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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?)

フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?

このQ&Aのポイント
  • 神とは何か?人間の知性を超えた超経験の領域であり、経験合理性によっては判定しがたい存在である。
  • 人間の精神は有限であり、経験領域に属している。神を信じることは、考えることではなく、信じることである。
  • 超自然な存在である神が経験世界や人間の歴史に介在するかどうかは判断できない。信仰の基本形態は個人ごとに異なり、明確に保持することが重要である。

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noname#180507
noname#180507
回答No.22

こんばんは。 詳しいコメントありがとうございます。 コメントと、質問にある内容(信仰類型論)を再度読み直してみました。 (質問・信仰類型論)にある 》X(X-Z)はY(Y-Z)ではない。後者(Y-Z)には、特に、精神とその 》産物を含むゆえ、この想像物としての神(Y-Z)と想定上の神( X-Z) 》とは峻別しなければならない。 (コメント)にある 》聖職者や教会の公式見解に従わねばならないといった事態は、まさしく 》観念の神になったかたちで 《 YXが混在しているように》なっている 》と言わざるを得ないかと思います。 ※(質問・信仰類型論)と(コメント)を擦り合わせながら考えてみたのですが、大きくは、想像物としての神(Y-Z)、想定上の神( X-Z)で捉えたほうが、全体からの位置づけが整理しやすいように感じました。 キリスト教は、イエスが語ったことや生き方を原点に置くと、弟子の布教やその後の聖職者や教会の見解の介入によって、Yの傾向が強まったという印象も受けました。原点の時点でも、Yだったのかもしれませんが・・。 唯一神(ヤーウェ)は、想像物の神(Y) 、または、想定上の神(X)のどちらにも捉えれるようにも感じました。 関連して・・(質問・信仰類型論)にある 》わたしZi は、信じる(つまり信じないの場合も同じの対象(したがって、 》すでに非対象)を《空(欠如)》X-Za と言おうが、《アミターバ(無量光)・ 》アミターユス(無量寿)・ブッダ》X-Zb と言おうが自由であろうし《神》 》X-Zcとも、《ヤハヱー》X-Zdとも《アッラーフ》X-Ze 等々とも ※《空(欠如)》X-Za 、《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》X-Zb ・・・は、人間が捉えきれないものとしてX-Zですが、人間がつくった宗教のなかの概念としてY-Zでもあるようにも思うのですが。 Bragelonneさんがおっしゃる「主観内面における――非思考の庭にいだかれた――神Xが所謂る宗教のオシエの中に表現=外化=疎外されたかたちで・つまりは観念として持たれているそれ」が、私のなかでは、まだ十分に消化しきれてないような気がしました。 あと、こまごました点で、前後しますが・・ ※聖書の《心のきよい者》と、仏教の《自性清浄心》は、質的には違うような気がするのですが、 「信仰とは ひとがみづからすすんで努力して得るというものではなく ナゾの何ものかから与えられるものだと思われる。」 信仰とは・・について、どちらの宗教にも共通するという点は共感します。 》☆ですから( Y-Z )に属す神は想像の産物であり、観念の神だと考えます。 》宗教におけるオシエの神であり《神は死んだ》と宣言された神のこと 》ではないでしょうか?  《神は死んだ》と宣言された神というのは、ニーチェのでしょうか。 信仰類型論のなかで、位置づけていいものかどうかわかりませんが・・ キリスト教や既存の道徳などをルサンチマンの産物として否定しましたが・・新しく教条的なもの(~すべき)を与えるのではなく、人間の課題(苦痛を受け入れ、超越していき、肯定する運命愛)として、哲学または倫理学の分野に示したと捉えています。 それとも、あの世や「神」のない時代に、課せられた強者の生き方を「神」と捉えるのか。 う~ん、どうでしょ。 どちらでもいいのですが、宗教と哲学や倫理学まで拡大して、「神」の位置づけをしたほうがいいのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 frwicat さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  ※(質問・信仰類型論)と(コメント)を擦り合わせながら考えてみたのですが、大きくは、想像物としての神(Y-Z)、想定上の神( X-Z)で捉えたほうが、全体からの位置づけが整理しやすいように感じました。  ~~~~~~  ☆ ごもっともです。おっしゃるとおりです。  言いにくいことですが frwicat さんを含めみなさんの用語などに振りまわされてしまいました。むろん わたしがわるかったことです。  ★ 想像物としての神(Y-Z)、想定上の神( X-Z)  ☆ すっきりしています。ぜひこの用語ですすめたいと考えます。  ★ ~~~~~  キリスト教は、イエスが語ったことや生き方を原点に置くと、弟子の布教やその後の聖職者や教会の見解の介入によって、Yの傾向が強まったという印象も受けました。原点の時点でも、Yだったのかもしれませんが・・。  唯一神(ヤーウェ)は、想像物の神(Y) 、または、想定上の神(X)のどちらにも捉えれるようにも感じました。  ~~~~~~~  ☆ 聖書ないしキリスト・イエスが指し示した神について やはりたたき台をかかげてみます。  1. 神( X )は アブラム(のちのアブラハム)に 故地を去って行けと言った。という神のお告げとも神がかりとも見られる事件が起こった。  2. ということは アブラムはおのが心にナゾの何ものかのおとづれを感じ そこに神の名(エローヒーム)を捉えこの名を受け容れた。かれの心に――神は《思考に非ず》なるナゾであるゆえに――《非思考の庭》が成った。その庭におけるヒラメキとして 具体的に《父祖の土地を去って 行け》という内容として受け取った。  3. 《行けと言われたから 行った》。ここに信仰が始まり その信仰として神がいだかれた。つまり《想定上の神 X 》である。(ちなみに この・あてもなく出かけて行くことになったとき かれは 七十五歳だったとか)。  4. アブラムは この非思考の庭のほうが 思考の緑野や感性の原野よりも 考え方としてまた生き方として先行すると思っていた。  5. よって たとえば世間一般におこなわれていた神へのささげものとしての生け贄にかんして 自分の長子をそれに当てることが出来るかと考え始めた。  6. 信仰が 思考や感性に先行すると思っていたアブラムは 来る日も来る日も考え悩み考えた。収穫の初穂は 神のものだ。しかるに 神へのささげものが 人間の子どもとしての初穂なる長子であることは――つまり子をそして人をころすことは―― 成るものなのか? と。  7. おそらく精神錯乱の寸前で そのもやもやのあたまの中で《ひとは 自分をも他人(ひと)をも ころさない》とさとったのだと思われる。  8. やがてそののちこの命題は モーセには 同じ神から 《なんぢ ころすなかれ》という倫理規範として(つまり 律法として)あたえられた。  9. すなわちアブラハムと名乗るようになっていたアブラムにあっては 《人は人をころさない》という内容のヒラメキを得ていた。これが 《ころすなかれ》という言葉で――そして集団においてそれを規範として受け取るかたちで――表現されるようになった。  10. 律法は 共同体の秩序を維持するのに必要であったのかも知れないようなのですが 事ここにおよべば 非思考の庭なるナゾの神が 或る種の仕方で外にお出ましになった。《ころすなかれ》なる道徳律が神ではないことは分かっているけれども その規範としての命題は 人びとのあたまの中に刻みつけられた。という一面が現われた。  11. すなわち――このひとつの事例に見る限りでですが―― アブラハムにおける《想定上の神( X )》は 或る種の仕方で《想像物なる神( Y )》として受け取られる〔部分的なでしょうか〕事態があらわれた。  12. イエスは モーセの律法の神を アブラハムの非思考の庭なる神に言わばもどした。と同時に その《想定上の神( X )》は 非経験の場あるいはそのチカラとして人間にとって《全体としてひとつ》である つまり人類に共通の《神 X 》だと指し示した。  13. (イエスは キリストとしては この《神 X 》をひとが受け容れるなら その心に汲めども尽きない水の湧き出る泉が生まれるとつたえた)。  14. のちイエスの生涯が聖書として文章化がなされたあとでは ちょうどアブラハムの信仰内容がモーセによって律法化されたのと同じように 想定上の神( X )が 想像物なる神( Y )として受け取られる事態は まぬかれなかった。  ここからは  15. 《想定上の神( X )》であったとしても それが人間の言葉において表わされ概念として扱われるようになったときには つねに《想像物なる神( Y )》に成ってしまいうる。  と考えられます。  ちょうどこのことが 次の問題として指摘されているようです。  ★ ※《空(欠如)》X-Za 、《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》X-Zb ・・・は、人間が捉えきれないものとしてX-Zですが、人間がつくった宗教のなかの概念としてY-Zでもあるようにも思うのですが。  ☆ ということだと思います。  つまりパウロが言うには      文字はころし 霊は生かす。  ということかと捉えられます。  ☆☆ 「主観内面における――非思考の庭にいだかれた――神Xが所謂る宗教のオシエの中に表現=外化=疎外されたかたちで・つまりは観念として持たれているそれ」  ☆ というようにわたしは ややこしい言い方をしていたようです。    ★ ※聖書の《心のきよい者》と、仏教の《自性清浄心》は、質的には違うような気がするのですが  ☆ 何ごともわたしは 類型化して捉えるクセがありますので 注意しなければならないと思うですが つまりは    神の霊がやどるその霊 ≒ 如来蔵=ブッダター(仏性)=自性清浄心  だと見てよいとは思います。問題は 《心のきよい》ことと どう同じでどう違うか?  おそらくですが        わが心なる非思考の庭にやどる神の霊は わが心をきよくする  とは思ったわけでした。  ★ 《神は死んだ》と宣言された神というのは、ニーチェのでしょうか。  ☆ これは 議論の焦点が拡散するという意味で不用意な発言でした。  言わんとするところは 《想像物なる神 Y 》は――文字なるかたちになっていて その文字をそのまま神 X として受け容れるなら それはころすものとなると言うように―― すでに信仰にとっては蝉の抜け殻のようなものである。だから 誰からにせよ その神は死んでいると言われても 仕方がないのだ。――こういう意味合いでした。  この神論は X と Y との区別が 重要だということになりますね。

