• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:新約聖書の解釈)

新約聖書の解釈について考える

noname#259625の回答

noname#259625
noname#259625
回答No.4

マタイ7章21から23節で、イエス・キリストご自身がこう言われました。 「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。」 このように、キリストを自分たちの「主」と唱える者たちすべてがキリストによって是認されないということは明白です。それらの者たちはキリストによる裁きの日に退けられ、処罰されることになるでしょう。 では、なぜ神とキリストはこのような「偽物」のクリスチャンたちを放置しておられるのでしょうか。その意義とは? 参考になる事例が旧約聖書の申命記13章1から5節にありましたので挙げておきます。 「預言者または夢見る者があなたの中に起こってしるしや異兆を見せ,『あなたの知らなかったほかの神々に従って歩み,それに仕えよう』と言って示したしるしや異兆がそのとおり真実になったとしても,あなたはその預言者の言葉にもその夢を見た者にも聴き従ってはならない。あなた方の神エホバは,心をつくし魂をつくしてあなた方の神エホバを愛しているかどうかを知るために,あなた方を試みておられるのである。あなた方は,あなた方の神エホバに従って歩み,これを恐れ,そのおきてを守り,その声に聴き従い,これに仕え,これに固く付くべきである。・・・」 確かに、神とキリストの是認を得ることのできる「本物のクリスチャン」になる過程で、彼らは様々な「試み」に遭うことになっています。それで、この「偽物」が放置されている理由の一つとして彼らを「ふるい」にかけるためであると言うことができるでしょう。 その「試み」については、使徒ペテロがペテロ第一1章6から7節でこう説明しています。 「このことをあなた方は大いに歓んでいます。もっとも,現在しばらくの間,やむをえないことであるにしても,あなた方はさまざまな試練によって悲嘆させられてきました。それは,火によって試されながらも滅びてしまう金よりはるかに価値のある,あなた方の信仰の試された質が,イエス・キリストの表わし示される時に,賛美と栄光と誉れのいわれとなるためなのです。」 本物のクリスチャンはこのように「試み」によって、金属が純化されるかのように精錬され、その過程を経てようやく神とキリストの是認を得る者となれるのです。 ですから、本物のクリスチャンと偽物のクリスチャンがおり、それは今のところ両方とも存在することが許されているのです。その点をイエス・キリストは小麦と雑草の例え話で説明されました。マタイ13章24から30、36から43にありますのでご参照ください。 結局、それら偽物のクリスチャンが存在することは神とキリストのご計画のうちであるということです。使徒パウロがコリント第二13章8節で下のように言ったとおりです。 「わたしたちは真理に逆らっては何も行なえません。ただ真理のためにしか行なえないのです。」

Buchner
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 マタイ13章は感銘を受けたのでよく覚えています でも刈り入れの時まで待つのではなく、 なんとか現世で良い種に変えたいものですね。 毒麦の種子が溢れている今日だからこそ それに流される事のない自我を強く持ちたいと思いました。

関連するQ&A

  • エドガーケーシーは、新約聖書の愛読家でしたが、聖書に書いてあることはす

    エドガーケーシーは、新約聖書の愛読家でしたが、聖書に書いてあることはすべて真実で正しいことばかりでしょうか。 聖書も所詮人間が編集したものだから、キリスト教徒みたいに盲目的に信じたり、鵜呑みにはできないと思うのですが。 もちろん、すばらしい教えなどもいっぱい載っているのですが。

  • イスラム教における聖書の位置づけ

    イスラム経でも、旧約聖書や新約聖書の一部は尊重されていると聞きましたが、イスラム教の信者はコーランンの他に聖書を合わせて読むのでしょうか?もし、そうだとしたら、その聖書はキリスト教徒が使用している聖書とは異なった内容のものでしょうか?

  • 新約聖書における「与えよ、さらば与えられん」という意味について、宗教の

    新約聖書における「与えよ、さらば与えられん」という意味について、宗教の教義とそれが規定/記述する行動原理ついて教えてください。 宗教学、哲学、歴史学、キリスト教についてまったくの門外漢ながら質問させていただきます。 「与えよ、さらば与えられん」という、巷でよく使われる言葉、慣用句が誤用であるというのを聞いて、意味を調べてみました。 web上で探した慣用句辞典によると、 http://www.geocities.jp/tomomi965/ko-jien01/a03.html 新約聖書(ルカによる福音書第6章)での原義は、先に何かを与えれば見返りが後から回り回って帰ってくる、というような物的な報酬の関係を表すのではなくて、無償・無条件の奉仕によって、自己の内面や他者を通じて神の祝福が与えられるという、精神的な報酬の関係として説明されていました。 一方でこの慣用句は、レヴィ=ストロースの贈与論における一般交換のシステムについて、(個々人の意図や宗教に対する意識に関係なく)人間が古来から持つ法則を俯瞰的に説明しているようにも感じました。 そう考えると、新約聖書(ないしキリスト教の教義)には前者のような行動規範、行動のインセンティブ(=教えを守れば救われる、祝福を受ける)を人々に与える意味の他にも、後者のような種としての行動原理を読み解く様な面があると捉えられます。 不明瞭で抽象的な説明で申し訳ありませんが、(1)「与えよ、さらば与えられん」という記述の原義や解釈について、(2)このような新約聖書の持つ教義と人間の行動との関係について歴史上の解釈ではどう捉えられてきたのか、(3)さらにはキリスト教に限らず仏教の各宗派などの信仰のなかの規範的記述/説明的記述の役割と割合について、解説をいただけないでしょうか。 また、先の(2)(3)について一般向けに解説された書籍があれば教えていただければと思います。よろしくお願いします。

