小説会話文のどもり表現について

このQ&Aのポイント
  • 小説の会話文での「どもり」表現の必要性について検討します。
  • 小説の会話文のリアリティーを高めるための表現方法について考えます。
  • 小説の会話文での適切な表現バランスを見極めるポイントを提案します。
回答を見る
  • ベストアンサー

【小説表現】 会話文のどもり 【リアリティー】

小説の会話文で、「どもり」は必要でしょうか。小説手法として、善し悪しを教えてください。 ・「ど、どうして、そんなこと言うの……?」 ・「た、田中さん。それは、承認できない」 この文でいう、「ど、どうして」「た、田中さん」など最初の部分です。 会話に臨場感というか、リアル感が生じるように思うのですが、他の小説(とくに一般書籍)をみてると、「どもり」ってあまり無いように思えます。つまり、不必要だと思われてるんでしょうか? その中でも、「あ、はい」は現実でも、小説でも一番よく見る「どもり」だと思いますが。 ↓からは私の意見ですが、 私は、小説の会話文(手法)は、全体的にリアリティーが薄いと思っています。芝居じみてるというのが正しいんでしょうか。 かといって、現実の会話のようにしたところで、それは単純に、小説が読みづらくなるだけ。ダメだと理解してます。 この妥協点を見極めたいというか、できるだけ現実に近づけたいと考えました。 実際、毎回どもり表現なんて書いたら、読者は煩わしいと思うので、言うほど頻繁には使いません。 地の文で、人物の動揺やどもりを表現することはできるし、小説を書くなら地の文を磨いた方がいいと思ってます。

noname#178035
noname#178035

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Tasuke22
  • ベストアンサー率33% (1799/5383)
回答No.1

どもる言葉を文章やドラマや映画で使うのは、私は犯罪だと思います。 どもりは下手をすると伝染るからです。 なので、ナレーションでどもったと解説する程度にすべきと常々考えています。

noname#178035
質問者

お礼

回答ありがとうございます。参考になりました。

その他の回答 (3)

回答No.4

知的障害や発達障害者などを演じる 映画やTVドラマ、プロデューサーさんは 障害者さんたちのことを大衆に知らしめて、 シンパシーやサポートを喚起させようとする 意図があるのでしょうが……個人的には、 快く感じません。 吃音に苦しんでいる人の心を傷つけるような 質問者さまの小説作法も、個人的には不快です。 とは言え、「表現の自由」ですから、とりあえず、 (差別表現のある小説を出版してくれる社はないでしょうから) 自費出版してみませんか。 大方の反応を、質問者さま自身、 身をもって知れば、次のステージでは、必然的に、 そうしたことも考えるようになるでしょう。 Good Luck!

noname#178035
質問者

お礼

見直すと、口ごもるって書けばよかったですかね。

noname#178035
質問者

補足

ええと、下の方にもまったく同じ意見なのでまとめていいます。 別にこの質問には、差別的表現といった使用用途は一切、ありません。そこは、誤解なさらないよう。 「どもり」といった言い方を拡大解釈していませんか? 不適切な言葉だったなら謝りますが。 ・「え、えええええ。それは、凄いじゃない」 単純に、こういう使い方です。 「あ、あの~」や「あ、はい。分かりました」と冒頭に付けるのと一緒です。 >(差別表現のある小説を出版してくれる社はないでしょうから) 私が言うような、表現は少ないだけで、それこそ全ての作家が書いてますよ? 「あ、はい」や「あ、あの~」みたいな文章をまったく書かない作家がいますか? 今、読んでいる新潮文庫や、講談社文庫の作品でも普通に載っています。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.3

