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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:新約聖書の解釈)

新約聖書の解釈について考える

noname#259625の回答

noname#259625
noname#259625
回答No.5

No.4のお礼を読みました。なるほど、確かに、たとえ周りに毒麦がはびこっていても、小麦のように、つまり純粋なクリスチャンの精神を保ちたいという点には同感です。では、イエス・キリストはどのようにして裁きの日に小麦と毒麦を選別するのでしょうか。何が基準となっていますか? イエスの弟子たちが終わりの日のしるしについて質問した場面(マタイ24、25章)で、イエスは一連の答えを述べた最後に「羊と山羊を分ける」ことを話されました。その羊、つまりキリストに是認される人々(小麦に相当)について以下のように記されています。 「それから王は自分の右にいる者たちにこう言います。『さあ,わたしの父に祝福された者たちよ,世の基が置かれて以来あなた方のために備えられている王国を受け継ぎなさい。わたしが飢えると,あなた方は食べる物を与え,わたしが渇くと,飲む物を与えてくれたからです。わたしがよそからの者として来ると,あなた方は温かく迎え,裸でいると,衣を与えてくれました。わたしが病気になると,世話をし,獄にいると,わたしのところに来てくれました』。その時,義なる者たちはこう答えるでしょう。『主よ,いつわたしたちは,あなたが飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたり,渇いておられるのを見て飲む物を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたがよそからの人であるのを見て温かく迎えたり,裸なのを見て衣を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたが病気であったり獄におられたりするのを見てみもとに参りましたか』。すると,王は答えて言うでしょう,『あなた方に真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは,それだけわたしに対してしたのです』」。 「王」とはイエス・キリストのことです。さて、注目すべき点は最後の「これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは,それだけわたしに対してしたのです」という点です。逆に山羊(毒麦に相当)のような人々については「これら最も小さな者の一人にしなかったのは,それだけわたしに対してしなかったのです」と述べられています。つまり、「わたし(キリスト)の兄弟」に対して親切にし協力する人たちが是認を受け、羊とみなされるということになります。 では、今日、だれがキリストの兄弟ですか? マタイ7章15から20節にはその判断基準についてこうあります。 「羊の覆いを付けてあなた方のもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです。あなた方は,その実によって彼らを見分けるでしょう。いばらからぶどうを,あざみからいちじくを集めることなどないではありませんか。同じように,良い木はみなりっぱな実を生み出し,腐った木はみな無価値な実を生み出すのです。良い木は無価値な実を結ぶことができず,腐った木がりっぱな実を生み出すこともできません。りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火の中に投げ込まれます。それでほんとうに,あなた方はその実によってそれらの人々を見分けるのです。」 ですから、その「実」、つまりその行ないが聖書の基準にかなっているかどうかがそれを見分ける指針となることが分かります。それを見分けた人たちのことがゼカリヤ8章23節でこう預言されていました。 「万軍のエホバはこのように言われた。『その日には,諸国のあらゆる言語から来た十人の者が,ユダヤ人である一人の者のすそをとらえ,まさしくとらえてこう言う。「わたしたちはあなた方と共に行きます。神があなた方と共におられることを聞いたからです」』」。 「ユダヤ人」とは文字通りのユダヤ人ではなく、霊的なユダヤ人または霊的なイスラエル人、つまり「キリストの兄弟たち」のことです。(ローマ2章28、29節、ガラテア6章16節など参照) その霊的ユダヤ人を見分けた「諸国のあらゆる言語から来た十人の者」つまり羊のような人々が集まってくることになっています。 ですから、自分が小麦または羊のようなものとして神とキリストに是認されるためには、まずキリストの兄弟たちを見分ける必要があるということができるでしょう。

Buchner
質問者

お礼

再びのご回答ありがとうございます。 舌足らずな文を補足して頂いた形になりましたね おかげさまで再認識する事ができました。 >ですから、自分が小麦または羊のようなものとして神とキリストに是認されるためには、まずキリストの兄弟たちを見分ける必要があるということができるでしょう。 そうですね。しっかりした目を、耳を、 炯眼をもって生きていきたいです。

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