• 締切済み

幸福ってなんでしょうか?

春休みに突入して時間を持て余している大学生がふと考えたたわいもないことなんですが 幸福って何でしょう? 人それぞれ幸福に感じるときというのは違ってくると思うんですが、大別すると 家族関係が良好だとか、友達に恵まれているだとか、恋人がいるなどの周りの環境を意識したとき もしくは 趣味に興じているときの充実感や、何かをやり遂げた時の達成感を感じるとき の二つに分かれると思うんです。 でも、前者の幸福を意識するときって同時にその逆の状況を心の中で差別していますよね。 親と不仲じゃなくて良かった、家庭内暴力がなくて良かった、友達が少なくなくて良かった、恋人がいなくて寂しい思いをせずに良かった…など。 つまり、前者の幸福を感じることと、周りの環境が恵まれていない人に対して自分が優位の立場にいるという、優越感を感じていることは同値ですよね? 他にも、資本主義的な経済体制が与える人生へのインセンティブも、資本主義の敗者を意識して生まれるものだろうし、 危篤だった大切な人が元気に回復することに感じる喜びも、最悪の状況に陥った人を意識して感じるものだと思います。 それに対して、後者の幸福は周りの環境ではなく、自分を意識して得られるものですよね。 僕も趣味で絵を描いたり、ピアノで作曲したりと、下手の横好きながらいろんな絵や曲の創作をしていますが、 創っているときにに感じる充実感、幸福感、自己満足感って一体何なんだろうって思うようになりました。 また、達成感というのは前者の幸福に通じるものがあるような気がします。 大学受験の場合だと、自分が一生懸命勉強して受かる喜びも落ちる人がいてこそ生まれるもので、そこがまた醍醐味じゃないですか。(語弊があったらすいません;;) 誰もが受かる受験制度だったらそんな喜び感じないと思うし… 幸せならそれはそれでいいと思うんですが、 優越感を感じる幸福と、わけのわからない自己満足に通ずる幸福って考えると変な気分になります。 自分の世界観が小っちゃくなった気がします。 皆さんは幸福についてどう思われますか?

みんなの回答

  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.9

幸福を知るには、喜びを知らなければなりません。 喜びの発生のメカニズムは、あなたも絵を描かれているようなので、それを例に取れば、次のようになるでしょう。 画家の喜びは、彼がもっている構想自体が対象になるか、あるいはその構想が、絵画という作品として実体化して対象となったとき、その対象からくる刺激によって、自己の内面と形状とを相対的に感じて初めて発生するようになるのです。 ここで、構想自体(作品前)が対象として立つときには、それからくる刺激は、実体的なものではないために、それによる喜びも実体的なものとなることができませんね。 これから描こうとするモティーフをイメージしながら、期待でワクワクしている状態(それを思い描いただけでヨダレがでてくるような感じ)ですね。 そして、実際の絵画を作品と仕上げるまでの過程(格闘かもしれませんが)があり、ようやく完成したとき、それがまさにイメージ(構想)通りだったなら、死んでもいいぐらいの喜びですね。 その作者ならではの構想が絵画という作品として実現した瞬間、その作品は作者にとっての第二の自己と呼んでもいいものです。だから嬉しいんです。作品から自分のオリジナリティーを感じ取るからです。 しかし、イメージ通りではなかったとしたら、なかなか喜べませんね。 なかなかイメージ通り実体化できない時は、キャンバスを投げつけたりもします。まさに格闘ですね。 私なんかも、油絵描くんですが、あともう少しでイメージが実現化できそうでできない時は、寝食を忘れて描き続け、やっとできあがった時には、翌朝になっていたりします。 そうなると、その絵は、自己の対象としての描かれた独立した絵でありながら、「こいつは、俺そのものだ」なって感じている自分がいるんですね。 端的には喜びはこういう具合に発生するものだと思います。 中でも、自分の心が望んでいる通りの人間になる喜び(=自己創造の喜び)は、絵画などよりは、もっと大きなテーマの喜びですね。人生というキャンバスに自分という人間作品をいかにイメージ通りに完成させるかですから・・・できあがった自分という人間を対象とし、そこからくる刺激で、自己の内面と形状を相対的に感知することで喜びが発生するというわけです。 対象が有形無形何であれ、そこから自己の内面的要素と形状的要素を相対的に感じることで喜びという刺激が生まれる・・・言い方を換えれば、キーワードは、自分という存在と似ている、つまり相似形ということです。 ある人が地面の蟻を見て喜んでいたとしたら、その蟻が自分と似ているからだということです。 手足の数はちがいますが、確かに頭もあり、同体もあり、肢もあり、歩いて移動するのも人間そっくりです。蟻の中に自分を見るから喜びが湧くんですね。もちろん、蟻の機能や構造的な形からではなく、生き様や生活様式を知って、喜びを感じてもいいわけです。「ああ、俺の生き方に似ているな」とかね。 ですから、猿やチンパンジーに至っては、そんな次元ではないでしょう。ほんと見ていて喜びも愛も生まれますね。 そして人間の赤ちゃんが生まれたときには、あるいは、他人の赤ちゃんであっても、その姿を見たときには、猿を見た喜びの比ではないですよね。「目に入れても痛くない」などと表現するぐらい喜びが大きいというわけです。 早い話が、似てないものからは、喜びを感じることは不可能なのです。 しかし、世の中、ミクロ(素粒子・原子・分子)からマクロ(天体)に至るまで、人間に似ていない存在は一つもありませんね。だから何万何千という学問や研究対象が生まれるわけですね。喜びなんです♪ 地球なんてのも、本当に人間と似ていますね。 地球には植物に覆われた地殻があり、地層の中には地下泉があって、その下に岩層に覆われた溶岩層があるが、これは、ちょうど、産毛で覆われた皮膚があって、筋肉の中には血管があり、その下には、骨格と、骨格に覆われた骨髄がある人間の構造とよく似ています。それどころか、海と陸の構成比まで近似しています。更には海水の成分の構成比は血液と同じです。 まるで、神様が、人間を基本形にして、他の動物植物鉱物天体など、捨象変形させて散らばらせたような感じですね。それを見た人間がどこからでも喜びを見出せるように計らっているかのように・・・

