借金取りは命までは取らない

このQ&Aのポイント
  • 借金取りにとって死なれる事は究極の夜逃げです。
  • 借金取りとの破たん後の円満な債権回収の計画を話し合いましょう。
  • 死活問題と言う幻の死の予感に冷静に立ち向かい、知恵を生み出しましょう。
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借金取りは命までは取らない。

安易に経済的閉塞を死活問題としてとらえ、簡単に死を口にする事に関して考察しようとしています。 あなたが、仕事がうまくいかないで首を切られそうだ、もしかしたら倒産するかもしれない。 そんな考えがよぎったとして、だからといって死にますか? 借金取りにとって死なれる事は究極の夜逃げです。 それ以降取り立てはできない。 したがって、良心的な金貸しは、あなたの破たん以降、円満な債権回収の計画を話し合います。 死ねとは言いません。 それなのに金銭で破たんする当事者は単なる金銭問題を死の直面ととらえ、場合によっては自殺までも実行する。 ここで取り上げるべきは、「死活問題」と言うマジギレ、ブチ切れ姿勢で死に直面しておびえるなら打開策は考える事は出来ずに、実際に死にたい気持ちを愚かにも実践する事も出てくるであろうと言う事です。 死活問題と言う幻の死の予感に冷静であれば常に生きようとし、そこから破たんを免れ、さらに飛躍しようとする知恵も生まれる。 個人的な話ですが、私は18歳で家業を手伝い始め同業の商店街のお店が統計的に20年間で20分の一以下に減ると言う現状の中、死活問題にけらけらと笑っていたら、数少ない生き残り組みになっていました。死に直面していると言う幻に冷静であればこのようになります。 あなたが直面する死の予感とはこのような事です。 くだらないです。 その直面している死について考えを述べてください。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#194996
noname#194996
回答No.8

NO.4 です。 あちこちに補足をいただいて申し分けなく思っています。ただ 理解力が乏しいのかいまいちピンと来ません。 どうも平行線をたどっているのか、私が間違っているのか。 >死活問題を想定するならそれにけらけらと笑えと言っている。 周囲がけらけら笑えるのは、その死に対して平静で居られるからでしょう。 どんな窮地でもなにくそといって弱らない、敗北を芳としないひとは居るのです。 そういたひとには何も助言はいらないし自力で死の壁をよけられる人でしょうね。 > 死を想定するならそれは幻だが一度あなたに死が付いて回ればそれをぬぐい去るのは死すべき時に、いまだ生きていて初めて幻と判ると言う成り行きだ。 したがって早めの解決はできないのだよ。 よくわかります。それを自殺者に、決行する前にどうして理解させるのかという問題です。 異常な死の想念にとりつかれているひとからその幻を引き剥がすにはどうしなければならないかということです。おそらく哲学的な問題ではなく、心理的な技術的な問題ではないかと思っています。 >その幻を生きている上で立ちはだかる壁ととらえるなら、死は幻と判る。 その状態では死活問題とは考えない。  死を避ける事と、生きる事は知が違うのだよ。 自殺願望者がそれを死活問題と捉えるのはあきらかに錯覚なのですが、 こういった知見を自殺防止に役立てるのはどうすればいいのか? >生きる知恵とは、死を恐れる人々からは、死にまい進しているがごとくだと見られる。 そう言うキチガイの技だ。 質問者様の質問は質問らしからぬ質問です。たとえば上記の一文は 身を捨ててこそ救われることもある といわれたさる賢人の言葉に似ているように思います。 自殺者には死を恐れさせることが最良の自殺防止策のように思います。 ご質問の趣旨から大分ずれたかもしれません。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 そうだな。 死の予感まで至る過程は、無明に対する恐慌だ。 理解できないから対処できないのだ。 そして理性がそこでとまる。 その先がない。 死だ。 生きる意志を持って、そうして出来上がった死の幻影に立ち向かえばいいのだよ。 コツは悪魔すらも愛する意思だ。 愛から生まれる理解は強靭だ。 このような考え方に慣れると、幻影の死を超克し、私に言わせれば時間認識知性となる。 事の成り行きが先々まで読めると言う意味で、縁起を理解すると言う昔ながらの言い回しと同義だ。 恐慌に襲われ、理性的になる以前の入院患者みたいな状態なら。 人に生かされている事を理解し、自らが生きるために、今度は人を生かす事を考えよ。 こう諭す事だな。 私は生かすことばっかりで困り果てているのだよ。 救うと言う言葉は嫌いだが、人を生かすことに関しては、普通に生活して人と交われば必然的にそうなるのだ。 そして生かすばかりで生かされる事がない。 そこで出てくる面白いギャグが、死は究極の夜逃げだ。 死ぬ前に金返せ。 こうなる。 人の善性とは社会性とかかわっていて、人は自らが生きるために他者を自らと共に生かす性質がある。 善くとりもつとでも言うのだろうか。 私は仮面ライダーの暴力を持ってすらなおも、この善生の範疇を逸脱しない。 自らが生きる事は、同時に他者を生かすことである。 そこで生かされるばかりの人々は借金で首が回らなくなる。 借金返済を焦って生かす事をあわてて始めても空回りだよ。 その生かされるばかりの奴隷が、自らの意思で生きようとすれば必然的に生かすことにつながり、借金は順調に返済できるだろう。 私はそう言う愛の戦士仮面ライダー金貸しだ。 そろそろ取り立てを始めたいと思って準備体操で質問しているのだよ。