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その他の回答 (37)

noname#178638
noname#178638
回答No.29

ねむいです http://www.let.ryukoku.ac.jp/~takedary74/pluralism.htm#possibility ケータイからなんですが↑のページみた ヒックやカウフマンて人たち 宗教どうしの対立から調和へ、ってこころざし宗教多元主義、 多元がいやなら方法共創?とか そういうことを質問者もこころざしてるゆえのX理論かと思いましたが 違いましたか ヒックも神『一』から諸々の宗教を導き出してるらしいから、似てる カウフマンは宗教間の理性的対話を重んじる あらゆる宗教や理論、の対立、どっちが優れているかとか、排他とか包括より 調和・共生がいい、ってんでヒックみたく質問者も色々の宗教の 人と対話してwin-winぽい妥協点、共通点を ここで探つてるのでは? と思いました 創価学会とか、日蓮宗とか対立してるし そこに調和をもたらそうと、排他でない万人救済という諸宗教の初志を貫徹すべく ネットで宗教多元主義活動して けんかより調和のための対話をするのだなあと尊敬したが ちよつと違いました 対立とか活動とかけんか対話や調和するかとか自由ですけど 神∈人∈神とかはこっちの勝手です 「神=ナゾの1」という定義はのんでるので そこからその1が何個にふえて どこに位置しどうふるまうかを かってにかんがえるのは個々人の自由です って話じゃないんですか 最終的に神∈人∈神って図を派生的にでも 持てるなら、汎神気分に合うので その前段で神∋人という想定・前提・原則 をふまえりゃいいならふまえます あとで特例みたいに右に神∋人∋神ってくつつけりやしめたもの だいたい 神∋人∋神 の最右辺の神というのは 人の内側の「庭」てところ訪れてる神ぽいでしょう いわば胸の中に聖霊が宿り ささやく・その内容としての 人∋「神」 ことばつかうと どうとでもいえますよね ☆X=Yと単語のことってのは、 もし「X≠Y」が「X=Y」になると 質問者の言語習慣における 「かみ」とか「信じる」とかの用法、語義 が変化してズレたら他の語群も まきこんで混乱をきたす こまる のですね ということ のかくにん で さっきスルーされた 『「Z≠Y」ときめてしまうとXの範囲を 制限する想定になるので不適切』 というのについては どうなんですか ようするに X は唯一神 X でナゾだ と1つ定義すりゃ「ホイ」「ホイ」と色んな宗教が オレもオレもと親近感わいて調和調和 よかったね. ってこと. 単純 あとは XとYのカンケーがX≠YでもX=Yでも自由 困るならかってにこまってろって話…‥ です

bragelonne
質問者

お礼

 信仰の具体的な形態としては――想定上の神 X のもとに類型としては同じでありながら―― けっこう違いを打ち出そうとしているのですね。  まづは ご回答をありがとうございます。  具体的に 次の見方で見解を異にします。  ★ ~~~~  いわば胸の中に聖霊が宿り  ささやく・その内容としての  人∋「神」  ~~~~~~~  ☆ ここで 「神」というかたちでカッコをつけたのは 《神 X 》の部分要素を言うのでしょうか。  それにしても それらを人が包摂するというのは無理だと考えます。  考えてみてください。《神 X 》は非経験の場として 経験世界を超えています。無限です。  無限を二や三で割ってみてください。商はやはり 無限です。  つまり 神の要素というのは やはり神そのものです。  どうしても人間とその神との接触を 採り入れたいというとき 分身といったかたちで説明しましたが これは 神の霊が心にやどるというのと けっきょく同じ内容です。  表現は 或る意味で外なる多神や汎神というのと 内なる神の霊とするのと異なっていますが 《神と人との関係》を表わそうとする派生的属性としては 同じことです。  そしてそれは 神が人を包摂するという原則的なかたちにて済むものと思います。  たぶん 神の部分要素が こんどは人に・つまり人の心に 宿るということは けっきょく《人が神に包摂されている》というその原則的な属性そのものの中に含まれている。こう考えます。  (ということは わたしの見方から言っても マチガイではなく 言わば要らない・余分なものだという恰好ではないかと考えます)。  ★ ~~~~~  X=Yと単語のことってのは、  もし「X≠Y」が「X=Y」になると  質問者の言語習慣における  「かみ」とか「信じる」とかの用法、語義  が変化してズレたら他の語群も  まきこんで混乱をきたす こまる  のですね  ということ のかくにん  ~~~~~~~  ☆ あっ これは失礼しました。気がつかなかったです。それは そうでしょうね。  ★ ~~~~~  で さっきスルーされた  『「Z≠Y」ときめてしまうとXの範囲を  制限する想定になるので不適切』  というのについては どうなんですか  ~~~~~~~  ☆ 《『「Z≠Y」ときめてしまうと》ではなく 《「X ≠ Y」と決めてしまうと》でしょうか?  つまり X≠Y といった規定を使うと 神(非経験の場)X が 経験世界 Y のどこか外部において捉えられるかに受け取られてしまいませんか? 両者が同じ次元で並び立っているというように捉えられてしまうなら こまることになります。  そうして  ★ ~~~~  ようするに X は唯一神 X でナゾだ  と1つ定義すりゃ「ホイ」「ホイ」と色んな宗教が  オレもオレもと親近感わいて調和調和  よかったね. ってこと. 単純  ~~~~~~  ☆ こういうことだと思います。きわめて単純です。《非経験の場 X 》に別のものがあってはおかしいゆえに 神という神は どんな名をもっていても みな この場 X に含まれるという仕組みです。    ★ ~~~~  宗教どうしの対立から調和へ、ってこころざし宗教多元主義、  多元がいやなら方法共創?とか  ~~~~~~  ☆ 信仰形態が 個人個人で多様性を持つ。ということに 文句はありません。  ひとつに 《元》という用語は そのような信仰形態は 相対的なものであるゆえ 似つかわしくないと考えますというものです。  ひとつに 多様な形態は あくまで個人の信仰について言うのであって オシエを打ち出して・また推し出してこれを信仰の代わりにけっきょくしているような組織宗教は 信仰形態がすでに形骸化しているのであるから この多様性のひとつだとは もう見なさないですし すでに初めに予定していません。  その宗教組織の一員である人が 個人として 自分の信仰形態を持っているというぶんには 何の問題もありません。   もうひとつに この信仰類型論とも見るべき神の理論は 基本的に言って 中立的な定義を確定することが目的です。  それゆえ 互いの差異を受け容れあうと言っています。  それだけです。むろん 次のことと関係しますが つまり《対立から調和へ》という問題ないし志向性と関係しますが 理論としてその目的を持つものではないですし その必要はないと見ます。  むしろ そのことのゆえに・つまり中立的な定義であることのゆえに 《差異を受け容れあおう》と言えるのだと思いますし そのように間接的に・二次的なよき副作用として 《調和》を志向しているのですが それにしても そのことは やはり個人ないし個人どうしの関係の問題になります。  その心は 組織宗教は この定義を受け容れるなら もう組織は要らないという結論に達するものと考えるからです。  組織の権限関係は 個人にとって神 X の自由な受け容れを 間接的に阻害しようとする要因が多いと思われます。    ★ ~~~~  ヒックも神『一』から諸々の宗教を導き出してるらしいから、似てる  カウフマンは宗教間の理性的対話を重んじる  ~~~~~~  ☆ ですからこの質問趣旨としては 神『一』から 個人一人ひとりにとって自由な信仰の形態をえらび持てばよいという結論を導いていますが 諸々の宗教に対しては このような信仰の形態の自由な選択を阻むなかれと うったえることに 必然的になる。こう考えます。    そのような提言を 組織宗教にはうったえますが 《宗教間の理性的対話》については ほとんど無意味だと究極においては 思っています。オシエに固執していると思われるからです。  ★ ~~~~   あらゆる宗教や理論、の対立、どっちが優れているかとか、排他とか包括より  調和・共生がいい、ってんでヒックみたく質問者も色々の宗教の  人と対話してwin-winぽい妥協点、共通点を  ここで探つてるのでは?  と思いました  ~~~~~~  ☆ 目指しているのは やがて信仰のことは 内なる非思考の庭の動態としてまかせておいて いちいち社会的な交通において 宗教のオシエはもちろん個人の信仰や神のことをももう持ち出さない。持ち出さないで済むような対話が そこら中に《はびこる》なら 万々歳なのではないか。こう思っています。  ★ 創価学会とか、日蓮宗とか対立してるし  ☆ ほかの質問で この学会の宗教というものを取り上げて議論していますが 趣旨や志向するところは 同じです。  組織の自己解体をのぞみますし 個人は自由に自分の信仰の形態を見つけえらぶようになること これをねがっています。  したがって  ★ 宗教多元主義活動  ☆ ではなく そうではなく 個人の自由な信仰の選択――宗教組織からも自由な信仰のえらび――をのぞみ欲し そのための基礎理論をみなさんと互いに問い求める。ということです。  ★ けんかより調和のための対話をするのだなあと尊敬したが / ちよつと違いました  ☆ ええ。組織宗教とは けんかすることになる理論であり その理論の精緻化としての問い求めです。  

