ユダの福音書の何が注目されるのか(1/4)

解決済みの質問

ユダの福音書の何が注目されるのか

 その意義が飲み込めません。おしえてください。

 ヰキぺディアの記事は まだ 書きかけのようですが  そこに記された次の二点が 一般にも 取り上げられているものでしょうか。
  ▲ (ユダの福音書) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%81%AE%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8
 (1) イエスを裏切ったイスカリオテのユダが 実は イエス・キリストの弟子の中の誰よりも真理を授かっており、
 (2) 「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものであるという。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですが (1)の事項は もし
 ( a )《誰よりも賢い》ことであるなら 
 ● (コリント前書1:20) 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
 ☆ ですから  特別のことではないでしょう。もし
 ( b )《神の霊に満たされていた》のであるなら あとで ほかの弟子たちも そうなったのですから これもまた 特別のことではないでしょう。
 次に(2)の事項についてですが 
 ( c )《裏切り》行為じたいは あまり 問題になりません。弟子たちも残らず皆が 裏切りましたから。あとに残った事項としては 
 ( d )《「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものである》というものです。けれども この事項も たとえば 
 ▲ (ヰキぺディア:イスカリオテのユダ) ~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%86%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%80#cite_ref-11
 スイスの神学者のカール・バルトは、ユダは、イエスを十字架に架け〔* そのはりつけの刑による死を通じて かれイエスを 救世主なる神=〕キリストにする重要な役割を果たした人物であり、「神の使わした者」と考えた。この考えは突飛なものではない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と知られます。そのことを 『ユダの福音書』は 発見が遅れたとは言え 歴史的に先に指摘したので 注目に値するということなのでしょうか。
 けれども 『ヨハネ福音』(13:26-27)にも すでに あの最後の晩餐において そのたぐいの事柄は 指摘されているようなのです。その席で ユダは イエスから
 ▲ 「しようとしていること(* つまり 裏切り行為)を、今すぐ、しなさい」
 ☆ と言われていますから。

 よく分かりません。ご自身のご見解でもよいですから おしえてください。ヒントが得られることがあります。

投稿日時 - 2008-12-05 14:27:22

QNo.4531741

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

追伸:核心をついてきましたね。まず、「そのように私は聞いています。」
イエスの行動を客観的に見るといくつかの矛盾が見えるでしょう。それは「普遍的な隣人愛」を説きながら「ユダヤ教の予言に従う一面も出している点です。「▲ (ヨハネ福音16:7)」などは「ユダヤ教の予言に従う一面」ですね。イエスは「普遍的な愛」を世界に広める救世主たらんとしたのか、ユダヤというローカルの救世主たらんとしたかということが問われているのです。教えの全体を見るとユダヤのローカル救世主から抜け切れなかったと見るのですね。実際もユダヤの王として処刑されています。ユダヤのローカル救世主が世界宗教になった理由は「普遍的な隣人愛」の教えゆえですね。でも教義にユダヤのローカル思想が含まれている点が悩ましいことなんですね。このローカルの教えが多くの人々に迷いをもたらしているわけです。
ここまでお話しますと、ユダの迷いの原因がイエスご本人にあったものだと考えることができますね。言い換えればユダヤのローカル宗教に縛り付けておこうという力(ユダヤの祟り神)と世界宗教にしようとする力(愛の神=我が父)の両方が働いていたということなのです。イエス様も長生きしていればもっとすっきりしていたと思います。3年は短かすぎますね。
☆ というのであるなら、ユダがイエスを売ったとしても、それは予定の行動であった。ならば、このユダにしてもパウロと同じようにキリスト者として起ち上がって生きたとしてもおかしくないと思えるのですよね。
そのように考えられますね。でもユダはパウロと違って罪の重さに耐え切れるような人物ではなかったということでしょう。パウロは救世主を屠る側に立ち弟子まで石打で殺してます。それでもその罪を背負って信仰に生きました。強くて立派なかたですね。後の親鸞が極重悪人といっているのはパウロであった自身なのですね。救世主やその弟子を屠った極重悪人の自分でも救われるのだからといいたかったんでしょう。宗教的な者の中にはこのようなお方もいるということですね。ちなみにイエスはとうの昔にユダを許していますがユダは2000年後の今日に至るまで地獄(煉獄ですか)にいるようです。自身の過ちが許せないんでしょうね。
更に:弟子の仕事に着目してください。 イエスのような大救世主が世に出る時はその舞台を成功させるために多くの取り巻きが同時に出るのです。縁ある弟子ですね。弟子の仕事は師を守って師により多くの法を説いてもらうのが仕事です。たとえ師が迷っても身を挺して守るのが弟子の務めですね。ペテロよユダよおまえは・・といわれても動じずに守るべきだったという考えもあるのですね。イエスの愛の教えには差別が一切無いのですね、たとえ娼婦・悪人・殺人者であってもです。
「それ故舞台劇には裏切り者も予定されていたのかもしれません。ユダも自殺せずにパウロのように罪を背負って信仰者として生き抜けばまた別の道が開けたと私も思いたいですね。もしそのようであったならユダの福音書にも大いなる福音があったでしょうね。」これは私個人の感想です。