 貴方が何気なく書いている「どもり」を実際の「吃音」に悩む方々が目にしたら、どの様に感じるでしょう。一読して不快感だけが残りました。 それほど貴方はデリカシーに欠ける人であることも自身で知ることも必要です。    >会話に臨場感というか、リアル感が生じるように思うのですが、他の小説(とくに一般書籍)をみてると、「どもり」ってあまり無いように思えます。つまり、不必要だと思われてるんでしょうか? その中でも、「あ、はい」は現実でも、小説でも一番よく見る「どもり」だと思いますが。    >私は、小説の会話文(手法)は、全体的にリアリティーが薄いと思っています。芝居じみてるというのが正しいんでしょうか。 かといって、現実の会話のようにしたところで、それは単純に、小説が読みづらくなるだけ。ダメだと理解してます。この妥協点を見極めたいというか、できるだけ現実に近づけたいと考えました  この二つの点だけをとっても貴方が自身の世界の中でだけ通用するロジックに縋っているだけとしか考えられません。どこに積極的な根拠があるのでしょうか。  「あ、はい」や「あっ、そうですか」などの「あっ」が感嘆詞(もしくは間投詞)であることも、物書きを志す方ならご理解されているはずです。にもかかわらず、貴方はそうした「言葉が持つコスモロジー」にすら気付いてもいません。人が何気なく発する言葉を「それがどもりである」とお考えでしたら、それは「大 間 違 い !」かよほどの「大 馬 鹿 野 郎」でしかないことを自身で吐露しているにすぎません。  『傾城反魂香』や『英国王のスピーチ』といった舞台作品や映像作品、小島信夫さんの『吃音学院』を始め重松清さんの『青い鳥』更にはご自身の身内が障害者である大江健三郎さんの作品をお読みになれば実際の障害と人生を共にする人の内面を知る手掛かりになりますので、ご覧になることをお勧めします。あなたは「現実に近づきたい」といいつつも「現実そのもの」から相当に遠い距離にいるのではありませんか?。それでは「小説ごっこ」ではあっても「小説を書いていること」とは乖離しているのではないでしょうか。  人が「言葉を口にする」のは、自らの内なる意思を誰かに向かって伝えたいからではありませんか?。それならば口調の巧拙にこだわる必要がどこにあるのでしょう。韓愈やサマセット・モームも吃音者でした。けれどもその文章からはそうしたことをうかがわせる部分など微塵もありません。少なくとも「文学以前」の問題でしかないと僕は考えます。実際に「吃音に悩む」方々とお話しになってみては如何ですか 爆!

noname#178035
質問者

お礼

見直すと、口ごもるって書けばよかったですかね。

noname#178035
質問者

補足

>「あ、はい」や「あっ、そうですか」などの「あっ」が感嘆詞(もしくは間投詞)であることも、物書きを志す方ならご理解されているはずです。 ああ、私が聞きたいのはここのことです…。 「吃音」って言い方がよくなかったですね。確かに不適切な言い回しだし、私が意図する質問ともまったく関係なかったです。

  • mstk2
  • ベストアンサー率26% (157/588)
回答No.2

『バスタード』だったか、「だだだダーク・シュナイダー!?」という台詞があったのをよくおぼえています。もう20年も前の作品です。 どもり、ですか。驚きを表現する方法としては、もう何十年も前からある古い表現方法です。現在あまり見ないのは、知らないからではなく、飽きられたからでしょう。 リアリティを出すにせよ、もう少し斬新なところで勝負した方がよいように思います。

noname#178035
質問者

お礼

こういう回答を待っていました。 見直すと、口ごもるって書けばよかったですかね。

関連するQ&A

  • 小説の会話文が上手く書けません

    こんにちは、趣味で小説を書いている者です。 言葉で物事を描写することが好きで、地の文ばかりの小説を書いてきたのですが、最近は会話文を増やしたくなってきました。 ですが、会話文を書こうとすると、どうにもテンポ良く進まず、どことなくぎこちなく感じます。どことなく演技がかっているような雰囲気です。 ちなみに、プロットは詳細まで立てており、どのような展開に持っていくかは明確に決まっています。 登場人物の性格、設定なども、詳細まで予め決めてあります。 その上で、会話文が上手く書けないのですが、この解決策は、練習あるのみでしょうか?

  • バーチャルリアリティの概念について

    バーチャルリアリティの概念について勉強していて、ふと思ったのですが、日本と海外のバーチャルリアリティの概念ってどう違うのでしょうか? 日本は装置や映像などで臨場感を演出する現実求め、海外は機材や技術を使って忠実なリアル再現を行う、と本に書いてあったりしたのですが、実際のところどうなんでしょうか? 現状では日本と海外では、バーチャルリアリティについてどう考えているのでしょうか?

  • 演劇(お芝居)におけるリアリティー

    演劇が好きでよく観に行きます。 ところで、舞台の台詞って、いわゆる芝居がかっている台詞ですよね。現実であんなしゃべり方をする人っていません。 それはTVドラマでも映画でも同じです。演劇よりもだいぶ現実っぽいですが、画面で流れている台詞を会話だけ聞いて、市井の人々の生活の中での会話かTVドラマの会話かは100%区別がつきます。 つまり芝居の中での役者の台詞やしゃべり方って、本当の生活の中でのしゃべり方と違うのです。 で、演劇(お芝居)におけるリアリティーって何でしょうか? 質問の意図がわかりにくいですね。要は、 「市井の人々の生活の中での会話のリアルさ」というのは、お芝居(演劇・ドラマ)の歴史上、問題にされなかったのでしょうか。

