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中国近代史で感じた違和感について

40年以上前に中学校で世界史を学びましたが中国近代史で違和感を感じました。(中国共産党のプロパガンダそのもの) 中国近代史で重要なことは、大清帝国から中華民国への移行であり、皇帝や袁世凱が中心であるべきなのに孫文が中心です。張学良の西安事件など歴史の本筋からみればどうでも良いゴミみたいな出来事だと思います。以下質問です。 1.私の感じた違和感に関し皆様はどう思われますか? 2.現在の中学校も同じような歴史教科書を使っているのですか? 以上です。

  • 歴史
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みんなの回答

回答No.7

中国近代史ですが、歴史では清国を打倒して孫文が中華民国を成立させたといっていますが、 実際には清国は倒れたのは、当時清の重臣であった袁世凱が中華民国革命政府に味方し、各軍閥は革命政府になびいたためでした。 しかし、清国が倒れた後、もともと中華民国(孫文)の勢力圏は限定され、地方の各軍閥の方が力があり、その中で一番力をもっていたのが袁世凱でありましたが、まだ中華統一するまでの軍事力がありませんでした。 このときの中国は中華民国の独立国ではなく、実際には軍閥の集合体であり国民党政府はこの中の一つにすぎなかったのです。つまり軍閥どうしの戦国時代と見てもらえればいいです。 そのあと、この中華民国を統一しようと乗り出したのが蒋介石です。蒋介石にとって、中国統一がまず急務であり、日本が満州を手中におさめようとしていましたが、まだこのとき、満州は張作霖(張学良の父)の勢力下であり、清は満州族の発祥の地に漢民族を入れさせない政策をとっていたため、満州は荒れ放題、治安もわるく国際的には中華民国の領土として国際連盟にアピールするものの、優先順位としては満州よりも各軍閥の打破でした。 張学良は父親を日本軍に殺され、自分の地盤を奪われたため、国民政府に日本軍を当たらせ、満州を取り返したい意図があり、国民党が共産党と戦っていることをよしとしないため、蒋介石を監禁し西安事件を起こしました。 また、盧溝橋事件の発端は実は中国共産党の仕業といううわさがあります。国民政府を日本と戦わせることにより、国民政府の目を日本に向けさせることによって滅亡を防ごうとしていたというわけです。 また、汪兆銘も国民政府に滅ぼされた軍閥の一人で軍閥を立ちなおすため日本に協力したといわれています。

mandegansu
質問者

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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.6

歴史を現代の原因説明と考えるならば、孫文や西安事件を重要人物/重要事件であると捉えることに何ら違和感はありません。 同じ古代文明と言っても、アステカやインカが軽く記述されているのは、直接的には現代への英キュオが弱いと判断されているからです。 同時代的に言うと 近代中国の知識人と文明 佐藤慎一著 によれば、中国の知識人に与えたインパクトでは 進化論>>共産思想 だそだ。 だが、教科書にはマルクス主義の中国への受容は書かていても、進化論は書かれていない。 ※ もういち読む 山川世界史で確認した 山川の書は、山川の世界史Aをもとにされているので、おおよそ高校の教科書に準拠しています。

mandegansu
質問者

お礼

大清帝国の支配階級は満州族であり漢民族は支配される側でした。中華民国への移行に際し、大変な混乱があったなずなのにそれらに一切触れず、孫文や張学良を善人、袁世凱を悪人と記述するような、薄っぺらい歴史教科書は田舎の中学生でも「カンニンしてよ」というくらい臭いものでした。(歴史には善悪はありません。勝者と負者があるだけです。)

mandegansu
質問者

補足

回答有難うございます。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.5

 少なくとも(1)の問題に関しては、質問者の歴史感覚に相当な問題があると存じます。 >中国近代史で重要なことは、大清帝国から中華民国への移行であり  この位置付け自体は誤っていませんが、その内容の理解に誤解があります。少なくとも王朝国家体制から近代国家(ヨーロッパ近代との意味による市民革命とそれによる新たな枠組み)へと変貌を遂げようとする「辛亥革命」「五・四文化運動」のプロセスを踏まえるなら「皇帝や袁世凱が中心であるべき」との評価は出て来ないはずになります。明らかな矛盾を呈しているともいえます。  以上ですので、もう一度シッカリと近代史そのものを勉強し直されることをお薦めします。尤も「40年以上前の歴史教科書が中国共産党のプロパガンダそのもの」と断じる質問者にとって満足できるものはそれこそ俗物歴史趣味および歴史修正主義以外の何ものでもありませんが 爆!

mandegansu
質問者

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回答有難うございます。 大清帝国の支配階級は満州族であり漢民族は支配される側でした。中華民国への移行に際し、大変な混乱があったなずなのにそれらに一切触れず、孫文や張学良を善人、袁世凱を悪人と記述するような、薄っぺらい歴史教科書は田舎の中学生でも「カンニンしてよ」というくらい臭いものでした。(歴史には善悪はありません。勝者と負者があるだけです。)

mandegansu
質問者

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  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.4

