• 締切済み

幸福について

今考えてる事なんですけど、人が目指しているもの、これ即ち幸福だと思います。それで幸福とはなんだろうと考えたとき、僕は名誉というものが大部分を占めると思います。僕の考える名誉には二種類あって、社会的名誉と人道的名誉と呼びます。前者は外的なものに対する名誉、つまり会社での立場だとか他人が自分をどう思うかで、後者は内的名誉、つまり自分で自分をどう思うかです。前者については今更言うまでもないと思うので、後者についてです。これには色々な判断基準があって難しいのですが、私はカントなどの説く道徳でなく自らの判断による正義によって判断されるべきだと思います。無論その正義は厳しい自己批判によってのみ作られるべきものです。正義とは人によって全く違う形を取ることもあるでしょうが、本当に厳しい自己批判によって作られたものには根底に共通したものがあるのではないでしょうか。今私は自分の正義を探しています。この正義こそが最終的な自分の理想であり、これの達成こそ幸福だと思います。以上が僕の考えです。この考えについて色々な人の意見が聞きたいです。お願いします。

みんなの回答

noname#36236
noname#36236
回答No.10

 まずは「灰色 濃さ 錯覚」で見つけた下記URLを見てください。  私の考える“幸福”は長い・重い・速いなどと同じ比較概念(造語)なのです。昔はこんな贅沢なもの食べられなかったなぁとか、世間の平均より収入が少ないからとかね。私は貧乏人ですが、昔の殿様より沢山の甘いデザートを食べることができます。ゴミの山で生活する少女にも笑顔はあります。意地悪なひとは、貧乏独身中年の私に「愉しみがあるのか」と質問して落ち込ませようとします。きっと、自分の幸福をかみしめたいという潜在意識が彼をそう言わせるのでしょう。いろんな比較の対象があるので気づかないだけで、実は“幸福”とは比較概念なのではと、現時点で仮定しています。  次に、【不幸の第一原則】と勝手に名づけたものを紹介しましょう。それは、心が内に向いている状態は“不幸”である。というものです。生活が苦しくても、やりくりとか外界への対処方法を夢中で考えているうちは“不幸”を感じないというものです。逆に、自分の性格は他人に愛されるかを考えたりするなど心が内を向くと“不幸”を感じるというものです。いじめられてる人や、結婚を控えて自分と相手の性格が合うかどうか考えたりすると陥りやすいのがこの【不幸の第一原則】です。  哲学(有機物)と思っていたものが、実は大脳生理学(無機物)だったりするのではないでしょうか。池谷裕二『進化しすぎた脳』を参考にした、私オリジナルの見方です。

参考URL:
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Sunnyvale/6266/sakkaku.swf
回答No.9

綺麗な奥さんをもらい、毎日好きなものを食べ、好きなことをして、病気にもならず、85歳くらいでポックリ逝く。 名誉なんてどうでもいいです。

  • bofd
  • ベストアンサー率25% (8/32)
回答No.8

自分がいまわかっている正義は、「大切なものを守る」ということです。 逆にいえば何を「大切なもの」と思うかによって 正義の中身も変わってしまいます。 自分だけが大切なのか、家族が大切なのか、 世界の人々が大切なのか、全ての生き物が大切なのか、それぞれに違った正義があると思います。 自分としては、「会社での立場」は、自分にとって大切なものではないので正義ではないし、大切なものが自分だけではないので、本当の幸福を得るのは難しいと思います。

