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科学とは何かまたは科学の定義についての考察

masa2211の回答

  • masa2211
  • ベストアンサー率43% (178/411)
回答No.5

>「科学とは、人間に、普遍的に認識された現象を、ある前提において抽象化したもの」 おそらくは、デカルトの「方法序説」を採用したものと思いますが、だいぶ改悪されています。 改悪後だと、たとえば性善説や性悪説といったもの(道徳や宗教)も科学になります。それでいいの?? 人間の行動原理は、明らかに、「人間に普遍的に認識された現象。」それを言葉で説明しているから、完全に定義を満たしています。 また、通常では非科学に分類されるもの(たとえば血液型性格判断)も科学になります。 血液型と性格は、「人間に普遍的に認識された現象。」だし、「ある前提」というのは、具体的には統計無視ですが、前提が正しい場合に限るという条件は付いていません。条件つけた場合、「間違った科学(天動説、定常宇宙論、その他間違っていることが判明し廃棄された仮説の全て)」も科学ではないことになります。 通常、「間違った科学」は科学に分類し、非科学は科学に分類しません。 というわけで、OWARI2012 さんの定義では、世間の通常認識と大きなズレがあります。 >科学者に、科学って何ですかと訊いても答えられませんでした。 この前提も甚だ怪しいです。たとえば、 カール・セーガンの「人はなぜエセ科学に騙されるのか」 マーティン ガードナー 「奇妙な論理」 アシモフの「科学エッセイシリーズ」 などに書かれています。そして、内容は大体共通。 ・未知のものを調べる際に使う方法のうち、正しい方法だと認識されているもの。 要するに、「方法」であるわけで、研究対象物には左右されないということ。 幽霊の研究だからといって科学でないと決め付けることはできないし、 物理法則の研究でも科学で無い場合もあります。 具体的には、 たとえば、相対性理論で、今知られているのとは別の式で説明する理論を立てたとして、 立てるまではいいんだけど、「その式ではすでに知られている○○という現象の結果が合わない」 と反論されたときに、その反論を無視したら、無視した時点で科学ではなくなってしまいます。 で、理論を立てる際に、「その理論が正しいか間違っているか検証する方法が無い」場合は 科学ではないとするのが通常。(反証可能性と言います) たとえば、神の定義をキリスト教での定義とすると、「神を試してはならない」ということに なっているから、検証する方法が無いという理由で科学ではないのです。 ですから、科学なのかそうでないのか見分けるには、「反証可能性」使えば大半OKですが、 グレーゾーンが残ります。グレーゾーンが残ることを称して、 「科学は方法論ではない」と批判もあるけど、あくまで、大半は「反証可能性」の一発でok。 重要な例外として、宇宙論における人間原理みたいに、原理的に反証できないものが 科学の中に混じっているので、「反証可能性」だけでは全面解決とはいかないけれど、 幽霊とかスプーン曲げとからなら、「反証可能性」だけで大半を刈り込めるでしょう。 ※たとえば、スプーン曲げの場合、トリックできない環境で曲げられるかどうか実験していれば  科学でありそうでなければ非科学とみなすということです。 >以上、見てきたように、科学はその内部に破綻(矛盾や証明不可能な前提)を含んでいる。 これ、考察として致命的です。前提に突っ込みどころ多数あるのはさておき、結論が正しいとして、だからどうしたらいいと考えているか書かれていません。こう結論付けた以上、科学を使ってはダメなのか、使うときは限界を意識すべき、という意味かどちらかなんだろうけど。 で、内部破綻とは、不完全定理由来の言っているわけですね?それを持ち出していいなら、全ての学問が内部破綻しているといっていることになります。 たとえばコンピュータですが、 不完全定理による破綻とは、 ・メモリー無限大、処理速度無限大のコンピュータを使った場合でも計算できないものが少なくとも  1つ存在する。 現在で計算できないものは腐るほど存在。どうでもいいことじゃないか。 科学に置き換えると、 内部破綻とは 宇宙全体をシミュレーションをするとき、それは正確ではない。なぜなら、 宇宙の物質の一部の物質を使っているから、シミュレーションするという行為自体で 結果が変わり、そのことが反映できない。 ※不完全定理は、この手(=自己参照)の問題が必ず存在する、という定理です。 これも、どうでもいい問題にすぎないと思うが。 ゆえに、重大問題をほっておいてどうでもいい細かいところだけ議論しているとしか思えません。

OWARI2012
質問者

お礼

仰る通りかも知れませんね。けれども、何度も言うように、ここで問題にされているのは、わたくしが、俎上に載せた「科学」の「定義」について、何処をどうすれば、「科学」とは何かを正確に「定義」できるのかであって、批判はありがたいのですが、批判とともに「科学」を「定義」づけしてい頂きたいと言うことです。重ね重ね、ご批判はありがたいと思いますが、まったく「科学」を「定義」することについては触れられていないのは残念です。申し訳ありませんけれど、では、「科学」とはなにかを正確に「定義」してみたものを、ここにUPして頂けますでしょうか?その上でわたくしの「定義」と「比較し」検討することで「科学」とはなんぞやという疑問に対しての回答を得たいと思います。どうかよろしくお願いいたします。  どうでも良いことかも知れませんけれど、それを言ったら、全て宇宙に存在するであろう「事象」はみな、どうでも良くなってしまいます。いかがでしょうか。個人的な価値観をできるだけ排除して正面から「科学」の「定義」付けを、して頂けませんでしょうか? よろしくお願い申し上げます。  加えるに、いただいた回答の中に「科学でありそうでなければ非科学と見なす」というお言葉が「無自覚に」使われておりますけれども、ここで「問題」にされているのは、まさにその「科学」とは何かということなのです。おわかり頂けるでしょうか? いずれにせよ、わたくしの質問に対して、真摯にお答え頂いたことには、感謝いたします。

OWARI2012
質問者

補足

今までお付き合いいただいた、皆様方には感謝いたします。 しつこいようですが、ここで、整理しておきましょう。 質問を簡潔に言えば 「科学」とは何か? です。つまりは「科学」の「定義」づけです。それが分からずにいったい「科学」は何をどうしたら「科学」と呼べるのか分かりません。 例えば「これは科学的だ」とか「これは科学的ではない」と良く見聞きいたしますけれど、肝心な「では、科学的とは何か」もわからず、何故、そのようなことが断言できるのか、全く分かりません。そういうことです。 「正しい科学」も同じです。はっきり言ってそういうときの「科学」はただのイメージでしかありませんよね。「科学」が何かも分からず、何故「正しい」か「正しくないか」が分かるのか、全く分かりません。 ご批判は沢山あると思いますが、なにが「科学」かについては、はっきりとした答えを受けていない気がいたします。 できれば、ご批判とともに「ここは、こうではく、こう言うべきだ」という回答を求めております。 わたくしの「科学の定義」はあくまで、出発点です。それを土台に、話を進めようと言うことです。「科学」って何だ?と言う疑問に、ある程度の「定義」づけをしたいというか、しないといけないと思うからです。 と言うことで、よろしくお願い申し上げます。

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