張学良の西安事件は、反共主義者の蒋介石による上海クーデターによって終わった第一次国共合作を復活させ、蒋介石の中国共産党弾圧政策を終わらせて第二次国共合作を成立させた契機となる画期的な事件です。 これをゴミというのは余りにも愚か。 世界一馬鹿な日本の教育家に、世界一どろどろした中国近代史を描いた歴史教科書など執筆できる道理がない。たとえ執筆したところで猿に中国近代史など理解できません。 袁世凱は北洋軍閥をバックにした実力者でしたが、それが警戒されて一時は清朝から冷遇されていました。ところが革命運動の高揚に慌てた清朝は、革命勢力弾圧を期待して袁世凱を総理大臣に任命します。しかし袁世凱は清朝に将来が無いと判断して裏で孫文と取引して、宣統帝の退位と引換に孫文から臨時大総統の地位を禅譲される密約を結びます。ところが袁世凱は、臨時大総統に就任するやいなや今度は孫文との約束を反故にして議会開催を求める革命勢力を弾圧し始めました。袁世凱は孫文が唱える共和制など初めから考えていなかったのです。袁世凱は権力奪取の為に孫文を利用しただけでした。袁世凱は二重の裏切りで皇帝に就任したが、強引な独裁に人心も部下も離反して最後は憤死してしまいました。 そうして成立した北洋軍閥政府でしたが、袁世凱急死後は北洋軍閥が分裂して軍閥抗争の時代になります。満州を拠点とした張作霖が率いる張軍閥は北洋軍閥の分派のひとつです。ところがソ連の謀略で引き起こされた張作霖爆殺事件によって張軍閥は、反共反国民党の張作霖から反日容共親国民党の張学良に世代交代します。関東軍の一部の将校はまんまとソ連の謀略に利用されたのです。 といった調子で歴史教科書を書いていたら授業時間がどれだけあっても授業が終わりません。所詮歴史は授業で習うものでもないのです。本人が一生かけて自分で勉強するしかない。日本の歴史教科書ほど愚にもつかない出鱈目な本はこの世にないのです。講談本の作り話を歴史と信じこむような猿に歴史を勉強する資格などない。

mandegansu
質問者

お礼

大清帝国の支配階級は満州族であり漢民族は支配される側でした。中華民国への移行に際し、大変な混乱があったなずなのにそれらに一切触れず、孫文や張学良を善人、袁世凱を悪人と記述するような、薄っぺらい歴史教科書は田舎の中学生でも「カンニンしてよ」というくらい臭いものでした。(歴史には善悪はありません。勝者と負者があるだけです。)

mandegansu
質問者

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  • trajaa
  • ベストアンサー率22% (2662/11921)
回答No.3

時代の変革の原動力になったという歴史的な意義を考えれば 今の選択で妥当だと思うが? 現在の中学校の教科書が手元に無いんでね

mandegansu
質問者

お礼

回答有難うございます。

noname#184314
noname#184314
回答No.2

もともと、中国の歴史書は、後から作られたものです。 旧王朝が滅ぼされると、新しい王朝が自分の出生の正当性を 主張するために、古い歴史書を焼き捨て、自分の先祖がその 前の王朝を継承しているかのように書き換えていったため、 人類の種の起源より古い時代にまでさかのぼってしまい、 歴史書が破綻してしまったと、中国文学の第一人者であった 陳舜臣さん(「琉球の風」作者)が書物に記載していました。 紀元前1世紀頃、司馬遷が「史記」を編纂しようとしたときに、 ときの権力者である武帝のことを前の皇帝の末裔ではないこと 記載しようとしたために、投獄されたことは有名な話です。 中国だけでなく、歴史とは、勝利したものの歴史であることは 言うまでも無いことであります。それは、日本でも。

mandegansu
質問者

お礼

回答有難うございます。

回答No.1

1.西安事件がなかったら今の「中華人民共和国」は存在しない。中華民国のままである。 辛亥革命は孫文や蒋介石が中心となって起こった事、袁世凱は軍人で昨日は清朝明日は革命軍についていた日和見主義者です。中華民国が成立すると指導者争いを勝ち抜き、ちゃっかり大統領に就任しました。 なので私は袁世凱が出てくる事と西安事件をゴミと言う事に違和感を感じます。 2.子供の教科書を見たことがありますが同じと言うかもっと簡略化されていました。

mandegansu
質問者

お礼

大清帝国の支配階級は満州族であり漢民族は支配される側でした。中華民国への移行に際し、大変な混乱があったなずなのにそれらに一切触れず、孫文や張学良を善人、袁世凱を悪人と記述するような、薄っぺらい歴史教科書は田舎の中学生でも「カンニンしてよ」というくらい臭いものでした。(歴史には善悪はありません。勝者と負者があるだけです。)

mandegansu
質問者

補足

回答有難うございます。

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