  • geld
  • ベストアンサー率32% (9/28)
回答No.7

人間が幸福を追い求めるのは、この世に生を受けた途端、【死】へと向かっていくからではないかと思います。 strayerさんのおっしゃっていること考えていること、同じではないですが、共感できるところがあります。 私は「人として自分がOKかどうか」これだけがあれば、「生きてるだけで丸儲け」という言葉があるように、なんだかOKなんです。 初志貫徹は大事ですが、人間は成長し続けられるからこそ素晴らしいと思います。 変りつづけられるという可能性は、時として固定観念や自分で設定した「頭」で決めたルールによって容易に停止してしまいます。 「あるがまま」を全てに於いて、全ての時に於いて、全ての年で、その時その時の「あるがまま」の自分、他人、物事を受け止めていれば、おのずと「心に留めておくべきこと」は少しづつ変化していくと思います。 正義は追求しすぎてはいけないときもあります。 正義とは時として、情をも捨てないといけない時がありますものね。 果たしてそうでしょうか? 正しければ、人としての慈しみの気持ちは捨てて良いのでしょうか? strayerさんの「正義」の定義が、私のものとニュアンスが違うかと思いますが、自己批判から生まれる思想も哲学も大事ですが、まず「分を知る」というところの出発がないと、「赤い花に青く光れ」というように不自然なことになることもあります。 私も人生で変わらぬ真の喜びはあると信じて、大事にしているものがあります。 それは「愛する者に喜びを与えられる」ということです。 凄くシンプルなのですが。 ですが、外枠は刻々と変化しつづけています。 始めの(若かりし頃)思想と大分変ってきていますが、それは自分が成長しているからではないでしょうか。 幸せは常に自分の心が鍵を握っています。 全ては自分の手によって今の環境も、自分も作られている。視野を狭くするのも自分です。 現実に無になり、集中すれば、その時その時の正義はおのずと出てくると思います。 探しものは、必至な時ほど見つからないものです。 忘れたころに、strayerさんの正義、見つかるとよいですね。

strayer
質問者

お礼

まず返事が大変遅れてしまってすいません。少し忙しかったもので・・・ 私は一貫性というか不変性というか、そういうものは人間にそれ程必要だと思いません。というか、人間自体不変なものでは無いですしね。だからこそ不変なものへの憧れがあるのでしょうけど。 私も色々と変化しながら自分なりの正義を追っていこうと思ってます。ご意見本当に有難うございました。

noname#3511
noname#3511
回答No.6

思慮の無い行動は愚行だと思うから、いろんな方法で考えるのはいいぞ。意見をぶつあうのもありだ。概念の淘汰が進む。 考え方も、言葉だけじゃない。 手のひらの汗でも、絡まった陰毛でも、電線のすずめでも、風や時でも、考えれる。内側思考を、外に投げ出すのが、我流東洋流。脳みそに風が通る。 この質問は、いいとおもう。一生懸命さを、俺は感じた。俺の回答も、俺なりに思いっきりしたから。

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3287)
回答No.5

No.4の補足。 質問者の方の意見は悪くないけど、ちょっと肩に力が入りすぎ って感じかな。 わざわざもったいぶった意見を口にしないで、行動で自分 の哲学を見せてこそ、人格者への道が開けるでしょう。

strayer
質問者

お礼

ご意見有難うございます。 やはり行動することは大切ですよね。どんなにいろんな考えをもっていても、行動しなければ何も変化しませんし。参考になりました。

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3287)
回答No.4

『菜根譚』でも読んで、自分をじっくりと見つめ直しましょう。 東洋的な観点で言えば、正義だの名誉だのにこだわっている うちは、まだまだ本物ではないですよ。

参考URL:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062562502/qid=1050310665/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-4137068-6401830
noname#3511
noname#3511
回答No.3