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noname#178638
noname#178638
回答No.28

のこり少ない時間て失礼でしたすみません ヒックは宗教多元主義を唱えたジョン・ヒックです 神∈人は人の材料や細部が神だという見方です X=Yとすると単語の役割分担が変わるのですね

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  いちど回答者のほうからくわしい説明をなすように《仕向けて》みましょう。  ★ のこり少ない時間て失礼でしたすみません  ☆ いや これは 冗談半分と言いましたが 文字どおり否定しました。  ★ ヒックは宗教多元主義を唱えたジョン・ヒックです  ☆ これは知りませんでした。  単純なこととしては 多元論・つまり《元》を用いるのは 言葉としてあまりかんばしくないでしょうね。経験事象における《元》は 互いに相対的なものごとでしかないと考えられますから。  いちばん重要なことは エレミヤ書31:31以降――そしてこれは ヘブル書8:7以下に引き合いに出されています――をどう受け取っているかにあると考えます。パウロが宣教という愚かな手段を用いて イエスの死後当面は オシエの伝播につとめましたが エレミヤ書の言おうとするところは 《もはや神のことを 人びとにおしえはしない。その必要はない。人びとの罪も神は おぼえない》と言っていることです。  ヒックにしろ その内容から後退していると考えます。  ★ 神∈人は人の材料や細部が神だという見方です  ☆ これは 先に原則として      神 ∋ 人  という想定をおこない この前提を踏まえたうえで持つに到った 派生的な見解だと見ます。    ★  X=Y とすると単語の役割分担が変わるのですね  ☆ よく分かりません。そういう議論が出て来るのなら Y のほかに X を持ち出す意味はないのですから この X を想定することもなかったという話になりますまいか。

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noname#178638
noname#178638
回答No.27

X∈Z⊂Y⊆X でした

bragelonne
質問者

お礼

 了解しましたが 結果は どうなんでしょう。

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noname#178638
noname#178638
回答No.26

唯一神Xのほうがすごい、でいいです個人的には 神Xの分身が汎神(X×∞)でいいです なぞが一個でも何個でもおんなじです ののは太陽、月、神仏、バスターマシン7号などです 言葉はカミであるかないかの分別から中立的な機能も持ってたのですね。汎神論にかぶれると忘れます、心性や言葉使いが退行 (け)神としての人の犯罪については、 Wikipediaにスピノザ批判としてそういうのがあると書いてあったのです スピノザはやはりX=ZとかX=Yとか考えていそう、人も自然も神だと。自然の属性=神の属性と でも死なない生き物もいますし 神としての人の属性に死がある XとYを区別することへのこだわりが強いの 人と神がコミュニケートすると何かまずいですか 預言者・祭祀(天皇とか)の出現→ヒエラルキーできる→オシエ発生、という問題? 神=人だとゆゆしいのって治安への配慮とかよりたんに理論(X≠Y)が破綻するからゆゆしいんですか。つまらない問題です。哲学理論も大事なんですね XとYを区別というけど、XはYにさかんに介入したり介在したり 開きっぱなしのZをしょっちゅう訪れたりするわけであいまいじゃないですか 訪問ばかりでなくXがZにずっと住み込んで同棲していたらXとYZの区分はあいまいです いくらゆゆしくてもそういう事実があるならXとZは相互包含関係 X∋Z,Z∈X 組織宗教は自己解体すべしは多元主義じゃないですね。ヒックとかからの後退です あまり非思考の庭・非思考の庭と書いてると、わらわらひとが寄ってきて、関係者とかが死後にプロジェクトを組むかもしれなくないですか。仏教やキリスト教やニーチェ現象なども他人があとから作ったプロジェクトといいます 人を肯定するさい神を口実にする理由は自己和解の不足とか敵愾心とかかもしれません イワシに親しくないですが(戸とかにイワシ貼ってあるの見たことあります) 神のコピーを崇拝してもポーズでしかない とはいえ 何かを拝み平伏するポーズや行為は慎みやそういう願いがあるという自覚や表現になるメリットがありそう ものの来歴や未来や成分の詳細がわからないというのは不可知なのでYに属するのですね あきらめずわかろうとしているかぎりその対象は(わかるかどうかわからない)なぞXとして登録されるのですか のこり少ない時間を使わせてたらすみません

