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科学とは何かまたは科学の定義についての考察
八百屋さんに、八百屋って何する仕事ですかと訊けば、野菜を売るんだよ。と答えくれますが、科学者に、科学って何ですかと訊いても答えられませんでした。そこで。自分なりの科学の定義を考えたのですが、穴があったら教えて頂ければと思います。 「科学とは、人間に、普遍的に認識された現象を、ある前提において、言語や数式などの記号によって抽象化したもの」です。説明します。 幽霊がよく出る場所というものが、ある。ある人は幽霊を見たといい、ある人は見てないという。目撃談というものは、そういうものだ。 では科学はそのことについて何が言えるか。何も言えないのである。いいところ、こういう場合には、それに似たものが目撃されることもある、と言うのが精一杯で、絶対にそんなものは存在しない、とは言えない。 何故か。 科学は再現性を有し、かつ万人に認識される現象しかあつかわない。再現性のないもの、特定の人間にしか認識されない現象については、何とも言えない。 科学は結論として、普遍性を保証しているわけではない。つまり「宇宙のあらゆる現象には再現性があり、かつ万人によって認識されうる」という命題の真偽は手付かずのままなのだ。 ただ科学は、黙々と、再現性があり万人に認識される現象についての法則を求めてきただけなのだ。言ってみれば、霊現象は、先程の命題を偽とする有力な証拠にも成りうるのである。 認識、という問題については後に述べるとして、ここでは、ただ、認識なるものが、その対象を万人が等しく認識することが可能か、とだけ言っておこう。つまり、白、と言った場合、私が認識するところの白が、他人にとっては、私に取っての赤にみえないとも限らない。同じだ、と証明することは論理的には不可能なのだ。 さらに、科学はいろいろな前提を必要とする。世界を前提によって、ピン留めしなくては、そもそも法則など求められない。 科学が用いている前提は多岐にわたる。一番基本的なのが、アリストテレスが唱えた、排中律(ある命題は真か偽のどちらかである)同一律(A=Bのとき同時にA≠Bということはありえない)だ。それから因果律(Aという現象とBという現象が連続して認識される場合、AをBの原因といい、BをAの結果と言う)も挙げられよう。他にも前提は無数にある。上記三つの前提は、科学のみならず、科学の土台となる論理学、数学、の土台ともなっている大前提の大前提だが、種々の科学法則は、それら前提の積み木の上に成立しているもし、それらの積み木が誤っていれば、当然、その法則自体間違いだということになる。 そこで例えば、熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)について考えてみると、一番上段の積み木は「閉じられた系に置いて」という前提がある。 科学法則は決して絶対などではない。もしそうならば、生命などというものが宇宙に存在する筈が無いからだ。だが、生命はある。どういうことかというと、生命が存在した場所は「閉じられた系」ではなく、「開かれた系」なのだ。プリゴジンは散逸理論を唱え、そのことを明らかにした。科学は前提が世界と一致する範囲においてのみ、有用なのだ。 さて、「いわゆる現実」という名の物語の正当性の根拠とされる科学の根拠とも呼べる、排中律、同一律、因果律の正当性はどこにあるのだろう?それらを正しいとする根拠は何処に有るのだろうか? ない。 A=Aが正しいと論理的に証明することは不可能だ。それはあらゆる論理の出発点なのだ。論理学はA=Aを真だということにして、論理を進めていくのである。それ自体を正しいとする根拠は何処にも無い。ではなぜそれを正しいとするのか?それは正しいとしたからである。 信仰とは「根拠が無いものをあると信じること」だとは述べた。これは、まさしく信仰に他ならない。科学も結局は信仰からスタートしているのだ。 因果律についてはどうか? ヒュームは、原因と結果は、時間的連続性をもって認識される、二つの現象に過ぎないと言った。つまり、Aという現象の次にBという現象が認識されたとしても、その二つを原因と結果という関係で結ぶのは、結局のところ「物語」だといった。再現性など役に立たない。例えX(Xは正の整数)回AとBが連続して認識されても、X+1回目がどうなるかは分からない。分かる、とするのは物語の行なう独断で、それを保証する論理的根拠はない。結局のところ、こないだもそうだったから、今度だってそうだ、ということなのだ。 量子力学という科学において、ハイゼンベルクは不確実性理論により、因果律を実験的に、否定してしまった。そこでは現象が原因と結果では結ぶことができない。 次に、言語や数式などの記号によって抽象化したもの、ということについて考えてみよう。これはただ、ゲーデル不完全理論を挙げれば、その欠陥は明らかになる。 つまり、あらゆる論理体系はその内部に証明不可能な前提やパラドックスを含んでいる、ということだ。 以上、見てきたように、科学はその内部に破綻(矛盾や証明不可能な前提)を含んでいる。 いかがでしょう。
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お礼
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