• ベストアンサー

昭和の遊郭

昭和の時代の遊郭ってどのような感じだったのでしょうか? 時代劇でみるようなものは、現代の風俗みたいなものとは違って 情報どころのような役割もあったようですが、 昭和の遊郭といえば風俗と同義なのでしょうか。 また、遊郭を営んでいる家の者は 差別的な目でみられる対象だったのでしょうか。 どなたか詳しいかたよろしくお願いします。 すこしずれてしまいますが 当時の遊女の格好についても知りたく思っています。 着物だったのか、髪型は時代ものの映画のように結ってあるのか、など。 こちらもご存知でしたらぜひよろしくお願いします。

noname#227111
noname#227111
  • 歴史
  • 回答数6
  • ありがとう数9

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • tpg0
  • ベストアンサー率31% (3785/11964)
回答No.1

こんにちは。 私は、戦後生まれなので戦前の遊郭は知りませんが、戦後の昭和30年代前半頃の様子はおぼろ気ながら覚えてます。 当時は、遊郭街は「赤線地帯」といってました。 近所の赤線地帯は小規模な飲み屋が建ち並び、厚化粧のお姉さん達が通りすがりの客に声を掛けて客引きをしてましたが、これ等の遊女(売春婦)を「パンパン」とか「パン助」と蔑んだ呼び方を私の親はしてました。 遊女達の服装は普通の洋服でしたが、髪型はチリチリのパーマをかけたお姉さん達が多かったです。 口紅は真っ赤で子供心にも妖艶なイメージで興味を持ちました。 勿論、小学生だった私が遊女と性行為をしたわけではありませんが、客を引いた遊女は飲食店の二階の部屋で客と性行為に及んでたようです。 また「連れ込み宿」という、今でいうラブホテルですが、旅館風の連れ込み宿が赤線地帯に何軒もあって、遊女と客が宿に入っていくことも見てます。 当時、小学低学年だった私は「旅館なのに休憩2時間〇〇円」という看板が不思議でしたが、赤線が廃止された昭和30年代半ば頃には意味を理解してました。 赤線が廃止された現在でも、飲食店は残ってますが遊女達はいなくなり連れ込み宿もなくなりました。 その代わりに「ピンクサロン」が何店舗か出店していて、今でも赤線の面影を残してます。 なお、東京・浅草の吉原や川崎市の堀ノ内などの大きな遊郭街跡は、現在では「ソープランド街」になってますね。 ちなみに、近所の赤線地帯には「泌尿器科・性病科」の医院があったのが印象的で、小学生だった私ですら「淋病や梅毒」は知ってましたから、赤線イコール性病というイメージです。

noname#227111
質問者

お礼

くわしく回答していただきありがとうございます。 戦後から赤線と呼ばれていたことは存じていましたが 遊女たちの格好も西洋化していたのですね。 遊女というより、売春婦というニュアンスが 強くなっているのですね。 現在の風俗のような目でみられていたということが 伝わりました。

noname#227111
質問者

補足

皆さま回答ありがとうございました。 自称歴史作家さまをお待ちしていたのですが、 十分な回答をいただけましたので 回答を締め切らせてもらうことにしました。 私のほうからも家族にそれとなく聞いたところ 卑下されることは少なからずあったようです。 ありがとうございました。

その他の回答 (5)

  • henmiguei
  • ベストアンサー率45% (1764/3869)
回答No.6

#4です、お礼を有難うございました <御金持なので・・・・・ と有りますが 御金が有ると同時に 極道と関係が密接か 極道そのものが御店をしていましたので その意味でも一目も二目も置かれていました 級友もその点では大人しい上品でひ弱な子でしたが(極道の家族ではない) ガキ大将も一切手出しをしませんでした。

noname#227111
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 またお話を聞かせていただけて嬉しいです。 ん~極道ですか。 人のにぎわう都会あたりはそうだったのでしょうか。 実は私の実家というか、 ご先祖さまが遊郭を経営していたのです。 といっても料亭の延長として、ということらしいのですが それで興味が湧き、というか色々と心配になり(笑)、 今回質問を投稿させていただきました。 話は戻りますが私の実家は職業は変われど 代々商いで暮らしていているのですが 極道とは関わったことがないことは確かなのです。 まあ回答者さまは一般的な話をしてくださっているのでしょうから いろいろな形があるということなのでしょうね。

