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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?)

フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?

このQ&Aのポイント
  • 神とは何か?人間の知性を超えた超経験の領域であり、経験合理性によっては判定しがたい存在である。
  • 人間の精神は有限であり、経験領域に属している。神を信じることは、考えることではなく、信じることである。
  • 超自然な存在である神が経験世界や人間の歴史に介在するかどうかは判断できない。信仰の基本形態は個人ごとに異なり、明確に保持することが重要である。

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noname#180507
noname#180507
回答No.22

こんばんは。 詳しいコメントありがとうございます。 コメントと、質問にある内容(信仰類型論)を再度読み直してみました。 (質問・信仰類型論)にある 》X(X-Z)はY(Y-Z)ではない。後者(Y-Z)には、特に、精神とその 》産物を含むゆえ、この想像物としての神(Y-Z)と想定上の神( X-Z) 》とは峻別しなければならない。 (コメント)にある 》聖職者や教会の公式見解に従わねばならないといった事態は、まさしく 》観念の神になったかたちで 《 YXが混在しているように》なっている 》と言わざるを得ないかと思います。 ※(質問・信仰類型論)と(コメント)を擦り合わせながら考えてみたのですが、大きくは、想像物としての神(Y-Z)、想定上の神( X-Z)で捉えたほうが、全体からの位置づけが整理しやすいように感じました。 キリスト教は、イエスが語ったことや生き方を原点に置くと、弟子の布教やその後の聖職者や教会の見解の介入によって、Yの傾向が強まったという印象も受けました。原点の時点でも、Yだったのかもしれませんが・・。 唯一神(ヤーウェ)は、想像物の神(Y) 、または、想定上の神(X)のどちらにも捉えれるようにも感じました。 関連して・・(質問・信仰類型論)にある 》わたしZi は、信じる(つまり信じないの場合も同じの対象(したがって、 》すでに非対象)を《空(欠如)》X-Za と言おうが、《アミターバ(無量光)・ 》アミターユス(無量寿)・ブッダ》X-Zb と言おうが自由であろうし《神》 》X-Zcとも、《ヤハヱー》X-Zdとも《アッラーフ》X-Ze 等々とも ※《空(欠如)》X-Za 、《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》X-Zb ・・・は、人間が捉えきれないものとしてX-Zですが、人間がつくった宗教のなかの概念としてY-Zでもあるようにも思うのですが。 Bragelonneさんがおっしゃる「主観内面における――非思考の庭にいだかれた――神Xが所謂る宗教のオシエの中に表現=外化=疎外されたかたちで・つまりは観念として持たれているそれ」が、私のなかでは、まだ十分に消化しきれてないような気がしました。 あと、こまごました点で、前後しますが・・ ※聖書の《心のきよい者》と、仏教の《自性清浄心》は、質的には違うような気がするのですが、 「信仰とは ひとがみづからすすんで努力して得るというものではなく ナゾの何ものかから与えられるものだと思われる。」 信仰とは・・について、どちらの宗教にも共通するという点は共感します。 》☆ですから( Y-Z )に属す神は想像の産物であり、観念の神だと考えます。 》宗教におけるオシエの神であり《神は死んだ》と宣言された神のこと 》ではないでしょうか?  《神は死んだ》と宣言された神というのは、ニーチェのでしょうか。 信仰類型論のなかで、位置づけていいものかどうかわかりませんが・・ キリスト教や既存の道徳などをルサンチマンの産物として否定しましたが・・新しく教条的なもの(~すべき)を与えるのではなく、人間の課題(苦痛を受け入れ、超越していき、肯定する運命愛)として、哲学または倫理学の分野に示したと捉えています。 それとも、あの世や「神」のない時代に、課せられた強者の生き方を「神」と捉えるのか。 う~ん、どうでしょ。 どちらでもいいのですが、宗教と哲学や倫理学まで拡大して、「神」の位置づけをしたほうがいいのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 frwicat さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  ※(質問・信仰類型論)と(コメント)を擦り合わせながら考えてみたのですが、大きくは、想像物としての神(Y-Z)、想定上の神( X-Z)で捉えたほうが、全体からの位置づけが整理しやすいように感じました。  ~~~~~~  ☆ ごもっともです。おっしゃるとおりです。  言いにくいことですが frwicat さんを含めみなさんの用語などに振りまわされてしまいました。むろん わたしがわるかったことです。  ★ 想像物としての神(Y-Z)、想定上の神( X-Z)  ☆ すっきりしています。ぜひこの用語ですすめたいと考えます。  ★ ~~~~~  キリスト教は、イエスが語ったことや生き方を原点に置くと、弟子の布教やその後の聖職者や教会の見解の介入によって、Yの傾向が強まったという印象も受けました。原点の時点でも、Yだったのかもしれませんが・・。  唯一神(ヤーウェ)は、想像物の神(Y) 、または、想定上の神(X)のどちらにも捉えれるようにも感じました。  ~~~~~~~  ☆ 聖書ないしキリスト・イエスが指し示した神について やはりたたき台をかかげてみます。  1. 神( X )は アブラム(のちのアブラハム)に 故地を去って行けと言った。という神のお告げとも神がかりとも見られる事件が起こった。  2. ということは アブラムはおのが心にナゾの何ものかのおとづれを感じ そこに神の名(エローヒーム)を捉えこの名を受け容れた。かれの心に――神は《思考に非ず》なるナゾであるゆえに――《非思考の庭》が成った。その庭におけるヒラメキとして 具体的に《父祖の土地を去って 行け》という内容として受け取った。  3. 《行けと言われたから 行った》。ここに信仰が始まり その信仰として神がいだかれた。つまり《想定上の神 X 》である。(ちなみに この・あてもなく出かけて行くことになったとき かれは 七十五歳だったとか)。  4. アブラムは この非思考の庭のほうが 思考の緑野や感性の原野よりも 考え方としてまた生き方として先行すると思っていた。  5. よって たとえば世間一般におこなわれていた神へのささげものとしての生け贄にかんして 自分の長子をそれに当てることが出来るかと考え始めた。  6. 信仰が 思考や感性に先行すると思っていたアブラムは 来る日も来る日も考え悩み考えた。収穫の初穂は 神のものだ。しかるに 神へのささげものが 人間の子どもとしての初穂なる長子であることは――つまり子をそして人をころすことは―― 成るものなのか? と。  7. おそらく精神錯乱の寸前で そのもやもやのあたまの中で《ひとは 自分をも他人(ひと)をも ころさない》とさとったのだと思われる。  8. やがてそののちこの命題は モーセには 同じ神から 《なんぢ ころすなかれ》という倫理規範として(つまり 律法として)あたえられた。  9. すなわちアブラハムと名乗るようになっていたアブラムにあっては 《人は人をころさない》という内容のヒラメキを得ていた。これが 《ころすなかれ》という言葉で――そして集団においてそれを規範として受け取るかたちで――表現されるようになった。  10. 律法は 共同体の秩序を維持するのに必要であったのかも知れないようなのですが 事ここにおよべば 非思考の庭なるナゾの神が 或る種の仕方で外にお出ましになった。《ころすなかれ》なる道徳律が神ではないことは分かっているけれども その規範としての命題は 人びとのあたまの中に刻みつけられた。という一面が現われた。  11. すなわち――このひとつの事例に見る限りでですが―― アブラハムにおける《想定上の神( X )》は 或る種の仕方で《想像物なる神( Y )》として受け取られる〔部分的なでしょうか〕事態があらわれた。  12. イエスは モーセの律法の神を アブラハムの非思考の庭なる神に言わばもどした。と同時に その《想定上の神( X )》は 非経験の場あるいはそのチカラとして人間にとって《全体としてひとつ》である つまり人類に共通の《神 X 》だと指し示した。  13. (イエスは キリストとしては この《神 X 》をひとが受け容れるなら その心に汲めども尽きない水の湧き出る泉が生まれるとつたえた)。  14. のちイエスの生涯が聖書として文章化がなされたあとでは ちょうどアブラハムの信仰内容がモーセによって律法化されたのと同じように 想定上の神( X )が 想像物なる神( Y )として受け取られる事態は まぬかれなかった。  ここからは  15. 《想定上の神( X )》であったとしても それが人間の言葉において表わされ概念として扱われるようになったときには つねに《想像物なる神( Y )》に成ってしまいうる。  と考えられます。  ちょうどこのことが 次の問題として指摘されているようです。  ★ ※《空(欠如)》X-Za 、《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》X-Zb ・・・は、人間が捉えきれないものとしてX-Zですが、人間がつくった宗教のなかの概念としてY-Zでもあるようにも思うのですが。  ☆ ということだと思います。  つまりパウロが言うには      文字はころし 霊は生かす。  ということかと捉えられます。  ☆☆ 「主観内面における――非思考の庭にいだかれた――神Xが所謂る宗教のオシエの中に表現=外化=疎外されたかたちで・つまりは観念として持たれているそれ」  ☆ というようにわたしは ややこしい言い方をしていたようです。    ★ ※聖書の《心のきよい者》と、仏教の《自性清浄心》は、質的には違うような気がするのですが  ☆ 何ごともわたしは 類型化して捉えるクセがありますので 注意しなければならないと思うですが つまりは    神の霊がやどるその霊 ≒ 如来蔵=ブッダター(仏性)=自性清浄心  だと見てよいとは思います。問題は 《心のきよい》ことと どう同じでどう違うか?  おそらくですが        わが心なる非思考の庭にやどる神の霊は わが心をきよくする  とは思ったわけでした。  ★ 《神は死んだ》と宣言された神というのは、ニーチェのでしょうか。  ☆ これは 議論の焦点が拡散するという意味で不用意な発言でした。  言わんとするところは 《想像物なる神 Y 》は――文字なるかたちになっていて その文字をそのまま神 X として受け容れるなら それはころすものとなると言うように―― すでに信仰にとっては蝉の抜け殻のようなものである。だから 誰からにせよ その神は死んでいると言われても 仕方がないのだ。――こういう意味合いでした。  この神論は X と Y との区別が 重要だということになりますね。