投稿日時 - 2008-12-06 09:18:51

補足

 mmkyさん なるほど 解けましたね。この場合は――つまり ユダの場合は パウロとちがって―― 結果がすべてだということですね。
 まづは ご回答をありがとうございます。

 ★ ちなみにイエスはとうの昔にユダを許していますがユダは2000年後の今日に至るまで地獄(煉獄ですか)にいるようです。自身の過ちが許せないんでしょうね。
 ☆ という見方も おもしろいですね。そして そういう見方でしたら わたしが ふと思った見方 つまり
 ☆☆ ユダは あまりにも 自分の内面にとどまり 閉じこもったかたちで 考えをめぐらしていたし その自分の考えをイエスに問おうとしなかった。思いこみで 行動を起こしてしまった。
 ☆ という中身に 通じているところも出てくるように思えます。神がゆるすと言っているのに 自分は ゆるされたくないと言い張っているように見えますから。

 ★ 後の親鸞が極重悪人といっているのはパウロであった自身なのですね。
 ☆ この観点も 何人かの人が 触れていると思います。わたしも みづからの見解として 触れるべきかなと思ったりしたことがありましたが 表現としては これまでには 出て来ませんでした。夢の中の議論であるように 思われるからです。さらにいろんな見方が出されていくでしょう。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ここまでお話しますと、ユダの迷いの原因がイエスご本人にあったものだと考えることができますね。言い換えればユダヤのローカル宗教に縛り付けておこうという力(ユダヤの祟り神)と世界宗教にしようとする力(愛の神=我が父)の両方が働いていたということなのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうなんですけれど つまり わたくしも そういう視点で ものを言うことも 説明の一環であると思うんですけれど これも まだこれまでに 表現となって 出て来ません。端的に また批判するようになるかも知れませんが 正直に 言えば そのように明確に言ってしまうと なおまだ 人間の憶測を抜け切れていない状態が あらわになるのではないか こうおそれられるからです。
 これも いろんな見方が出されて 練られていくことでしょうね。あるいは ただ単に わたしの今の状態が 浅くて 分からないだけなのかも知れません。

 ありがとうございました。一件落着のようですね。むろん 書きましたように つねに 問い求めていくのですし 表現やそれの感受の仕方が 或る程度は 歴史とともに 変わっていくかとも思いますから つねに こころを開いていたいと思います。mmkyさん 今後とも よろしくお願いいたします。

 * 次にも新しいご回答をいただいております。学術的な観点なり いろんなご見解を摂取していきたいとも思います。

投稿日時 - 2008-12-06 10:50:42

ANo.3

9人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

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ベストアンサー以外の回答(19件中 1~5件目)

ANo.20

《4次元を超えた》?  超自然のことですか?

