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赤十字とキリスト教の関係は

赤十字のマークはクロスですが、キリスト教との関係はあるのでしょうか。 イエスが癒しをしていたことと、医療行為との関連を連想しますが、歴史的および思想的な関連を知りたいです。ついでにスイス国旗とのことも…。どなたか分かる方はお願いします。

  • gesui3
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  • 歴史
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みんなの回答

回答No.7

>赤十字のマークはクロスですが、 地域毎に違う。 イスラム社会では、三日月(花王と同じ) クロスではない赤十字標章はそれなりにあるので、注意されたし >キリスト教との関係はあるのでしょうか。 由来については諸説あるが、スイスの国旗を反転させた、という話が著名である では、スイス国旗の由来だが、十字架を意味する由来が存在するらしい しかし、疑問がある。十字架がキリスト教由来なのか? 以前読んだ本を思い出すに、赤十字の十字架は、”ギリシャ型十字”というキリスト教でもメジャーな十字表記らしい・・・ したがって、赤十字とキリスト教の十字架の関係は間接的にありえるだろうが・・・ ・・・・ ちょっと問題がある >イエスが癒しをしていたことと、医療行為との関連を連想しますが、歴史的および思想的な関連を知りたいです。 根本的には、赤十字の歴史は、癒しではない 小生はこれでも、戦時国際法というマニアックな国際法を”自慰”で学んでいるのだが、 国際赤十字委員会の本旨は 「武力紛争における犠牲者の保護・救援、そして国際人道法の普及」である それに附帯して献血・慈善活動を延長しているに過ぎない、と言える。 沿革からすれば原義・原初は、国際人道法普及である 活動領域は、ナイティンゲール・マザーテレサとは違い、深く政治分野に介入することが多いことも「癒し」という趣旨ではなく、”傷痍を避ける”が重要視されている、とも言えよう  俗っぽい日本人が嫌うプロ市民も多いし、政治思想としても極めて高度なものを持っている彼らが、『癒し』という単純な概念で思慮するのは、不健全であろう 同時に彼らは、キリスト教という宗教的拘束を超然しているわけであって、スイス経由の由来であっても、赤十字活動とキリスト教の因果関係は強くないだろう エホバの事例もあるように、教義解釈とすれば、キリスト教は、輸血拒否が不自然な話でもない。 現在の赤十字社の全般的活動がもはや宗教を超然としている意味でも、キリスト教・癒し・・などという概念で思慮するのは、適切ではないだろう・・・と指摘しておく 以上

gesui3
質問者

お礼

「”ギリシャ型十字”というキリスト教でもメジャーな十字表記」 新しい見解ですね。 「現在の赤十字社の全般的活動がもはや宗教を超然としている意味でも、キリスト教・癒し・・などという概念で思慮するのは、適切ではないだろう」 昔、世界史の先生が言っていたことが根底にあり、そんな表現をしました。しかし、赤十字社に限って言えば、確かに脱宗教で、宗教的癒しなどではありませんね。ただ、らい病などを一瞬で治したとかいう聖書の記述では、治癒はしているのですね。

回答No.6

 他の方も書かれましたが、赤十字の由来はアンリ・デュナンの出身地スイスに敬意を示して色を逆さにしたに過ぎません。もし、日本人が第1号提唱者であったなら赤字に白丸になったかもしれません  アンリ・デュナンにしてもナイチンゲールにしてもフリーメイソンです。キリスト教とは関係があまり無いと思います。  彼らが赤十字を提唱したのは新型銃(ミニエーとプリチェット)による被害が凄まじく、従来の医療システムでは対応できないと考えたから何れの国にも属さない中立の医療機関を創設したのです。キリスト思想とは全く関係がございません。当時の軍隊は傭兵が多く(その出身地がスイスです)、戦争での被害者もスイス人が多かったのです。ですが、敵国に従軍した兵士の治療(スイス人ね)がやりづらい環境では戦後トラブルになるので中立医療機関を必要としたのだと思います。  赤十字に宗教思想を持ち込んだのはムスリムです。十字=キリスト教と主張して兄弟会社『赤新月社』を創設したのです。

gesui3
質問者

お礼

「キリスト思想とは全く関係がございません。」 全否定ですね。 どちらが本当なのか、分からなくなってきました。

  • mekuriya
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回答No.5

元々西洋には太陽十字という図案(モチーフ)がありました。キリスト教の十字架もケルト十字もナチスのハーケンクロイツも赤十字も皆、その影響を受けているだけです。様々な国旗もシンボルも皆、太陽十字の派生物に過ぎません。未開の蛮族に対して、ある宗教、思想、運動を普及させ浸透を図る為には、元々の未開の蛮族が持つ原始信仰に迎合し、そのシンボルを利用するのは常套手段です。それは古今東西の歴史に共通することです。どの新興勢力もそうやってのしあがってきたのです。キリスト教も当初は新興勢力だったわけで。

gesui3
質問者

お礼

太陽十字という図案(モチーフ)と、未開の蛮族との関係が今ひとつよく分かりません。蛮族たちがそのモチーフをみな持っていたと言っているのか、逆なのか、読み取れませんでした。「元々の西洋」とは、具体的に何時・どの範囲で、なのか時代と地理も分かりません。