まず、君の考え方の感想。 探している間にも、幸福を感じて。それができるなら、君の生き方上り調子! むろん、日常の一秒一寸、意識して探せてるわけじゃない。なぁなぁしてる時も多い。だから、探している姿勢というものを見つければ、そういう生き方になると思う。 だから、無意識の幸福、これが、君に、ある。 今を生きよう、じゃないな。 だって、今もう、生きてるもん(笑。 次、俺の意見(メッセージ)。言葉遊びな。 幸福、我流漢詩版。    千編酌穣 有象無碍   君然   自由自在   万物万華 所為無作為   いみわかりにく(笑。訳そう。   形のあるものは、君や私、そのほかもろもろを縛らない(有象無碍)。(不自由と思うものは、自分で自分を縛っている。錯覚。) 自らの由は、自らで在る(かなりダサいな(笑、自由自在)。形あるものは縛らない、だから、君は自由で然り。自由で当然ってこと。   全てのものの輝きは、その所為に作為が無い。 (万物、輝かそうと思って、誰かが輝かせているわけではない。万物の輝きは、万物そのものにある。)君も、君自身を輝かそうと思って君が輝くわけじゃない。輝きは、君が在るから、輝く。自分をどうこうしようなどと、思わないことだ。君は自由で在る。 むろん、万物は輝きでもあり、無数の様態でもあるわけだ。醜さとか、汚さとか。痛さとか、苦悶。退屈とか、。でも、これら万物のすべては、君に投影されているから、君が自由自在だから、こんなもんはすべてオシャカにできるのよ。いみわかる?無碍に、できる。 形あるものは、縛らないから。    豊かな実を、酌す(味わう)こと、千切り編み物、有限無数。(意味分かりにくいな。)織り成してることで形はあり、有限なんだけど、無数なので、尽きない。織り成すのは誰かじゃない。特定の作為があるわけじゃない。すべてが、そうなっている。   楽しさ、利、輝き、豊かさ、そういったものも当然、一切合切、尽きない。幸せは、尽きない。千変万化するけれど、自由自在だから、どんな幸をも、酌すのさ~っ、みたいな。   俺は、理想を越えて夢があり、夢を越えて、俺がある。誰も俺に追いつけないから、常に俺。誰も追いつけないから、誰のそばにもありえる。あるかどうかは分からん(笑。ありえるだけ。命を生きるものは、俺のそばにいる。俺だけが、最高速じゃない。   俺に追いついてるのは、世界だけ。世界、俺の友だち。世界の他にも友達はいるけど(笑。 すべては尽きない。   人の文言だって輝く。俺にとっては、鼻くそについた一本の鼻毛の毛根みたいなもんだ。 それすらも無論、輝く。 輝く言葉は、嘘じゃない。 世界の輝きの、いかに想像しがたいか、。    世界を、はだしで歩け。  裸眼で見ろ。  意思を風に解かせ。  澄まして光りの味をしれ。   。。自分を、風景に。   これが俺の俺なりの、行き方。 世界にしたら、来方。 そんな在り方、言葉なりに、表現できたかな? 君の自然体。 俺の自然体。   >本当に厳しい自己批判によって作られたものには根底に共通したものがあるのではないでしょうか。   批判できるものは、自己じゃない。後付、概念。たのんでも無いのにもらったもの。そういうものは、どんどん批判してよい。 本来、自己は無作為。 よく考えた人に共通するのは、自然体。 だれかが、そんなこと、言ってたなぁ。へっ、 おれも、そう思うよ、。 あああああっ!!!~~~! 元気!  じゃあな。 

strayer
質問者

お礼

ご意見有難うございます。 はっきり言って私にはまだ自然体でいる自信がありません。難しいですよね。でもなんだか少し解ったような気もします。自分が自然体でいられるようになるには、もっと迷っていろんな出口を探し求める必要があると思います。ayamatiさんはどうでしたか?今の考えに到るまでにたくさん迷いましたか? あと全てが無作為で全てが美しいというのは素晴らしいと思います。

