現代においてのサーカスと大衆
- サーカスとは、常識からはずれた人間の悲哀の場所であり、大衆はその刹那的な芸事の悲哀感を尊敬し愛していた。
- 一方、信仰やアカデミズム、自然科学から発生した文化は本来政治的な意味合いがあるが、現代では巨大資本に支配されて権力と結びつき、政治的な疑いを招くこともある。
- 資本主義が犯した罪は大きいが、この問題は克服できる可能性があるのか。
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現代においてのサーカスと大衆
あまりにも無知なので教えてください。 サーカスとは、一般的には子供の頃に「悪い子はサーカスに売り飛ばす」 という様に、常識をはずしてしまった人間が行く悲哀の場所だったのでは なかったでしょうか。大衆見物人は、身を滅ぼしていく刹那的な芸事の 悲哀感の煌めきを尊敬し愛していたんではなかったのではないでしょうか。 一方、信仰や、アカデミズム、自然科学(といっても認識側にとっての) から発生したもの、またはそのもののカルチャーはもともとは政治的な 意味合いがあるはずです。 なのに現代においては、前者の大衆文化(ジャーナリズムを含む)コンテンツ は巨大資本に支配されて権力と結びつき、政治的疑いさえぬぐえない時も あります。 資本主義が犯した罪は大きいかもしれませんが、 この問題はのりこえられる可能性はあるのでしょうか。
- heart_mind
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NO.4 です。 ちょっと突き放したような結論をいきなり書くことになって気になっていました。質問者様の問題提起は様々な要素が複雑に絡み合ったもののように思えますので、私には力不足で、面倒くさくなってそうなったのかもしれません。何かひとつに的を絞るのがいいのではと思っていました。補足はわたりに船といった感がします。 >マスメディア構造における政治表現と政治権力のもたれあい 芸術表現の問題から少し離れた問題になりましたが、カルチゃーは当然ながら政治そのものを含みます。私はいつも単純化してしまう癖を持っているのでまちがうかもしれませんんが、クーデタが常に放送局を占拠するように、権力がマすメディアの独占を夢見ているのは常識です。ここでもマスメディア側の志が一番の問題だとは思いませんか?政治権力もマスメディアの権力も大衆へおよぼす力という意味では並立したものです。だからこそおたがいの対立があり、また思惑からもたれあいだってあるでしょう。マスメディアそのものも一枚岩ではなくいくつもの独立した巨大人格になっているのが現代の状況です。 朝日と読売との対比で朝日が反権力だからよいということは一概には言えません。読売の立場も権力との癒着だと断じるのは単純なので、結局彼らの本気度をわれわれは理性的に推し量って支持か不支持かを決めることになります。 金(資本)と権力との癒着はまたちょっと違った次元の問題だと思います。ここでも単純すぎる結論になるかもしれませんが、資本主義社会においてもカルチャーの健全な発展は十分可能だと私は思います。日本は政治が文化へ介入する状況が韓国ほどには露骨でない点、まだ健康だと思います(私は楽観派なのでしょう)。 もちろん、前記した様々な弱小芸術活動に補助金が出なかったり、無慈悲に消費税上げの直撃を受けたり、問題は多々あるとは思いますが。 物足りないと思います。問題があればまた補足ください(笑)。
その他の回答 (4)
>大衆見物人は、身を滅ぼしていく刹那的な芸事の 悲哀感の煌めきを尊敬し愛していたんではなかったのではないでしょうか。 確かに、そういった詩的な情感的な一面はあったと思います。でも大衆ほどとらえどころのないものはありません。その一方でさめた目で軽蔑していたのではないでしょうか。そのほうが常識的で健康的ですし。 >現代においては、前者の大衆文化(ジャーナリズムを含む)コンテンツ は巨大資本に支配されて権力と結びつき、政治的疑いさえぬぐえない時も あります。 TVを中心としたマス・コミにこびる形態の大衆文化がそういった傾向にあることは否定できません。 私もそういった「有名になってなんぼ」という世界には楽しめません。でもそれを多くのひとたちが支持していることは事実ですし、一概に全否定は出来ないと思います。 そういった見方は、やはり文化の一面を悲観的に眺めているだけなのかもしれません。 たとえばクラシック音楽の世界、舞台芸術の世界、他にもあるかもしれませんが、彼らは巨大資本からは離れて、儲からないまま自分たちの芸を懸命に磨いて社会の一隅でがんばり続けています。あ、大衆芸能のことでしたか。サーカスの実演や座長大会などの舞台もまだまだ残っていると思いますが、マスコミには乗らないでしょう。 もっとも、そうはいっても無名な彼らの社会的な力は限定的です。 権力は金も暴力も持っていますから、何だって出来るのです。それを乗り越えるのは文化と芸術の独立です。マスコミをうまく利用して芸術家が大衆を味方にし、自力で資産も手に入れた現在、貴方のいう問題を乗り越えられるかどうかは芸術家個人の資質とその価値観にかかっていると思います。 そう深刻な問題ではないと思います。