超自然というとこうことならそうですよね。

自然界しか見えないといっても自然の根拠は《無思考》あるいは考えることの不可能な謎の上にたっているのですから、 超自然を否定できる人はいないはずです。  

ただ 神とは その時人間の心が発見した価値とか意味の世界をともなう超自然です。 一見、この考えはただの都合のいい謎の解釈とおもうかもしれませんが、 わたしにとっては最後にはこれがむしろ自然なことと思えているということです。

なら、その>突然変異<なら いつかやってくるに決まっているというような感じでしょうか。 わたしにとっては議論するという問題ではなくて感性の発達の問題です。  またまた感性の世界となってしまいましたが^^。

それでは これで。

投稿日時 - 2008-12-18 18:48:40

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 今回は 《世次元を超える》と《復活》という話題の二点とも 舌足らずだったようです。
 ★ 復活 と 突然変異
 ☆ については 等号で結ぼうとしたのではありません。
 《復活》は 将来への希望のような宿題です。いますぐ どうこうということではない。とともに つねに この経験世界(つまり 四次元世界)を超えたところから いまにも 何か 光が差すということかも知れない。といった《希望のような宿題》です。言いかえると
 ▲ 永遠の生命
 ☆ のことです。奇妙奇天烈 前代未聞 奇想天外 驚天動地のドグマです。これを与えるために キリストは この世に来たし 十字架上に去って行ったという物語のことです。あくまで 一人ひとりの主観の問題です。

 ちなみに
 ★ 心
 ☆ をも超えていますよ。
 
 では では。

投稿日時 - 2008-12-18 19:53:00

ANo.19

最近、話題となったダビンチ・コードについては 私も知りません。

これは、ただの映画ビジネスのための作り話と思ってました。 それで興味が無かったのです。



「使徒行伝」とかは読んでませんでした。

聖霊とか異語という言葉は 怪しげ^^ですが、 ここからキリスト教が世界に広まったことを考えると、感慨深いところですね。 

ご紹介ありがとうございました。



私の方からの回答は、私が一番重要だと思っていた次のbrageloneさんの質問の方へ移らせていただきます。




なお、一言だけ付け加えますが、 私はへんなキリスト者かもしれません。

キリストの復活を事実とは思えないでいるからです。

つまりそのへんは キグルミさんに似てるのかもしれないわけです。

パウロ達の 布教の使命感からの方便のような形でパウロ達によって創作されたものと思い込んでましたし、 今でもそのような経過で生まれたのだと思えています。

ここが使徒行録とかを読んでなかった人間ということなのかもしれませんし、 その辺は自分でもよく解かりません。

ただ、それだからといって、キリストの言葉を理解できるだけでも、あるいはそれに近い状態でも復活には意義があるし、 神の信仰の内に、自然に復活も自然だと思いこんでるので、  ともかくキリスト教のいう復活は、ほんとうにあると思っているので、 問題は無いと思うのですが。

もちろん、それはキリストの言葉から教わったから、気がついたというか この考えにいたったことです。    すごい世界ですよね。

投稿日時 - 2008-12-17 18:14:09

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 キリストの復活を事実とは思えないでいるからです。

 つまりそのへんは キグルミさんに似てるのかもしれないわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 四次元を超えるかどうか――また超えたとした場合 それを 人間の想像の産物として 捉えてしまっているかどうか――で その人の思想は 違って来るはづです。
 アニメの世界で 登場人物が 《四次元を超えた》と言ったら そういう物語の世界だと思ってしまう。これは 精神ないし理性の天井を超えたくないと言い張っているのだと思います。
 だれも――キリスト者のだれも―― 
 ★ キリストの復活を事実
 ☆ だと言う人はいません。上のように無根拠の世界を想定している つまりは 信仰の世界をも わが主観に 持っている。そのとき 
 ★ 復活
 ☆ についても 将来すべきものとして 臨んでいる。という意味です。突然変異が起こらないとも限らないじゃないですか。