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その他の回答 (37)

noname#178638
noname#178638
回答No.18

想定にそって質問文をよみ穴を見つけ指摘する主旨ですか いくつか疑問を書きます。想定…想い定めへのケチもつけます、信教の自由があるので信仰否定は違反でフルボッコ(お酒の名前ですか)とはいえコミュニケーションコンプレクスの要因や秘かな血脈の因縁など主旨から外れるので書きません、知りませんし (nonY-Zn)=(X-Zi)=(nonX-Zi)とか(X-Zn)とか なるべく考えない方が神Xが訪問しやすいということですか 汎神論は理性YをもXの一部とするようですがそういうの想定から除外ですか 神Xを謎として想定・定義するとして、なぜそれを信仰するのです。人知をこえているものがなぜ=素晴らしい信仰対象になるのです。謎ならそれが絶対や永遠や無限という属性を帯びているであろうと見なすのは何故です。ロマンですか。ロマンや情熱をどこから湧きますか。哀しみですか。信仰の動機が気になりますやはり哀しみですか。使途不明の欲の煩悩化回避ですか 想定Xは誰による想定ですか、質問者Ziさんによる想定ですか、「Ziたる人々それぞれ」というのは他の人たちと想定を共有したいわけですか 神Xの定義が謎というのはなぜですか。各宗教の信仰対象が持つ神らしさの共通点が主観的に謎性を帯びているということからですか。虚仮威しの抽出ですか スピノザから治安とると荘子やテロリストになり、あるのもないのも全てXとみなしZやYを夢とみると超汎神論になります なんのために神を定義したり想定したりするのですか。社会の調和や愛のためですか。人為軽視ですか。 コミュニケーション狭窄ありますか。コミュニ以外を目的にした信仰や信仰を重んじないコミュは無効ですか 超汎神論として神の定義を「全てのあるもの及び全てのないもの」とすると「なぞ」であることは属性以下になり、ある・あるいはないだけで信仰され、たんなるりんごも神になり、りんごがないことも神になり、りんごの謎っぽさや明らかさや無さも神りんごの属性になり、神りんごも食べられます、そういうのどうですか、とりとめもありませんか なぞ信仰は経験YをなぞXより軽視し、Zを冷ややかにもドングリとみなしますか、超汎神論では分かるものも重視します なぞ信仰はなぞ偏重、経験や人や人為への軽視、コミュニケーション軽視に通じていませんか なぞ信仰や超汎神論や汎神論は神を重視しすぎて関心や話題が狭く人間関係貧しいですか、二分思考(部分対象関係?妄想-分裂ポジション)は一方を重視しもう一方を否みがちになります 二分せずX=Y=Zというか範囲Z(人的未知・既知)を範囲Y(世界的未知・既知)が囲むまわりをさらにX(神)が囲むとみると、人Zは思考Yからでなく全体Xから取り出され、すると神Xの定義は、分かっているまたは分かっていないあるいは今後もわからないもしくは今後わかるかそれすら不明なものとなり、かくして超汎神論における超汎神Xはナゾ信仰のなぞXよりもテキスト上・図式上より広い範囲を獲得しより多くのコミュニケーション対象(折伏営業対象)を得られますか Xの属性として不可変性とありますが可変性の方が神っぽい空っぽいと思いませんか、世界や物も空で常に変わります 信仰の基本形態の成立→人生 という順序なのは何故ですか Xを謎と想定するとして、謎Xからの介入や介在の形態を人が自ら判断できるのですか。精霊や妖精が脳や丹田を訪れこう囁いたとむりやり解釈するのですか ・信仰形態が合致(なぞ信仰・無神論)→コミュニケーション成立 ・信仰形態合致せず(一方が何かを信仰または双方が別々の信仰)→コミュ不成立→人間性低下・対立 といいますが差異をコミュニケーションのだしにするなら信仰形態が合致しない方がコミュ成立かつ持続し、合致し差異がなくなるとコミュ不成立というか途切れますか ・「なぞの神Xを信じてる」→あっそおんなじだ、じゃあね ・「神とか信じてない」→呵々それ無神論という信仰形態だよ ・「特別な何かを神として崇拝してます」→オッケーおばかさん、ちょっと話し合おう ・「ぼく神とか自分で信じてるかどうかよくわからない」→NGだよ とのことですが謎に対し誠実なのはむしろ最後の信じきれず不信も抱ききれないとらえ方ではないですか 超汎神論者は何かにつけ向き合うので大変です いろいろ質問してすみません 暇なときにでも