  • hi-sekai
  • ベストアンサー率41% (274/667)
回答No.8

幸福とは目的であって、 質問文に挙げられている事は幸福に至る過程なのでは。 例えば、バリバリと仕事をこなして収入がたくさんあり、 都内の高級マンションに住んで、綺麗な奥さん又は彼女がいて たまに高級レストランへ行き、…というのも幸せでしょうが、 仕事はあまりぱっとせず、狭いワンルームマンションに住んでいるけれど、 仕事帰りに家の近くのスポーツクラブで軽く運動をしてジャグジーにつかり、 サウナで汗を流してゆっくり熱いお風呂に入ってリラックスし、 そのまま家に帰ってぐっすり寝る事が極上の幸せと感じる人もいると思います。 誰でも最終目的は「幸福と感じる事」そのものであって、 そこに至る過程を考えすぎたり、欲を出しすぎる事が混乱する原因で、 現在自分の持っている能力や環境で十分幸せを感じる事は出来るはずですが、 欲と過程に重きを置きすぎるあまり、最終目的を見失っている気がします。 私のとって幸福とは、今よりも更に良くしようと望みつつも、 身の回りで起ったり感じたりする小さな喜びを幸せと感じる事です。

noname#203300
noname#203300
回答No.7

> 皆さんは幸福についてどう思われますか?  周りのそこいらじゅうに“転がって”いるものです。 ただ、質問者様もお気づきのように、それに気がつく“鋭敏な神経”がなければなりません。