 それでは また 新しい舞台にて。

投稿日時 - 2008-12-17 19:56:51

ANo.18

またまた、「もっと強くなりなさい」というキリスト者からの叱咤激励と受け取りました。  ありがとうございます。

ただ、日本の「恥」の文化について、その何を持って閉じられた美学とするのか? そのへんがよく解からない鈍感な者ですので、(あえて、という形でもありますが) 質問させていただきます。

わたしは、「真心」の無い世界での道徳文化は 非常に危うい世界、逆の世界も多々生んでしまう世界、偽善や嘘のみか反逆としての悪の衝動さへ生んでしまいかねない世界とは思っていますが、

道徳もまた すばらしい世界であり、かつ「真心」を一度知った人間の知能には命がけで守るべき大切な、よりいっそうの「べき」の世界と心得ています。 そのへんを brageloneさん式に言えば、先に《信仰》が必要となるのでしょう。  私たちの命が与えられている存在であることの気づきとそういう《はからい》の下の私たちであるという社会性に気がつくべきだということなのでしょう。

そして、その上での道徳として、ユダ以外の弟子達は伝道に命をかけたということを 今回のコメントに記したのでしょう。

が、立派であるかどうかという価値の世界を そこではどう扱うのでしょうか?



アメーバが努力してるかは知りません。 ゴキブリがなんら努力して生きてるかどうかは知りません。  虫のことはこの際無視するとしてもです。

では 動物はどうなのか?  すくなくとも 神よりは努力しなければ生きられない存在ですよね。

では人間の脳が 置かれてる状況を考えた時、人間はどうですか?

どんな屑でさへ、 神様よりは立派じゃないのですか?

これを言うと(別にむずかしいことではないと思うのですが)頭がこんがらがる人もいるかとおもいます。

そちらには、個人的には言う必要なんて無いことでしょうが、ここは、出来うる限りことを解かりやすく書いてみたいです。  多少 頭のこんがらがる人がいたとしてもです^^。



つまり、 やっぱりユダは、 わたしよりは「立派」であった可能性があった“かもしれない”ということは、 別に内向きとかいうことではないということだと思うのですが  どうですか? ということです。



さらに 事をはっきりさせるべく、 二つの円で説明してみます。

一つの円には、その内側にさらに小さな円がいくつも入っています。

もう一つの円には、中心点があり そこから放射状に円を突き抜けて外側に矢印がたくさん書かれているという 便宜上の図です。

円が個人の意識と考えてください。  

円内の円の意識には 怒りとか悲しみとかの動物にもある感情の他、 人間ならば「人への感謝」とか「人への尊敬」とか さらには「愛」とか「慈悲」とか 、それこそ「恥の文化」とか「道徳」とかいう言葉で表わすこともできる概念の円さへあるのですが、 すべては見返りをどこかに隠し期待しているところの大きな自己円に閉じられた世界です。

もう一方の、円の中心点は、それを言葉にするなら「幸せ」とか「幸福」として定義できるものがその点なのですが、 これを知的には真の信仰とか「真心の源泉」、あるいは哲学的に厳密な意味合いとしては「リスペクトの源泉」とか、  あるいは神話的には霊の息吹とか、いった一点があり、それが個人の意識を超えて 他の「友」への世界に向かってゆく線として考えるわけです。

この二つの円の 動物にもある状態から 人間のみの開かれた円への過程が この場合の人生修行の道場^^です。



キリストは、開かれよさらに開かれよ、そして生物でありつつ、もっと強くあれと、私たちをいざないつづけていますが、   二つ目の円を獲得しない人たちにても努力それ自体の価値というものはあると思います。