  • henmiguei
  • ベストアンサー率45% (1764/3869)
回答No.5

#4です、追加です 女郎屋が有る通りの入口には 商店街への入り口いある様なアーチ型で頂部には 通りの名前「●●通り」と書いた中に電球を仕込んだ看板が有りました 通りに面したお店は煌々と明るく玄関には暖簾がかかり 垣間見ると御姉さん方がずらりと勢ぞろいで座って客待ちをしていました。

noname#227111
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 YouTubeで関西のほうに今もあるという遊郭街を 見たことがありますが、 お話のような佇まいをしていた覚えがあります。 時代劇のようなものではなかったですが、 昭和の頃からの遊郭はそんな感じだったのでしょうか。 私のみた映像ですと「勢揃い」というわけではなく、 どの店先も一人の若い女とおばあさんという形式が続いていました。

  • henmiguei
  • ベストアンサー率45% (1764/3869)
回答No.4

#1の方が仰ってている様に当時は警察が取り締まりをする為に 地図に赤い線で囲っていたのが赤線の語源です 赤線のほかに青線というのも有りました 理由は次を参照してください <昭和の遊郭といえば風俗と同義なのでしょうか の答えにもなると思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E7%B7%9A <また、遊郭を営んでいる家の者は <差別的な目でみられる対象だったのでしょうか その通りです特にその家の子供は「女郎屋の子」と言ってからかわれていました しかし私だけかもしれませんが 彼(女郎屋の子)の家へ遊びに行けば綺麗なお姉さんが 御菓子を出してくれたり話し相手になってくれたりして 彼が綺麗なお姉さんに囲まれている生活を羨ましく思った事を覚えています 中学生になると彼の御家へ行くと何故かしら下半身が固くなってきて 恥ずかく思ったのでだんだんと彼の御家へ行くのが少なくなり 冬休みころからは全く行かなくなったのを覚えています。 パンパンとかパン助とか呼ばれたいた彼女たちのいでたちは 体にぴったりしたチャイナドレスだったりふわっとしたスカートだったり 当時の先端よりももう一歩進んだファッションだったように思います 髪はパーマと呼ばれた制髪で電気鏝でチリチリにカールさせた髪型でした 御化粧や整髪料だったのでしょうとっても良い匂いがしました 思わずくらくらとなるくらいの香りでした。 昔を思い出して思わず長文になりましたがこれで大体の様子はお分かり頂けた事と思います。

noname#227111
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 お金持ちなので肯定的に受け入れられたという説、 女郎屋は女郎屋として差別的な目はあったという説、 どちらもありそうな話ですね。 とても参考になりました。

  • nogul2n
  • ベストアンサー率57% (483/843)
回答No.3

 日本テレビの「笑点」の司会をやっている落語家、桂歌丸は実家が女郎屋ということで知られているそうです。ガリガリに痩せてる落語家ですね。  横浜の女郎屋(遊郭)の息子で、「○○屋のおぼっちゃん」としてちやほやされて育ったということを言ってたのを聞いたことがあります。  去年読売新聞の連載で、日経新聞の「私の履歴書」に当たるコーナーがあるのですがそこでも同じ事を言ってました。今新聞を見たら「時代の証言者」という名前のコーナーでした。  家がお金持ちなので、何不自由なく育ったそうです。家のことを差別されたなんて書いてありませんでした。むしろ、「お金持ちの家で私は幸運でした。」みたいなよいとらえかたの肯定的な書き方でした。  予想ですが、普通に家がお商売してるって感覚でみんながいたんじゃないですかねぇ。  合法でしたものね。今の「○○くんちのお父さんはコンビニやってんだよ。」とか、「○○さんちはケーキ屋さん。」みたいに、普通な感じだったかもしれません。

