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教会の東西分裂

 世界史の「教会の東西分裂」について質問です。 ローマ教会がビザンツ皇帝の言うことを聞きたくないから西ローマ皇帝を復活させたようですが、元々は同じ流派だった教会が仲違いしたのはどうしてでしょうか。  また、皇帝と教皇の上下関係もよく分かりません。皇帝が教皇の任免権を持っているのに、教皇が皇帝を破門できるとはどういうことでしょうか。よろしくお願いします。

  • biizu
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  • mekuriya
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回答No.3

>皇帝は武力はあるけど権威がない。一方教皇には権威があるものの軍事的に弱い。そこで権威が欲しい、守って欲しいという両者の思惑が一致して戴冠に至った、という理解で大丈夫でしょうか。 権威あってこその武力です。カール大帝は一人で戦っていた訳ではない。国民、諸侯、豪族の支持があってこその武力です。兵士だって、この戦いが正しいものだと確信しない限り士気など上がらないし、カール大帝の命令も浸透しないのです。 ローマ教皇の権威はアタナシウス派キリスト教徒にとっての権威であって、異教徒やアリウス派キリスト教徒にすればローマ教皇など何ほどのものでもありません。ランゴバルド王国はアリウス派キリスト教だったんです。だから平気でローマ教皇を圧迫することができたのです。アリウス派キリスト教ばかりのゲルマン諸王国に取り囲まれていたのではローマ教皇は生きた心地もしないところでした。だから同じアタナシウス派キリスト教徒の東ローマ皇帝に税金払って、それまでなんとか守ってもらってきた。 それが東方情勢の変化とアタナシウス派キリスト教に改宗したフランク王国の成長で、ローマ教皇は路線変更で、フランク王を新しい守護者とするという発想が浮かぶのです。 フランク王とローマ教皇の業務提携、二人三脚、give&takeはカール大抵の父親のピピン3世から始まっています。ピピン3世はフランク王国の実権を握っていたが王ではありませんでした。そこでローマ教皇に諮問します。ピピン3世がフランク王になるべきだとの答申を得て、フランク王に就任します。その見返りがピピンの寄進です。 以来、フランク王は、異端のアリウス派を討つという大義名分を立てて、武力外征を正当化することができた。カール大帝がランゴバルド王国を滅ぼしたのはアタナシウス派キリスト教徒にとって拍手喝采だったのです。尊いローマ教皇を脅かすアリウス派一味を滅ぼすといえば、アタナシウス派キリスト教徒の兵士は喜んで命を捧げるのです。 カール大帝は、この外征は私利私欲の侵略戦争などではなく、正しいアタナシウス派キリスト教を広める為なのだと正当化でき、それを国民、諸侯、豪族が信じたから、数々の外征を成功させて領土を拡大できたのです。名目の無い武力など存在しない。 一方、ローマ教皇もアタナシウス派キリスト教の勢力圏が広がることで、さらに権威を高めることができました。異端のアリウス派ゲルマン諸王国は全部滅びてしまった。 カールの戴冠の意義は、フランク王とローマ教皇の二人三脚を一時的なものでなく、恒久的・永続的にする為の既成事実作りです。カールの代に留まらず、後の代に至るまで、ローマ教皇の承認を得ないとフランク王になれないという既成事実をローマ教皇が作ろうとしたのです。そうはいってもまだ東ローマ皇帝は権威を失った訳でもない。カール大帝は、東ローマ皇帝の承認も欲しいと考えていました。 元は同じ流派だった教会がレオン3世の聖像禁止令を巡って東西に分裂していくことになります。カールの戴冠は、レオン3世の聖像禁止令を受けて、聖像禁止令を受け入れられないローマ教皇が東ローマ皇帝の干渉を跳ね除ける為の基盤づくりの為であったのです。 だからどちらかというとカールの戴冠は、ローマ教皇主導であって、カール自身がそう運動した結果ではありません。カールにすればまんまと利用されてしまったといった意味が強い。もっとも単に利用されただけでなく、カールにも利があったことでお互い利用しあうという関係でもあったのです。

biizu
質問者

お礼

目から鱗が全部落ちた感じです! 詳しくありがとうございます!

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  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.2

8世紀中頃、ローマ教皇を圧迫したランゴバルド王国を滅ぼしたのはフランク王国のカール1世であった。そもそもランゴバルド王国は東ローマ帝国領を奪って建国した国です。東ローマ帝国は、サーサーン朝との抗争で衰弱し、ウマイヤ朝にも領土を奪われ、ローマ教会を守る力などどこにも残っていませんでした。軍事的にローマ教会を守らないのであれば、東ローマ皇帝に税金を払う意味は何も無い。 苦境に喘いでいたローマ教皇を救ったのは東ローマ皇帝でなく、フランク王国のカール1世だったのです。そして教皇レオ3世は、カール1世を西ローマ皇帝に任じることになります。 それに先立ち、8世紀前半には東ローマ皇帝レオーン3世の聖像禁止令があって、それを呑めないローマ教会は自立の道を探っていた。仲違いということじゃないんです。5世紀末に西ローマ帝国が滅亡し、軍事的な守護者を失った西方教会がどうして生き延びることができたのか。まず、そういう問題意識を持たないことには中世ヨーロッパの歴史を理解することなど不可能。 皇帝は教皇の任免権など持っていない。東ローマ皇帝も西ローマ皇帝もどちらもローマ教皇の人事権に関与しません。もうちょっと勉強してください。レオ3世は「カールの戴冠」によって、ローマ教皇が西ローマ皇帝の正統性を保証するという既成事実を作りました。ローマ教皇が宗教的権威を確立する過程で、いわば西ローマ皇帝の保証人といった地位を得ることになるのです。

biizu
質問者

補足

 後半は、教皇と聖職者を混同してました。失礼しました。  皇帝は武力はあるけど権威がない。一方教皇には権威があるものの軍事的に弱い。そこで権威が欲しい、守って欲しいという両者の思惑が一致して戴冠に至った、という理解で大丈夫でしょうか。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.1

>元々は同じ流派だった教会が仲違いしたのはどうしてでしょうか。 キリストについての認識が異なっていたことが原因です。 カトリック(西方教会)では「父(神)と子(キリスト)と聖霊は一体である」と考えていました。 正教会(東方教会)では、「父(神)と子(人間)と聖霊が一体となった者がキリストである」と考えました。 この考え方の差のために、キリスト教教会が分裂することになります。 >皇帝が教皇の任免権を持っているのに、教皇が皇帝を破門できるとはどういうことでしょうか。 皇帝が教皇の任命権を持つのが正教会で、教皇が皇帝を破門できるのがカトリックです。

biizu
質問者

お礼

任免権の説明が分かりやすかったです! ありがとうございました。

biizu
質問者

補足

 教義の認識に違いが生まれたのはどうしてでしょうか??

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