その他の回答 (8)

  • kurinal
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回答No.9

Flareon様、こんばんは。 >「その直面している死について考えを述べてください。」 病院で死ぬか、家で死ぬか。 そこまででない場合、「セーフティー・ネット」って、一体、何だったのか 「社会保障」とは、なるほど勿論、命までは取らないですね。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 楽な死に方にあこがれていると解釈するよ。 そんな君は、生きるのが苦しく、せめて死については楽でありたいと考えているのかな。 死について解らないと考えるのは、ある種の正解だ。 生きる事が判らないなら、そこに死の幻影を観るだろう。 無明とは死と重なるのだよ。

noname#189751
noname#189751
回答No.7

事業の破綻という死活問題から、直接死を選んでしまうケースは、ごくごく少ないと思います。 ほとんど全部といってもいいくらい冷静に対処しているように見受けられます。 いわゆる、商売替え、計画倒産、夜逃げのたぐいは巷に溢れかえっています。 また、仕事が大赤字になってしまった場合、 命まではとられねえから、やってみろ! と開き直って取り組んでいる人もたくさんいます。 プール計算という大枠の判断力が試される時でもあるのでしょう。 (事業における)死への予感とは何でしょう? 見方を変えれば、「ぜいたく」かもしれません。 事業の終わりを人生の終わりと重ね合わせて見ることのできる人は それだけ事業に打ち込んできた人でしょうし、生き甲斐でもあったということだと思います。 あとは何も無い・・・という「ぜいたく」です。 この「ぜいたく」を捨てられるかどうか 空っぽになるという怖さを乗り越えられるか 事業だけが人生のすべてではない、というものを見つける事ができるかどうか 男は仕事だ! という言葉に永遠にしがみつくか 仕事も含めて、死の予感をもたらしているものから、一度は手を離してみる事 手をそのまま離すか、或いは、あらためて掴み直すか どちらかでしょう。 だらだらは良くない だらだらしていると死神が近づいてくる 借金取りという死神が近づいてくる 死神は早く退治すべきです。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 金銭的破綻が社会的人格の破たんだろうと言う話は出てきていて、今回もそうだと言う回答だね。 安易に死を口にする事には反省してもらいたいもんだ。

noname#189751
noname#189751
回答No.6

どうやら、生きているだけで仏様に借りがあるような気分になってきた。 仏様の重労働のご苦労をお察ししなければならないようだ。 何となく分かってきたのは 与えっぱなしの心を知れ・・・ということらしい。 仏様に借りがある・・・ということが分かれば自殺はしないだろう。 仏の慈悲も分からぬ馬鹿者めが・・・ということらしい。 馬鹿な子ほどかわいい・・・でのう 裏切られても深みを増すのが慈悲か。 >くだらないです。 は 何と哀れな・・・というようにも聞こえてくる。 逆さ言葉の意味にもある 臨済義玄の最後の言葉みたいだ この、めくら驢馬めが・・・という 叱られて嬉しかったらしい・・・とある 涙が出るほど 。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 今回も私は暴走気味で馬鹿にしきった挑発行為をしてしまったが、良く付き合う気になってくれた。 > 与えっぱなしの心を知れ・・・ということらしい。 こう解釈するのか。 めげずによく考えようとしてくれているね。 しかし誉め言葉みたいなのは良いから目前の死の予感をかき消す知恵を絞ってくれ。