お礼
ありがとうございます。 文化と芸術の独立は必要だと思いますが、 マスコミを利用した時点で権力とのもたれあいが 発生してしまいます。 政治的表現が一切ふくまれていないなら、確かに 深刻な要素はどこにも見あたりませんが、そういう わけにもいかないでしょう。 電子書籍も技術的にライセンスを担保しといたほうが かえって健全だと思うんですけどね。 ま、たしかに、どうでもいいといえばどうでもいい となっちゃうんですけどね。
補足
今、気がついたのですが、一番気になってたのは 「マスメディア構造における政治表現と政治権力のもたれあい」でした。 もしよろしければ、このまましきり直しませんがお願いします。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
「人はパンのみに生きるにあらず。」と宗教家が言っていますが、同じく芸術もそれに含まれるのでしょうね。 芸術は無形文化財であるが故に、芸術を生業として収入を得ることが難しい職業ですね。それゆえ「河原乞食」と言われるのでしょう。これは宗教家も同じ立場ですね。 かっては、パトロンと呼ばれる王侯貴族に認められたものだけがなんとか河原乞食から抜けられましたが、それ以外は大衆からのわずかな収入で生きていましたね。クラシックの音楽家、絵描き、ダンサーなどなど、サーカスだけではないですね。芸術家は安定した職業ではないので刹那的な生き方になってしまうところがありますね。アリとキリギリスのおとぎばなしのようにね。自由資本主義はむしろ芸術家の職業を安定化させる方向にあると思いますね。当然、資本家の影響は色濃く受けますが、大衆は視聴率という武器で正当な評価をすることはできるようになっていますし、豊かになることは芸術の裾野を広げ、より優秀な人材を世に送り出すことができることも事実ですね。私も子供の頃、木下サーカスをみて興奮したものです。空中ブランコはすごいと思いましたが、現代はテレビで器械体操やフィギャースケトをみてすごいと思います。その感情は同じですね。大衆はより多くの娯楽を無料で手に入れ、芸術家はより生きやすくなっているわけです。 また、貧しい時代の芸人たちより豊かな現代の方が生き生きしているように思います。「人はパンのみに生きるにあらず。」ではありますが衣食住が安定しないとやはりだめなんでしょうね。そう言う意味では豊かさは必要だと思いますし、芸術家にとって自らの夢を実現できれば政治も体制もあまり関係ないようにも思えます。社会主義国家では選ばれた芸術家は国家のお抱えとして生きることはできますが、かってのパトロンのように楯突くことはできません。政治利用されるわけですので、そういう世界では芸術家は苦しいでしょう。豊かな自由資本主義は芸術家にとっては住みやすいのではないでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 芸術家は必要だと思いますが、個人的には貴族による保存は 肯定するべきかどうか、考えさせられます、あまりよくない 結果になりそうな気がするのですが。 純粋な芸術には、現状でも予算をつけているのでしょうね。 企業が趣味で抱えることもあるかもしれません。 もちろん政治的な表現というのも、一つの表現ではあるけども その場合には、やっぱり独立した立場であってほしいと 思わずにはいられません。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
以前は、芸能人のことを「川原乞食」と呼ぶ事がありました。 要するに、まじめに実体生産するお百姓さんや職人に寄生し、 なぐさみとして芸を披露する、必須の存在ではなかったからです。 しかし、同様な「寄生」として卑しいものとされて「士農工商」と 最下層に位置づけられていた商人が、市場の拡大と貨幣制の 浸透において、いつの間にか裏の権力者にのし上がったように、 媒介者としての商人が握っていたお金に対し、同じく情報の 媒介者としての芸能界が、「川原乞食」から実質の権力者と して富を独占するようになったのです。 こうした中央集権的な体制は、個々人がお金や出世、刹那的 な娯楽といった社会的虚構に条件反射的に対応する事で、 他律的に生かされるようになった事とセットで深まったのです。 真の生きる意味=社会生命的自覚化による自律的生(お金の ために働かされるのではなく、愛による助け合いとしての労働) =生きる事自体による喜びによって、置換されるべきものです。
お礼