回答No.6

はじめまして。 周囲の不幸な人を見て、自分はそうじゃなくて良かったと優越感を感じる事と 幸福であると感じる事は同値では無いと、私は思います。 私には子供が居ます。 その子の寝顔を見ていたりすると、本当にこの子を産んで良かったと思うし 自分の子供と戯れていたりすると、すごく幸福だと感じます。 では、その幸福感は誰かと比べているのか?と問われれば 正直、その感覚は無いです。 だって比べる人、居ないですもん。 テレビで観るニュースの中に出て来る人や、人づてに聞いた話、 今まで聞いた事のある不幸な人たちの話を、そこに引き合いとして出す事は無いです。 >危篤だった大切な人が元気に回復することに感じる喜びも、 >最悪の状況に陥った人を意識して感じるものだと これもどうかと思いますね。 私の母は10年近く前に他界しました。 闘病中は良くなったり、悪くなったりの繰り返しでしたが 良くなった時には素直にその事実を喜びましたし、 良くなった時にあなたの言う「最悪の状況に陥った人」の事など 考える余裕なんてありませんでした。 更に言うなら受験で受かった時、受かった事のみに喜びを感じて 落ちた人に対して、「ああならなくて良かった」なんて思った経験は無いです。 大きい視野で見れば、あなたの言うように落ちた人が居るから自分が受かったのですけど それはただ単に「そういう事実」があるだけであって、 私自身の感情を左右する事柄では無かったですよ。 あなたがそう感じたり、考えたりするのは 経験に裏打ちされた経験値としてではないですよね? 言うなれば「机上の空論」です。 いちいち、自分が幸福である事を人と比べる事でしか感じられないのだとするなら それはそれで可哀相な人だなぁと私は思います。 幸福である事、幸福だと感じる事、それは人それぞれですし それを全員が全員、人と比べている訳では無いと思いますよ。 確かにあなたの言うように、自分は違って良かったと思う事はあると思います。 でもそれが幸福感に繋がるか?と言われれば、私は頷けませんね。 人と比べる事で得られる幸福感なんて、その瞬間の産物でしかないと思います。 でも今、私が感じている幸福感は自分が妊娠していると分かった瞬間から ずっと続いているものです。 主人が子供と楽しそうにお風呂に入っているのを見るだけですごく幸せだし、 その幸福感は「誰かさんは一緒にお風呂にも入れないんだ」なんていう思考には至りません。 すごく理論的に考えようとしているようですが、人間には感情があります。 それも好きとか嫌いだけで片付けられるような簡単なものでは無く 複雑怪奇なものです。 その感情に何か理由をつけようとしても、理由などない事もあるんです。 ただ幸福だと思う。 幸福の度合いや、大きさ、深さ、そんなものは誰しも一緒では無いと思います。 同じような事象であっても、人によって感じ方が違うのですから。 受験で受かって死ぬほど嬉しい人も居れば、 ただの通過点としてチェックポイントでスタンプ押してもらえて良かった程度の人も居ます。 大事なのは、幸福だと感じる事が出来る心。 それを素直に受け止める器の大きさかな、とww ご参考までに。

  • syuzuki
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.5

長文失礼いたします。 私も質問者さんの投稿内容を読んで、深く考えさせられました。     人類は幸福について様々な哲学・思想・宗教をもって追求してきました。 学生の方なら、アリストテレスやソクラテスの幸福論について聞き及んだことがあるかも知れません。 質問者さんの考える所には共感する部分があります。  前者の優越感を感じる幸福・・・というところですが、私事ではありますが、私には二人の子供がおります。 わが子をみる時、「この子は丈夫で強い子だ」「いい子で育てやすい」「自分は可愛い子供に恵まれて幸福だ」と感じることがあります。 裏を返せば、未熟児で生まれた子供・奇形・障害・何らかの病気をもって生まれた子供も多くいます。その親御さんの方たちは恐らく大変な生活を送っているかもしれません。 そういった状況と比較して「自分は幸福である」と自分自身で定義し一種の優越感を感じることは否めません。私自身もそうした考え方をしてしまったことに自己嫌悪を覚えます。 せっかくの幸福感が不幸感に変わってしまうのは可笑しな話ですが・・・。  さて、人間は他人と比較をしないと幸福感を感じることができないのでしょうか? 例えば一般的に、お金持ち(富んだ人)は貧しい人より幸福である・・・と考えます。お金があれば広い家に住めるし、高級車にも乗れる、美味しい物も食べられる。恐らくお金持ちの人は「貧しい人」という比較対象がいるから自分は幸福であると考えるでしょう。 ではお金持ちが皆、幸福なのでしょうか? お金を稼ぐことに必死になりすぎて家族を顧みず家庭崩壊になった例もあります。 もっとお金を儲け様として悪事に手を染め警察に捕まった例もあります。 上げるとキリがないですが、お金によって人生がどん底に陥ったパターンは古よりあります。 その時、元・お金持ちの人は誰と比較して自分が幸福といえるのでしょうか? むしろ不幸ですよね。刑務所で服役中の人が自分は「誰々と比べて幸せだ」と考えるでしょうか。 他人との比較によって幸福感(優越感)を得るには限界があると私は感じます。 又、人が一人ひとり、自分の幸福を追求していくのにも限界があります。行き着く先が他人との抗争、または戦争ですから。 質問者さんの「幸福とはなにか」という疑問はつまるところ「真の幸福とはなにか?」と私は解釈しました。 優越感にも浸ることなく自己満足に陥ることのない本当の幸福感とはなにかと。  こういう諺があります 「受けるより与えるほうが幸福である」 この受けたり・与えたりするのは何もお金や物品ではありません。 感謝の気持ちや親切心でもありうるのです。 例えば、質問者さんが満員電車で運よく座席に座れたとします。目の前に杖を突いたご老人がおられます。 質問者さんはきっと席を譲って差し上げるでしょう。ご老人は「ありがとう。助かったわ」と感謝の言葉を述べます。 この時質問者さんはなにを感じて・考えておられるでしょうか。 自己満足ではありませんよね。ましてや誰かと比較したりもしません。 純粋に「あぁこの満員電車でずっと立っていたら大変だろうな。よし自分は若いし体力もある!席を譲って差し上げよう!」 と思われるはずです。(個々人の道徳的価値観はここでは言及しません) そして「ありがとう。助かったわ」と感謝の言葉を受けたとき、きっと質問者さんは幸福に感じると思われます。 その時の幸福感は優越感ですか?何かと比較していますか?自己満足ですか? きっとどれにも当てはまらないと思います。 席を譲ってもらったご老人も質問者さんの親切に幸福を感じ、質問者さんもご老人からの感謝の言葉で幸福を感じました。 これが「真の幸福」であると思われませんか。 まだまだ人生は様々な出来事があります。これからも幸福を感じるときもあれば不幸を感じることもあるでしょう。 私は質問者さんの感じる幸福感を否定はしません。むしろ肯定です。 でも、それだけじゃない幸福もあるということを考えてみるのも、人生と心がより豊かになって良いとおもわれますよ。