bragelonne
質問者

お礼

 なかなか盛りだくさんです。  まづは ご回答をありがとうございます。  ★ ののは太陽、月、神仏、バスターマシン7号などです  ▼ (ヰキぺ:トップをねらえ2!) ~~~~    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%92%E3%81%AD%E3%82%89%E3%81%882!#.E3.83.95.E3.83.A9.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.83.86.E3.82.A3  § 3 登場人物  § 3.1 フラタニティ  ノノ  【性別:女 / 年齢:17歳(外見) / 身長:172cm / 体重:49kg / 血液型:AB型 / 好物:和菓子と日本茶 / 口癖:なぜならば!】   主人公。見た目は人間そのものだが、実はナノマシンによって構成されたアンドロイドであり、その正体はバスターマシン7号。・・・  ~~~~~~~~~~~~~  ★ (け)神としての人の犯罪  ★ 神としての人の属性に死がある  ★ 人と神がコミュニケートすると何かまずいですか  ★ 神=人だとゆゆしいのって治安への配慮とかよりたんに理論(X≠Y)が破綻するからゆゆしいんですか。つまらない問題です。哲学理論も大事なんですね  ☆ そうですね。  まづ 理論が破綻するからではなく 言語習慣における《かみ および 信じる》の語の用法が 交通整理がつかなくなる。から 問題です。別の定義によって その問題をクリアできれば それでよいのでしょうが。  《神=人》だとすれば けっきょく《人間》という現実には何の変化もありません。だって《みながそれぞれ 〈神でもある人間〉》なんですから。  《われは神を見た》 これは その主観内容が共同化され得ない命題だと帰結されます。そうでなければ 人の主観内面における《思考に非ずなる庭》の内実が 自分にも他人にも分かられたことになります。無理です。無理でなければ 神 X は 人間の思考のよく扱い得るものだとなります。  《人であると同時に神である》存在――イエス・キリストのことですが――についての議論は 保留しておきます。  ★ 預言者・祭祀(天皇とか)の出現→ヒエラルキーできる→オシエ発生、という問題?  ☆ 次の――神話から類推したところの――歴史事情があると見ます。   ○ (マツリとマツリゴト) ~~~~   1. 人びとは 穫り入れた穀物の初穂を神(神々)にささげて あとは神との共食なるマツリをおこなった。   2. あとは どんちゃん騒ぎであるが 人と神とのあいだについて それとしてきちんとしたケジメを心得ていた。   3. このムラムラのマツリを 高いところから束ね寄せて 全体を治めるというマツリゴトが やがて始まった。   4. アマテラス(公民)というそれはそれは 学力優秀で品行方正 文句なしの人間的な人びとがいた。   5. かれらは 勤勉の上に勤勉となり 或る意味ではガリ勉でもあったが 人間的な人間となり ますます人間的となったそのとき 周りの人びとからは その言わば徳目が必ずしも大して顧みられていないことに気づいた。スサノヲ市民一般は 人間の徳性が けっきょく似たり寄ったりだということくらい 朝飯前の心得だった。   6. どんぐりの背比べだってことは 人びとは知っていた。そこへ 半ば失望し半ば怒りをもかかえてアマテラス族は 次の一手をどうしたかと言うと 人びとを自分の世界観のもとに束ね寄せるということであった。   7. スサノヲ市民らは ふところが深い人間だったので このように駄々をこねて いちどおれたちにクニの経営をまかせてくれまいかと拝み倒すアマテラスびとたちに根負けして 自由にさせた。《くにゆづり》である。   8. ここで 社会は 二階建てとなった。それまでは 平屋建てだった。   9. 第二階からおこなうマツリゴトが始まった。一階のスサノヲ市民らは それまではマツリにおいて初穂を神にささげていたところ あたらしい社会にあっては 租税としてこのアマテラスなる《神もどき》のお二階さんたちに初穂なり何なりをみつぐというかたちとなった。   10. スサノヲ市民どうしは けんかが絶えないほど仲間うちで 互いに和解していた。ところが お二階に上がった――アマアガリした――聖徳太子とやらは 仏敵となった物部氏をころしたあと 人びとに《和を以って貴しと為せ》と そのオシエをつぶやいた。   11. この二階建て構造は すでに一階のスサノヲ市民社会が主権を持ちつつであるが そのまま保たれこんにちにまで到っている。     12. 問題は 一部の人たちだけが――スサノヲに対して 実の姉からの血筋であるというのに その姉の筋が―― 神であると名乗った(または そのクウキを醸し出した)というところに 社会問題が起きる。人びとは 自由でなくなるからである。その神学は マチガイであろうと判断されている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この意味では 《 Z = X 》なるアラヒトガミ理論は 理論の問題としてマチガイだという判断です。それでは 社会は立ち行かない。  世界を見るなら このアラヒトガミ理論こそないけれど やはり二階建て構造から成る国家の体制を持ち続けている。そろそろこの形態が崩壊に向かうものと展望します。  《 Z = X 》理論は むかしローマ法王が 無謬性を帯びているというかたちで になっていたかも知れません。《神聖にして侵すべからず》というかたちです。  ★ ~~~~  X と Y を区別というけど、X は Y にさかんに介入したり介在したり  開きっぱなしの Z をしょっちゅう訪れたりするわけであいまいじゃないですか  ~~~~~~  ☆ いえ 実際上の問題は この《 X による Y や Z への介入》にはありません。それは――介入説は―― けっきょく一人ひとりの主観の内にとどまると見るからです。やはり X と Y との区別という原則が問題になると考えます。  ★ X が Z にずっと住み込んで同棲していたら X と YZ の区分はあいまいです  ☆ ですから 《非思考の庭》は 思考の緑野や感性の原野からは 絶対的にへだたりがあると見られるはずです。  ★(回答No.27) X∈Z⊂Y⊆X  ☆ X(神)が Z(人間) の元なのですか?  ぎゃく?   ★ X∋Z  ☆ この包含関係でよいと思いますよ。  ★ 組織宗教は自己解体すべしは多元主義じゃないですね。ヒックとかからの後退です  ▼(ヰキぺ:ヒックとドラゴン) ~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%A8%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3  ヒック (Hiccup Horrendous Haddock III)  主人公のバイキングの少年。モジャモジャ族の族長の一人息子だが、外見も中身もバイキングらしくない。 ドラゴンを観察するうちにドラゴン語を身につける。行動する前に考える賢いバイキングである。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これなのかなぁ。  ★ 人を肯定するさい神を口実にする理由は自己和解の不足とか敵愾心とかかもしれません  ☆ 自己和解ゆえに 《神》の定義を得たのだと思います。  組織宗教では 自己和解が得られないでしょう。支配欲と名誉欲は 満たされるかも知れません。  ですが 組織のあるかぎり・権限関係をわざわざ信仰とその度合いに応じてつくるといった仕組みがつづくかぎり 人びとはそれぞれ支配欲に支配されたまま 移行するだけだと見られます。  こんなところでしょうか。  ★ のこり少ない時間を使わせてたらすみません  ☆ あともう一倍生きるかも知れません。減らず口と冗談まじりのお話として。    

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noname#178638
noname#178638
回答No.25

多元主義ですかヒック、万人救済 メジャー宗教や無神論を多元的に認める考えですか 折伏や超汎神論者による包括より平和的で 組織宗教を否むの多元主義的でありません なぞ信仰と汎神論は対象に見いだす神成分の量が異なるだけで、その差を互いに認めれば多元を保てます 神からの介入介在の比率をどのくらいに見積もるかの違い せっかく多元的になりましたが暇なので折伏します ゆゆしさ 神=全て、万物人々=神々として 人に対する人の罪は神に対する神の罪として人の法律=神の法律で裁けます 魚に対する人の食欲は神に対する神の食欲として人の包丁=神の神包丁で捌けます 治安は悪化しません 由々しくありません。全て神の一部として大切とする存在愛。生命愛。人類愛。世界愛。なんか距離感少ないようできもいですが由々しくはありません 栄光を神に帰す慎みがない不足ですか 他の神々の助けを借りて暮らしているつもりなら慎ましい 死も自然なら神の属性 疑問があります 聖書のように人に親切にするとき 対象に神を見いだすという作業を経由し、対象の神らしさを口実にして対象を重んじるという癖が、聖書や仏教徒や汎神論にもあるようで なぜなのでしょう 謎に=や≠を使うのは不相応? X≠YときめてしまうとXの範囲を制限する想定になるので不適切 想定上の神X(X-Z)が神の定義なのだ と思考・共有するのはY行為で、 すぐY(Y-Z)信仰/不信仰になる、のはしかたないくり返し? にわか汎神論→なぞの神XはYに大いに介入し、むしろYの全てに変態しYでないものにも変化したりしなかったり(X→Y,X→X) 知性に尊い限界をもつ生物Zの、自然に対するおののきが言葉や名や信仰のみなもと 人があらゆる語であらゆる世界を分節する。名のついているものはもと謎で、付された名の下で謎は大いにくすぶり。汎神論者でない人は万象の神っぽさを看過している ナゾ信仰が謎=カミとする証拠として諸民族のカミを意味する語の存在を挙げるように、にわか汎神論もそれをまね、人が古来からあらゆる対象に色々の名を付してきたことを挙げ、それもって汎神論的世界観(X=Y)が人々に普遍的なものであると主張。いちいちの対象になぞ=カミを見いだすことを休止・中止すべくあらゆる対象に名を当てている、いわばストッパーとしての予断、すべての語は汎神論的世界観(なぞにみちた世界への想定)の信仰告白であり、信仰(/の中止・休止)に用いる宗教道具、自他に『これは謎でわない、カミではない』と言い聞かせ洗脳する道具が言葉 なぞ信仰も汎神論も言語も愚かなヒトらしい迷信の類 言葉という一皮をめくればりんごもヒトも神(X≒Y≒Z) りんごはやまと言葉でないですがカキやカミやムシやクモやヒトなどは古代日本人にとって謎だった、汎神的世界、でかれらは切なくそれらを呼んだ、色々の物に名をつけ世界を分節化、以来いまも言葉で謎を隠しつづけ、てるけど実はそこら中のりんごやヒトやものは謎の兄弟どうしであるという気分や事実が下地にある、という神々観 言葉を放棄せずかつ言葉を剥がした世界を感じるのは組織的信仰形態以前の詩的な感覚、名は予断であり謎のカミは万象に存在 たんなる納豆ごはんも神ごはんに神納豆をかけて食べていると思うとしみじみします すごい。たんなる納豆ごはんにもしみじみできる汎神論すごい。どうですか 汎神論じゃなくてもしみじみできますよね けれど汎神論は手軽な感動 超汎神論になると食物や人や自然などの無さや破滅までありがたがるのでやや危険 たまにののさま信仰あり、夏の朝はとくに神々しいです太陽 太陽は物体Yなので謎神Xではないとみなしますか 太陽や人やりんごは成分の来し方や行く末などが分かりきることがないことから謎(Z=X,Y=X) 汎神論的に太陽はまぶしく遠い神 生き物や生体の多くのものもののがみさまからの力を得て回っています 奈良人も太陽を神とみなしたと思います、忘れたのですか。忘れたことはXとYどちらに属しますか