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  ★ 二分思考(部分対象関係?妄想-分裂ポジション)は一方を重視しもう一方を否みがちになります  ☆ つまり  X と Y とは次元を異にする。こういう定義で事足りると思います。  ★ 二分せず X=Y=Z というか範囲 Z (人的未知・既知)を範囲 Y (世界的未知・既知)が囲むまわりをさらに X (神)が囲むとみると、人 Z は思考 Y からでなく全体 X から取り出され、すると神 X の定義は、分かっているまたは分かっていないあるいは今後もわからないもしくは今後わかるかそれすら不明なものとなり、かくして超汎神論における超汎神 X はナゾ信仰のなぞ X よりもテキスト上・図式上より広い範囲を獲得しより多くのコミュニケーション対象(折伏営業対象)を得られますか  ☆ やはり X ≠ Y そしてまた必然的に X ≠ Z という取り決めは 動かせません。  (これとても こういう数式は ほんとうはマチガイですが。つまり 次元を異にするものを等しい・等しくないとは判断できません)。  ★ Xの属性として不可変性とありますが可変性の方が神っぽい空っぽいと思いませんか、世界や物も空で常に変わります  ☆ たしかに ですから 《不可変性》は 経験事象としての可変性とならべてただそれを否定しているのではないわけです。たしかに おっしゃることは考えられるのであって 神の不可変性は 経験世界における可変性をも みづからの内に持っているとさえ推理されます。  ★ ~~~~  信仰の基本形態の成立→人生  という順序なのは何故ですか  ~~~~~~  ☆ ええ これも 信仰の成立の以前にも《人生》は始まっていますし そのいまおこなわれています。  言ってみれば 《普遍性において 神 X を心にいだいたその時点》つまり 非思考の庭がわが心になったという時点つまり 信仰の基本形態の成立の時点を この理論においては 重視します。   神に対する排他性から自由になった(つまり それ以前にもそうだったと言える場合があるのですが それが自覚された)ことを 重視しています。    《心の明け》というのは そういう意味があります。どの神に対しても・したがってどの人に対しても 心が閉じられていない。という《非思考の庭》の効用のことです。  ★ X を謎と想定するとして、謎 X からの介入や介在の形態を人が自ら判断できるのですか。精霊や妖精が脳や丹田を訪れこう囁いたとむりやり解釈するのですか  ☆ これは 実際問題としては 人それぞれにまかせられています。  いくら突飛な内容でも それを自己表現することまでは 自由だと見なされると思います。  重要な内容を持つと人びとが考えたなら その主観真実を 共同化するものと思います。(それとても マチガイでありえますが)。  ★ ~~~~~  ・信仰形態が合致(なぞ信仰・無神論)→コミュニケーション成立  ・信仰形態合致せず(一方が何かを信仰または双方が別々の信仰)→コミュ不成立→人間性低下・対立  といいますが差異をコミュニケーションのだしにするなら信仰形態が合致しない方がコミュ成立かつ持続し、合致し差異がなくなるとコミュ不成立というか途切れますか  ~~~~~~~~~  ☆ 《信仰形態が合致(なぞ信仰・無神論)》というのは カッコ書きから推察できるように 信仰の形態は――神の名が異なるかたちで――異なるのだけれど 《 X-Y-Zi 》なる類型としては互いに同じであり対等であることを意味します。よって そのような対話の基礎固めにもとづき 《コミュニケーション成立》となると見ます。  ★ 信仰形態が合致しない方がコミュ成立かつ持続し  ☆ これは 棚上げ路線ですよね。  ですから 《差異》をどこまでも気にする場合には 類型において同じ土俵(リング)に上がっていると互いに理解し合うことになるのだと思います。(なんなら その差異を人よりも相手よりも大きく広く深い境地において包み込んでいますよと誇ることが出来る場合は 相手を――その了解をとって――折伏してもいいわけです)。  ★ ~~~~~~~~  ・「なぞの神 X を信じてる」→あっそおんなじだ、じゃあね  ・「神とか信じてない」→呵々それ無神論という信仰形態だよ  ・「特別な何かを神として崇拝してます」→オッケーおばかさん、ちょっと話し合おう  ・「ぼく神とか自分で信じてるかどうかよくわからない」→NG だよ  とのことですが謎に対し誠実なのはむしろ最後の信じきれず不信も抱ききれないとらえ方ではないですか  ~~~~~~~~~~  ☆ 基本的に言って 神や信仰の談義をするのは むしろ例外的な事態であって コミュニケーションはあくまで 生活上の交通なり経済活動としてのそれなりの問題だと考えています。  そしてむろん 神の談義になってもいいわけです。  ★ ・「ぼく神とか自分で信じてるかどうかよくわからない」→NG だよ  ☆ これは 《 NG だよ》と実際に言うかも分かりませんが 基本的には 《おのれの信仰形態の成立以前の状態にある》と捉えるわけですから 《以後の状態》にある人は 一般に寛容であると思われます。  ★ 超汎神論者は何かにつけ向き合うので大変です  ☆ なるほど。おもしろいですね。たぶんわたしは 初めてだと思います。こういう切り口からの問い求めとその対話は。 (部分的に ほかの思想の人の場合でもむろん重なるところがあるでしょうが)。  だいたいお応えできたかと思います。・・・