  • イスラム教と旧約・新約聖書との関係

    宗教のカテゴリーがないのでここで質問させていただきます。 聞くところによると、イスラム教は、旧約聖書や新約聖書に書かれている内容を否定はしていないそうですが、では、それらとはどういう関係にあるのでしょうか? また、ユダヤ教やキリスト教とはどういう関係にあるのでしょうか? いずれも否定していないのなら、これらに吸収されてしかるべきだとも思えるのですが、吸収されないとなると、否定はしていないこれらの聖典や宗教と、どういう関係になるのでしょうか? どうも良く分かりません。 どなたか、教えていただきたく、よろしくお願い申し上げます。

  • 読書としての新約聖書

    宗教など無知ですがそんなわたしにあった新約聖書か聖書小説をご紹介ください。あくまでも書物としてアドバイスお願いします。 聖書というのはプロテクタント、カトリックの別はあるのでしょうか?あるならなんとなくカトリックがいいです。 1.注釈付き。(途中挫折したくないため) 2.阿刀田高エッセイや氷点や塩狩峠で少し触れたことがある程度。 3.ガンジー自叙伝という本を見てこの人へのキリストの影響を知りたい。 4.ゴッドファーザーなど映画を見ていつかは聖書をと思っていた。 5.啓示の中から座右の言葉を見つけたい気もある。 6.旧約が物語性はありそうですが既知の内容が多そう。

  • イスラム教 本来テロに関係なく良い宗教と感じますが

    敬虔なイスラム教徒はテロ、ジハードに関係ないと思いますが? コーランに書かれた教えには異教徒を排除するような教えは 存在していなくて、 それは新約聖書に描かれているキリストの教えと同様です。 イスラム教自体は、極めて差別性とは無縁な宗教であって、 異教徒を差別するような論理は、 真のイスラムの教えには存在しないと言われています。 この点を指摘することは、今後の世界平和を考える上で 重要な論点であって、 イスラム過激派の主張はあくまで政治的なもので、 イスラム教とは基本的に無関係であるという認識が重要です。 この事実は、キリスト教との比較でもより鮮明になります。 一般にキリスト教の信者は、神の子キリストを特別視しています。 しかし、イスラム教信者はモハメッドをキリストのように 特別視はしていなくて、モハメッドはあくまでアラーの神の教えを 人々に伝えるメッセンジャーに過ぎず、 私たちと同じ人間だと考えられています。 この違いは、キリスト教とイスラム教の違いに反映されています。 キリスト教徒の世界では、 キリスト教徒と異教徒とは、もともと厳密に区別されてきました。 それ対してイスラム教徒は、異教徒に対して極めて寛容です。 しかも、その寛容さはコーランの教えに由来しています。 キリスト教には差別の歴史が濃厚にありますが、 イスラム教には基本的に宗教絡みの差別の歴史が存在しないと言われています。 ただし、シーア派とスンニー派の対立など、 宗教的な教えの解釈も絡んだ政治的な対立は、この間に一貫してありました。 しかし、これは宗教的な対立というよりも、極めて政治が深く絡んでいる問題です。 ひとつ象徴的なこととして、キリスト教徒は 歴史的に布教活動を積極的に行ってきましたが、 そもそもイスラム教徒は布教活動自体を行いません。 キリスト教徒の布教活動には、 異教徒を正しい宗教に改心させるという狙いがありますが、 イスラム教徒にはそうした発想がありません。 そこはイスラム教が、異教徒を含めて すべての人間が神の前で平等であるという発想を、 まさに教えの基本にしていることに由来しています。 イスラム哲学の権威として有名な井筒俊彦氏の著書などを読むと、 その辺のことが詳しく説明されています。 こうしたイスラム教についての基本的な認識が、 大多数の日本人には欠落しているので、 上記のような点を指摘することは重要なのです。 イスラム過激派が、コーランの文句を言えない人 を異教徒として殺害したからといって、 そうした常軌を逸した行為をイスラム教と結びつけるのは、 おそらく正しい判断とは言えないのです。 イスラム教自体を批判しても、 およそ発展的な議論にはならないのでは、という感じがします。 少なくともテロに心を痛めている 大多数の敬虔なイスラム教徒との連帯を阻害するだけにしかならないと思います ただ異教徒差別はないものの、女性差別は存在します。