noname#189751
noname#189751
回答No.5

>借金取りは命までは取らない。 そうとは限らないでしょう。 お金も命も取る場合もあります。 私がすこし知っていた職人の例ですが・・・ 三拍子をやっているうちにサラ金で首が回らなくなった その手の事に詳しい人(かたぎ)に相談すると、こう言われたそうです。 自己破産するのには、まだ借金が足らないから、もっとお金を借りろ 借りるところがないなら、俺が貸す、そうして自己破産しろ・・・と そして、その通りにしたらしいのですが 結果からいうと、最後は自殺してしまいました。 自己破産をしても、借金の苦しみからは逃れられなかったようです。 常にヤクザにつきまとわれ、脅かされつづけて 最後は、この苦しみから逃れたければ自殺しろ、自殺して支払え、死に方を教えてやる という事で、車の中で練炭・・・だったと聞きました。 死に方まで教えてお金をむしり取る、というヤクザの凄さを感じたものです。 本人は死んで救われたかというと、それは分かりませんが 少なくとも苦しみから逃れたいという一心だったと思います。 また、普段は豪傑だった人が自殺した例も知っていますが 一人は事業の借金がかさんで、どうにもならなくなり、発作的に急に自殺してしまいました。 もう一人は、身内の借金の解決のためにやったみたいです。 と、まあいろいろです。 >くだらないです。 と、言い切れるでしょうか? 切り捨ててしまえばそれまでですが、 自殺を思いとどまらせる何かがあってもよかったんではないか・・・といった気もします。 人ごとだから、くだらないのでしょう。 自殺という結果がもたらす悲しみに向かって、ただ、くだらないとは言えないように思います。 自殺は、してはいけないものだとは思いますが 人それぞれの死に対する考えを、くだらないと一蹴できないように思います。 愚かという烙印を押すよりも、一かけらの同情を、私は選びたいと思います。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 君のような人は借金を踏み倒せないだろうな。 それならば社会の隅っこでつつましく生きれば楽しめるのでね、とやかくは言わんよ。 ところで私は、的確な時間認識知性、すなわち縁起が読み解ける生き仏として多くの人々を生かしてきたがな、私は彼らに生きる糧を与え、ようするに金を貸したつもりだ。 ところが誰もかれもが、ありがとうとは言うが金を返さん。 踏み倒す腹積もりの輩ばかりだ。 中には弁護士を派遣して誤魔化そうなどと言うたちの悪い踏み倒しもある。 私は永遠の命を得た尊いお人なので、生かさなくても死ぬことはないと言うのだろう。

Flareon
質問者

補足

補足しておくよ。 借金はどしどし踏み倒せ。 こういう結論ではない、 何故なら借金取りは、同時に金貸しであり、君はその金を糧として命永らえたはずだ。 私はそのように命も金も活かす正義の仮面ライダー高利貸しだがな、生き仏の助言とは原価ゼロなので借金している自覚はないようだ。 観念世界経由で介助するのは私にしかできない神業で重労働なのだよ。

noname#194996
noname#194996
回答No.4

世の自殺者の多くに言えることだと思いますが、冷静に考えれば死ぬことはないというのは真実だと思います。 彼らがなぜ死ぬか。 状況に追い込まれ、心身が疲れ、神経が病んで冷静に考えることが出来なくなっているのです。判断力が弱っているのでしょう。死ぬことが最も正しい解決法だと思ってしまうのです。 普通の人間は窮地に弱いものです。くだらないとは思いません。やはりそういう状況を死活問題ととらえ、早めに解決策を探るべきだと思います。 質問者様は例外的に精神力が強靭なのだと思います。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 直面する幻の死を真実にしようと望んだと言う事だ。

Flareon
質問者

補足

質問に関して深めてみたよ。 社会的死は生命の死に直結しないので借金取りは命までは取らない。 死活問題だと思って悩んでいる人がこれで光明を得たとするとな、 こういう礼を述べる。 ありがとう貴きお方よ、あなたの永遠の命が私を潤してくれた。 私はあなたの光に救われ、ここに生を見いだした。 あなたのお言葉のままにわたしは借金を踏み倒すことに生を観る。 こうだ。 間違いなく死ぬと確信したその先にさらなる生を見いだすことである。 こうして私には、あなたは永遠の生を受けたお人だ。だからこそ私から死を取り去ってくれた。 こういう話が持ち上がる。 大袈裟すぎてばかばかしく思えるだろうが、このばかばかしさこそ古今東西の不死伝説の内容だよ。 君達が真理を見いだしたと考えた永遠の生命とは、事実を暴露するとこの程度だ。