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  盛りだくさんです。  ★ 汎神論は理性 Y をも X の一部とするようですがそういうの想定から除外ですか  ☆ これは 前回のご回答へのお応えを書いたあと気づきました。  スピノザはもっと徹底した《神即自然》だったんだっけ と。  ただし この問題ですけれど そのスピノザの説はひとつの見解になるかも分かりませんが そこまでの規定の仕方になると――つまり 非経験の場( X )と経験世界( Y )とが一部としてにしろ重なるところを持つとなると―― これは 《ゆゆしき》問題です。わたしとしては みとめられません。  ですから 《神即自然》は 論理的なふつうの定義としては 前回でのわたしの理解のごとくなるかと思います。つまり 神 X が 経験世界 Y にみづからを写像するといったふうに です。そうなるとその意味としては スピノザ自身の見解は いわば文学的な言葉のあやを用いた定義だと言わざるを得ない。こう考えましたが どうでしょう?  ★ 神Xを謎として想定・定義するとして、なぜそれを信仰するのです。  ☆ じんるいのどの言語でも 《かみ および しんじる》という言葉をもって実際に使っているからです。  この言語習慣が意味のないものであり 神なる言葉も死語だということであれば 話は違ってくると思います。    それとも 別の定義を持ち出して来るか だと思います。  ★ 人知をこえているものがなぜ=素晴らしい信仰対象になるのです。  ☆ 《素晴らしい》かどうかは ひとそれぞれだと思います。そして信教の自由に属すと見られます。  ★ 謎ならそれが絶対や永遠や無限という属性を帯びているであろうと見なすのは何故です。  ☆ 《非経験の場》という想定からです。経験世界とは次元を異にすると定義したことになり だったらその X は Y を覆い包むであろうと――つまりこれは 人間がそういう概念を想像じょう派生させようとして推理したものだと思うのですが――いちおう帰結されると思われます。  ★ ロマンですか。ロマンや情熱をどこから湧きますか。哀しみですか。信仰の動機が気になりますやはり哀しみですか。使途不明の欲の煩悩化回避ですか  ☆ これは いろいろでしょうね。つまり 上で言った言語習慣のもんだいです。けれどもそれも 表現の自由(ないし意志自由)として ゆるされていましょう。  ★ 想定 X は誰による想定ですか、質問者 Zi さんによる想定ですか、「Zi たる人々それぞれ」というのは他の人たちと想定を共有したいわけですか  ☆ 哲学は 概念によってものごとを抽象し 一般性のある視点や内容の分析を提供するものと思います。むろんこの仮説は 質問者のものです。  ★ 神 X の定義が謎というのはなぜですか。各宗教の信仰対象が持つ神らしさの共通点が主観的に謎性を帯びているということからですか。虚仮威しの抽出ですか  ☆ いえ。《非経験の場》が ワケの分からないナゾだという意味です。《霊》とも言いかえるのは そういう意味においてです。幽霊といった意味のことです。  きわめて中立の抽象概念またその説明として 《雲をつかむようなもの》ゆえ ナゾです。  つまりこのナゾを 人びとは《かみ》と言っているというかたちにおいて 言語習慣から導き出したという意味です。  ★ ~~~~  スピノザから治安とると荘子やテロリストになり、あるのもないのも全てXとみなしZやYを夢とみると超汎神論になります  なんのために神を定義したり想定したりするのですか。社会の調和や愛のためですか。人為軽視ですか。  ~~~~~~  ☆ ひとつに ですから《非経験の場 X 》と《経験事実の世界 Y 》とは峻別しなければならないと考えます。  ひとつに 定義そのものは 純然たる哲学としてのいとなみ――交通整理のごときつとめ――だと見ます。そして この神論の結果としては 自分で言うのですが普遍的な内容をもった定義にもとづき 人びとは 宗教や宗派の別なく 《神》のことでムヤミにあらそうことからは自由になる。と考えても のぞんでも います。  ★ コミュニケーション狭窄ありますか。コミュニ以外を目的にした信仰や信仰を重んじないコミュは無効ですか  ☆ 《神》にかんして排他的になる信仰は 無効でしょうね。  話し合い一般において 信仰や神のことは――互いの認容(同意)をもとにして おこなってもよいわけですが―― 話題に出さないと思います。  ★ 超汎神論として神の定義を「全てのあるもの及び全てのないもの」とすると「なぞ」であることは属性以下になり、ある・あるいはないだけで信仰され、たんなるりんごも神になり、りんごがないことも神になり、りんごの謎っぽさや明らかさや無さも神りんごの属性になり、神りんごも食べられます、そういうのどうですか、とりとめもありませんか  ☆ この仮説にかんする限りで 《非経験の場 X 》と《経験事実の世界 Y 》との峻別は 必要だと考えます。    ★ ~~~~  なぞ信仰は経験 Y をなぞ X より軽視し、Z を冷ややかにもドングリとみなしますか、超汎神論では分かるものも重視します  なぞ信仰はなぞ偏重、経験や人や人為への軽視、コミュニケーション軽視に通じていませんか  ~~~~~~  ☆ 《非経験の場 X 》と《経験事実の世界 Y 》との峻別は 両者を同じひとつの次元において捉えることはないという意味になります。比較して一方を重視するとか軽視するとかの結果が現われるという問題ではないとなります。  ナゾ信仰ゆえに この世の実際の生活日常がおもんじられるという結果になるとも考えられます。意味が―― X つまりナゾないし〔ほんとうの意味での〕無意味もしくは無根拠によって――付与されるという感覚をおぼえるでしょうね 人間は。  ★ なぞ信仰や超汎神論や汎神論は神を重視しすぎて関心や話題が狭く人間関係貧しいですか  ☆ 仮りに《神を重視しすぎる》としますと そのことはそのこと自体によって 経験世界のものごとを大事にするようになるでしょう。すでに触れたように 朽ちゆく存在の移ろい行くものごとを扱っていても その一つひとつのものごとが意味づけられたような感覚をおぼえるようになると思われるからです。  次のような現実が現われると思われます。  ▼ (マタイによる福音書 / 25:31-46 ) ~~~~~  ・・・  37: すると、正しい人たちが王に答える。   『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、   のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。  38: いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、   裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。  39: いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、   お訪ねしたでしょうか。』  40: そこで、王は答える。   『はっきり言っておく。   わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、   わたしにしてくれたことなのである。』  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  (つづく)

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noname#181644
noname#181644
回答No.17

補足お願いします。 前回の質問で出た、自然本性・1と、今回の神・Xは、どういった関係にあるのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 分かりました。ご回答をありがとうございます。    ★ 前回の質問で出た、自然本性・1と、今回の神・Xは、どういった関係にあるのでしょうか。  ☆ 自然本性としての《一》は ひとの存在を数として喩えるならそうなると見るかたちです。    《神 X 》は 《経験世界 Y ないし Y-Z 》を超えていますがそのような次元なる場とひとしい《全体としての一》だと捉えます。  ☆☆(【Q:仏性は 生命なのですか? 霊なのでは?】No.9お礼欄) ~~~     http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8070926.html  ひとは ――そのときにはまだものごころも着いていませんが――   (あ) 《わたしはわたしである》: 1=1  という自然本性の状態で生まれて来ます。そのあと ものごころが着いて ひとはへそを曲げはじめます。ウソをつくようになり なかんづくおのれをだましおのれの心をいつわってへそ曲がりなことを仕出かすようになります。  そこで ときにアヤマチを犯しマチガイに気づくなら・あるいはつまりむしろ他人(ひと)にあざむかれるなら はっとわれに還り (あ)のわたしに立ち帰ります。   (い) 《わたしはわたしである》わたしがわたしする。: 1x1=1     *(註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~     つまりもしアヤマチとしてのワレを マイナス一( -1 )とすれば    いわゆる弁証法的な過程として それに対して批判( -1 )がおこなわ    れます。     よって      《わたしがわたしである 1=1 》なるわたしに立ち帰る。:         (-1)x(-1) = 1    のごとく喩えたかたちで 我れに還るのだと見られます。     もしくは つねに 《わたし( 1 )にわたし( 1 )を掛ける》かたちで    進めばよいと考えるならば       《わたしはわたしである》わたしがわたしする:          1x1x1x・・・1 = 1        すなわち  1^n = 1    となると思います。言いかえると ひとは 生きるときおのれ( 1 )の自乗を    限りなく繰り返しつつ我れに還ってあゆむ。つまり おのれの連乗積をつくって    行く。     つまり わたしが《一》なら そのベキはつねに《一》である。     ところで神 X が《全体としての一》であるとき この神 X の一と 人間 Z    の一とは どういう関係があるのか? あるいは ないのか?     これは 引用文のあとに捉えます。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  こうして やわらがしめられたわたしは わたしの自己表現なる文体をもって――なおもときにはウソをつきまたむしろ到るところであざむかれつつ したがって言わば巡礼の旅路を送るがごとく――生きて行きます。わたしの自己表現がおこなわれるところに わたしの文体がかたちづくられて行きます。   こういう自然本性の中核のわたしは すでに世界(世間)と和解をしています。もともと和解が成っています。むろん わたしみづからとも和解しています。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ここまでを引用しておいて 神 X の一と人間 Z の一との関係を考えます。  これは いまわたしが得ている考え方としては 次のようです。  聖書のほうから:  ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ この句を取り上げます。  ここから 《ひとはカミの似すがたである》という或る種の命題を捉え これを図解しました。  なお 《神 X 》は その存在は《一》ですが その顔(ペルソナ)は 子の父と 父の子と 両者から発する聖霊との三つがあると捉えます。ともかく次のようです。  ○ (ひとはカミの似すがたである) ~~~~~~~~~~   (または 三位一体なる神とひとと社会とについての図解)   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ややこしいかも分かりませんが        三位一体なる神の《一》     ∽ 《記憶‐知解‐意志》の三一性なる人の《一》     ∽ 三権分立制なる社会における秩序としての《一》    さらに検証して行きたいと考えています。(《自然》が抜けているかも知れませんから)。  こんな感じです。

