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科学とは何かまたは科学の定義についての考察

雪中庵(@psytex)の回答

回答No.2

量子論(不確定性原理)が否定したのは、因果律ではなく 決定論です。 「因果律の否定」とは原因と結果(=因果関係)が不明確に なるという事であり、それはたとえば物理でいえば、自由に 光速を超える事によって起きるが、実際には、量子性その ものが光量子として、光速不変性を代表しています。 その「量子」を単位とし、クォーク>素粒子>原子>分子> 細胞>個体(脳=心)といった階層現象性(単位の相互作用 において安定した反応が上位階層の単位となる)において、 経験の蓄積による現象表面的定性化で、原理的な確定化 (=無限不確定化)を経ずに、有限的存在性を派生させて いるのです。 日常的感覚の延長(有限的存在性の先入化)において、 「不確定性によって矛盾している」というのは、主客転倒です。 矛盾(いい加減な認識による(有りもしない)表面的な捉え方) こそが存在性の源泉です。 対象を先入化する事が間違いの元なのです。 全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づき、 無限に詰めると存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、 認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は 光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。 量子論的世界像では、有限な存在性は観測によって生じています。 不確定性原理の相補的不確定性を、確定化して無限不確定性に 発散させないよう、階層現象表面(仮象)的に“いい加減”に捉える 事で、有限的な存在性(宇宙)は派生している、ていう。 自我仮説と時空仮説の相補分化‥‥全ては、あなたが存在する ための(物理的根源にまで遡った)補完なのです。 相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によって しか存在性は無い、という帰結を潜在的に持っています。 絶対的時空や客観的存在というのはない、というものであり、 認識性(相対)を除外した存在は、無=無限不確定性になります。 我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、 「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の 感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験(過去 =超光速)による予測(未来=光速下)として時空的広がりは発生 しているのです(無の不確定性無限の潜在としての、「自我仮説 性」の相補としての「時空仮説性」)。 「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性(h) の収束におけるhの減少の時系列化である時、それが架空の 時間軸となって、空間的確定性としての無限不確定的空間性が、 超光速(過去=経験=時間)と光速下(未来=予測=空間)に相補分化 する受け皿となり、同一軸の延長が仮説的に直交基底をなす事で 相補的不確定性を生じ、経験による予測=現象表面的定性化に おける有限的存在(=非光速)を幻出しているのです。 その仮説的時空軸は(相対性理論において時間項がマイナス ゆえに)等距離点に「ライトコーン」と呼ばれる、0の界面を生じます。 なぜライトコーンかというと、それこそが光の描く軌跡だからです。 「何か有るんじゃ?」という疑問(自我仮説)の相補として生じた 時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影と して、存在は生じていると言えます。 換言すれば、無いとは分からない事が有なのです。 その、「我々の感受における存在性がいかに虚妄か=単位と 相互作用のくり返しによる階層現象性への還元の果ての無 への回帰」こそ科学の本質である。

OWARI2012
質問者

補足

長文のコメントに貴重なお時間を割いて頂き、感謝いたします。 ただ、わたくしが、「科学」の定義した、そもそもの疑問である「科学とはなにか」 に対しては、全く触れられていないのが残念です。それから。わたくしが仮説として 定義づけした「科学」についてにも、触れられていません。 いずれにしても、教えて頂いたことは、大変勉強になりました。 ありがとうございます。

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