  • chie65535
  • ベストアンサー率43% (8520/19368)
回答No.3

>借金取りは命までは取らない。 「金返さないとマグロ漁船に乗せるぞゴルァ」ってのはご存知? これの意味は 1.借金取りを保険金の受取人にして、船員保険に加入させる 2.息のかかったマグロ漁船に乗せる 3.水深1000m以上の公海に出たら、夜中に寝ているスキに、手足を縛って重りを付けて海に放り込む 4.「酔っ払って甲板に出て転落して行方不明になった」として借金取りが高額の保険金を受け取る って事ですよ。 公海上で僚船無しで単独操業してたら、船の上は「無法地帯」ですから、何でもアリです。 なので、借金取りは、金が取れないとなったら命を取ります。 「借金取りは命までは取らない」と思って油断してはいけません。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 面白い話だね。 実に不経済でリスクのある犯罪だね。 その場合は借金取りにとって、金を回収できない事が死活問題だったから犯行に及んだのだろう。 つまりどっち道、冷静に生きようとしないで幻の死に直面しているのだよ。

Flareon
質問者

補足

A4さんに重要な助言を忘れていたのでスペースを使わせてもらうよ。 > 普通の人間は窮地に弱いものです。くだらないとは思いません。やはりそういう状況を死活問題ととらえ、早めに解決策を探るべきだと思います。 これだけでたちどころに死ぬと言っている。 死活問題を想定するならそれにけらけらと笑えと言っている。 死を想定するならそれは幻だが一度あなたに死が付いて回ればそれをぬぐい去るのは死すべき時に、いまだ生きていて初めて幻と判ると言う成り行きだ。 したがって早めの解決はできないのだよ。 その幻を生きている上で立ちはだかる壁ととらえるなら、死は幻と判る。 その状態では死活問題とは考えない。 死を避ける事と、生きる事は知が違うのだよ。 生きる知恵とは、死を恐れる人々からは、死にまい進しているがごとくだと見られる。 そう言うキチガイの技だ。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.2

”借金取りは命までは取らない”     ↑ 死んで保険金で払え、フィりピンで内臓を取れ、 解体して売却してしまえ、てのはどうでしょう。 髪の毛はカツラの原料になるし、目や内臓は 結構高く売れるそうです。 ”それなのに金銭で破たんする当事者は単なる金銭問題を死の直面ととらえ、  場合によっては自殺までも実行する。”      ↑ これが日本人の国民性ですね。 アメリカ人などは、無い物は返せない、とケロッとしている そうです。 ある心理学者に言わせると、もうすこし不真面目になれば 自殺も減少するとのことです。 ”死活問題と言う幻の死の予感に冷静であれば常に生きようとし、そこから破たんを免れ、  さらに飛躍しようとする知恵も生まれる。”      ↑ それはそのとおりですね。 日本人は死ねばすべてチャラになる、という国民性です。 しかしそれはそれでよいところもあるでしょう。 醜いさまをさらしてまで生きたくない、という生き方も あると思います。 そういう生き方、私は嫌いではありません。 ”その直面している死について考えを述べてください”       ↑ 生命が一番大切だとは思いません。 それでは動物と同じです。 生命を超える価値がある、としてこそ 人間ではないでしょうか。 命に拘泥するさまは醜いです。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうございます。 あなたの話を整理してみるとね、 > 生命が一番大切だとは思いません。 それでは動物と同じです。 これがポイントで経済的破綻に直面することが社会的な死に直面していると同義であると言う話だ。 だからこそときには死を選ぶと言いたいのだろう。 実に人間的だ。 しかしそれは命よりも金が大事だとストレートに考えていると言う事だぞ。 日本は法治国家なので死に直結しない負債者の救済法が整備されていて、本人が望まなければ社会的な死が生命の死には直結しない。

Flareon
質問者

補足

今回は、あなた方に立ちはだかる死の予感と言うのは全て幻じゃないかと言う親切な提案で質問を構成している。 君達が恐れる死とは、その死がやってきたとしても今回の借金の話のように大抵が幻だろうと言う趣旨です。 直面している困難が死ならたちどころに死に、 直面している困難が生きるための壁ならば超克できる。 私はこれを死の超克と言っている。 どうだ、何もかもくだらないだろう。

noname#191845
noname#191845
回答No.1

死ぬほどの問題として捉えるか否か、実際にその覚悟を実行してしまうかどうか、は偶然に過ぎないと思います。 死をえらぶほどの心理状態は、すくなくとも当人にとっては深刻な問題であり茅の外の人間が理解できるものではないと思います。 確かに、過ぎ去ったあとにたいした問題ではないことに気付くことは往々にしてありますが、それらも偶然の結果に過ぎません。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうございます。 借金取りは金を返せないと途端に鬼みたいになるかもしれないが、金貸しは、その人の苦境を助けてくれた恩人だよ。 これは大体同一人物だ。 理解できない心情だとすれば当人は孤独だと言う事だがいかがなのだろうか。 商売がうまくいっている人なんて少数派でその孤独な人はどこにでもいるよ。