  • 聖書を読みたい

    タイトル通りです。 わたしは聖書に関しての知識もなにもなければ特定の宗教を信仰しているわけでもありません。 先日あることがきっかけで聖書を読みたくなりました。 私はキリスト教の幼稚園に通ってたので園児にも分かりやすく、内容を噛み砕いた聖書物語といったものが以前は家にあったのですが、今はどこかにいってしまったようです^^; そこで新たに聖書を買おうと思ったのですが、旧約聖書と新約聖書の違いも分かりませんし、どこで何を買ったらいいか分かりませんでした。 Amazonで書籍検索したところ数多くのものが出版されていてよく分かりませんでした。 最初に聖書に取り掛かるに当たって旧約と新約どちらを読めばいいのでしょうか。 よろしくお願いします。

  •  キリスト教信者の方に質問です。

     キリスト教信者の方に質問です。  私は仏教徒なんですが、キリスト教で言う「神の愛」よりも素晴らしい愛を見つけました。  キリスト教信者の方々はやはり「神の愛」が最高と思っていらっしゃるのでしょうか?

  • 旧約・新約聖書についての質問です。

    キリスト教の話になるので文化人類学でいいのかと思ったら、皆、 哲学のほうに質問を書き込んでいるみたいなので、私もこっちに書き込みます。  (実は何度も同じところに書き込むの恥ずかしい)  聖書を読んでいて何とも分からないところです。  まず、旧約聖書のほうで、モーセが岩を2回叩いただけで、神様が「あなたは私を疑いましたね」と、モーセを叱る場面があるのですが、(モーセの二度叩きの部分)どうしてたったそれだけの事で、モーセはカナンの地を踏ませてもらえなかったのでしょうか。ジーザスと違って、モーセは普通の人間だから、 あせる事もあると思うんですが・・・。旧約の神様は、かなりキツイ性格をしているように思えます。  いまひとつ旧約で、パロの頑なさは度を越している異常性格のように感じるのですが、本当にあんなにわからずやだったのでしょうか。  新約聖書です。盲目のバルティマイは、目が見えるようになった途端、ジーザスのあとにくっついていったのに、どうして「使徒」の中に入っていないのでしょうか。マグダラのマリヤも。  復活の後、使徒たちがエマオでジーザスに会い、それが主なる神であることを知った、と書いてありますが、ジーザスは神様であると考えてよいのでしょうか。(そのほうが嬉しいけど) 長くなるといけないので(充分長いよって)箇条書きにします。 ・マタイとマルコの福音書と、ルカ・ヨハネの福音書でずいぶん違う個所があるの はどうして? ・「主の名をみだりに唱えてはならない」(これ旧約だっけ)とあるが、ジーザス の話を他人とべらべら話してはいけない?  ・・・まだまだあるんですが今日はこのくらいにしておきます。 もしよかったら解釈の仕方を教えて下さい。

  • ユダヤ人のためにイエスは生き

    イエスの本来の素性はユダヤの聖職者です。 奴隷階級のユダヤ人のためにイエスは生きました。 奴隷は家畜です。 しかしその奴隷が信仰を獲得すると、信仰心ある人が尊敬と敬意でみられる現代と同じで、人間として扱わなければなりません。 それは、奴隷の所有者には不利益です。 したがって処刑されました。 原始キリスト教はこのようないきさつの元にローマの横暴に対する民権運動のような事柄として、ユダヤ人以外にも波及していきました。 この当時、キリスト教徒はイエスを理解してイエスと共に生きていた。 打倒ローマです。 そして、新約聖書がすべて覆した。 ローマの懐柔工作により、新約聖書が編纂されイエスの意志は掻き消えた。 新約キリスト教徒にはイエスは理解できません。 そして、明確な信仰心がないのです。 新約以降のキリスト教徒の改変された予言の最終目的は、最後の審判です。 その内訳は、原始キリスト教時代の志である、「ローマ滅亡」そして新約キリスト教がローマとの取引で獲得した「キリスト教自らの根絶」この二つのせめぎあいで双方を実現するのが予言の完成です。 したがって、キリスト教徒の祈りの内容は「神よくたばりやがれ」です。 と、言う考察をしてみました。 いかがなものか読書感想文をお聞かせください。 私はこれらの事柄は、西洋人は博物学などの手法で外国の文化の素性を考察しますが、同じ手法を西洋そのものにあてはめると、このような形になるという、中立的な立ち位置で考察していまして、みなさんの宗教や信仰には何ら意見を持ちません。