ありがとうございます。 現状では、どうなのでしょうか。少しづつですが、どこか形骸化 しつつあるような気がするのですが、気のせいでしょうか。 今のままでは「企業の大きな間接費」のもたれあいによってもた らされた、もう一つの政治権力という見方は、うがっているとい えども、ぬぐいきれませんし、まだ必要だと思います。 村上隆さんのような試みはひとつの提案なんでしょうね。 コンテンツの課金制(予約して夜中にバッチで送信とかで)で 広告が後付けでふづいしてくるぐらいのほうが、 健全な感じはしますね。 韓国なんかそれ日本に売って外貨かせいでるっていうのは、 たくましすぎます。 でも、それだと、純粋な芸術はすくいきれないわけですが。
- compequal
- ベストアンサー率42% (61/145)
回答ではなくて、質問の確認になります。 すみませんが、ご質問の内容自体を三回読みなおしてみたのですが、 意味を汲み取りかねます。 ご質問の内容を推測してみたのですが、二つの解釈を思いついたのですが、 どちらの解釈に近いでしょうか。あるいは、どちらとも違いますでしょうか。 違うのであれば、どう違うのか、をご提示いただけましたら幸いです。 ■解釈その1. ・現代のテレビメディアなどを見る大衆文化は聴衆は、ただ単に何も考えずにテレビを見てダラダラ楽しむだけでそこには何の反省的な思考も伴わない。 ・一方で、サーカス的な見世物というのは、刹那的な悲哀感を前提にしていた。そこでは、刹那的な快楽を考えさせる、非常に深い場所だった(はず)だ。 ・それに比べると、現代のテレビ文化などのコンテンツは、クソったれである。バカを再生産するだけだ。 ・そして、この無反省なコンテンツ消費の仕組みは資本主義によってもたらされているものである。 ・この資本主義がもたらした無反省な文化の問題はどうすれば解決できるのか? ■解釈その2. ・まず、大衆的娯楽文化(サーカス&エンタテイメント産業)と、ハイカルチャー(科学、宗教、学問)の対比を考える。 ・大衆娯楽文化はもともと政治性とは関係がなかった。純粋な快楽である。 ・一方で、ハイカルチャーは、政治的な問題を議論するための媒介でもあった。宗教指導者が政治指導者と対立したり、学問的権威が政治的権威と緊張感のある批判的関係を構築したりする、というのはごく一般的にあったことである。すなわち、ハイカルチャーは公共的問題を扱うための重要な要素だった。 ・つまり、大衆娯楽と、政治に関わるハイカルチャーとはそもそもにおいて別々のものだった。 ・しかし、現代においては、大衆的娯楽と、政治に関わるハイカルチャーは分離不可能な状態になっている。 ・大衆的娯楽文化は、現在では政治権力によって操作されているのではないか、と疑われるような場合も少なくない。 ・そして、それは資本主義によってもたらされた問題である。資本主義こそが、大衆的娯楽を日常生活のあらゆる場所にはびこらせた張本人であり、巨大資本は、政治権力に対する批判的能力をもっていない。 ・大衆的娯楽は、政治権力に対する批判力をもたないまま、ただダラシのない娯楽と化してしまっている。 ・この構造は、解決しうるのか?
お礼
ありがとうございます。 ぼんやりした質問に輪郭が出てきたようです。 自分でもあまりわからないまま質問したので助かります。 どちらかというと、2に近い印象をもっています。 ですが、微妙に違うのは、現代の自由主義が加速された社会において 政治権力と資本権力は、果たしてどちらが、実際の政治に対する権力 をもっているかを慎重に考えたいところです。 自由主義とは何なのかと考えればおのずと答えはでてくるのではない でしょうか。つまり大衆文化(ジャーナリズムを含む)のコンテンツは 本来は独立して、大衆の為にあるはずです。 ダラシない娯楽であることが、本来だと思うのですが(レクリエーションですから) そこから、権力に対する批判性が自然にでてくるはずだと思うのです。 今は、どちらかというと不安な社会だからという理由もあるかもしれませんが 大衆の批判、または批判まではいかなくても制圧や、啓蒙、そしてそれは勿論 巨大資本への奉仕であり、政治力にもむすびついている様にさえ思えるのです。 かえって純然たる政治のありかたを問い正そうという姿勢の方が自由が担保され 公正な批判ができるのではないかと思えてくる時もあるのです。 娯楽は結構ですが、娯楽は権力となかよくしたら、どうなのでしょうかという ことでした。
補足
補足です。 乗り越えられるかというところにある意味は、 批判でもなく、革命でもなく、 一筋の止揚の光を探してみてほしいということです。
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補足
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