『人間』と言う名のロボットのプログラムについて解説している様に感じる事に違和感を覚えると言う事です。 『吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーションを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。』と言う言葉は、この質問の中で言われる様に、人間をロボットの様な物だと思ってはいけないよと言う戒めとも取れますが、いかがでしょう。 『自由に話し合う』為には、自由に話し合える環境の整備なくしては出来ません。それは『神』や『仏』やその他もろもろの物が何故人々に信じられ支持されているのか(これは単に形而上学的な精神論では無く、先に書いた様に哺乳類は何を好み何を嫌うのかと言った生物学的ないしは行動生理学的観点)抜きに論じられる事では無いと思っています。 私はあなたの仰る『大前提』は、まず『人は動物である』と言うところまでさかのぼるべきだと思います。 もっとも、仰っている『超自然』と言うのが、私の言う『自然な状態』を抜きにして(もしくは超えて)、とりあえず前頭葉で考える事(人間の本質はどうでも良くて、前頭葉の仕組みだけ知りたいと言う意味)ならば、仰る事は一理有ると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 おんせん_だいすきさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。    のっけから反対意見を述べますが もっとも重要なところは おんせん_だいすきさんが 次のようにこの神の仮説を《人間の精神》の問題だと受け取られたところにあると考えます。  ★ 人間の精神世界を証明する事が可能だと誤解されているのか  ☆ すなわち こうです。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~  § 1   ・・・  人間の精神は 《絶対 X 》ではない。人間じたいも 《経験存在 Y 》であり その精神も有限であり 《経験世界 Y 》に属す。  《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― マチガイである。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 確かにこの《信じる》という領域――《非思考の庭》とも呼びますが――をもわれわれ人間は 精神において(理性等をつうじて)認識するわけですから この《非思考の庭》も  ★ 人間の精神世界を証明する事が可能だと  ☆ という前提で語っていると見られたのかも分かりませんが 問題は そのように大きく《精神世界の風景》を捉えて明らかにしようとしているのだとしても 扱う対象は 《思考に非ず》なる領域のことです。  つまりは言いかえると あくまで《想定する》のだと言って 定義をおこなっているところです。  ぶしつけになりますが この点は 誤解されているように思います。  ほかの批判点は こうです。   ★ まるで『人間』と言う名のロボットのプログラムについて解説している様に感じる事に違和感を覚えると言う事です。  ☆ つまり  ★ ~~~~  ここで大事な事は、そういった思考を(あるいはそれに反対する思考を)しているのが哺乳類の動物であると言う観点が一切抜けて、生理や欲(ここで言う『欲』は一般的に言うところの金銭欲や出世欲でない事はお分かりと思います。食欲・睡眠・排泄など生命を維持する為に必要な物の事です)に関して、わざと触れないのか、そう言った物を抜きにして   ~~~~~  ☆ といった点 つまりもっと生活の具体的な場面などを考慮に入れよということのようです。  借問しますが でしたら どう含み入れて扱うということでしょう? つまり その必要はありますか? 神の定義をあつかうとき そのような人間の自然本性のあり方についてくわしく触れる必要はありますか。  あるいはまた そのような《生命維持のための生理的なまたは生存の欲求》において行動したとしても・またはそれらの欲求にたとえ《反対する思考》を人間がおこなったとしても それは ひとつにそのように――わが心に反してでも――自由におこないうるのですし もうひとつに そのような《欲求》は ほんとうに《信じる》に対してさからうことであるのでしょうか? と問えるとも思われるのだからです。    