  • carhakase
  • ベストアンサー率32% (51/155)
回答No.2

 こんにちは、幸福の考え方は人それぞれですね。幸福論は哲学的観念で何世紀もの間、色々な人が唱えています。私はそのすべてを読破していませんが、strayerさんの自分の正義を達成する事が幸福を掴むと言う考え方も、今までの人々が唱えてきた幸福論の一つとして肩を並べる考え方だと思います。  私が考える幸福論は「目的」です。根本的な考え方は、幸福な事は最終的には達成出来ないと言う矛盾的な考え方ですが、幸福は常に自分の中に存在します。 その目的を幸福と考える私の幸福論は、「目的の無い人生に幸福は無く、目的が達成された時、幸福は一瞬で消え去り、また新たな目的を見つけそれに進んで行く」と言う事で、究極の目的は無く、究極の幸福も無く、人生に目的を持ちそれを達成して行く事が幸福であると言う考え方です。もしそれが達成されなくても、それまでの過程に悔いなく、全力を尽くしていれば良しとする、結果より過程を重んじています。常に目的を探せる状態に自分を置いておく事が幸福です。  ではstrayerさんの幸福論に関する私の考え方ですが、正義を探し、その達成を最上の幸福と考える事自体が、私は幸福で有ると考えます。  まず正義を探す事への幸福、それを達成するまでの幸福とstrayerさんの考え方には、2つの幸福が存在します。その正義が何なのか、それを達成すると言う事が何なのか、非常に難しい問題で、究極の正義は自分自身に厳しく、妥協は許さない状況を自分に課し、まさに全人生を掛けるにふさわしい考え方だと思います。  しかしその正義が見つかり、それが達成されたと自分自身に幸福の達成を告げる訳ですが、その後その幸福の中でどのように、幸福を味わって行けるのか、もしその後他の正義が見つかった場合どうするのかが私の疑問です。  幸福の中に居てその幸福感を人生の終わりまで味わい続けられるでしょうか、自分の置かれた状態が幸福であると言う事は、他には幸福が無いとも捉えられます。他に何も見えない状況を自分自身の中に作り、その中に入ってしまっては、他の事を一切受け入れない、ただの意固地な考え方の人に成ってしまいそうで、非常に危険で有ると私は考え、strayerさんが正義への達成を出来ずにその達成に対して、永遠と努力している状態の方が私には幸福であると考えます。  まだまだ不勉強ではありますが、私の意見を述べさせて頂き、ありがとうございました。  

strayer
質問者

お礼

ご意見有難うございます。 なるほどと思いました。真の幸福とは幸福の追求にこそあるのかもしれませんね。人生は短い。多分私の求めるものは生きてるうちには時間が足りなくて、手に入らないと思います。ですが、絶対に手に入らないものを追い続けることこそ人間に一番大切なものなのかもしれませんね。勉強になりました。

  • gatten
  • ベストアンサー率35% (181/511)
回答No.1

 私は年に一度、「どうだ!」といわんばかりに咲き誇り、あっという間に散りゆく桜の花の下で幸福を感じます。  内的名誉を追い求めた場合、その時代独特の価値観の影響を、私は受けてしまいます。そうすると、時代が動いた瞬間(戦争、革命など)根本が揺らいでしまう気がします。  安易な考えで恥ずかしいのですが、自然の中で感じられる幸福を私は目指してしまいます。この方が、永遠の安心を得られるのではと思うからです。  

strayer
質問者

お礼

ご意見有難うございます。 私も桜が大好きです。満開よりも、葉桜のほうが好きです。そこには散りゆくものの儚さと、新たに台頭してゆく力強さが共にあるからです。確かに人間は自然などの美しいものを知覚したとき幸福と安心を覚えますね。それは全ての人間に共通したものだと思います。 内的名誉は確かに価値観などで簡単に揺らいでしまう脆いものです。だからこそ徹底した自己批判をして少しずつ補強していくものだと思います。あと人の正義がその時の状況で変化するのは必然だと思います。正義とはその人の辿ってきた道によって変化するもので、だから一人一人正義の形が違っていていいはずです。そうやって色々悩んだり考えを変化させながら、最終的な真に自分の正義を掴めるのだと思います。どうでしょうか・・・

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