noname#227111
質問者

お礼

回答していただきありがとうございます。 歌丸さんのご実家って女郎屋だったんですか。 これは知りませんでした。 そうですね。 遊郭は儲けているイメージがたしかにあります。 貧乏な感じはしませんね。 手広く商売をするなかの一つということも多いようですし。 大変参考になりました。 ありがとうございます。

noname#149031
noname#149031
回答No.2

「洲崎遊郭物語」という本があります。確か当時の経営者の回想話など実際遊女だった方の回想も含まれている内容だったとおもいます。図書館で借りてわたしは昔読みました。 図書館の民族・風習コーナーに昭和の遊郭本ありますよ。赤線地帯とか鳩の街とかいろいろ(書庫にしまい込まれてるのが多い)けど・・・

noname#227111
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 経営者の回想話がその本に載っているのですね。 私の興味は経営者のほうにあるもので、 これは参考になります。 ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 昭和の遊廓文化

    「親なるもの〜断崖」というマンガを読みました。 そこは昭和の幕西遊廓が舞台なのですが、第二次世界大戦前夜の遊廓にはもう「花魁」という呼び名や綺麗な着物、「お職」のポジション等は無くなっていたのでしょうか? それとも開拓されたばかりの北海道だったからでしょうか? 売り上げナンバーワンの女郎が、大した髪飾りもなく打掛も着ず襦袢姿で接客し、客に「線香が燃え尽きましただ」と言って時間終了を知らせています。 江戸時代の吉原でいうとこれは河岸見世女郎の売り方です。 昭和の時代には遊廓はこういうものになっていたのでしょうか。

  • 初期の吉原遊郭について教えてください

    友人の友人のそのまた知人くらいの人の言を又聞きなのですが、 初期の吉原遊郭は生計を立てる術のない女性を集めて、一通りの教育を受けさせて世に送り出す(嫁に行かせる)ための施設だった。 禿などがいい例で、先輩遊女たちから教育を受けていた。 買春行為は行われていたが、現代ほど貞操観念にはうるさくなく、問題にならなかった。 遊女たちが稼いだ金銭は、巡り巡って最終的には遊女たちを養うために使われた。身請けの際に動く大金も同様。(いったん楼主の懐に入っても、その金を使って楼主が遊女に衣食住と教育を保障したから) 嫁に行く当てを見つけられなかった女性は、遊郭内でお針子や後裔の面倒を見る遣手婆などになって再就職した。 死亡率は約2割ほどで(8割は無事に年季を開けて自由の身になった)、これは当時の衛生管理や食糧事情、医療技術を考えると驚異的な低さで、いかに彼女たちが保護されていたのかがうかがえる。 後期になるとこういった面は廃れ、単なる買春屈になった。死亡率も約8割と激増した。 というような説を聞きました。 非常に興味深くって調べてみたのですが、なかなか初期の吉原遊郭について学べる資料が見つかりません。 吉原遊郭の創設者庄司甚右衛門の人柄や、初期吉原遊郭について知ることのできる資料をご存知の方、教えていただけないでしょうか。

  • 遊女? 「くるま」とはどういう意味?

    時代劇の遊郭の場面で、よく「くるま」という言葉を聞きます。(聞きまちがいかもしれませんが…) 「くるま」とはどういう意味ですか? 遊郭または遊女の意味でしょうか? ご存知のかた、よろしくお願いいたします。

  • 明治の遊郭?の写真

    十年以上前にテレビ(NHK?)で紹介されているのを見た記憶なのですが、 明治の遊郭を写したものと思われる モノクロの写真が二枚紹介されていました。 木の格子の奥に、豪華な着物を着た女の人が数人、 怖いようなきついような無表情で正面を向いて座っているもので、 一枚は通りからその正面を撮ったもの、 もう一枚は斜め方向から撮ったものと記憶しています。 格子と女の人の感じから、 明らかに、遊郭か少なくとも当時の風俗を撮影したものでした。 テレビでも、これを写したものは他になく、 非常に貴重なもの紹介されていたような気がします。 とても印象が強くて忘れられないのですが、 それきり手がかりがみつかりません。 もしなにかご存知の方がいらっしゃったら、 よろしくお願いします!