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  ★ ~~~~  疑問があります  聖書のように人に親切にするとき  対象に神を見いだすという作業を経由し、対象の神らしさを口実にして対象を重んじるという癖が、聖書や仏教徒や汎神論にもあるようで  なぜなのでしょう  ~~~~~~  ☆ (あ) 《人に親切にする》のは 聖書にかぎりませんし 無神論のばあいにもあり得ます。  (い) ★ 対象に神を見いだすという作業を経由し――☆ これは 想像の世界の話でしょうね。《想像物なる神 (つまり実は) Y 》を見い出していることになります。  (う) なぜそうなるか? たぶん《鰯の頭》は 経験事象 Y であるとすぐに分かるのに 《愛や慈悲や 神や仏やこのたぐいの何やかや》は 経験事象 Y だと知っていても 精神にかかわり 一段高尚なことだと思って 神 X に近づけてしまうのでしょうか?  (え) それとも 経験 Y と非経験 X とをごっちゃにするクセが抜けきらない場合でしょうか。  (お) または それこそ X も Y もまた Z もみな同じものだと見なすような――ということは それらの対象を対象として捉えることさえしていないのかも知れず いわば何ものをも自分と同じだと感じつつその何ものに対してもすすんで寄り憑いて行くというような――アニミズムなる原始心性の持ち主である場合。・・・ま これはないでしょうかね。  ★ メジャー宗教や無神論を多元的に認める考えですか  ☆ 非経験の場なる想定による神 X の一元論です。  そのもとに 言わば分身としての多神・汎神やそれを仮りに代表として《神 X 》のシルシまたは名とする場合 これらをみとめます。多事項・多項目・多宗派なる情況はみとめるかたちです。  (ただし すぐあとでに 組織宗教の問題が出て来ています。信仰と集団とはなじまないという問題です)。  ですが  ★ 組織宗教  ☆ は認めない立ち場です じつは。  個人の内面における非思考の庭なる信仰が動態として持たれている。この信仰の内容が 言葉にして表現されたあと これを一般にオシエとする。聖典となることもある。また そこで集団をかたちづくる。そのような組織宗教になれば 往往にして オシエなる経験事象 Y が信徒の守らねばならないというかたちにおいてほとんど想定上の神 X だと見なされるという錯覚が起きる。ものと思われます。  これは・つまり組織宗教というのは 個人の信仰の実質的な意味においては 自殺行為において成り立つものだと見ます。蝉の抜け殻だと見ます。信仰を互いにみとめあう問題ではなくなり オシエ(あるいは その組織のヒエラルキアとしての権限関係や権威)が想像物なる神 Y でしかないと分かっていても 想定上の神 X だとする錯覚が起きる。――このアヤマチは ほとんど理論上どうしてもまぬかれないかたちで起きるものと思われるからには ローマ教会を初めとしてあらゆる組織宗教は 自己解体すべしと考えていますし いまもこのように言っています。  ★ ~~~  なぞ信仰と汎神論は対象に見いだす神成分の量が異なるだけで、その差を互いに認めれば多元を保てます  神からの介入介在の比率をどのくらいに見積もるかの違い  ~~~~~  ☆ これは 原則中の原則である《想定上の神 X と想像物なる神 Y との区別》を経たあとの 個人個人の主観における受け取り方だと思われます。原則を守るなら 自由にまかされていると思います。  ★ ~~~~~  ゆゆしさ  神=全て、万物人々=神々として  人に対する人の罪は神に対する神の罪として人の法律=神の法律で裁けます  魚に対する人の食欲は神に対する神の食欲として人の包丁=神の神包丁で捌けます  治安は悪化しません  由々しくありません。全て神の一部として大切とする存在愛。生命愛。人類愛。世界愛。なんか距離感少ないようできもいですが由々しくはありません  栄光を神に帰す慎みがない不足ですか  他の神々の助けを借りて暮らしているつもりなら慎ましい  死も自然なら神の属性  ~~~~~~~~  ☆ (か) まづ何よりも先にこの《ゆゆしさ》は あくまでいま述べた原則を守るかどうかの問題です。    (き) 《想定上の神 X と想像物なる神 Y との区別》をやぶる もしくは あいまいにする。となれば ゆゆしき問題となります。  (く) すなわち  ★ 神=全て、万物人々=神々として  ☆ こういう派生的な神学も いまの原則としての区別を守りつつ 形成しうると思われます。《神=全て》をさらに     《神= 想定上の神 X 》と《その仮象なる分身が 全てとなっている》  という具合いに捉えるなら だいじょうぶかも知れません。  (け) ★ 人に対する人の罪は神に対する神の罪として人の法律=神の法律で裁けます  ☆ ここは よく分かりません。こうでしょうか? つまり    ○ 人に対する人の罪は神に対するやはり人の罪として     神の法から その霊がやどるかたちで人の自然本性に自然法をやどさせ    これを淵源として人が思考し導き出した人定法で裁けます  (こ) ★ 魚に対する人の食欲は神に対する神の食欲として人の包丁=神の神包丁で捌けます  ☆ これはおそらく その人の想像世界における思考ないし想像として描かれたすがた ではないでしょうか?  (さ) そう考えれば 次の一文も同じように 想像世界のひとつの絵図だと見られます。  ★ 全て神の一部として大切とする存在愛。生命愛。人類愛。世界愛。なんか距離感少ないようできもいですが由々しくはありません  ☆ ゆゆしいのは 原則からの逸脱のみを言っています。  (し) ★ 死も自然なら神の属性  ☆ これは やや原則にふれるところがあるかも知れません。  なぜなら 《死》にかんして《信仰一般》は どう捉えるかという前提で 《自然である。ゆえに神の属性》というのであれば それは一概にそう決められるものではないのですから 越権行為です。原則よりも 派生理論のほうが優越なりと言ったかたちだと思います。  《死》はよく分かりません。おそらく死生観(生死観)として 存在ないし《生きること》の全体として・全体において捉えることになるとは思います。  生が 神の属性であることに近いのではないかという見方があり得たとしても そこで《死》のみを取り上げて これは《自然であり ならば神の属性なり》と一概に規定してよいのか。という問題だと思います。  汎神論が 信仰のひとつの形態としてみとめられるとき ならば そこからさらに派生させた死論なのだから 自由ぢゃないかと言われれば どうですかね それが《つねに原則上の 神の属性である》とは言わなければよい。のでしょうかねぇ。