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    心療内科に行こうと思ってます。大きな悩み事があり生を選ぶか死を選ぶか迷っています。このサイトの皆さまのアドバイスのおかげで今は生を選ぶ方向に行ってます。その考えを持続させるため、また今おかしくなっている精神状態を少しでも冷静にするために病院に行こうと思ってます。 その際、自殺の可能性が少しでもある事をほのめかすのはいかがなものなのでしょうか? 入院させられたり、家族に連絡されたりしないものでしょうか? 至急教えてください。

  • 全般性不安障害…?

    こんばんは。 以前から心の問題について相談させていただいていました。 ご回答してくださった方々、ありがとうございました。 と、ここでこうお礼させていただいてすぐこんなご相談したくないのですが… 去年の夏頃ペットの死から死について意識するようになり、死に関連するものに対して異常なまでに恐怖感を抱くようになりました。 (死に対する恐怖心はタナトフォビアというらしいのですが) 救急車の音が聞こえるだけで怖くなったり、外に出たら何があるかわからないと、必要以上に外に出る事が怖くなって… 学校に通うか、誰か家族と一緒に出かけるぶんには平気です。 それだけでなく、ちょっとした事でイライラしてしまい、 不安でしょうがない時は落ち着きがなくなり、先日は布団に入ったら急に怖くなって発狂してしまいそうになり、 ただただ声を抑えて泣くことしかできませんでした。 常にそういう不安がついてくるのです。 物忘れも激しくなってしまって辛いです。 自分はそんな暗い事考えたくもないのに、まるで誰かが、 あるいは自分の中の別の人格が頭の中で変な事を考えるようにしているような。 変なことを言ってるのはわかっています。 自分でもなんて言ったらいいのかわからないのです… その怖い考えを打ち消そうと自分自身に「やめろ!」と怒鳴ってしまう事もしばしばあり、母にそれを聞かれ心配されました。 ペットの死に直面した方だってたくさんいるだろうに、 その中でも異常にその状況から抜け出せなく、悪化しているのでおかしいな…と思い調べてみたところ、 自覚症状を当てはめていって考えられる病気が全般性不安障害だったのです。 その事を母に話してみても、「心の持ち様でどうにでもなるから、心を明るく保ちなさい」と言われてしまいます。 以前にもお医者さんに見ていただいたことがあるのですが、 それはまだ自分の中で症状がはっきりとしていても診断する側としてはぼんやりとした症状だったらしく、 精神安定剤のようなものを処方された際にも家族は薬を服用することに反対でした。 自分でも薬を飲めばとても精神が落ち着く、という薬ではなかったのですが、こう何ヶ月もこういう精神状態が続くと不安で… でも、お恥ずかしい話、今家庭内は荒れていて、父、母別居中なのですが、医者にかかるのだったらやはりお金が発生してしまうので、 母にこれ以上金銭的負担はかけたくないし…とそこでまた悩んでいます。 実際、最近も家庭内で様々な問題が出てきているので…もう家族も自分もパンクしてしまいそうです。 長々と書いてしまいましたが、この文から考えられる事などありましたら何か一言コメントいただける嬉しいです。 読んでくださってありがとうございました。 よろしくお願いします。

  • 命の重さはなぜ平等なのか?