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noname#178638
noname#178638
回答No.16

神X=全て、という汎神論は古代からあり、 幻というのは言いすぎで、スピノザはYやZをXの部分や現れとみなし、すると隣人愛につうじ治安や人間関係にも良い、という見方だと思います。 予断もXの部分なら大切です。

bragelonne
質問者

お礼

 2344050 さん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  まづげんみつな議論としては 神の定義(その最広義における一般的な抽象概念の剔出)と 神をめぐる思想(つまり たとえば 汎神論だとか)とは 別だと見ます。  そのツテで言えば  ★ 神X=全て、という汎神論  ☆ この規定は あいまいですね。    ひとつに 汎神論は 神があるという前提で話をしています。ですが この神とは何か? の議論は神があるか無いかをも視野として前提に置いています。  ひとつに 《神X=全て》というふうには ここでは規定していません。  微妙ですが 《神 X 》は 《無い神 non-X 》をも含む包括概念だと言っており――したがって 狭義の《有る神 X (狭義)》という場合に相当することもありますが―― 包括概念としての意味では《非経験の場》という想定のもとにその《場》とひとしいところの《全体としてひとつなる神 X (広義)》 これが 定義です。  もっとも もしそうだとすれば この最広義の《神 X 》は けっきょくその《非経験の場》なるナゾが 経験世界 Y を超えている次元のものであるゆえに 言わばこの経験世界を覆い包むというふうに二次的な定義において見られて来ます。  非経験の場なる神 X は 経験世界 Y を覆い包むというのは ニュートリノのごとくつらぬいているといったイメージになるかも知れませんし あるいは 例の誰だったかの絵に表わされたように 神がわれわれ人間一人ひとりに指でそうっと触れるといったかたちであるかも知れません。  つまりあるいは スピノザの説くごとく 神 X は この経験世界 Y (または Y-Z )にそのままみづからを写像している。ということであるかも分かりません。  つまりこの神の派生的な属性として推測されることは 初めの想定に立つかぎりで それとしてすべて――合理性がゆるすならば―― みとめられるのではないかと思います。  すなわち  ★ 幻というのは言いすぎで、スピノザはYやZをXの部分や現れとみなし  ☆ ということが考え出されるということかと思います。目に見えることは 現実ですが その現実と人間が認識していることが 神からみれば マボロシであるかも分かりません。ということだと見ます。  ですから そのあと  ★ ・・・すると隣人愛につうじ治安や人間関係にも良い、という見方だと思います。  ☆ という経験思想の部分は まさに――良心・信教の自由から出発して――自己表現としての思想の自由のもとに打ち出されて来るひとつの主観であり それとして相当程度の共同化を獲得するものと思われます。  ただし 一般理論としての神の定義とは 話の段階を異にしているとは思います。  ★ 予断もXの部分なら大切です。  ☆ というのも 以上のような理論構成に沿ってとなえられるものと考えます。  つまりあるいは 《神 X 》の一次的な定義の段階とそこから二次的に派生してくると思われる神の属性を想像して経験思想につなげる段階との違い もしくは そのまさにつながり(理論的な一貫性) これが問われるものと思います。  一次的(一義的)な定義: 神 X なるナゾ(ただしこれは 人が想定するものである)  二次的・派生的な属性: 絶対・無限・不可変性・・・  三次的以降の属性: 絶対⇒        ⇒〔擬人化として〕絶対者⇒        ⇒〔さらに想像をたくましくして〕全知全能⇒        ⇒創造主。あるいは愛・慈悲⇒・・・    神の二次的派生的な規定は 一般に物語として編まれ持たれると思います。  それとして 限界を持つと思われると同時に それとしてのチカラを持つと考えられます。哲学(ないし科学)も そのことを 事実問題(つまり けっきょく 世界観 X-Y-Z )としてみとめるものと思われます。  この世界観 X-Y-Zi は したがって 人間存在の主観内面を 次のように 雲をつかむようなワケの分からない《非思考の庭》なる場をも設定するかたちで捉えるものと考えます。    ○ (ワタシなる存在における自然本性の内実) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  

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  • kurinal
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回答No.15

B様、こんばんは。重複があれば、ご容赦願います。 「(信教の)自由」には限界があるのです。 (「基本的人権の、内在的制約(他者の人権を侵害できない)」)

bragelonne
質問者

お礼

 いや ないでしょう。というより ここは神の定義ですよ。  K さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  良心の自由にも内容が近い信教の自由は 内面の問題ですから 他者のことは関係ないと思いますが。  表現の自由には 他者との関係において・ということはみづからの自由なる良心の具体的なあり方にかかわって 制約が出てくるでしょうね。  ただし 話し合いをしているぶんには 特別に問題はないとも思いますが。  神とは何かの定義についてはどうでしょう。

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noname#189751
noname#189751
回答No.14

>神はいると言うひとにとっても いないと言うひとにとっても 共通の主観内面の仕組みを――《信じる》という動態にかんして明らかにすることによって―― 捉えてみておこうというものです。 ご苦労さまです 中々大変な作業のようですけど >共通の主観内面の仕組みを・・ もう 「共通」とおっしゃっている もう 答えが出ちゃってる そんな感じじゃないですか >《信じる》という動態にかんして明らかにすることによって・・ 明らかでなければ 「共通」とは言えないと思うんですが やはり・・ 酔うほどの 酔えるほどのものでないと いかん フルボッコで出してみろ と 水割りぐらいでは薄くてだめだ モルトを出せ と モルトという原酒 濃厚なやつは ないのか と モルトを飲みながら言っている ような感じなんですが まあ いいでしょう・・ >《信じる》という動態にかんして明らかにすることによって・・ つまり 言い換えれば 無信仰が信仰に変わる瞬間の内容なんでしょう それは漠然としたものではない・・と 人の前に神が現れた瞬間の出来事を示せ・・と 心が動いた瞬間を示せ・・と 言いませんね 言わない ケチだから・・ 言うと 減っちゃう 分からない人に言うと 減っちゃう そういう つまらん心配があるわけです だから出てこない 信仰をもっている人は、その核心を話さない 自内証という印可状を手離さない 見せない んでしょう 動態 といっても話すことは限られてくる 客観性をもって了解できる範囲に限られてくる 或いは、遠回しな言い方でしか言えない こうした表現可能な範囲を自ら決めてしまうということなんですが 浅い信心の場合には ぺらぺらしゃべれても 深くなってくると しゃべれなくなってくる なんでか・・ それは 信仰の対象を身近に感じてくるからだと思います だから話せなくなってくる んでしょう いつも すぐわきにいて聞いている 見ている そんな感じなんでしょう 遠くにいた神が いつの間にか すぐわきにいる 一日一日の小さな信心の積み重ねが生んだ 信仰と呼べる結果 別に特別なことじゃないと思うんです 結果だけをみれば特別かもしれないけど  そうなろうとしたわけでもなく、自然とそうなった 薄い水割りに ちょっと足しただけ・・ でもそれでいいんです 人から美味しいモルトをいただこうなんて虫がよすぎる 分かりますよね・・・ ただ ちょっとさみしいかな・・ メモ用紙に一生懸命 神様を描いているような姿が 暗がりの遠くの一点に そんな姿が浮かんでいるような気がします 言葉より直接の方がいいんじゃないですか よけいな心配かもしれませんが いや よけいな心配なんでしょう・・。