  • daidou
  • ベストアンサー率29% (491/1687)
回答No.4

赤十字社の創設者がスイス人であり、彼やその祖国に敬意を表し、スイス国旗の配色を逆転させて赤十字旗が制定されました。 つまりルーツがスイス国旗です。 このスイス国旗のデザインは神聖ローマ帝国の象徴であり戦いに流れる血の色である赤を地に、キリスト教の精神性を象徴する白い十字を配したもの、というのがルーツで、すでに13~14世紀には成立していました。 つまり赤十字のルーツであるスイス国旗のルーツにキリスト教の精神が関係している事になります さて、赤十字のマークについてはもう一つルーツがあるとも言われています 聖地エルサレムへの巡礼ルートにそって宿舎兼診療所を設け、巡礼ルートの警護・聖地守護を行ったという聖ヨハネ騎士団(別名を病院騎士団)というものがあります 彼らがシンボリックに使っていたのが赤十字と白十字のマークです。 この騎士団は現在まで継続しており「ロードス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」として医療・福祉関係の慈善事業を行っています もちろん赤十字社とは別組織です カトリックを国教としている国の多くは、赤十字社よりもこの病院騎士団を重視しているらしいです 国教のない日本やカトリックを国教としていない国(イスラム圏やアジア諸国、イギリスなど)ではカトリックの一騎士団の加盟や公的援助を行う訳にはいきません そこで、米英を中心に出資して結成されたのが赤十字社という事のようです ちなみに赤十字のデザインはどうしてもキリスト教を連想させるのでしょう、赤十字ではなく赤い月マーク、赤いひし形、赤いダビデの星など国によってデザインは使い分けられているみたいです

gesui3
質問者

お礼

「つまり赤十字のルーツであるスイス国旗のルーツにキリスト教の精神が関係している事になります」 そうでしたか。ありがとうございました。 聖ヨハネ騎士団(別名を病院騎士団)やロードス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会の話は初耳です。すごい古い歴史ですね。 どちらにしても深い関係があるということになります。ありがとうございました。

  • ShowMeHow
  • ベストアンサー率28% (1424/5027)
回答No.3

The region of Schwyz in central Switzerland, one of the three founding members of the Old Swiss Confederacy, and the one, whose name was later in history used to denote the confederacy as a whole, was granted immediacy in 1240 and carried a red flag from the middle of the 13th century on (yet still without the white cross). In 1289 they supported King Rudolf of Habsburg in a war against Burgundy and received as a recognition the right to represent the crucifixion of Christ and the tools used to torture him in the upper right field on their flag. Originally they painted this symbol on parchment and fastened it on the banner. Only later the cross symbol was painted directly on the banner. http://history-switzerland.geschichte-schweiz.ch/history-flag-switzerland.html えーと、1289年にルドルフ王の味方になって、バーガンディとの戦いに勝ったときに、キリストの磔の象徴を旗に権利を授与された。  見たいな事がかいてある。

gesui3
質問者

お礼

おお、やはり十字はキリストの磔と関係があるのですね。ありがとうございました。

  • poomen
  • ベストアンサー率34% (784/2278)
回答No.2

 直接の回答ではありませんが、ヨーロッパ諸国の国旗はキリスト教の十字架を図案化したものが多いですよ。  まず北欧諸国、デンマーク、スウェーデン、フィンランド、ノルウェー、アイスランド、すべて同じデザインで色違いですね。  連合王国のうち、イングランドは白地に赤十字、スコットランドは青地に斜め白十字、北アイルランドは白地に赤斜め十字、連合王国の国旗(ユニオンジャック)はこの三つの旗を重ね合わせたものです  あとはギリシャ、グルジアもそうです。画像があります以下をどうぞ http://tospa-flags.com/eu-all.html

gesui3
質問者

お礼

ほんとうだ。ヨーロッパ諸国の国旗は十字架を図案化したものが多いですね。良いことを知りました。ありがとうございました。

  • ShowMeHow
  • ベストアンサー率28% (1424/5027)
回答No.1

http://www.tokyo.jrc.or.jp/kodomo/mark.html http://www.sarago.co.jp/nfhtm/ch.html スイスに敬意を表した。 (スイス国旗はキリスト教由来) ってことだね。

gesui3
質問者

お礼

(スイス国旗はキリスト教由来) ここをもうひと押しお願いします。

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