    大人になっても理解できないままでいます。 よく災害時とか弱者(子供、女性、老人)を優先的に保護しようという意見が出ますよね。 これって「命の重さが平等」という観点では矛盾しています。 実際、私は命の重さの差はあると思っています。 例:認知症で身体障害がある介護が必要な高齢者 と 幼い子供。  ⇒子供の命が優先されるべきだと思います。 例:週6日で1日12時間働くお医者さんと、働く気が全くない毎日が日曜日なニート。 ⇒明らかにお医者さんの命が優先されるべきだと思います。 理想郷を作り上げようとした社会主義が崩壊したように、「平等」も理想論だし、「無理」があると 思うのです。 旧世代のような「血」で人を差別するのは間違っていると思いますが、 生き方によって「差別」されるのは当然と私は思っています。 私は平等論というのが究極の理想論に思っています。 敬意を払える人にはいくらでも尊敬の念を感じるし、また私より身分が上であっても何の不満も ありませんが、そうでない人間(敬意を全く払えない人間)が私と同じ社会で暮らしているのが 納得できません。どうして同じ土俵で発言ができるのか!? どうして同じ土俵で生きていられるのか? 私にはやはり疑問です。 多分、この考え方は10年、20年先も変わらないと思います。 何の罪もない認知症のお年寄りは可哀そうだと思いますが、やはり天秤にかけたら 「若い子供」の命の方がはるかに重いと思っています。 また少年法で保護されているが故に極刑にならないケースも強い違和感を覚えます。 結局、凶悪犯罪(殺人レベル)をする人間は年齢に関係なく、社会から駆除されるべきだと思います。 私はそんな人間の為に命を奉げる気も寛容になる気もありません。 自分の子供がそんな被害(殺されたら)を受けたら、自ら犯罪者になってでも復讐するでしょう。 そういう風に考える私はおかしいのでしょうか? 医者とニートの場合も歴然とした差があります。 自分の大切な時間(人生)を使って人の命や健康を救う医者と 誰にも貢献しない、保護者に迷惑をかけ続けるだけのニートと 命の重さが平等という考えはおかしいと思います。 よく犯罪者(殺人者)が極刑にされない理由の1つとして、更生し社会に貢献する余地があるといった意見も見られますが、 それこそ理想の極致ではないでしょうか? 命の重さが真に平等であるなら、その命を奪った人は、命でしか償えないはずです。 「命の重さは平等」の理想論をあげる一方で、こういう矛盾も多々存在します。 やったもん勝ちというか、生きたもの勝ちというか・・・。 更に「命の重さは平等」だと言うならば、世界的に見てみれば酷い境遇に遭ってる人達はかなりおります。 社会的な利益を優先した場合、犯罪者の更生を期待するよりも駆除した方が有意義だと思います。 同様に弱者である(なぜ、無条件で弱者となるのか疑問だが)お年寄りよりも、バリバリに働いている 現役世代を優遇した方が社会的には意義があると思います。 日本は超高齢者社会になっていますが、今後さらに加速します。 お年寄りを過保護に優遇した挙句、日本の未来を担う子供を育てる現役世代が貧困に喘ぎ日本が更に傾斜していくならば、切り捨てもやむ負えなしと思います。 冷たい考えかもしれませんが、現役引退してから20年30年(8、90歳)と長生きしても社会(利益) 的には何の貢献もしません。「豊かな老後」は理想論だと思います。 私が年寄りの立場なら貯蓄が尽きたり、認知症、重大な介護が必要になった時点で安楽死を希望します。 国は各家庭の問題として避けていますが、介護疲れで両親を殺害し逮捕されるケースは今後さらに 増えるでしょう。 あなたは命の重さについてどのように考えていますか? 確かに現実の社会で私は老人を切り捨てろ!なんて事は口を裂けても言いません。 ですが、直面する現実を考えたら長生きすることが必ずしも本人にとって幸せでないばかりか 家族、社会にとっても大きな負担になることは間違えないと感じています。

  • 親孝行 みなさんは何をしていますか?

    こんばんは。 まずは私事から始めさせていただきます。 私にはまだ幸運なことに親族の死という経験がありません。 もちろんいずれその時が来ることはわかっています。 大学生の私にとって、その瞬間というものはものすごくあっけ無く来るものだと思っています。 「死」という現実に直面して初めて、“もっと優しくしとけば”とか、 よくありがちな後悔、という事態に陥りそうです。 今からできる事を実践していきたいのです。 それをやったからといって、それには限界が無いのですから、後悔というものが生じない、とは思っていません。 けれど少なくとも親族にはその分だけ多く、“何か”を与えられるものだと思っています。 すいません。ちょっとデリケートな問題だけに、話が抽象的だったかも知れません。 みなさんにお尋ねしたいのは、 そのような経験のある方、つまり亡くなってから後悔なさってしまった方に、家族をどうやって幸せに送るかです。 すいません稚拙な文章で。 何かを感じ取ってくれて、私が考えていること(つまり、「他人が関与できる範囲内で、家族をどうやって最高の幸せの状態で送るか」)に何か示していただけるものがある方、 回答をよろしくお願いします。