  • okei49
  • ベストアンサー率48% (72/147)
回答No.4

愛する人や大好きな人が、自分のしたことによって笑顔になってくれること。 その笑顔が近くにあること。 その時に心の奥底から涌き出てくる幸せの感覚を、幸福とよんでいます。 誰かの家庭と比べてとか、そういう余裕、私にはありませんでした。 それは『優越感』という感覚でそれ以上にはならないのです。 危篤だった人が元気に回復した時は、私ならまたその人の笑顔が見れる、と幸福になるだけです。 この感覚は、感じたままをシンプルに受け止めていいんじゃないでしょうか。 そして出来たら、幸せは分けてあげたいとも思います。 この根底には優越感がある、差別がある、不幸の上にある…とか考えてしまうと、せっかくの幸せが逃げちゃいますよ? どうぞよいお休みをすごして下さいね。

回答No.3

こんばんは! 私は、「感謝できること」が幸福だと思います。 質問者さまが書いてらしたように、マイナスのことがあってこそ、だとは思うのですが、決して優越感だとは思いません。マイナスを知っているからこそ、プラスの状況条件に感謝できる… それが「幸せ」だと思います。

  • marisuka
  • ベストアンサー率38% (638/1650)
回答No.2

世界に人が一人なら、幸福も不幸もない。 世界に人が、リンゴを食べる前のアダムとイヴだけなら、これまた幸福も不幸もない。 つまり、均質な世界には幸福も不幸もない。比較することで幸福という状態や不幸という状態が生まれる。 …と私は思います。 質問者様が唯一認めていらっしゃる「趣味に興じているときの充実感や、何かをやり遂げた時の達成感を感じるとき」の幸福感も、質問者様の論旨から言えば「趣味に興じていない自分や他人、何かをやり遂げていない自分や他人」との比較の上で生まれるものです。全員が同じ趣味に同じ程度に興じている世界や、全員が同じことをやり遂げた世界では、充実感も達成感もないのではありませんか? 私は、比較のうえでの幸福でいいと思いますよ。みんなそれを手に入れるために生きてるんだから。がんばった人から順に幸福になればいいじゃないですか。 そりゃあ生まれたときから恵まれた人も、その逆の人もいます。でも幸福の尺度は人それぞれだから、恵まれた人の幸福が大きいとは言えないし。他人は自分の尺度で見てそれを大きな幸福と思うでしょうが。

doraken3477
質問者

お礼

確かに僕の論旨に従うと 達成感や充実感も比較することで生まれる幸福の一種ですね 盲点でした笑 幸福は理屈とかに拘らず、割り切って受け入れた方がいいんですよね 比較の上の幸福でも人間は幸せになりたいと思うのが普通ですから 回答ありがとうございました

  • TYWalker
  • ベストアンサー率42% (281/661)
回答No.1

スミマセン、全部読んでませんw 私にとって幸福とは、「幸福」という言葉です。 それ以上でもそれ以下でもありません。 人それぞれ、価値観によって全然違うと思います。 カンタンに言うと、西洋人の牧師/神父の幸福はキリスト教の神を布教することですけど、それがはた迷惑な人もいるでしょう。 「人それぞれ全然違う」ということがあらかじめ分かっているので、考えること自体ありません。 自分の幸福を追求するだけです。

doraken3477
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

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  • 幸福感

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