《信じる》の問題は 生活日常の細かい振る舞いを抜きにしても 理論づけることが出来るのではないか です。  さらにもうひとつには たとえ《信じる》に対してさからうような思惟や行動を人間がおこなっても・つまりは ですから そのように自由にいかようにも神に対して振る舞ったりしたとしても そのとき《神 X 》は 何ら痛痒を感じるわけのものではない。ということも言えるはずです。――つまり 理論は いささかもゆれたりしません。そのまま有効でありつづけます。  ということが言えるのではないでしょうか。  ですからぎゃくに  ★ ~~~~~  『吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーションを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。』と言う言葉は、この質問の中で言われる様に、人間をロボットの様な物だと思ってはいけないよと言う戒めとも取れますが、いかがでしょう。  ~~~~~~~  ☆ というような批評をいただくことが出来るわけです。だと思います。  人間がロボットや論理機械のように振る舞うのではなく ふつうに感情ゆたかにも行動していても・自由に振る舞っていても 理論は 理論として つねに有効でありつづけることが出来るわけです。  ★ ~~~~  『自由に話し合う』為には、自由に話し合える環境の整備なくしては出来ません。それは『神』や『仏』やその他もろもろの物が何故人々に信じられ支持されているのか(これは単に形而上学的な精神論では無く、先に書いた様に哺乳類は何を好み何を嫌うのかと言った生物学的ないしは行動生理学的観点)抜きに論じられる事では無いと思っています。  ~~~~~  ☆ 《生物学的・行動生理学的観点》は 上に見て来たようにクリアしました。と思います。それ抜きに仮説を立てていますが それを含み入れても 理論は理論として有効であると見ました。  問題は コミュニケーションの実際の場では どうであるのか? こういう問いでしょうか。  つまり言いかえると ここでは(この理論では) 人びとの――それでは弱いと言われかねないところの――言わば《心構え》を問題にしている。となります。《どんな名の神であっても――また 〈無い神〉であっても―― この神論によるならば 心の明けが持たれることになる》と考えるからです。  《どの神に対しても わが心は閉じられておらず 開かれている》という《心がまえ》のことです。  これは 話し合いにとって大きな必要条件である。と考えるからです。  むろん さらに具体的な細かい条件も必要でしょうし 十分条件は何かという問題もあるかも知れません。ですが 基礎としての条件は 満たしている。こうも 大胆に考えていますが どうでしょう。  ★ ~~~~~   私はあなたの仰る『大前提』は、まず『人は動物である』と言うところまでさかのぼるべきだと思います。   もっとも、仰っている『超自然』と言うのが、私の言う『自然な状態』を抜きにして(もしくは超えて)、とりあえず前頭葉で考える事(人間の本質はどうでも良くて、前頭葉の仕組みだけ知りたいと言う意味)ならば、仰る事は一理有ると思います。  ~~~~~~~~~  ☆ 《社会的動物である》という事項は 踏まえているつもりですが すでに触れて来ているように たぶん生活日常の具体的な人間の振る舞いについては 抜きにして理論を立てているとは思います。  そうして 問題は重ねて触れますが   ☆☆ 人間の精神は 《絶対 X 》ではない。人間じたいも 《経験存在 Y 》であり その精神も有限であり 《経験世界 Y 》に属す。  という《神は 人間の精神ではない》という論点と そしてほとんど同じことですが   ☆☆ ~~~~    X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )   ~~~~~~~~~  ☆ というように《想定する》という定義の仕方 この論点だと思っています。神は《非経験・非思考》ですから これこれこうだとふつうに規定することはかないません。これこれこうだと《想定する》というかたちが ふさわしい。こういう論点です。  

