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江戸時代の公家

江戸時代の公家は、すべて御所の周辺に住んでいたのですか。 江戸その他地方に住んでいる公家はいなかったのですか。 住んでいたとすれば、どのような理由ですか。 よろしくお願いします。

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • YJY3
  • ベストアンサー率57% (4/7)
回答No.7

流罪・追放などで京を離れた公卿はいたようですね。 ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E5%AE%9F%E8%B5%B7 それから、皇族や公家が特定の寺に出家し(貴人を受け入れる専門の寺があったのです)、その寺の主になることもありました。そのような子弟を「門跡」とか「院家」といいます。 ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E8%8F%AF%E6%97%8F

kouki-koureisya
質問者

お礼

なるほど、門跡や院家がそうなんですね。 「奈良華族」というのも初めて知りました。 大変参考になりました。 ご教示、ありがとうございます。

その他の回答 (6)

noname#217196
noname#217196
回答No.6

 六代将軍家宣のとき、正室の父親を江戸に招いて、乱れていた典礼指導の相談役として伝奏屋敷に住んでもらっています。  風紀を乱したなどの廉で配流されて地方住まいになった公家もいます。  短期的には、武家伝奏役、寺社伝奏といった勅使、院使、仙洞使の任にあたった公家が任務のため京都を離れています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。  >風紀を乱したなどの廉で配流されて地方住まいになった公家もいます。 これです! このようなケースがあったのではないかと思っていました。 NHK高校講座・日本史「村と百姓」で、秋田藩の身分別人口を説明するとき、百姓、武士、町人、そして「公家・神官・僧侶」と言っていました。 なぜ、公家がいたのか、聞き間違いではないかと思っていました。 ご教示、ありがとうございました。

回答No.5

幕府としても公家にあっちこっちにいられたらメンドイだろうし、やっぱり京に押し込めていたと考えていいかと。 関東申継について。 鎌倉時代の役職で西園寺家が実質世襲したとありますが、江戸時代については何も見つかりません。 調べが甘いのかな。 また伊奈忠次が初代なのは関東代官だったかと。 彼について関東申継の文字は出てこないのですが、これも調べが甘いのかな。 伊奈忠次は正直なところ三河の田舎者ですから、仮に関東申継があったとしても朝廷との折衝はとても無理だったんじゃないかなぁ。 少ない知識で回答してみたが、どう思うよ、猫よ・・・。 「にゃ~ごろ」

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >幕府としても公家にあっちこっちにいられたらメンドイだろうし、やっぱり京に押し込めていたと考えていいかと。 私もそう思うのですが、例外もあったはずだと、すぐ質問してしまうのです。

  • suicyo
  • ベストアンサー率43% (83/193)
回答No.4

変り種としては、水無瀬家があります。 大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮のあたりが本拠地で、京都にも屋敷を構えていましたが、京都御所の公家屋敷地ではなく少し西の堀川下立売付近だったようです。 理由は分かりません。

kouki-koureisya
質問者

お礼

水無瀬家は、御所の公家屋敷地ではなく、堀川下立売付近に住んでいたのですね。 ご回答ありがとうございました。

回答No.3

いえいえ 江戸時代ですよ? 特に関東申し継ぎは江戸幕府の役職で 初代は 伊奈忠次でしたから

kouki-koureisya
質問者

お礼

江戸幕府に関東申し継ぎという役職があり、そこに公家がいたということですね。 分かりました。 再度のご回答ありがとうございました。

回答No.2

万里小路前房は江戸にすんでいました 関東申し継だったので 多分彼だけでしょうね

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「万里小路○房」も「関東申し継」もweb検索では、鎌倉幕府のころの話のようで、 よく分かりませんでした。 後日、図書館で調べてみます。

kouki-koureisya
質問者

補足

吉川弘文館「国史大辞典」では、鎌倉時代の役職ということでした。

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.1

>江戸時代の公家は、すべて御所の周辺に住んでいたのですか。 御所周辺でなく、御所に住んでいました。 御所は、天皇家・宮家・公家の居住地の総称です。 この御所の内、天皇が住んでいたのが禁裏(内裏)と言います。 宮家・公家が住んでいたのが、築地です。 秀吉の命で、各公家は禁裏周辺に住む事になりました。 徳川幕府も、同様の政策を継続しています。 明治維新後は、天皇の東京行きと一緒に公家も引越しをしています。 京都御所一般公開の時、芝生になっている公家の居住地址を見て下さい。 非常に、個々の宅地面積が小さいのに驚きますよ。 下級公家だと、敷地は約100坪です。ここで、アルバイトに精を出していたのですね。 ※幕府から朝廷への給金は、当初は3万石。幕末でも10万石に過ぎません。 ※ここから天皇家・宮家や、高級公家へ生活費が支給されます。下級公家には、微々たる給金です。 >江戸その他地方に住んでいる公家はいなかったのですか。 原則、ありませんね。 先に書いた通り、居住は幕府の命令でしたから。 応仁の乱時には、公家は各地の荘園に非難している例もあります。 一条兼良(摂政・関白・太政大臣を歴任)の長子である教房は、応仁2年(1468年)土佐国幡多に下向して土佐一条家となりました。 戦国時代には、戦国武将として長宗我部と戦っています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >御所周辺でなく、御所に住んでいました。御所は、天皇家・宮家・公家の居住地の総称です。この御所の内、天皇が住んでいたのが禁裏(内裏)と言います。 そうなんですか! まったく知りませんでした。 Wikipediaの「江戸時代に入ると公家らは御所周辺に集められ」をそのまま信用して質問してしまいました。 ご教示に感謝します。

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