bragelonne
質問者

補足

 筋金入りのパンテイストさん ですかね。まづはおはようございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。どうしてもそのクセ(エートス)がお好きであれば 八百万の神や汎神論の汎神もみな《神 X 》の分身と見なして受け取るとすれば どうでしょう?   ★ ~~~~  たんなる納豆ごはんも神ごはんに神納豆をかけて食べていると思うとしみじみします  すごい。たんなる納豆ごはんにもしみじみできる汎神論すごい。どうですか  ~~~~~~  ☆ 神ご飯や神納豆が 認識による規定だとなると困ると思いますが――経験事象 Y を 非経験の場 X であると規定するとなると 文学的修辞でなければ みとめられませんが―― 世の中は 実数だけによって成り立っているのではなく 虚数をも交えていると考えるなら そういう汎神論風の現実はあり得るかと思います。  ですから 山つ霊も海つ霊も 葦黴やひぢ(泥)もみな神々であると見なす信仰の形態は ここでの神論による信仰類型論の内に入ると言ってよいのでしょう。  神 X を創造主と見なしてぼうだいな物語を編んでその中に身を置く信仰形態と同じく ひとつの派生形態であると言ってもよいかも分かりません。  《ののさま・ののがみさま》って 何ですか? 検索しても出て来ません。  ★ 太陽は物体 Y なので謎神 X ではないとみなしますか  ☆ マハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来――東大寺の大毘盧遮那仏。ビルシャナ < ワイロ―チャナ)も 日のかがやきを神のひとつの分身として捉え これを代表としてすでに《神 X 》だと見なすかたちの信仰形態だと思われます。  つまりは アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)は 《無量≫光≪仏)なのですから まったく同じく太陽信仰に発すると思われます。  つまりは アマテラス(天照)オホミカミとて 同じくであるはずです。    ★ 太陽や人やりんごは成分の来し方や行く末などが分かりきることがないことから謎(Z=X,Y=X)  ☆ これは いただけません。    経験事象 Y     可知      既知      未知     不可知(知り得ないと知ったなら 経験事象)    非経験の場 X     非知:神 X としてのナゾ  となります。《 Z=X, Y=X 》というような規定は 金輪際あり得ません。  (ただし 人間イエス Z は 神の子であり神であるキリスト X であるは そういう想定です)。  (現人神は 想定だったでしょうか。想定でなく 現実としての規定だとすれば けっきょく汎神論よろしく誰もが神である世の中が確かに実現します)。  ★ 奈良人も太陽を神とみなしたと思います、忘れたのですか。忘れたことはXとYどちらに属しますか   ☆ これは――記紀神話において―― アマテラスが 神々のひとはしらに過ぎないと見なしていることを忘れてはいけません。その証拠に スサノヲは その実の弟です。  (伊勢神宮のアマテラスは 後出しジャンケンです。いまの外宮が もともとの神です。食物の神ですが)。  古代日本人の信仰形態は むしろ次のようです。(むろん 仮説ですが)。   ○ (モノとコト e = mc^2 ) ~~~~~~~~   モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)   コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)    ↓        ↓            ↓   自然・社会( Y )・・・ひと( Z )・・・・・・・・・かみ( X )   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  オホモノヌシの神は 人間イクタマヨリヒメとのあいだにオホタタネコなる――あたかもこれだけを取り出せば 聖霊によってマリアが身ごもって生まれたイエスに似ています そのような――子をもうけたと伝えられています。  モノとコトが同じであれば オホモノヌシとヒトコトヌシとは 同一であって おおむね《全体としてのひとつ》なる神 X に相当するように思います。  つまり アマテラスもスサノヲもその他その他の神々は この《モノ=コト》神 X の分身とでも捉えておけばよいのではないでしょうか?  唯一神 X のほうが すごい! (話として。物語として)。  すなわち よくよく考えるにですが  ★ 言葉を放棄せずかつ言葉を剥がした世界を感じるのは組織的信仰形態以前の詩的な感覚、名は予断であり謎のカミは万象に存在  ☆ なる或る種の見方で《情感の共同性》と呼ぶべき世の中を醸し出し得ているのは やはり――隠れたかたちでであるにせよ―― 《神 X 》の想定によって基礎づけられている。と帰結されるのではないでしょうか。  (つまり それゆえ 人びとは 《一切衆生 悉有仏性》であるとか《ひとに神の霊がやどる》であるとかの突拍子もないことわざを あんがいすんなり受け容れている。ことになるのでは?  これは 思考によらず 感性をつうじて知覚することであるとしても感性によってでもなく 生まれたときから自然本性としてそなわった何かなのでは?)  すなわち  ★ 知性に尊い限界をもつ生物 Z の、自然に対するおののきが言葉や名や信仰のみなもと  ☆ わたしの言葉で――アウグスティヌスの請け売りですが―― この自然をつつむ唯一神 X の前に立つならひとは おそらく きよらかなおそれをいだくことでしょう。  たとえば  ★ 人があらゆる語であらゆる世界を分節する。名のついているものはもと謎で、付された名の下で謎は大いにくすぶり。汎神論者でない人は万象の神っぽさを看過している  ☆ とおっしゃるとき その見方には・またはその見方の根底には 神 X にあこがれるような自然本性のクセがあると思われます。言いかえると このときの《神っぽさ》というその神とは 非経験の場 X のことでありそれへの志向性のようなものではないか?  つまり それによってしても あらゆる名の神(複数)に共通の《神 X 》が おのづから感じられるようにひとは成っている。そのように生まれて来ている。  こういう話が嫌いなひとは それでも その人にとっては《無い神 nonX 》という非経験の場を 大きく人びとと共通に持つはずだからです。  ★ すべての語は汎神論的世界観(なぞにみちた世界への想定)の信仰告白であり、信仰(/の中止・休止)に用いる宗教道具、自他に『これは謎でわない、カミではない』と言い聞かせ洗脳する道具が言葉  ☆ これは ことの反面でしょうね。それと同じ条件において 任意の同じひとつの言葉が 《神 X を仮りにあらわす代理表現である》とする場合もあり得ますから。  あるいは モノやコトと一対一にあたかも対応する場合もあるかと思われます。そういう中立の用法も 言葉には あり得るかと。  つまりは この中立性が 言葉の基本だと思いますよ。  ★ ~~~~   想定上の神 X(X-Z)が神の定義なのだ  と思考・共有するのは Y 行為で、  すぐ Y(Y-Z)信仰/不信仰になる、のはしかたないくり返し?  ~~~~~~~  ☆ 《想定上の》という条件を忘れてしまうなら  ★ すぐ Y(Y-Z)信仰/不信仰になる  ☆ ということでしょうね。  いわしのあたまなる名の神を考えてみれば 分かりやすいと思います。  あくまでただのシルシとして 神をその言葉で代理するだけというそういう想定を忘れなければ おれの神は いわしのあたまという名の神だと言っても これをむやみに否定できません。  けれども 鰯の頭は その言葉に意味があり魚としての経験事象を表わしますから その経験事象 Y がそのまま神 X だと見なされれば まづいことになると思います。  それと同じように 《神は愛である》と言ったとき あるいは《慈悲》でもいいのでしょうが この・言葉であってそこに意味を持った概念を神 X だと錯覚する場合が生じるものと思われます。  意味や概念は いくら高邁な精神を示そうとしていても 経験事象 Y ですから。精神は 経験事象です。  よほどの場合でなければ 《愛は・慈悲は 神 X である》とは言わないでしょう。  ★ すぐ Y(Y-Z)信仰/不信仰になる、のはしかたないくり返し?  ☆ どうですかね。この神の定義のあとただちに取り上げるべき主題であるかも知れません。(いまも 基本的な取り組みはしているとは思います)。  ただし  ★ にわか汎神論→なぞの神XはYに大いに介入し、むしろ Y の全てに変態し Y でないものにも変化したりしなかったり(X→Y,X→X)  ☆ の問題は むしろ縄文古代人の類型と言いますか 原始心性の問題だと見ます。歴史知性――時間を知る もしくは ひとは死すべき動物であるを知る――以前の心性ではないかと見ます。アニミズムおよびシャーマニズムと。  つまり 現代においても ありうるのだと。  (つづく)

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  • kurinal
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回答No.24

bragelonneさん、こんばんは。 >もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。」 そもそも、「「仏教」という表現」そのものが、ミス・リーディングであって、 だからこそ「そんなもん、ありゃしねー」となるのでは。 ゴータマは、「教祖」じゃなくて、哲学者?の一人。 ・・・そんなふうに、一度見てみてください。

bragelonne
質問者

お礼

 いえ。神( X )は 普遍です。    くりなるさん お早うございます。ご回答ををありがとうございます。  次のように 類型としてですが 捉えます。  一般類型:神 X   ∽ 人 Z (非思考の庭)  _______________________  ブラフマニズム:梵我一如      梵天ブラフマン神 ∽ 霊我アートマン  ゴータマ:無無一如      無(ア‐ブラフマン) ∽ 無(アン‐アートマン)  浄土系:仏仏一如      アミターバ・ブッダ ∽ ブッダター(仏性)  真言:仏仏一如     マハーワイロ―チャナ(大日如来) ∽ ブッダター(仏性)

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  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.23

『《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。』 は 【信じる】の定義(言葉)になっていると思います。言葉は経験域であり X非経験域Ziの定義とは論理矛盾となります。論理的には言葉に出来ないものを言葉にした という理解です。難解ということです。 論理矛盾は 日常生活の主張会話では 普通に出てくると思います。論理的会話がしがたくなるところと思います。それでも主張したい場面では 言葉以外の手段が比較的有効ではないでしょうか。芸術の世界とかです。 逆の【【非経験域の信じる】の否定を信じる】は経験域になっているように思います。 私は 【信じる】は 経験域Yにあると思います。【信じる】の対象は何であってもいいのですが、神とか哲学に関わることでは 論理の出発点 原則の定義が対象になる と思います。信ずれば信仰に接近し 疑えば哲学に接近すると思います。 ただし、非経験域であって万人が理解できるものは 【信じる】以外にもあります。たとえば本能です。空腹のとき何かを食べたい は非経験であってもだれでも理解できます。万人が本能を理解できるのです。だから だれでも理解できる言語で表現できるのです。言語表現になれば あとは経験域の言語と同様に扱え得ると思います。信じる が 本能と同じように扱えるでしょうか。難しいと思うのですが。

bragelonne
質問者

お礼

 ok9608 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  やさしいところから まいります。  ★ ただし、非経験域であって万人が理解できるものは 【信じる】以外にもあります。たとえば本能です。  ☆ これについては 違う定義をしています。  すなわち 《意志によっておこなうものごと以外のことがら》でも 事後的にでも意識されたり実際に経験事象として生じたりおこなわれたりするわけですから これらは《非経験域》ではないわけです。こうだと考えるのですが。  《本能》はあくまで経験事象であり ここでの定義としては 《経験事実 Y-Z 》に属すると捉えます。  ★ 空腹のとき何かを食べたい は非経験であってもだれでも理解できます。  ☆ これは 《未経験》もしくは《すでに意志が発動しつつある》ゆえにやはり《経験事象》だと捉えるものです。  ★ 万人が本能を理解できるのです。だから だれでも理解できる言語で表現できるのです。言語表現になれば あとは経験域の言語と同様に扱え得ると思います。信じる が 本能と同じように扱えるでしょうか。難しいと思うのですが。  ☆ そこで《信じる》ですがこれは じつはふたつの側面があります。   ○ 信じるとは ~~~~~~~    非経験の場〔として想定されたナゾの何ものか〕を     つねに思考に非ずという状態において    しかもわづかにそのナゾを《かみ》なら《かみ》という言葉もしくは     ヤハヱーならヤハヱーという神の名で    受け容れることである。     言いかえると 受け容れる対象は 非経験のナゾである。    (つまり 非対象である)。     これを受け容れるというのは 人間の意志による経験行為である。     ~~~~~~~~~~~  この 信じるとは何か? なる主題は 質問を別建てにして 問い求め検証したほうがよいかも知れません。  ★ 私は 【信じる】は 経験域Yにあると思います。【信じる】の対象は何であってもいいのですが  ☆ さらに重ねて整理しますと:   (あ) 信じるは 非経験のナゾなる非対象を受け容れる経験行為である。   (い) ただしそれが非対象だからと言って 《無》だとは決まっていない。   (う) なぜなら 有か無かは 経験思考の問題だからである。有無を超えているのが 非思考の庭である。   (え) 非対象なるナゾと言っても そのときわづかに《かみ》という言葉は意識されている。   (お) つまり 非対象を仮りに代理する経験事物が介在している。《言葉》である。   (か) 《信じるの対象は何であってもいい》という意味は 一方でナゾの何ものかは 非経験の場なる想定として一定しています。他方で このナゾを代理する表現は まったく自由であって 何であってもよい。いわしのあたまであってもよい。  このようになるかと考えます。    ★ 逆の【【非経験域の信じる】の否定を信じる】は経験域になっているように思います。  ☆ この意味がよく読み取れなかったのですが この論理学の問題に入ります。  ★ 論理的には言葉に出来ないものを言葉にした という理解です。  ☆ これは まったくそのとおりだと思います。つまり 初めから分かっていることだと思うのですが?  つまり 経験事実の領域( Y )を超えている。つまりたとえば因果関係から自由な場 これを想定する。だとしたら その非経験の場( X )は 先ほどの《有無をも超えている》という問題にもつうじている。と思います。  ですから 《神 X 》すらが 《言葉》であるのですから 《非経験の場 X 》そのものではなく 仮りの・代理としての表現だということになります。つまり《非経験の場 X 》というのも 同じく 仮りの表現です。  想定というかたちなら 《論理矛盾》はないと思うのですが?  仮りの代理表現として《ことば》を用いる。そういう科学の方法もありうると見ていますが。

