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カロリング朝とローマ教皇について

いくつか質問がありますので長くなってしまったらスミマセン。 ・ピピン3世は何故ラヴェンナを教皇に寄進したのか? ・何故レオ3世はカール大帝に戴冠をしたのか?  これは宗教上の問題からなんでしょうか?それともビザンツ帝国が関係しているのでしょうか? ・西ローマ帝国は既に滅んでいるのに、どうして教皇がローマ皇帝権を与えることができるのか?  ローマ教皇と西ローマ帝国の間にはどんな関係があったのでしょうか? 答えづらかったらごめんなさい、よろしくお願いします。

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  • jk7
  • ベストアンサー率18% (46/247)
回答No.3

・ピピン3世は何故ラヴェンナを教皇に寄進したのか? →ピピンは、もともとメロヴィング朝の臣下でしたが、クーデタで政権を握り、カロリング朝を開きましたよね。 これでフランク王国の宮廷や民心は動揺したわけです。 しかしこの時、後に呼ばれる西欧世界の精神的支柱であったローマ教皇が、「強い者こそ王たれ!」と言って、ピピンのクーデタを支持したのです。 ローマ教皇としては、西ローマ帝国滅亡以来不在となった、軍事的・政治的指導者を探し求めていたときですから、このようなコメントを発したわけです。 逆にピピンとしては、これでフランク王国における政権安定が約束されたわけですから、ローマ教皇に恩返ししたわけです。 それがラヴェンナ地方の寄進です。  当時ラヴェンナ地方は、ローマ教皇を悩ませていたロンバルド族の勢力範囲だったのです。 ・何故レオ3世はカール大帝に戴冠をしたのか? →上にも書いたとおり、当時のローマ教皇は、西ローマ皇帝にかわる新たな軍事的・政治的指導者を探していました。 なにしろ教会は、グレゴリー1世以来の布教活動によって、精神的指導者としての地位を確立していましたが、政治的・軍事的権力は全くありません。 かといって東ローマ皇帝に保護を頼むということは、当時教会の首位権をめぐって対立していた相手コンスタンティノープル教会の下につくことになってしまいます。 このような状況下、フランク王国ではクローヴィスのアタナシウス派(カトリック)への改宗、カール・マルテルによるイスラム勢力の侵攻阻止、ピピンのラヴェンナ地方寄進、カールの異民族の侵入阻止など、メロヴィング朝からカロリング朝にかけて、ローマ教会との関係を深めながら、後にいう西欧世界への領土拡大と安定を果たしたわけです。 そして気づいてみれば、フランク王国が東ローマ帝国に対抗できるほどの大勢力に成長していたわけです。 カールは、決して西ローマ皇帝になりたいとは思っていなかったのですが、ローマ教会にとっては、キリスト教の発展のために治安維持が必要不可欠であり、コンスタンティノープル教会との首位権争いに勝つために大きな政治的・軍事的権力者が必要でした。 そこでレオ3世は、クリスマスの日にカールを呼び出して、本人の意志とは関係なく、いきなり戴冠したのです。 ・西ローマ帝国は既に滅んでいるのに、どうして教皇がローマ皇帝権を与えることができるのか? →キリスト教の教会は、ヨーロッパ世界において唯一信仰を認められた宗教で、それを公認したのがローマ帝国です。 つまり、ローマ帝国が東西分裂する前から、ローマ帝国とキリスト教教会には緊密な関係があったわけです。 そしてカール戴冠の時は、別にフランク皇帝でも良かったのですが、当時の感覚で皇帝=ローマ皇帝(西ローマ皇帝)だったのです。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.2

>・ピピン3世は何故ラヴェンナを教皇に寄進したのか? この質問は、2つに分けて考える必要があります。 「なぜ教皇に領土を寄進したのか?」と「なぜラベンナを寄進したのか?」です。 ピピンは、フランク王国の組織を固め、国を強固にするために、領内のカトリック教会との絆を強める必要がありました。 そのためには、カトリック教会の親玉である教皇との関係を強くする必要が一番簡単でした。 そのため、当時教皇に圧力をかけていたランゴバルト族(アリウス派)を討ちその領土の一部を教皇領とする事で、カトリック教会との絆を強める事ができ、それによりフランク王国内のローマ系住民との軋轢を減らす事ができ、国内の支持基盤を強固にする事ができました。 ラベンナという土地は、西ローマ帝国の首都であり(ローマではありません)、東ローマ帝国がイタリア支配をした時の最重要拠点でした。 そのラベンナを与えるという事は、東ローマ帝国から、教皇が独立した事を意味します。 >・何故レオ3世はカール大帝に戴冠をしたのか?  これは宗教上の問題からなんでしょうか?それともビザンツ帝国が関係しているのでしょうか? この当時の教皇庁では、親フランク派と親東ローマ(ビザンツ)帝国派がしのぎを削っていました。 当時の教皇レオ3世は、親ビザンツ派に捕まり、やっとの事で逃げ出してカールに保護を願い出ました。 カールは軍を率いてイタリアを制圧します。 サンピエトロ寺院でのミサの時、いきなりレオ3世がカールに戴冠します。 レオ3世とすれば、カールを後ろ盾にビザンツ帝国の干渉を排除し、ビザンツ側の勢力一掃を狙ったようです。 カールは、ビザンツ側と交渉し、ベネチアなどをビザンツに割譲する事で、ビザンツ側のカールの皇帝就任の了承をとりました。 >・西ローマ帝国は既に滅んでいるのに、どうして教皇がローマ皇帝権を与えることができるのか?  ローマ教皇と西ローマ帝国の間にはどんな関係があったのでしょうか? レオ3世が勝手にやった事で、それ以降教皇が皇帝を選ぶ事が慣例となりました。 教皇と西ローマ皇帝の間には、何も関係がありません。 教皇庁内部の勢力争いのために、皇帝を勝手に選んだにすぎません。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

カール大帝を皇帝にしたのは、もともとローマ帝国ではコンスタンティヌス大帝以後キリスト教が国教になってから皇帝権のほうが教権よりも上位にありました。しかしローマ教皇(皇帝からすればローマ司教にすぎませんが)からすると東ローマ皇帝に掣肘されるのは面白くないし、この際教皇のほうから皇帝を任命?できれば東ローマ皇帝と対等と主張できるし、教皇が任命するのだから当然教皇のほうが上位になるという単なる勢力争いです。 教皇が皇帝を任命するのは全能の神の意思ということで、別にもとからそういう権限があったわけではありません。

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