そういう人たちが 人生道場にて命がけの勇気を振り絞って「べき」を実行する姿を 私は   私より「立派」としか表現しようがないです。



ともかく、ユダのことは、 あのレオナルド・ダビンチが 応援者になってしまった悪者ユダのイメージとは真逆の人間ではあったのかもしれない。

その可能性に brageloneさんが感銘を受けたのだと思ってしまったということです^^。 読解力の浅さで笑。

別に弁明するほどのことでもないのですが、 この議論の真意のあたりをより鮮明に解かりやすくできたらと思い またまた付け加えておきました。



「まごころ」の宣伝に命をかけるべき人間が “「べき」の人”≒“恥の文化”に負けてはならないところですよね。

叱咤激励 ありがたく受け止めさせていただきます。

がんばります。  ありがとうございます。 奥が深いですね。

投稿日時 - 2008-12-16 18:57:29

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 ローマ人 つまり 非ユダヤ人で 百人隊長のコルネリウスの話は 覚えておいでですか。
 ▲ コルネリウス (聖書)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9_(%E8%81%96%E6%9B%B8)
 ☆ すでにイエスが 復活して 弟子たちが ふたたび 活動を始めていたときのことです。
 ペテロに奇妙なまぼろしが現われました。
 ▲ (使徒行伝)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 10:9 ・・・ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。
 10:10 彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、
 10:11 天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。
 10:12 その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。
 10:13 そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。
 10:14 しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」
 10:15 すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
 10:16 こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。
 ・・・
 ☆ そのあと ペテロは コルネリウスのところへ行って 話しました。・・・
 10:28 「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。 ・・・
 ☆ コルネリウスが 自分には 天使が訪れて 「コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ・・・た。 ・・・ペトロを招きなさい」との指示を受けたと明かした。

 10:34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。
 10:35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
 ・・・
 10:44 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。
 10:45 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。
 10:46 異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、
 10:47 「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。
 10:48 そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こうして(これを ひとつの契機として) ユダヤ教イエス派は クリスチアニスムへと 開かれたのだと思います。

 * ダヰ゛ンチ・コードは 中身を知らないので よく分かりません。くしゅん。

投稿日時 - 2008-12-16 20:04:42

ANo.17

実は 自分自身のあり方について迷ってます。(自分のこれからの表現の道とか、社会とのつながりとか…  の実践前夜にての迷いです。)

その道が正しいかどいうかが、今一解からないのです。 (ポルノのことではないですよ^^)

それで、実はこの哲学カテをさまよっているという感じであり、 これからいよいよ迷いの内容について本格的に質問しようかなとところに来ていたのです。

いらいら とかではないのですが、 あせりはあったようです。



たしかに私は 神話的なこととなると理解するのがほんとに大変ですーー;。

しかしユダについては、 1000827313さんの文をまるで理解していなかったように思えてきました。

そこが やはりあせっているところなのでしょう。  

★他の弟子達には、「恥」がなかった。  

>日本流に言えば「殉死」になりますでしょう。これより「大いなる愛」はあるでしょうか?<

日本の「恥」の文化を知るはずの者として、 ここを見逃していたのは恥ずかしい点でしょう。

ユダは、もしかしたら私など爪の垢を飲んでもいたらないようなすばらしい人格者だったのかもしれない。 ということですよね。

そこまで考えたことは いままで一切ありませんでした。

でも、その可能性もたしかにあるのですよね。

あるいは そうとすら考えるべき地点というものがです。

そこをbrageloneさんの方は 気がつかれた。 わたしの方は あせっていて読み飛ばしてしまった。 なにか変だなとは思いつつ。

こんな失敗を私はしてしまったようです。

わたしには、「かどうかは解からない」という点が 新約聖書については大事な点なので(判断できないことは判断しないことを堅持したいので、) ここでの対話は やはりここまでとしますが、 一点 落ち度がありましたので付け加えておきました。