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noname#189751
noname#189751
回答No.21

ちゃいますか・・ 見当はずれだったという かわし方 ストレートだったんだが スピードが足りなかったようだ そうか そうだったのか・・ 戦艦大和が沈んだ 慟哭の海は深い かなり深い 靖国の桜を見なくても 藍は 藍より出でて 藍より深し なんて キザなせりふを言わせていいのか・・ 今 修学旅行の節で 大勢の子供達があちこち行っている 明るい子供達 若葉の中を跳ねまわる それでいい サムライも ますらお も知らない子供達 元気いっぱい 神も仏も知らない 子供達 まん丸い瞳 これから 何を疑い 何を知るのだろう お~い どうなんだ・・・・ (アッカンベー ) そうか アッカンベー ・・か 大きなお世話だってことか お説教なんか 大嫌いだって か そ~だよな 今は 若葉の節だもんな 明るい日差しを受けて すくすくと伸びてゆく 秋の話は早すぎるんだよな・・ よしっ  分かった おじちゃんも アッカンベー をしよう 大きな アッカンベー をしよう 負けないぞ (神様がくれたアッカンベーは みょうに目にしみる・・) ボクシングと アッカンベー と Bさん どっちがいい えっ なに ちゃう・・ そりゃ困った・・。

bragelonne
質問者

お礼

 考えてみてよ。  神は 名が違っていても みな同じ《神 X 》である。《無い神》も 《神 X 》だ。――こういう理論ですよ。  もしこの理論が常識になれば 世界はいちじるしくその顔を変えて来るでしょう。  ぜひ検証をお願いしたい。こういう趣旨です。  見解を同じくするなら この理論のさらにあたらしい展開をともにおこなって行こうとも言っています。  《フルボッコうんぬん》は 一連のゴータマ・ブッダ批判等々でもし反論がくすぶっているなら この質問は一般的な主題なので いろんな角度からも議論が出来て やり取りがしやすい。ゆえに 思いっきり批判を 投げ入れてください。と言っているもの。  ブディストのみなさんにも言いたい。  ブッダター(仏性)は アートマン(霊我)とおんなじことですよと。  梵我一如を仏仏一如に 名前を替えただけだと。  しかもブラフマン(梵天なる主宰神)と アミターバ・ブッダ(法身のブッダ)とは 《神 X 》として同じであり さらにその類型としてヤハヱーやクリストスやアッラーフとまったく同一の《神 X 》であると。  このように共同主観が成るならば 世界は一変しましょう。社会は よほど風通しがよくなります。  ご回答をありがとうございます。

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noname#180507
noname#180507
回答No.20

こんばんは。 「フルボッコの・・・」題の表現から、内容を見ずに素通りしていました。。 内容を読んでみての感想を中心に、投稿します。 QNo.8066914「神は完全ではありえないのか?」の質問と回答のなかで、保留となった部分(神の捉え方)を切り離して、こちらの質問に挙げられたのではないかと憶測しています。 前回質問者の求めるのは、( Y-Zまたは、YX-Z)であったのに、「神」の捉え方について(XまたはnonX-Z)概念まで拡大して回答しようとした為に、平行線をたどったと感じました。たぶん、bragelonneさんと私の共通するところだったかと思います。 今回、「『神』とは何か」の質問に提示されている内容(信仰類型論?)は、数式(概念)を使いながら、集約整理されているので、前回より理解しやすかったです。 ですが、既存の宗教は、(Y-Z)(X-Z)のどちらなのか、中間的な位置なのかは、少し混乱しています。例えば、キリスト教だと、迫害を受けたり、公認されたりの時代背景もありながら、変遷していったという史実はありますよね。変遷のなかで、(人間が)解釈し直した面もあったかと思います。それだと、YXが混在しているようにも思うのですが・・ 「非思考の庭」の直感と「感性の原野」の直感はどのように違うのか、「三位一体なる神とひとと社会とについての図解」など、bragelonneさんの理論(?)については、いまひとつ理解できてないのですが・・(焦点が拡散するので、これは、とりあえず置いておきます) 》逆に、気をつけるべきは、信仰において信じる対象は、わたしZi がわたしの 》精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち 》《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。 この文章については、考えさせられました。 信仰の対象は、「個人的」な私の思考や想像ではなく、《考えるY-Zi 》=もっと「普遍的・共有的」な思考と想像(直感)という意味ですかね。前回、質問者に混乱を招きかねない回答をした部分があったので、私自身の反省点でもあります。 イエスや仏陀は、(人間的な(Y)、または、それを超える(X))普遍的な思考と想像(直感)があったから、「宗教」に、きっとなり得たのでしょうね。 昔、故人から聞いた、青少年期に体験した話が心に残っています。 ヒマラヤの山々が、朝日に輝いた時、「無神論者の僕も『神』を感じた」 畏敬なるもの、超越した存在、存在への感謝・・どんな表現しようとも、『神』という言葉に全て凝集されると感じました。同時に、ひとつの属性では表現しきれないとも。『神』は、言葉の飾りで表現できるものを超えているからです。 特定の神(YXまたはX)の信仰がなくても、「神」を感じることはできるのではないかと思います。(こういうのを「汎神論」というのでしょうか) マタイによる福音書 「心のきよい者たちは幸いである。その人たちは神を見る。」 無神論者が感じた「神」と、キリスト教の唯一神(人間的解釈ではYX?)とは違いますし、キリスト教でいうところの心のきよさを、一般的な表現と混同する訳にはいかないと思います。 ただ、偉大なる自然(宇宙)だろうが、唯一神だろうが、心が開かれていれば(心がきよければ)、「神」を感じる(見る)瞬間はあるのかもしれません。(「直感」または「直観」ですかね) X(神はいるか)なのか、nonX(神はいない)なのかは、人間の認知を超えたところなので、どちらにしてもわからないですね。XまたはnonXの存在を問うのは、無限連鎖に陥るような気がします。 ・・と、提示されている「信仰類型論?」を解釈してみたのですが。 違うでしょうか(^^;;