  • 一人称小説、地の文の作法について

    長文失礼します。 一人称小説で地の文の口調、「ですます調」と「である調」を混在させる作法はよくないと聞いたことがあります。統一しないと読者を混乱させるからだと思います。 しかし例えば主人公は女の子で普段はいい子を装ってるから、地の文でも台詞でも丁寧な「ですます口調」。それが感情の昂りや怒りなどで「地の文」が「である口調」や乱暴な「だ口調」に豹変して口調が混ざるって書き方はいけないのでしょうか? (比率的にはですます8:である2) 例:今日は田中さんと一緒に下校しました。彼女は○○な性格をしているところがあります。(中略)。そっか、つまり田中にはあたしの気持ちが分からないんだ。 地の文、つまり心の中は「である口調」で、台詞のときだけ「ですます」で書く方法も考えました。こちらのほうが簡単だし馴染みやすいと思います。 例:田中さんは怒りっぽい性格をしてるから、あたしは常に彼女の顔色をうかがっていた。「折角のお誘いですが、今回はキャンセルします」 でも主人公は猫を被っているというより、本質は大らかで、ついでに良いとこ育ちなんだと表現したいのでベースを「ですます調」にしたいのです。そしてキレたとき乱雑な「~だ調」になるのですが、そのときも台詞では基本的に丁寧口調なんです。でも心の中では乱暴になっている。 実生活でも上記みたいなことってありませんか? それを表現したいのですが……。 主人公に対する印象もだいぶ変わってくると思います。 余談ですが少女もの・一人称を満たしていて参考にしている作家は新井素子さんなどです。

  • 会話文のみのしか浮かばない(小説を書く時)

    恥を忍んで質問させていただきます。 よろしくお願いします。 色々な小説を読んでいるうちに「自分でも小説を書いてみたい!」 という気持ちが湧きました。 設定も大まか決め、いざ書いてみようとすると 物語は自分の頭の中では動いていてアニメーションの様に想像出来ますが 文章にしてみると、【会話文のみ】しか書けないのです。 極端に書くと A:「こんにちは!」 B:「こんにちは」 A:「いい天気ですね」 B:「そうですね」 これでは小説にもなりませんし、面白みも全くありません。 goo内で「小説の書き方」で検索し、色々見ましたが 1.【日記】を書けば文章力が上がると書いてあったので 試してみると【トピックス】【メモ】になってしまします。 どの様に気を付ければ文章力はあがるのでしょか? 2.【本を読む・複写する】とありましたが、どう気を付けながら 読んだり、複写して取り入れていけばいいのでしょうか? そしてあまり難しくないオススメの本を紹介していただけたら嬉しいです。 3.【会話文のみ】しか書けない、表現力・文章力ほとんどゼロの 私が1.2以外でどう努力すれば小説を書くように出来るのでしょうか? 色々なサイトを見ましたがピンとくるものがなく質問させていただきました。 小説を書く以前の問題、とは思いますが小説を時間がかかっても書いてみたいのです。 よろしくお願いします。

  • 小説で多用される~かしらの表現

    小説(特にドストエフスキイの翻訳とか)で、自問自答するときや、会話文で質問するときに、よく「なになにかしら」とか「なになにかしらん」と出てきますが、これは小説独自の文法なんでしょうか?日常表現として使われることが少ないので、会話文に出てくるとその都度奇異な感じがしてなりません。最近の小説でも、「~かしら」と会話文にでてきます。これは小説を書くときの約束事なんでしょうか。(1)この表現を誰が使い始めたのか、(2)皆こぞってこの表現を使いたがる理由をご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。そんなひと、いないかしら。

  • 表現のうまい文章の小説を教えて!

    最近、どの小説を読んでいても、説明文でうんざりさせられてしまいます。 それなら詩とか俳句とかを読め!といわれそうですが、違うのです。 広告のキャッチフレーズ集とか、グルメな表現文の本などを読んでからというもの、小説の説明描写は想像がいちいち断ち切られて、何が言いたいのかわからないうちに物語にも心が離れてしまうのです。 ただ当たり前のことを、気持ちよく感じさせてほしいのです。ファンタジーでも、ドキドキさせてくれるなら読みたいです(でもミヒャエル・エンデとかハリー・ポッターとかまるでダメ。かろうじてロードス島)。 今までで、表現が良かったと思う小説の作家は、田中芳樹と吉本ばななです。 一人称の小説やブログは読みやすいですが、そういう意味ではなく、一行一行をじっくり味わえる文章を読みたいです。 よろしくお願いいたします。

  • 一人称小説の問題 : 「私」はいつ語っているの?

