• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:新約聖書の解釈)

新約聖書の解釈について考える

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

  • ベストアンサー
回答No.3

 こんにちは。  ▲ (ヨハネ福音1:16-18) ~~~  ・・・  16: わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。  17: 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。  18: いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば このくだりを参照して議論を始めますが  ★ (趣旨説明欄) イエスがせっかく律法をうまく(うまく、と簡単に一言で言いましたがここが一番 驚嘆した部分です)解釈して  ☆ とおっしゃるように キリスト・イエスにあっては 言葉で表わされたイマシメなる律法の問題ではなくなります。《うまく》それを超えました。  と言っても 律法のモーセの以前の 信仰のアブラハムに戻ったというかたちであるとも言えるかと思います。  言いかえると モーセの場合には あくまで一人ひとり個人にとって持たれる信仰が 共同体の存続のためにその集団としての行動(ないし社会生活)に直接につながる行動規範とされました。つまり 組織的な宗教の誕生です。  アブラハムの場合には つねにおのれの心の中で これこれをむさぼってもよいかどうか考え悩み心を決めました。モーセの場合には すでに《きみよ むさぼるなかれ》といったイマシメとして表わされた言葉が 社会的に共有されるようになりました。  ▲ (マタイ福音書 22:32) ~~~  ・・・『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』(出エジプト記3:6)とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」  ~~~~~~~~  ☆ ここでイエスは 《神は 死んだ者の神ではない》ことを言っているのでしょうが まさに見方を別に取れば アブラハムやその子や孫の一人ひとりにとっての神であると言っているとも受け取れます。そのあと 一族や共同体としての社会生活が問題となります。いくら倫理と言っても 集団とその規範は 存在にとって二の次です。倫理でさえ 個人の自由を目指したものだからです。  アブラハムらにとってそれぞれ信仰は 《わたし》の内面における・《わたし》にとっての動態であって 社会の背景にしりぞいています。  イエスはまさに この《わたし》にとっての神を指し示した(ヨハネ1:18)。〔だけである〕。個人に固有の《とき》としての・神とのあいだに成るわが心の《非思考の庭》に生きるなら――それが 信仰ですが―― 《めぐみ と まこと》があたえられるだのよと(ヨハネ1:16-17)。  真理(まこと)を知ったからと言って どうなるものぢゃないという向きには すすんで こう言ったはすです。真理は きみたちを自由にすると。    これでおしまいだと思います 聖書は。  原始キリスト教と言いますか 初期のキリスト者たちは しいたげられていましたから 集団として組織宗教のかたちを採ったのでしょうが そのあとは要らないわけです。  あるいはもっと言えば 《わたし》の心なる《非思考の庭》が 目に見える行動にかかわる倫理規範――律法――に取って代わられることは ほんとうには ないわけです。信仰の宗教化は 信仰そのものの自殺行為です。  よってわたしはここに ローマ教会を初めとする組織宗教は すべてすべからく自己解体すべしと言い張ります。  独り言にておこたえしました。うまく鐘の音はひびきましたでしょうか。

Buchner
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かにイエスが望んでいたのは個人の尊重、 精神の解放のように思います。 その結果、今日のような混沌とした情勢になるのも 予期していたのでしょうね。 こう考えると、放任主義に近いのでしょうか。 確かにそれによって良き作用が生じる人も いるとは思いますが、 そうでない人を感化できるほどの人数ではなかったという事でしょうか。 それでもイエスという人は、人間が持ちうる 理性や、愛といったものを強く信じ続けた人だと思います。 ★あるいはもっと言えば 《わたし》の心なる《非思考の庭》が 目に見える行動にかかわる倫理規範――律法――に取って代わられることは ほんとうには ないわけです。 うーん・・・・・思わず唸ってしまいました 非常に考えさせられる一文です。 これこそ私が望むものなのですが・・ もちろん宗教がなくても、 自覚しているかどうかは別にしても 揺ぎ無い信仰(自我)を持っている人は良いですが、 多くはそうではありませんよね。 そういう人たちに是非、聖書の本質を考えてもらいたいのです。 なんかこう言うとマインドコントロールみたいですね( ̄∇ ̄)ゞ 鐘の音の余韻がまだ耳もとを去りません。