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • Carbadoc
  • ベストアンサー率19% (144/748)
回答No.2

おそらく、神とは、人間が効率よく人間を支配するために造ったものでしょう。 私はそう思っています。

bragelonne
質問者

お礼

 かるばどくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですか。そうですね。つまり ただの感覚で言うとすれば半分くらいの人びとは そういった《人間の想像の産物としての神》説であるように感じられます。  つまりは――回答No.1でのやり取りにも出て来ましたが―― 仮りにこの人間なる存在の中に・心の奥に存在の本質(?)と呼べるような何かがあったとしたとき 人間は それを無理にでも――言葉として――表現しようとする・外化する・したがって内面における本質は 概念化され観念化され疎外されてしまう。  言葉にして表現しこれをふたたび心にいだくとするなら そのもの(一般に観念です)はじっさいにはいちど自分たちが《手放してしまったもの》なわけです。  つまりは 《神もどき》を《神》としている。といった状態および社会的な情況が醸し出されて来ている。こういうひとつの見方があるようです。  かるばどくさんが  ★ おそらく、神とは、人間が効率よく人間を支配するために造ったものでしょう。  ☆ とおっしゃるときには どうなのでしょう。いま上の《神もどき》と同じでしょうか 違うでしょうか?  わたしが考えるに 《人間が想像力を駆使して表現し上げた想像の産物》なる観念としては 同じものであるように思います。  さらにお考えの中には 《人間が造った》というだけではなく  ★ 人間が効率よく人間を支配するために  ☆ という説明内容が入っています。  おそらくこれは 《神》という言葉そのものの外化=表現=疎外に限ることなく それだけではなく いわゆる道徳ないし倫理規範としても この《人間の内なる本質》をうたい上げたと言いますか 表現し尽くしたと言いますかによって 持つようになったいわゆる《宗教》のことでしょうね。  たとえばこうです。  わたしは わが心の内なる神の霊のおもむくところに従うなら――つまりは わが心の感性としても精神としてもまたわが人格存在の全体としてもわたしに告げる思惟やおこないの選択についてその告げるところに従うなら―― 《ひとは 自分をも他人をも ころすことはない》。つまり これが 信仰( X-Zi )です。信じるところを どうにかして言葉に表わした内容です。(ただし 神を外化してはいないわけです)。  ところが この信仰内容をさらに実際に外化したかたちが現われました。  《なんぢ ころすなかれ》と言うようになりました。これが 倫理規範であり――神の命ずるところを言葉で明らかにしたかたちであり―― これが集団として共有されるなら そのまま《宗教》となります。  わが心なる《非思考の庭》における言ってみればそのときにも確かに倫理としての内容を持ち得た《ひとは ひとをころしはしない》なる《お告げ》が 人びとのあいだで神の命令として規範となって持たれるようになった。  個人の信仰が あたかも蝉が脱皮するかのように その抜け殻としての規範を宗教のオシエとして残した。外化され疎外された。  ★ 人間が効率よく人間を支配するために造ったものとしての神(つまり神もどき)  ☆ とは この宗教のオシエのことではないでしょうか?  としますと たたき台における《神 X 》ないし《信仰 X-Z 》なる仮説は まだ持ちこたえるものと考えますが どうでしょう。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#195588
noname#195588
回答No.1

ブラジュロンヌさんと対立するかもしれませんが… 今のところ私は 神とは自己自身の本質であると考えます。 哲学的には外化とかいうらしい。 身体から離れて精神と分裂しているので 関係が転倒しているのです。 そして、自己の本質なので、 だから否定されると、人は怒るのです。 つまり、 神学は人間学とかなんとか。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。久しぶりに――失礼な言い分ながら――血の通った自由なご見解をお聞きしました。  ご回答をありがとうございます。  いちばんの問題は・もしくはミソは――質問者の考えるにですが――:  ★ 神とは自己自身の本質であると考えます。  ☆ ここにありましょうね。  すなわち   (あ) 《本質》とは何ぞや?  という問いに代えられもする問題です。  つまりは   (い) 本質とは 《経験世界 Y 》における・真理( X )の何かのシルシなのか?  と言いかえて 問えます。  すなわちもし:   (う) その真理( X )のシルシとは けっきょく    《神 X の霊》が わが心なる《非思考の庭》にやどるそのものである。  と言いかえるなら このたたき台における神の定義と変わるところはない。こう帰結されます。どうでしょう?  《梵我一如》なる信仰の類型に合わせてやはり捉えることが出来ます。   (え)   梵我一如なる類型     ( a ) 神(梵天)ブラフマン( X )=霊我アートマン( X-Z )     ( b ) アミターバ・ブッダ( X )=ブッダター(仏性 X-Z )     ( c ) アッラーフ( X )=人にやどる神の霊( X-Z )     ( d ) ・・・・  すなわち このままでも  ★ 神学は人間学とかなんとか。  ☆ としても通用するように思われます。  ただしところが 問題はまだ複雑な様相を呈してもいるようです。  ★ ~~~~  哲学的には外化とかいうらしい。  身体から離れて精神と分裂しているので  関係が転倒しているのです。  ~~~~~~  ☆ こういう問題があるらしい。問題は こうであるらしい。  どういうことか?  ★ 哲学的には外化とかいうらしい。  ☆ これは     (お) 人間の《本質》たる神を 《外化》してしまったかたちの      《とにかくの神》も持たれているし どうやらこちらの神もどきが      はびこっているとも見られる。  といったことでしょうか? あるいはひょっとして    (か) 神は人間の本質だというけれど 実際には その内在すると見られた      本質を外化〔=その意味で 表現(おもてにあらわす)=あるいは疎外〕      してしまった《神まがいの 観念の神 つまり神もどき》しか存在など      していない。    というところまで含みがありましょうか どうでしょうか?  ★ ~~~~  そして、自己の本質なので、  だから否定されると、人は怒るのです。  ~~~~~~  ☆ といった事態が事実に適合しているとするならば そうだとしても まだ《本質= 神の霊がやどる》なるここでの仮説は 傷ついてはいないようです。  なぜなら 人が自己の本質なる神を批評され否定されると怒るという場合にも 実際には (お)ないし(か)の《神もどき》としての観念の神が それは《死んだ》と言われたに過ぎないからです。《もどき》は初めから――少なくとも外化=疎外された瞬間から―― もはや主観内面における信仰の息吹きの消えたように・またはセミの抜け殻のごとくなったようにして《死んでいる》のだからです。  つまり・すなわち・けっきょくにおいて いまのところなお たたき台として挙げた仮説は 持ちこたえるようです。どうでしょう。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?