今 深く考えさせられています。  ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-12-15 18:57:12

補足

 arayata333さん arayata333さんも 弱音を吐かれるのですね。
 やはり わたしの能天気ぶりのほうが 勝ちましたか。
 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ★他の弟子達には、「恥」がなかった。  
 ↓
 >日本流に言えば「殉死」になりますでしょう。これより「大いなる愛」はあるでしょうか?<

 日本の「恥」の文化を知るはずの者として、 ここを見逃していたのは恥ずかしい点でしょう。

 ユダは、もしかしたら私など爪の垢を飲んでもいたらないようなすばらしい人格者だったのかもしれない。 ということですよね。

 そこまで考えたことは いままで一切ありませんでした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ いえ わたしは そうは考えません。
 恥ぢの問題が 裏切ったペテロ以下の弟子たちに ついてまわりますが 問題は それを超えています。天地が――復活によって―― ひっくり返ったのです。イエスは もう死んでしまったか われわれは かれを否定してしまって 情けないことよと言って 済むことではなかったのです。世界の果てまで この良き知らせを告げよと 復活のイエスは 言いつけたのです。
 これは ほとんど 命令です。殉教さえ厭うなとまで 命令したのだと考えます。もちろん ペテロたちは 望むところだったのです。はづかしいと言っている場合じゃなかったでしょう。

 そこで ユダは どうだったかです。自殺は 別としても その後 自分の福音書を著わす以外に 何もしなかったとすれば なぜかと考えざるを得ません。自分ひとりの恥ぢや美学の問題に こだわる場面ではないと思うのです。理由があるとすれば よほどの理由内容だと考えざるを得ません。分かりません。
 そういう問題であり 問いについての局面です。

 1000827313さんの議論で わたしが 注目したのは ユダが イエスを立てるところです。理解者であるというだけではなく イエスを称えている。そこから あぁ 聖書のユダ版もありうるかなと思いました。あとは これまで書いてきたような立ち場に わたしは います。
 結論の方向は ずっと 同じようだと思っていましたよ。たしかに あせっておられるという感覚はありましたけれどね。
 いづれにしましても 美学なら美学でいいですが 開かれた美学にしてくださいね。

投稿日時 - 2008-12-15 20:30:45

ANo.16

この「ユダの福音書」自体についての質問は ユダについての興味(弁護の心)からつい回答を書いてしまいましたが、  私にはその内容について読んでみて難しすぎます。

わたしに解からない「たとえ話」をキリストが話したからといって それは私には解からないだけかもしれないだけです。

ですのでグノーシスの考え方とかその福音書とかを否定するというのではないんです。  でも わからないものを 何か回答するということは? 難しいというより不可能に思えます。

書きましたようのアウトゲーネスのあたりから後は まったく理解不能だということです。    (多々 他の点で、いくつか面白い点とかは無いわけではないのですが、とりあげるまでのことと思えないということもあります。)

もしかしたら、 それぞれ キリストらしい形の“おくの深い意味合い”の神話物語が語られていたのかもしれません。

その説明が出きる人がいれば その説明は聞いてみたいです。

でも それ以前には 私には 論議なら無理そうです。

私に解かる 興味のある点というのは、 この世の中に悪とか罪とかが本質的には無いという表現形態をするのならば、 ユダのその行為こそ罪とか悪とかは それが自由意志であろうとなかろうと、かけ離れた行為であるのに、 なんで、長い歴史の間に だれもクリスチャンがそこを言及してこなかったか という疑問だけです。

投稿日時 - 2008-12-14 18:52:03

補足

 arayata333さん あたらしい進展もなく わたしのほうも 煮え切らない思案中の態度をつづけていて 解せないというふうに おっしゃっているのかも分かりません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もしかしたら、 それぞれ キリストらしい形の“おくの深い意味合い”の神話物語が語られていたのかもしれません。
 その説明が出きる人がいれば その説明は聞いてみたいです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうも この判断に尽きるように思います。今の時点でです。