関連するQ&A

  • エドガーケーシーは、新約聖書の愛読家でしたが、聖書に書いてあることはす

    エドガーケーシーは、新約聖書の愛読家でしたが、聖書に書いてあることはすべて真実で正しいことばかりでしょうか。 聖書も所詮人間が編集したものだから、キリスト教徒みたいに盲目的に信じたり、鵜呑みにはできないと思うのですが。 もちろん、すばらしい教えなどもいっぱい載っているのですが。

  • イスラム教における聖書の位置づけ

    イスラム経でも、旧約聖書や新約聖書の一部は尊重されていると聞きましたが、イスラム教の信者はコーランンの他に聖書を合わせて読むのでしょうか?もし、そうだとしたら、その聖書はキリスト教徒が使用している聖書とは異なった内容のものでしょうか?

  • 新約聖書における「与えよ、さらば与えられん」という意味について、宗教の

    新約聖書における「与えよ、さらば与えられん」という意味について、宗教の教義とそれが規定/記述する行動原理ついて教えてください。 宗教学、哲学、歴史学、キリスト教についてまったくの門外漢ながら質問させていただきます。 「与えよ、さらば与えられん」という、巷でよく使われる言葉、慣用句が誤用であるというのを聞いて、意味を調べてみました。 web上で探した慣用句辞典によると、 http://www.geocities.jp/tomomi965/ko-jien01/a03.html 新約聖書(ルカによる福音書第6章)での原義は、先に何かを与えれば見返りが後から回り回って帰ってくる、というような物的な報酬の関係を表すのではなくて、無償・無条件の奉仕によって、自己の内面や他者を通じて神の祝福が与えられるという、精神的な報酬の関係として説明されていました。 一方でこの慣用句は、レヴィ=ストロースの贈与論における一般交換のシステムについて、(個々人の意図や宗教に対する意識に関係なく)人間が古来から持つ法則を俯瞰的に説明しているようにも感じました。 そう考えると、新約聖書(ないしキリスト教の教義)には前者のような行動規範、行動のインセンティブ(=教えを守れば救われる、祝福を受ける)を人々に与える意味の他にも、後者のような種としての行動原理を読み解く様な面があると捉えられます。 不明瞭で抽象的な説明で申し訳ありませんが、(1)「与えよ、さらば与えられん」という記述の原義や解釈について、(2)このような新約聖書の持つ教義と人間の行動との関係について歴史上の解釈ではどう捉えられてきたのか、(3)さらにはキリスト教に限らず仏教の各宗派などの信仰のなかの規範的記述/説明的記述の役割と割合について、解説をいただけないでしょうか。 また、先の(2)(3)について一般向けに解説された書籍があれば教えていただければと思います。よろしくお願いします。

  • イスラム教と旧約・新約聖書との関係

    宗教のカテゴリーがないのでここで質問させていただきます。 聞くところによると、イスラム教は、旧約聖書や新約聖書に書かれている内容を否定はしていないそうですが、では、それらとはどういう関係にあるのでしょうか? また、ユダヤ教やキリスト教とはどういう関係にあるのでしょうか? いずれも否定していないのなら、これらに吸収されてしかるべきだとも思えるのですが、吸収されないとなると、否定はしていないこれらの聖典や宗教と、どういう関係になるのでしょうか? どうも良く分かりません。 どなたか、教えていただきたく、よろしくお願い申し上げます。