    趣味で小説を書いている者です。一人称小説の書き方について悩んでいます。 「私」などの一人称で書かれる小説は、<主人公が語っている>ということが前提であると思います。夏目漱石『こころ』の後半のような手紙や、日記、回想録、あるいは誰かに話していると考えることもできます。 では、「私」がその語りを行っている(小説を書いている)のはいつだと考えればよいのでしょうか。 例えば、泳ぐことのできなかった主人公が泳げるようになったあとで、その間の出来事を振り返って日記を書いている、とします。 その場合、主人公が語っているときはすでに泳げるようになっているので、小説の最初で臨場感を出すために「私は泳ぐことができない」と書くと矛盾が生じることになります。 また、「これから辛い試練が待ち受けていることを、私はそのとき知るよしもなかった」と書くと矛盾はしませんが、臨場感は失われます。白けてしまう読者もいるでしょう。 一人称小説で臨場感を失わず(未来からの視点をできるだけ入れず)、かつ語られているときと矛盾しないようにするには、「私」がいつ語っていると考えればよいのでしょうか。他に何か解決方法はあるのでしょうか。 ご意見がありましたら教えてください。よろしくお願いします。

  • web小説の文体

    これまでweb小説を読む時間のゆとりがなく、最近、素人の小説投稿サイト(複数)を見て回っていて、非常に気になることがあります。 閲覧したサイトの作者さんたちは、みな、10代、20代の若い世代で、男性も女性も、ゲーム作品を自分の趣味で(ファン作品として)、投稿している人たちです。 で、質問です。 地の文 地の文 地の文 (一行の空行) 「会話」 「会話」 「会話」 (一行の空行) 地の文 地の文・・・ という、形式で書かれたものが、ほとんどでした。(僕の閲覧した投稿小説のすべてがそうでした) これは、どういう文化なのか、こうした形式の文体は、初めて体験しました。 通常の小説では、例えばですが、 地の文、 地の文、 「会話」  と、彼女は言いながら席を立ち、 「でもね、あたしは…」  顔を伏せて、言いよどんだ。 すみません、即興で適当な例ですが、 こんな具合に、会話だけが独立していることはないように思います。 これまで、多くの書籍に触れてきましたが、空行を開けて、会話文だけが独立している書き方では、二人の会話は成立しても、三人以上での会話を表現するのは、難しいだろうと感じました。(僕の閲覧した投稿小説は、すべて二人での会話でした) それに、これが一番気になったのですが、その会話がどういう感じで話されていたのか、「会話文」のあとに、なにもない。場面によってはそうした小説の表現もあると思いますけれども、とにかく、みな一様に、独特の文体が使われていました。 これが最近の若い人たちの書き方というものなんでしょうか。 マンガの影響なのかなと思いましたが、みなさんのご意見を伺いたく思います。 とても気になります。 (僕は、ゲームを一度もしたことのない中年世代でして、もしかするとゲームのシナリオの書き方の影響なのだろうかとも考えています) …うまく、聞きたい内容が書き表せたか心配です。

  • 女性を(地の文でも)苗字で呼んでいる小説を教えてください

    ミステリー中心に小説を読んでいる者です。 最近、小説を読んでいて少し気になっている事があります。 主人公が女性の事を呼ぶ時、必ずといっていいほど苗字ではなく名前で呼んでいる事です。 確かに女性を名前で呼べば読者にも男女の区別がつきやすい、というメリットがあるのは分かるのですが…気をつけて読んでいると、名前で呼ばれるのは(家族や幼馴じみなどを除くと)大抵は子供と女性なんですよね。 面と向かっての会話文では苗字で呼んでいても、地の文では名前で呼んでいる場合など、つい『この主人公、表面的には対等を装っていても、心の中では"女・子供"扱いしてるのか…』と僻み根性が出てきてしまいます。 以前読んだ「シリウスの星」(藤原伊織)は珍しく地の文でも女性を苗字で呼んでいました。 この作品の他にも、地の文で女性の登場人物を苗字で読んでいる小説がありましたら、是非教えて下さい。どうぞよろしくお願いいたします。 なお、名前で呼ぶことを否定しているわけではありません。女性を苗字で呼ぶ小説を知りたいだけです。 大変申し訳ありませんが、女性を名前で呼ぶ事の歴史的考察や持論の回答ははご遠慮下さるようお願いいたします。