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普遍神は 無根拠が根拠である
1. 人間が 理念としたり理論としたりあるいは義や愛と言ったりするそのような――経験合理性にもとづく――根拠から神は いっさい自由である。 2. その普遍神への信仰は 義無きを以って義とする。義をともなえば 人間のただのハカラヒによって神を信じるに過ぎなくなる。 3. この《神と信仰についての理論》にそぐわない神論や宗教のオシへは インチキである。 4. 言わんや 神は人間がつくったなどという浅い考えは もってのほかである。 5. 人間がつくったり規定したりしてできる神なら その人間のあたまのチカラを出ない。だから おふざけにしかならない。アイドル狂いにひとしい。 6. すなわち 根拠があるなら それは 人間の理性以上のものではない。のだから 無根拠を神は 根拠としている。 ご批判をどうぞ。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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- kurinal
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B様、こんばんは。 >「ご批判をどうぞ。」 ありがとうございます。 >「3. この《神と信仰についての理論》にそぐわない神論や宗教のオシへは インチキである。」 これは、大変なご認識であると思います。「信教の自由」を侵害しかねないのでは。 >「6. すなわち 根拠があるなら それは 人間の理性以上のものではない。のだから 無根拠を神は 根拠としている。」 ・・・根拠とは(神による)理性によるのでは、ありません。 (根拠が(神による)理性によっては、「人間のルール」など有り得ません。) 「神」によれば、人権など、どうですか? (神が、人権に言及したところが、あるでしょうか?)
- stmim
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「例外なくひとりの人間にとって そのような普遍なる場である」とbragelonneさんが考えているものなのです。 例外なくということならbragelonneさん以外の人でそう考えている人はいますか? 少なくとも私はそう考えないです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 例外なくということならbragelonneさん以外の人でそう考えている人はいますか? / 少なくとも私はそう考えないです。 ☆ ほら ご覧なさい。《考えることを超えている》場を想定し指し示しているのです。と筋をたがえて逆手に取って返答できます。 むろん言葉を用いているからには 考えることを頭の中でおこなっていますが その思考の緑野には決しておさまることのないナゾの場なのです。 わたしが言っていることと わたしが考え出したこととは 別です。 誰かが考え出すことにはいっさい関係なく 《無根拠を根拠とする普遍神》が想定され そのことは万人にとって現実であるとなります。 それを拒むのも むろん自由です。ただし 拒むことと その想定が現実であることとは 両立します。
- stmim
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同じことの繰り返しかもしれませんが・・・ >これで だいたいよいはずです。つまり 普遍的な変わりえざる場が指し示されたと考えるのです。 そのようにbragelonneさんが頭の中で考えた神なのですよ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ☆☆ 普遍的な変わりえざる場 ☆ これは 誰もにとって 同じひとつの場のことです。想定としてではあるでしょうが。 〔想定としてでも 提示するのだという意味は 《かみ》という言葉が どの言語でも持たれ使われているからです〕。 ★ 頭の中で考えた ☆ 何かである前に 誰もにとって同じひとつの場である。すでにある〔と想定される〕場を指さしただけです。 言いかえると まづむろん言葉で示しているからには 概念としてやはり誰もの頭の中にもありその限りで考えているものです。それと同時に しかしながら 誰ものあたまの中には入り切れない場でもある。考えるを超えている。 例外なくひとりの人間にとって そのような普遍なる場である。 こうなっています。
- stmim
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そのbragelonneさんの考えている神(普遍神というのですか?)それ自体がbragelonneの頭で考えた神だと思いますよ。信仰は根拠を必要としませんから、根拠がないのは当然と思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ☆☆(趣旨説明欄) 1. 人間が 理念としたり理論としたりあるいは義や愛と言ったりするそのような――経験合理性にもとづく――根拠から神は いっさい自由である。 ☆ すなわち ひと言で言って 《理性のチカラのおよぶ範囲を超えている》。 これは なるほど《頭で考えてそう表現している》のですが その言葉による表現の示す意味内容は この経験世界を超えています。 ということは あたまで考えて(理性で)――表現はしているのですが――規定をしたわけではない。なぜなら 規定する前にすでにその《超経験の場》は あると言えばある。 あるいは あるかどうか分からないけれども言葉で指し示されるより先に それとして指し示されるべくその場があると言えばある。 これで だいたいよいはずです。つまり 普遍的な変わりえざる場が指し示されたと考えるのです。 ★ 信仰は根拠を必要としませんから、根拠がないのは当然と思います。 ☆ そうですか。でも そう言い切ってしまうと 何を信じるか・つまり何を受け容れるのかが 分からないままなのではないですか? 受け容れるという意志行為は 信仰にともないます。根拠からはたしかにそのとき自由です。 そういう問題だと捉えています。
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補足
★ ~~~~~~~~~~~~~~~ >「3. この《神と信仰についての理論》にそぐわない神論や宗教のオシへは インチキである。」 これは、大変なご認識であると思います。「信教の自由」を侵害しかねないのでは。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《オシへ》は 信教・良心の自由に関係しません。信じることではなく 考える思考の問題だからです。 《神論》は 信じることそのものであるように見えますが 信じる神についてのやはり議論になっているものです。 したがって オシへと同じく思考の問題だからです。 思考の問題には インチキとそうでない相対的にして妥当な内容のものとがあります。 ★ ・・・根拠とは(神による)理性によるのでは、ありません。 / (根拠が(神による)理性によっては、「人間のルール」など有り得ません。) ☆ 《根拠》とは 経験合理性にもとづき確実性や信憑性があると判断されたその思考内容のことです。 理性の問題でもあります。 《(神による)理性》という意味が分かりません。人間の理性に《(神による)》という条件がつけられていることがです。 ★ 人権 ☆ も 信仰の問題ではなく 理性・思考の問題です。 ご回答をありがとうございます。