     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • なぜ神を勘違いしたままでいるのか?

     A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?   特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神を哲学する) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 神とは何か?

    神とは何か?  決定保存版にしたいと思いますので 添削あるいは根本的な批判をよろしく願います。  ○ 信仰類型論において 神とは何かを問い求める  §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y =考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X =考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。 X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。(つづく)  ☆ つづきがあります。お手数ですが ニ千字制限により  【Q:不可知とは どういうことですか?】 回答No.36のお礼欄へとつづきます。   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html  ☆ あるいは余裕のある方は 次の質疑応答も参考にしていただけるはずです。  【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html  ☆ それではよろしくどうぞ。

  • ブッダは 神ですか

     絶対(または絶対者)として想定していて 信仰の対象ですか。  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。  もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。    このような考えに対して添削をおこなってください。

  • 神様のことが知りたい

    皆さんこんにちは。 私はキリスト教に関して、まったくの素人で、神様に ついて、どなたか教えていただければ幸いです。 1、神様の人間に対する役割とは、どんなものでしょうか? 人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? 2、神様とは実物があるのでしょうか?それとも精神的な もの(心の中の偶像)なのでしょうか? 3、神様を見た事がなくて信仰されているかたも、神様の 存在を信じていると思うのですが、その神様が存在する、 という根拠はなんなのでしょうか? 4、神様は信仰者を救ってくださるのでしょうか? また仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、 信仰心が足らなく、あるいは信仰心が全然ないために、 神様のご加護を受けられなかったということでしょうか? 以上、素人ゆえ失礼な質問をしているかもしれませんが、 通常、私のような素人が疑問に思っている代表的な事柄 だと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

  • 《非在》なる神をどうして理解できないか

     § 1 不在と非在  たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。  けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。  すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。  ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?  § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる  在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。  さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。  では 《非在》とは 何のことか?  感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?    § 3 《非在》とは 想定である  《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。  世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。  この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。  あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。  《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。  § 4 《非在》という想定が 神のことである  《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?  ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。  ここにもあれば 同時にあそこにもある。  という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。  § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。  非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。  この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。  出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。  それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。  § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。  この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。  ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。  だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。  一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。  すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。  《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。  § 7  信仰とシュウキョウ  《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。  § 8 この神をどうして理解できないのか?

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • いやしくも神なら 神は 普遍神であるほかない。

     1. 名前が違っても・誰にとっても 同じひとつの神であるしかない。  2. 有る神も無い神も 互いに同等であり どちらかを自由にえらべばよい。  3. 普遍神は 有るとか無いとかの経験事象を超えているゆえ。  4. シュウキョウは この普遍神を信じる――無条件に心に受け容れる――ことをつうじてヒラメキにて得られた直観を言葉にして表わし オシへとした結果生まれたものである。  5. 信仰という蝉の抜け殻である。経験思想ではある。つまり オシへは考えるものである。信仰という蝉本体ではない。  どうでしょう。  

  • キリスト教 人格的な神

    信仰者にとって、何故人格的な神こそが人間の自由なる人格を支える唯一のものであったのでしょう? 宜しくお願いいたします。

  • 普遍神は 無根拠が根拠である

     1. 人間が 理念としたり理論としたりあるいは義や愛と言ったりするそのような――経験合理性にもとづく――根拠から神は いっさい自由である。  2. その普遍神への信仰は 義無きを以って義とする。義をともなえば 人間のただのハカラヒによって神を信じるに過ぎなくなる。  3. この《神と信仰についての理論》にそぐわない神論や宗教のオシへは インチキである。  4. 言わんや 神は人間がつくったなどという浅い考えは もってのほかである。  5. 人間がつくったり規定したりしてできる神なら その人間のあたまのチカラを出ない。だから おふざけにしかならない。アイドル狂いにひとしい。  6. すなわち 根拠があるなら それは 人間の理性以上のものではない。のだから 無根拠を神は 根拠としている。  ご批判をどうぞ。