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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:新約聖書の解釈)

新約聖書の解釈について考える

climber(@politeness)の回答

回答No.6

残念ながら、伝統的キリスト教と言われている信者は、一般的に聖書に無知です。一部の人は一定の聖書知識があったとしてもごく断片的なものにすぎない場合が少なくないのが実情です。しかし、ゴールはないものの、聖書全体を把握・理解することは可能です。イエスは次のように述べています。 (マタイ 22:36‐40) 「師よ,律法の中で最大のおきてはどれですか」。 [イエス]は彼に言われた,「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。 これが最大で第一のおきてです。 第二もそれと同様であって,こうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。律法全体はこの二つのおきてにかかっており,預言者たちもまたそうです」。 確かに私たちはモーセの律法の下にはいませんが、その精神は、 (1)神に対する愛 (2)人々に対する愛 に凝縮されており、そうした精神は新約聖書にも踏襲されています。 一例を挙げますと、マタイ5:21-22です。 (マタイ 5:21, 22) 「古代の人々に対して,『あなたは殺人をしてはならない。しかし,だれでも殺人を犯す者は法廷で言い開きをすることになるであろう』と言われたことをあなた方は聞きました。 しかし,わたしはあなた方に言います。自分の兄弟に対して憤りを抱き続ける者はみな法廷で言い開きをすることになり,だれでも言うまじき侮べつの言葉で自分の兄弟に呼びかける者は最高法廷で言い開きをすることになります。また,だれでも,『卑しむべき愚か者よ!』と言う者は,火の燃えるゲヘナに処せられることになるでしょう。 ここでイエスは、殺人という問題の根本原因が、その暴力的な行為そのものよりも深いところにあることを示しています。つまり、殺人者の心の中に育つ態度が根底にあるのです。もし、人々が敵意や怒りを抱き続けるままにしなければ、計画的な暴力行為はなくなるでしょう。この教えを当てはめるなら、どれほど多くの流血が回避されることでしょう。世界史も大いに異なったことでしょう。 この原則は人間関係など、より身近な所でも役立ちます。 ところで、コリンズ・コウビルド英英辞典は、キリスト教を、次のように定義しています。 “A religion that is based on the teachings of Jesus Christ and the belief that he was the son of God.” 訳:「イエス・キリストの教え、およびイエスが神の子であったという信条に基づく宗教」 著名なオックスフォード英英辞典もほぼ同様の表現を用いています。 つまり、他の方が回答されていますように、イエスの教えを学び、実践することが必要なのです。聖書を読むことは重要です。その際に、その教えの背後にある精神を見失わないようにしなければなりません。

Buchner
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 聖書の内容というのは 実践的であり、生かし方次第だと思います。 英英辞典は勉強になりました おもしろいですね。 >その教えの背後にある精神を見失わないようにしなければなりません。 仰るとおりです! これを聞いて、「種を蒔く人」のたとえの箇所を思い出しました マルコの章のが一番好きです。

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