 《ユダの愛》 これについても ひととおり 評言を述べましたし あとは ユダの福音書に もし そのように隠れた意味合いがあるのなら それを支持する人たちは 明らかにすべきだというように考えます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この世の中に悪とか罪とかが本質的には無いという表現形態をするのならば、 ユダのその行為こそ罪とか悪とかは それが自由意志であろうとなかろうと、かけ離れた行為であるのに、 なんで、長い歴史の間に だれもクリスチャンがそこを言及してこなかったか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ それは たぶん 感情的な敵対心のようなものが わざわいしたのだと思います。イエスを ユダヤ人が殺害したのだ・だからユダヤ人は 悪だというような 単純な間違った図式が 横行して来たようですし ユダも その図式の上で捉えられていたのだと思います。
 《売り渡し》は 好ましくない行為であることに違いありませんが 要するに ほかの弟子たちのことをも含めて つねに 問題は 裏切り行為からの更生にあると考えます。それが 弟子たちには 出来ました。パウロも できました。ユダは どうかという問題にもなると思われます。

 一たん 引きあげましょうか。ユダの福音書を読んで 仮りにすばらしい奥義があったとして それを見過ごしたとしても それほど あやまちであるとは思えません。そのときには そのときに 新たに 対処すればよいと考えます。

 ○ イエスは ナザレ人で普通の人間であると同時に キリストとして神の独り子であり かつ 神である。
 ☆ このドグマは――けっきょく 三位一体論ですが―― さらに 探究するのもよいと思います。
 
 しばらく様子を見て 締めましょう。

投稿日時 - 2008-12-14 21:20:36

お礼

 No.12の補足欄に掲げた次のサイトの《グノーシスの神話 》を読みました。取り上げるに足る内容を見出せ得ませんでした。
■ 《グノーシスの神話 》~~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismythtop.html
神話1 『ヨハネのアポクリュフォン』
神話2 『ポイマンドレース』
神話3 ヴァレンティノス派プトレマイオスの教説
神話4 『三部の教え』
神話5 『アルコーンの本質』
神話6 『この世の起源について』
神話7 『バルクの書』
神話8 シモン派の教説
神話9 『魂の解明』
神話10 マニ教の教説
神話11 『シェームの釈義』
神話12 マンダ教の教説
神話13 『アダムの黙示録』
神話14 『フローラへの手紙』 
神話15 『ユダの福音書』 
神話16 『大いなるセツの第二の教え』
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 評価が低い理由あるいは それらの特徴を記します。
 (1) おおむね 聖書(旧約・新約)の記述を基軸に据えている。
 (2) 言いかえると 聖書の創作に先行するものではなく あとで 《神智学》のごとく 瞑想・観想・分析・思索をおこなった結果だと考えられる。
 (3) 独自の内容を主張しうるかに見えるところは 天地創造を始める神(エローヒームないしヤハウェー)の その前史ないし前身ないしさらに奥の神の世界を プレーローマ世界として いくらか ゆたかに描き出した点である。
 (4) けれども それも 神の観想にしては あまりにも 心理的また心理学的な記述内容に片寄り ほとんど 取り上げる価値がない。
 (5) ヘブライイスムとへレニスムとの融合というべき中身があるかに思われる。けれども 前者からは 霊(息)や智慧などの概念を取り上げ 後者からは ひとつに ギリシャ神話 もう一つに プラトンらの哲学(イデアなどその神秘思想にかかわるところ) これらを 素材としているわけだが おおむね 文学の問題であって 信仰や思想の深みに欠けるように見える。
 (6) どうして 優秀な人間が このようなグノーシス主義に 価値を見出すのは 分からない。平面的な知識に満ちているだけのように受け取った。

 グノーシス主義の方がたには わるいけれども これは わたしは 摂りません。

投稿日時 - 2008-12-15 15:28:36

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