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 前回質問者(=QNo.8066914「神は完全ではありえないのか?」の)の求めるのは、( Y-Zまたは、YX-Z)であったのに  ☆ ええ。そうでしょうね。   ○ YX-Z というのは 人間の想像の産物( Y-Z )としての神(疑似的な神 X )  のことでしょうね。あるいは ふつうに非経験の場としての神 X であったものを すでに概念として扱っている場合のそれ。もしくは 観念の神 ということでしょうね。  言いかえると 主観内面における――非思考の庭にいだかれた――神 X が 所謂る宗教のオシエの中に表現=外化=疎外されたかたちで・つまりは観念として持たれているそれ。だと思われます。  すなわち  ★ 「神」の捉え方について (XまたはnonX-Z)概念まで拡大して  ☆ というのは 非思考の庭なるふつうの神 X-Z ( nonX-Z を含む)だと言えると思います。  つまりは ちなみに この《拡大した概念》で捉えるのが ふつうの神であろうと思われます。さもなければ どこまでも神が 人間の想像の産物であることになります。  ★ ですが、既存の宗教は、(Y-Z)(X-Z)のどちらなのか、中間的な位置なのかは、少し混乱しています。  ☆ ですから ( Y-Z )に属す神は 想像の産物であり 観念の神だと考えます。  宗教におけるオシエの神であり 《神は死んだ》と宣言された神のことではないでしょうか? つまり 心の内面からオモテに出してしまえば ただの観念になってしまうことは分かっていますから その時点で――蝉の抜け殻のごとくになって――死んでしまいます。  ★ 例えば、キリスト教だと、迫害を受けたり、公認されたりの時代背景もありながら、変遷していったという史実はありますよね。変遷のなかで、(人間が)解釈し直した面もあったかと思います。それだと、YXが混在しているようにも思うのですが・・  ☆ なるほど。ただ どうでしょうかねぇ。それは 個人の内面における神のことを 確かに仮りに《神》なら神に キリストならキリストという言葉にして そのように代理概念として 神の説明のために あたかも宗教のオシエの中に押し込むのと同じように〔ではありながら〕 扱う場合もあったのかも知れません。  つまり ありました。ただしそれは どうなのでしょう 例の三位一体の説をめぐってなどの理論的な把握のためにだったと思われるのですが? つまり そういう場合だけは 観念の神をいだくということにはならない。こう思われます。  イエスは キリストなる神であったか? この問いをめぐる理論の問題として 神を概念として扱った。というようにです。これは 特殊な神学になるようなのですが。  公認され国教になったあと 要するにそのような社会の外形的な制度のもとにあるという情況にあっては 特に組織の問題 つまり聖職者の階層的な権限関係のもとでは 信仰がたとえ外に出切ってしまわなくても 外から押さえつけられるようになり そこでは 上の権限者ないし権威者に従わねばならないぶんだけ 形骸化するおそれが生まれると思われます。  聖職者や教会の公式見解に従わねばならないといった事態は まさしく観念の神になったかたちで 《 YXが混在しているように》なっていると言わざるを得ないかと思います。  ☆☆ 《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  ☆ この場合 けっきょく《〈神〉といったことば・概念》を ほんとうの神 X を表わす《仮りの言葉 ないし 代理表現》であるときちんと捉え 先ほどの三位一体の問題のごとくその理論〔的な説明〕のために取り扱ってこれを思惟し表現するのだとわきまえていればよいのだと考えます。  どういう表現が《ほんものの神の仮りの言葉》として扱っているのか? つまり どういう表現が《ただ単なる観念の神として 想像力のあやつる言葉》になってしまっているのか?  これは 微妙ですが 目安を考えてみました。  ちょうど次の聖句を引き合いに出しておられます。    マタイによる福音書   「心のきよい者たちは幸いである。その人たちは神を見る。」  このまま受け留めると 往往にして 観念の死んだ神になりかねません。  もし仮りに神のことを自己表現の中にも持ち出すとするのなら たとえばこうなるのではないかと考えます。        信仰とは ひとがみづからすすんで努力して得るというものではなく   ナゾの何ものかから与えられるものだと思われる。    そのためには――確かにブディズムにおいても ブッダター(仏性)の   ことを 《自性清浄心》と言うごとく―― わたしは心がきよめられなけ   ればならなかった。    《心のきよい人は 神を見る》と言われるゆえ。  観念の 《 Y-Z 》の領域におさまる神と 仮りの言葉で非思考の庭において受け容れている《 X-Z 》なる神とは やはり峻別しなければならないようにわたしは思います。

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noname#189751
noname#189751
回答No.19

先生 やっと分かりましたよ フルボッコの意味が・・ ノーガードでやろうじゃないか 互いに打って 打って 打ちまくろうじゃないか ってことが どっちが強いか決着をつけようじゃないか どっちが先にダウンするか ダウンするまで やろうじゃないか 逃げたほうが負けだ 俺は逃げんぞ 絶対逃げん 逃げるくらいなら玉砕だ・・・ 俺のフルパワーを出しきってやる さあ かかってこい! ・ ・ ・ ・ ・ 弁慶の鎧は厚い 下手な矢は折れる 弱虫は顔を見ただけで逃げる だが ものの数ではないわ・・・と言った時に 矢は当たる なんのこれしき・・倒れはせんわ 鞭打ってまで守った主を・・ 悔いなどあるはずがない 矢をすべて我れに向けよ 下手な矢を すべて我れに向けよ これでよい さあ 放て! X X X X X ご苦労さまでした 間もなく 極楽から 「誠」という字を書いた お迎えの車がやってきます ご遠慮なさらずに乗ってください 玉砕はいけません 玉砕は・・ 私の身内も クェゼリン島というところで玉砕した 艦砲射撃で粉々になった 遺骨もない よわい27だった もらった勲章は、兄が遺影の胸のところに飾ってやった 海軍の真っ白な服が似合う姿だった ・ ・ ・ ・ ・ あこがれちゃいかんのです あこがれちゃ 「侍」にあこがれちゃいかんのです ボクシングをする時は、グローブをつけましょう お体大切に カウンターパンチに気を付けてください 強いパンチは 脳みそが揺れます ダウンしたら そのまま起き上がらないでください レフェリーが救ってくれます でないと困る 話相手がいなくなってしまうので それだけです おっと挨拶を あらためて ごきげんようBさん 神様が近くに来たんですかね・・ もし そうだったらそうで 来ますよ きっと・・

bragelonne
質問者

お礼

 ちゃいますよ。  まづは ご回答をありがとうございます。  ですが くすぶっているよりは どうぞ! というくらいの意味ですよ。  反論がある向きには この質問が いい機会ですよと。  主題も 特殊と言えばそうかも知れないけれどその分野としては 一般的なものだと思うから やりやすい。こういう意味です。  自信のあるたたき台ですが 考えが間違っていたことに気づけば あらためればよいだけなのですから。でしょ?

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     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • なぜ神を勘違いしたままでいるのか?

     A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?   特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神を哲学する) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 神とは何か?

    神とは何か?  決定保存版にしたいと思いますので 添削あるいは根本的な批判をよろしく願います。  ○ 信仰類型論において 神とは何かを問い求める  §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y =考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X =考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。 X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。(つづく)  ☆ つづきがあります。お手数ですが ニ千字制限により  【Q:不可知とは どういうことですか?】 回答No.36のお礼欄へとつづきます。   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html  ☆ あるいは余裕のある方は 次の質疑応答も参考にしていただけるはずです。  【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html  ☆ それではよろしくどうぞ。

  • ブッダは 神ですか

     絶対(または絶対者)として想定していて 信仰の対象ですか。  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。  もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。    このような考えに対して添削をおこなってください。

  • 神様のことが知りたい

    皆さんこんにちは。 私はキリスト教に関して、まったくの素人で、神様に ついて、どなたか教えていただければ幸いです。 1、神様の人間に対する役割とは、どんなものでしょうか? 人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? 2、神様とは実物があるのでしょうか?それとも精神的な もの(心の中の偶像)なのでしょうか? 3、神様を見た事がなくて信仰されているかたも、神様の 存在を信じていると思うのですが、その神様が存在する、 という根拠はなんなのでしょうか? 4、神様は信仰者を救ってくださるのでしょうか? また仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、 信仰心が足らなく、あるいは信仰心が全然ないために、 神様のご加護を受けられなかったということでしょうか? 以上、素人ゆえ失礼な質問をしているかもしれませんが、 通常、私のような素人が疑問に思っている代表的な事柄 だと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

  • 《非在》なる神をどうして理解できないか

     § 1 不在と非在  たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。  けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。  すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。  ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?  § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる  在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。  さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。  では 《非在》とは 何のことか?  感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?    § 3 《非在》とは 想定である  《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。  世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。  この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。  あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。  《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。  § 4 《非在》という想定が 神のことである  《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?  ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。  ここにもあれば 同時にあそこにもある。  という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。  § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。  非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。  この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。  出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。  それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。  § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。  この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。  ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。  だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。  一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。  すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。  《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。  § 7  信仰とシュウキョウ  《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。  § 8 この神をどうして理解できないのか?

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • いやしくも神なら 神は 普遍神であるほかない。

     1. 名前が違っても・誰にとっても 同じひとつの神であるしかない。  2. 有る神も無い神も 互いに同等であり どちらかを自由にえらべばよい。  3. 普遍神は 有るとか無いとかの経験事象を超えているゆえ。  4. シュウキョウは この普遍神を信じる――無条件に心に受け容れる――ことをつうじてヒラメキにて得られた直観を言葉にして表わし オシへとした結果生まれたものである。  5. 信仰という蝉の抜け殻である。経験思想ではある。つまり オシへは考えるものである。信仰という蝉本体ではない。  どうでしょう。  

  • キリスト教 人格的な神

    信仰者にとって、何故人格的な神こそが人間の自由なる人格を支える唯一のものであったのでしょう? 宜しくお願いいたします。

  • 普遍神は 無根拠が根拠である

     1. 人間が 理念としたり理論としたりあるいは義や愛と言ったりするそのような――経験合理性にもとづく――根拠から神は いっさい自由である。  2. その普遍神への信仰は 義無きを以って義とする。義をともなえば 人間のただのハカラヒによって神を信じるに過ぎなくなる。  3. この《神と信仰についての理論》にそぐわない神論や宗教のオシへは インチキである。  4. 言わんや 神は人間がつくったなどという浅い考えは もってのほかである。  5. 人間がつくったり規定したりしてできる神なら その人間のあたまのチカラを出ない。だから おふざけにしかならない。アイドル狂いにひとしい。  6. すなわち 根拠があるなら それは 人間の理性以上のものではない。のだから 無根拠を神は 根拠としている。  ご批判をどうぞ。