bragelonne
質問者

お礼

 哲学ってもんを分かってない。んぢゃ。  自分の信仰をどう表わすか。または表わさないか。  の問題ではなく 自分の信仰 ほかの誰々の信仰 また別の人の信仰・・・とよく見渡して そこに共通の要素を見い出して 類型的に捉える。  信仰とは これこれこういう形態をしている。看板は違っていても また中身に個性の違いはあっても 共通の形態がある。その形態は それぞれの中身と結ばれている。  うんぬん。といった事柄を分析しつつそれを交通整理のために提供する。  つまり一般には・ということは広い範囲のこととしては けっきょくそれぞれの人がいだく世界観( X-Y-Zi )について やはり共通の要素を捉えて 交通整理をしておく。  この質問では その内の 信仰類型論という分野での議論となっています。  あなたのいだく神が どれほど言い表わし難くまた特殊であったとしても 一般類型としてその形態がこれこれのごとくに捉えられると見る。そうすると 人びとが 《神 信仰および宗教》にかんして話し合いを持つときに コミュニケーションが――交通整理をとおして―― なめらかに進めることができる。  こういう効用があります。    そのための作業です。  骨格を示すことによってでも あんがい信仰の――ということは 人間の内面なる心のあり方についての――具体的な生きた中身のことまで見えて来るような話が出来る。と思われます。  不満をいだきつつ ご回答をありがとうございます。

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回答No.13

私は人間を信じるよ。 他者を理解することは信じる事だと考えるよ。 無根拠の衝動がそう駆り立てるんだ。

bragelonne
質問者

お礼

 どうぞ。  ご回答をありがとうございました。  《信じる》という言葉をここでの趣旨とは違って・その意味であやまって使っていると見ます。  それとも人間の内なる神の霊のことを信じるという意味なのでしょうか。  でもそれだと 趣旨説明と同じ内容になる。だから わざわざ《人間を信じるよ》と言うことはおかしい。  つまり その能力や可能性に賭けるとか その存在をつよく良い方向において思っているとか そういう意味にしかなりません。

bragelonne
質問者

補足

 ☆☆(本回答お礼欄) 人間にかんしてその能力や可能性に賭けるとか その存在をつよく良い方向において思っているとか   ☆ そういった意味において  ★ 私は人間を信じるよ。  ☆ という道をえらんだとしても それとは別に    《神とは何か?》  なる問いは残っています。  もし強いてその選んだ道に合わせて言うとすれば    《無い神を信じる》  という非思考の庭における隠れた選択のもとにその     ★ 私は人間を信じるよ。    をえらぶに到った。このように理解されましょう。  そういう問題です。

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noname#178638
noname#178638
回答No.12

あるのはXのみで、Yは予断にすぎないという見方。

bragelonne
質問者

お礼

 それは そうとうすすんだ考え方ですね。  2344050さん まづはご回答をありがとうございます。  とびっきり進んだお考えですね。それこそ 《信仰たる非思考の庭》の究極であるような。  真理 X のほうが 現実であって いま見ている事実 Y のほうは まぼろしである。――こういうことですよね?  どうですかね。どうなんでしょう。  たぶんいま言えることは 現在・現段階でたとえば日本でも世界でも そういう思想を発表されても 人びとには届かないでしょうね。ということだと思いますが どうでしょう。  いや 分かりません。神 X からのしわざとして 大ドンデン返しが いまにも――夜 盗人が来るように――起こるかも分かりません。  いや 分かりません。  としかお応えし得ないのですかねぇ。  いやぁ どうなんでしょう。ううむ。  (すみません。これで終えてしまうのですが)。

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回答No.11

お礼読みました。私の読解力は多くの人よりも自信があるので、断定的に書きますね。 まず、貴方の境遇は貧乏ではないですか? 微妙に貧乏かもしくは、普通か、自分の事を貧乏だと思ってる金持ちだと思います。 やるせない日々、あるいは退屈とか、あるいは悶々と眠れない日、貴方の脳は哲学化する事で、それらの問題を解消し始めて救済された? 解消はいわゆる自傷行為の様なもので、リストカットする事についてエクスタシーを感じる精神障害の如く人から理解されにくくなったかな? そうでないなら、哲学という人としては珍しい趣味を持ってるという事かな? 周囲とは孤立無縁と化して友人が減る事に貢献したかもしれない。してないかもしれない。 そしてますます、やるせない日々、あるいは退屈とか、あるいは悶々と眠れない日が増えてった。 それについて、貴方は自身が哲学的思考で救済された様に解釈している。 実際、一理として哲学がその役割を担う側面もあるから、論理としては正しい。 こういう場に投稿して哲学的思考を周囲にバラマキ同調させ、あるいは感染させる事で、貴方と似た思考をしてる人を更に同意付かせ、周囲を救済させる影響がある。 強い影響を他者に与えたら自分を大きな存在だと自覚し、アイデンティの快楽を感じるから、哲学的な思考開拓を止められない。 また哲学思考をした経験則から止めなければならないとする答えは出てない。 やめるべき必要性が無いのと、スラスラ言葉が出てくるカリスマ性があるから、貴方は神に選ばれてかの如く、平均から乖離してる。(良くも悪くも異端者) もし貴方が、異端者、変態者と人から呼ばれても平気であるならば、まさしく哲学に大きな救済力がある証明になるので、私も賛同せざる負えない。 22人もの逆お気に入りユーザーを抱えてる状態からして思考の姿勢は、極めた域まで到達してると言えると思う。 私はそういう人については「天才」と呼ぶに相応しい者として評価する。 もしかしたら、神が存在して貴方に使命としてその役割を与えてるかもしれない。 そうだとすれば、まだまだ貴方の未来に伸びしろがあるという事になるので、現状のありのままにが一番世界の為になると思います。 なので我が道を進んでください。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 周囲とは孤立無縁と化して友人が減〔った〕  ☆ この部分が事実ですね。  あとは よく眠りますし大食漢ですし考え事をしないときには能天気のからっからです。  というわけで 哲学が趣味でもないですから ほとんどぜんぶお見立ては違います。  人びとにとって――ということは わたし自身にとってということなのですが―― 何がもっとも自由な生活であるのか? これを追究している。のみです。  結果として 世界という範囲にまでひろがりました。  ★ 貴方は自身が哲学的思考で救済された様に解釈している。  ☆ これははっきりしています。信仰があたえられた。ゆえに 能天気になりました。いえ その前からそうでしたが 確信が得られ ますますそうなったということです。  ★ こういう場に投稿して哲学的思考を周囲にバラマキ同調させ、あるいは感染させる事で、貴方と似た思考をしてる人を更に同意付かせ、周囲を救済させる影響がある。  ☆ これは見方が分かれます。 どういうふうにか?  哲学は 誰が見ても考えてもそういう結論が得られるという主題とその解法を提出しているという見方が そのもう一方にあるからです。むろん こちらが 妥当であるということになるはずです。  ★ ~~~~  もしかしたら、神が存在して貴方に使命としてその役割を与えてるかもしれない。 そうだとすれば、まだまだ貴方の未来に伸びしろがあるという事になるので、現状のありのままにが一番世界の為になると思います。  なので我が道を進んでください。  ~~~~~~~  ☆ 意外な結末でしたね。ありがとうございますとお礼を述べなければならないでしょうか。  ひとつ微妙なところは 《我が道》という捉え方です。  そうであると同時に それだけなら《神の国から来て地球に駐在する外交官である》意味がありません。  みなさんも じつは独りひとりがこの外交官(アポストロス)であるということ あるいはむしろ そんな肩書きも取っ払って みなが地球市民であるということ。このことの 実質的な実現を目指すということでなければ 《使命》が泣きます。  というようなことなのでしょうね。  社会的政治的な立ち場でたもとを分かちましたが そういうところでしょうか。ニアミス と言っては 失礼かも知れませんね。でも 将来はどうなるか 分かりませんから。どうなりましょうか。  では ありがとうございました。