  • 読書としての新約聖書

    宗教など無知ですがそんなわたしにあった新約聖書か聖書小説をご紹介ください。あくまでも書物としてアドバイスお願いします。 聖書というのはプロテクタント、カトリックの別はあるのでしょうか?あるならなんとなくカトリックがいいです。 1.注釈付き。(途中挫折したくないため) 2.阿刀田高エッセイや氷点や塩狩峠で少し触れたことがある程度。 3.ガンジー自叙伝という本を見てこの人へのキリストの影響を知りたい。 4.ゴッドファーザーなど映画を見ていつかは聖書をと思っていた。 5.啓示の中から座右の言葉を見つけたい気もある。 6.旧約が物語性はありそうですが既知の内容が多そう。

  • イスラム教 本来テロに関係なく良い宗教と感じますが

    敬虔なイスラム教徒はテロ、ジハードに関係ないと思いますが? コーランに書かれた教えには異教徒を排除するような教えは 存在していなくて、 それは新約聖書に描かれているキリストの教えと同様です。 イスラム教自体は、極めて差別性とは無縁な宗教であって、 異教徒を差別するような論理は、 真のイスラムの教えには存在しないと言われています。 この点を指摘することは、今後の世界平和を考える上で 重要な論点であって、 イスラム過激派の主張はあくまで政治的なもので、 イスラム教とは基本的に無関係であるという認識が重要です。 この事実は、キリスト教との比較でもより鮮明になります。 一般にキリスト教の信者は、神の子キリストを特別視しています。 しかし、イスラム教信者はモハメッドをキリストのように 特別視はしていなくて、モハメッドはあくまでアラーの神の教えを 人々に伝えるメッセンジャーに過ぎず、 私たちと同じ人間だと考えられています。 この違いは、キリスト教とイスラム教の違いに反映されています。 キリスト教徒の世界では、 キリスト教徒と異教徒とは、もともと厳密に区別されてきました。 それ対してイスラム教徒は、異教徒に対して極めて寛容です。 しかも、その寛容さはコーランの教えに由来しています。 キリスト教には差別の歴史が濃厚にありますが、 イスラム教には基本的に宗教絡みの差別の歴史が存在しないと言われています。 ただし、シーア派とスンニー派の対立など、 宗教的な教えの解釈も絡んだ政治的な対立は、この間に一貫してありました。 しかし、これは宗教的な対立というよりも、極めて政治が深く絡んでいる問題です。 ひとつ象徴的なこととして、キリスト教徒は 歴史的に布教活動を積極的に行ってきましたが、 そもそもイスラム教徒は布教活動自体を行いません。 キリスト教徒の布教活動には、 異教徒を正しい宗教に改心させるという狙いがありますが、 イスラム教徒にはそうした発想がありません。 そこはイスラム教が、異教徒を含めて すべての人間が神の前で平等であるという発想を、 まさに教えの基本にしていることに由来しています。 イスラム哲学の権威として有名な井筒俊彦氏の著書などを読むと、 その辺のことが詳しく説明されています。 こうしたイスラム教についての基本的な認識が、 大多数の日本人には欠落しているので、 上記のような点を指摘することは重要なのです。 イスラム過激派が、コーランの文句を言えない人 を異教徒として殺害したからといって、 そうした常軌を逸した行為をイスラム教と結びつけるのは、 おそらく正しい判断とは言えないのです。 イスラム教自体を批判しても、 およそ発展的な議論にはならないのでは、という感じがします。 少なくともテロに心を痛めている 大多数の敬虔なイスラム教徒との連帯を阻害するだけにしかならないと思います ただ異教徒差別はないものの、女性差別は存在します。

  • 聖書を読みたい

    タイトル通りです。 わたしは聖書に関しての知識もなにもなければ特定の宗教を信仰しているわけでもありません。 先日あることがきっかけで聖書を読みたくなりました。 私はキリスト教の幼稚園に通ってたので園児にも分かりやすく、内容を噛み砕いた聖書物語といったものが以前は家にあったのですが、今はどこかにいってしまったようです^^; そこで新たに聖書を買おうと思ったのですが、旧約聖書と新約聖書の違いも分かりませんし、どこで何を買ったらいいか分かりませんでした。 Amazonで書籍検索したところ数多くのものが出版されていてよく分かりませんでした。 最初に聖書に取り掛かるに当たって旧約と新約どちらを読めばいいのでしょうか。 よろしくお願いします。

  •  キリスト教信者の方に質問です。

     キリスト教信者の方に質問です。  私は仏教徒なんですが、キリスト教で言う「神の愛」よりも素晴らしい愛を見つけました。  キリスト教信者の方々はやはり「神の愛」が最高と思っていらっしゃるのでしょうか?