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noname#187913
noname#187913
回答No.10

『もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい』と言うのは、誠に仰る通りなのです。 がしかし、今のキリスト教やイスラム教や仏教その他の宗教の様に『信徒何億人』となると、それは多分不可能です。大混乱になります。場合によっては、派閥に分かれて戦争を始めるでしょう。 『議論しなおせばよい』だけの事が出来ない(妄信して暴走してしまう)仕組みは、理性に基づく『理論』より、『本能』や『野生』から導く方が多分よほど簡単で正解に近いと思うのですが、先に書いた様に神学者はまず間違いなくそれを拒否します。 人は動物ですから、元々自然の中で発生し野生や本能と言う囲いの中に生きていますので、その中で人間が考えた神の理論が野生や本能より上位に位置する事が可能なのかと言う疑問は常に有ってしかるべきだと思います。 いくつかの事例に合致する定理が有るとして、その定理に合致しない事実が判明した時は定理が間違っていると考えるのが科学的(理性的)対処だと思うのですが、多くの宗教とその信徒はこれを拒否します。 ひとえに、これまで『これが正しい』『これが正しい』と念仏の様に過去何代にもわたって唱え続けて来た物を『大前提について議論しなおす』と言うのは『死ね』と言われるに等しいくらい自らを否定する事だと考えている様に思います。 野生や本能で拒否している者に言葉は通じません。 私はそう考えます。

bragelonne
質問者

お礼

 おんせん_だいすきさん あらためましてこんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  『議論しなおせばよい』だけの事が出来ない(妄信して暴走してしまう)仕組みは、理性に基づく『理論』より、『本能』や『野生』から導く方が多分よほど簡単で正解に近いと思うのですが、先に書いた様に神学者はまず間違いなくそれを拒否します。  ~~~~~  ☆ わたしは神学者ではありませんが 信仰についてはたいていの神学者よりもよく知っているつもりです。(ほんとうです。神学論文をある程度読んで 自分でながら そう思います)。  《本能や衝動》によって行動する側面がある。この側面が生活の中で大きな比重を占めている。ゆえに社会としても その側面を重点的に取り上げ 対処して行かねばならない。――というご趣旨でしょうか。  そうですね。それは その人たちや情況や具体的な場面に応じて そうしなければならない場合があるでしょうね。    (あ) 人びとが意志を離れてのごとく前後の見境なく衝動的に行動してしまうという広い意味の不可抗力の問題は もし器質的な神経や精神の問題でなければ すべては社会を原因として発生する問題だと見ます。  (い) 言いかえると その《不可抗力となるような振る舞い》問題は 社会がそれ相応の秩序を回復すれば なおります。  (う) つまりは いまここで神論を取り扱っている問題と直接にはかかわりはない。こうわたしは見ます。  (え) ですから神学者がどう言っているか知りませんが この《不可抗力行動》論から出発して 神論をみちびく――こういう道筋は たしかに取りません。あなたから見れば 《拒否》になります。  (お) ちょうど No.7&8の回答者の方が 《いじめ》問題を取り上げておられましたが その問題を広げてわたしは 《社会源にかかる不都合な精神状態》の問題として見ています。  (か) すなわち簡単に述べるなら 社会が一階のスサノヲ市民とそしてそれを上から束ね寄せて統治するお二階のアマテラス公民とに分かれているところから 精神的な閉塞状態が生じて来ていると見ています。  (き) アマテラス公民は けっきょく――いまは昔となったのかどうか――そのやること為すことについて無謬性の神話が語られていて その神話の威力に人びとはまいっている。お上に対してよわい立ち場にあるということです。長い者には巻かれろという問題です。  (く) たとえマチガイであっても お上の言うことはただしいとなっている。のでした。これに遭遇すると まじめな人は特に やられてしまいます。まるっきり百パーセントただしいことが通らない。となると 人はもうやりきれなくなります。絶望とか落ち込むといった水準の問題ではなく しおれて来てしまいます。  (け) その打ちひしがれた人ほんにんは まだよいのかも知れません。かろうじて持ちこたえて 家族のために仕事をつづけます。ただし その頑張りのしわよせは 知らず知らずのうちにも 配偶者や子どもたちに向けて――そのつもりがなくても――及んで行きます。  (こ) こういう理不尽な事件に遭った場合 その弱い立ち場の者を わたしは《アース役》と呼んでいます。このアース役でがんばっている人も 身内に対しては気持ちがゆるむのでしょう ふとした拍子に 自分が相手をアース役に仕立てている場合が起こります。自分はガミガミ役にまわってしまうわけです。  (さ) そのときガミガミ役の意識の排泄とも言えるガミガミ電波は アース役の相手に入り込んでこれが溜まって行くということが起きないとも限りません。  (し) そのようにして 一代限りにおいてではなく次の世代へも アース役の余波がまわり回って受け継がれる形になり得ます。これが 社会源なるやまいです。  (す) このやまいに罹ると 何かの拍子にふと自分の意志を超えて 衝動的な振る舞いに出てしまうということが起きます。  (せ) こういう問題です。そしてこれは 社会源であるからには なおります。その源泉のガミガミ電波を除染すれば済みます。  (そ) よって 神論にとっては この不可抗力行動論は 別建てとすることが出来ます。  そういったやり取りは 次を参照ください。  【Q:ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6191141.html  【Q:ニート・引きこもり・あるいはうつなど精神の傾向は ふつうの社会現象であるに過ぎない。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6242183.html  【Q:観念の運河を 《空気》なるゴンドラはきょうもゆく】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7136310.html  【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7775052.html

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noname#189751
noname#189751
回答No.9

先生 やられてますね すさまじい・・ まあ フルボッコのご批判をどうぞ と 啖呵をきったのだから仕方がないんだけど なんでそこまでして 神とは何か? と問うんでしょうか ね 人に聞いても分かるはずがないと承知しているはずなんですが 芯のない皮をむいていって 何もない と言いたいのか 神の存在の証拠 決定的証拠にふさわしい美しい言葉を聞いてみたいのか どうなんでしょうね 或いは いくら言葉を尽くしても 神は言い表せないだろう・・と 言えるなら言ってみろ・・と まあ 信仰に対する挑戦状みたいなもの ちょっと長い挑戦状ではありますが・・ 私はというと 神のほうではないんで ギャラリーになってしまうんですが 信仰そのものはかじってきた だいぶかじってきて 美味しかったか? と問われれば 美味しい まずい という感じではない 常に分かれ道に立つようなところで呼びかける 暗くなりかけたところで大きな声で呼びかける 大きな声で呼びかけられるものを頂いている 信心とはそうしたもんです 何が返ってくるのか と言われれば 何も返ってはこない 言葉ではないんです ただすべてが なるようになってゆく 欲をかかなければ自然に良い結果になっていく 振り向いてみれば 自力ではなかったと思い当たることが多い そんな感じです 稀には はっ とする事もありますが・・ 神の信仰の場合も同じようなもんではなかろうかと 盲目(めくら)が 象の尻尾をさわるようなもんで分からない 理解とは 信仰の体験を通してその一端を知るだけなんでしょう 理解した という傲慢さは人間の愚かさでしかありえない そんなふうに思うんですがね・・ 神を理解するのか 信じるのか? 理解できなければ 信じないのか? そんな悠長な・・ 悠長な人の前には神は現れない と思いますよ 現れる必要がない 黙って遠くから見ているだけですよ いる と分からなくても見ている 来た と分からなくても来ている 神とはそうしたものではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ やられてますね  ☆ 弁慶の仁王立ちでがんばっていますねか。それとも フルボッコでコテンパンにやられていますねか。  こちらに来ましたか。まづは ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  なんでそこまでして  神とは何か?  と問うんでしょうか ね  ~~~~~~~  ☆ これはちょうど直前の回答に対する答えとして書きました。  《いじめ》問題にしても 社会の共同自治の問題にしても 《あらゆる名の神を世界中の人びとが互いに自由に相手のこととしては受け容れあう》 こういう下地が出来上がれば まづは基礎固めとして万々歳である。こういう展望です。  ★ ~~~~~  常に分かれ道に立つようなところで呼びかける  暗くなりかけたところで大きな声で呼びかける  大きな声で呼びかけられるものを頂いている  信心とはそうしたもんです  ~~~~~~~  ☆ このような信仰体験を取り上げ 哲学は そこにどの主観にとっても共通の要素はあるかと問うて その中身を整理します。  信仰は 非思考の庭がわが心に成ることであるという共通のすがたを持つ。  その信じる対象は けっきょく非対象だと捉えられるナゾの何ものかである。  雲をつかむようなワケの分からないナゾだから これを霊と呼んでいる。  うんぬん。  といった経験合理性にもとづく整理は できるものです。  そういう自己認識あるいは自己了解あるいはつまり《わたしがわたしであるそのわたしに立ち帰ること》を 目指しているとも言えましょうね。  これが 神論の内容であり目的です。    ★ 神を理解するのか 信じるのか?  ☆ やっていることが微妙に違いましょう? 信仰の類型を見い出して共通の理解に供することによって 主観内面の骨格が分かるようになります。  言わば神を 搦め手から攻めていくようなものです。濠や中の城の配置や設計図やを明らかにする作業です。  天守閣やその住人の本体を知らなくても 人間の主観内面はあんがいあきらかにして行けるものです。  こういう交通整理としてのしごともあるわけです。  神はいると言うひとにとっても いないと言うひとにとっても 共通の主観内面の仕組みを――《信じる》という動態にかんして明らかにすることによって―― 捉えてみておこうというものです。

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     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • なぜ神を勘違いしたままでいるのか?

     A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?   特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神を哲学する) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 神とは何か?

    神とは何か?  決定保存版にしたいと思いますので 添削あるいは根本的な批判をよろしく願います。  ○ 信仰類型論において 神とは何かを問い求める  §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y =考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X =考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。 X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。(つづく)  ☆ つづきがあります。お手数ですが ニ千字制限により  【Q:不可知とは どういうことですか?】 回答No.36のお礼欄へとつづきます。   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html  ☆ あるいは余裕のある方は 次の質疑応答も参考にしていただけるはずです。  【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html  ☆ それではよろしくどうぞ。

  • ブッダは 神ですか

     絶対(または絶対者)として想定していて 信仰の対象ですか。  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。  もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。    このような考えに対して添削をおこなってください。

  • 神様のことが知りたい

    皆さんこんにちは。 私はキリスト教に関して、まったくの素人で、神様に ついて、どなたか教えていただければ幸いです。 1、神様の人間に対する役割とは、どんなものでしょうか? 人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? 2、神様とは実物があるのでしょうか?それとも精神的な もの(心の中の偶像)なのでしょうか? 3、神様を見た事がなくて信仰されているかたも、神様の 存在を信じていると思うのですが、その神様が存在する、 という根拠はなんなのでしょうか? 4、神様は信仰者を救ってくださるのでしょうか? また仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、 信仰心が足らなく、あるいは信仰心が全然ないために、 神様のご加護を受けられなかったということでしょうか? 以上、素人ゆえ失礼な質問をしているかもしれませんが、 通常、私のような素人が疑問に思っている代表的な事柄 だと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

  • 《非在》なる神をどうして理解できないか

     § 1 不在と非在  たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。  けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。  すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。  ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?  § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる  在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。  さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。  では 《非在》とは 何のことか?  感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?    § 3 《非在》とは 想定である  《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。  世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。  この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。  あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。  《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。  § 4 《非在》という想定が 神のことである  《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?  ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。  ここにもあれば 同時にあそこにもある。  という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。  § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。  非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。  この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。  出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。  それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。  § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。  この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。  ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。  だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。  一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。  すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。  《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。  § 7  信仰とシュウキョウ  《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。  § 8 この神をどうして理解できないのか?

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • いやしくも神なら 神は 普遍神であるほかない。

     1. 名前が違っても・誰にとっても 同じひとつの神であるしかない。  2. 有る神も無い神も 互いに同等であり どちらかを自由にえらべばよい。  3. 普遍神は 有るとか無いとかの経験事象を超えているゆえ。  4. シュウキョウは この普遍神を信じる――無条件に心に受け容れる――ことをつうじてヒラメキにて得られた直観を言葉にして表わし オシへとした結果生まれたものである。  5. 信仰という蝉の抜け殻である。経験思想ではある。つまり オシへは考えるものである。信仰という蝉本体ではない。  どうでしょう。  

  • キリスト教 人格的な神

    信仰者にとって、何故人格的な神こそが人間の自由なる人格を支える唯一のものであったのでしょう? 宜しくお願いいたします。

  • 普遍神は 無根拠が根拠である

     1. 人間が 理念としたり理論としたりあるいは義や愛と言ったりするそのような――経験合理性にもとづく――根拠から神は いっさい自由である。  2. その普遍神への信仰は 義無きを以って義とする。義をともなえば 人間のただのハカラヒによって神を信じるに過ぎなくなる。  3. この《神と信仰についての理論》にそぐわない神論や宗教のオシへは インチキである。  4. 言わんや 神は人間がつくったなどという浅い考えは もってのほかである。  5. 人間がつくったり規定したりしてできる神なら その人間のあたまのチカラを出ない。だから おふざけにしかならない。アイドル狂いにひとしい。  6. すなわち 根拠があるなら それは 人間の理性以上のものではない。のだから 無根拠を神は 根拠としている。  ご批判をどうぞ。