  • 旧約・新約聖書についての質問です。

    キリスト教の話になるので文化人類学でいいのかと思ったら、皆、 哲学のほうに質問を書き込んでいるみたいなので、私もこっちに書き込みます。  (実は何度も同じところに書き込むの恥ずかしい)  聖書を読んでいて何とも分からないところです。  まず、旧約聖書のほうで、モーセが岩を2回叩いただけで、神様が「あなたは私を疑いましたね」と、モーセを叱る場面があるのですが、(モーセの二度叩きの部分)どうしてたったそれだけの事で、モーセはカナンの地を踏ませてもらえなかったのでしょうか。ジーザスと違って、モーセは普通の人間だから、 あせる事もあると思うんですが・・・。旧約の神様は、かなりキツイ性格をしているように思えます。  いまひとつ旧約で、パロの頑なさは度を越している異常性格のように感じるのですが、本当にあんなにわからずやだったのでしょうか。  新約聖書です。盲目のバルティマイは、目が見えるようになった途端、ジーザスのあとにくっついていったのに、どうして「使徒」の中に入っていないのでしょうか。マグダラのマリヤも。  復活の後、使徒たちがエマオでジーザスに会い、それが主なる神であることを知った、と書いてありますが、ジーザスは神様であると考えてよいのでしょうか。(そのほうが嬉しいけど) 長くなるといけないので(充分長いよって)箇条書きにします。 ・マタイとマルコの福音書と、ルカ・ヨハネの福音書でずいぶん違う個所があるの はどうして? ・「主の名をみだりに唱えてはならない」(これ旧約だっけ)とあるが、ジーザス の話を他人とべらべら話してはいけない?  ・・・まだまだあるんですが今日はこのくらいにしておきます。 もしよかったら解釈の仕方を教えて下さい。

  • ユダヤ人のためにイエスは生き

    イエスの本来の素性はユダヤの聖職者です。 奴隷階級のユダヤ人のためにイエスは生きました。 奴隷は家畜です。 しかしその奴隷が信仰を獲得すると、信仰心ある人が尊敬と敬意でみられる現代と同じで、人間として扱わなければなりません。 それは、奴隷の所有者には不利益です。 したがって処刑されました。 原始キリスト教はこのようないきさつの元にローマの横暴に対する民権運動のような事柄として、ユダヤ人以外にも波及していきました。 この当時、キリスト教徒はイエスを理解してイエスと共に生きていた。 打倒ローマです。 そして、新約聖書がすべて覆した。 ローマの懐柔工作により、新約聖書が編纂されイエスの意志は掻き消えた。 新約キリスト教徒にはイエスは理解できません。 そして、明確な信仰心がないのです。 新約以降のキリスト教徒の改変された予言の最終目的は、最後の審判です。 その内訳は、原始キリスト教時代の志である、「ローマ滅亡」そして新約キリスト教がローマとの取引で獲得した「キリスト教自らの根絶」この二つのせめぎあいで双方を実現するのが予言の完成です。 したがって、キリスト教徒の祈りの内容は「神よくたばりやがれ」です。 と、言う考察をしてみました。 いかがなものか読書感想文をお聞かせください。 私はこれらの事柄は、西洋人は博物学などの手法で外国の文化の素性を考察しますが、同じ手法を西洋そのものにあてはめると、このような形になるという、中立的な立ち位置で考察していまして、みなさんの宗教や信仰には何ら意見を持ちません。