  • 江戸時代の夜の街の照明事情について

     時代劇などでは江戸時代の夜の花街を描写する時、決まって現代の繁華街のようにそこらじゅうが明るくて歩くのにも何不自由ないような場面をよく見ます。  しかし、実際のところは菜種油などを燃料とした照明はかなり暗かったのではないでしょうか?  資料を見ますと遊郭も結構遅い時間まで営業していたようですが、店をひやかしつつ歩きまわるにしても暗くて遊女の顔も良く見えなかったのでは?などと余計な心配までしてしまいます(笑)  本当のところ歩くにも不自由ないくらいの照明であったのでしょうか?  江戸時代に詳しい方のご教授をお願いいたします。

  • 日本の貧民窟・遊郭について。

    日本の貧民窟・遊郭について。 最近、興味本位と思われるかもしれませんが、貧民窟(スラム)についての本を読んでいます。とくに身近な日本のものについて興味があります。江戸時代から明治、大正、太平洋戦争後の日本の下層社会について書かれた記述は多くあるのですが、ほとんどが東京、大阪、もしくは被差別問題の大きい近畿、四国についてのものです。 現在の日本は豊かにはなり、多くの社会問題を多くかかえて(新たな貧困層など)いるものの、乞食やスラム街などはみかけなくなりました。私は札幌在住で44歳ですが、ここでもオリンピック開催までサムライ部落(関東以南でいう同和問題とは違います。)というのがあり、昭和50年ごろまでは名残があったようにおもいます。遊郭も、いまはソープランドと名を変えてススキノにも多く存在していますが、昔と違い、貧しさゆえに身売りされてきた、というより、小遣い稼ぎに自分からすすんでソープ嬢になることが多いようです。(ここでも実際はそうとも言い切れない家庭崩壊などいろいろなものはあるようです。) 昭和20年代以降の、できれば東京・大阪以外のスラム、遊郭(赤線・赤線跡)街についてくわしい記述のある本、サイトをご存知のかた、おしえていただけませんか? またこれらとヤクザの世界は深いつながりがありますが、ヤクザ組織の変遷について(大きな組織ではなく特に地方の)わかりやすい記述をご存知でしたら、おしえていただけませんか?(要は現代日本の暗部、闇社会について知りたいのです。)

  • 着物の映画

    最近、着物に興味があって雑誌などを読んだりします。 でも、実際に日常生活でどんな風に着物の柄と帯など合わせるのか 日頃着物を全く着ないのでよくつかめません。 そこで、きものを着ている女優さんがたくさん出てくる映画をみたいのですが、 着物がたくさん出てくる映画で良い映画はないでしょうか? (映画でなければ、ドラマでも構いません) 大奥とか時代劇の映画ではなく、できたら明治以降の時代や現代の映画がいいです。 (遊廓など特殊な設定の物以外) 綺麗な京友禅などが出てくるのがいいです。

  • 江戸時代の遊女のお化粧について。

    時代劇で遊女が出てくるシーンがありました、その遊女のおしろいが、顔だけ塗られてなくて、首から下が塗られていたのです。その遊女はあまり位の高い遊女ではない設定の様でしたが、当時、位が高くないと顔だけおしろいを塗らないという風にきまっていたのでしょうか??

  • 昭和初期の髪型がみんな同じ件について

    昭和初期の男の子と女の子の髪型やファッションがおなじなのはどうしてでししょうか? また、昔のテレビもネットも雑誌もあまりない時代に、全くおなじおかっぱ頭で着物(半分着物でしたはもんぺのやつ)を田舎も都会もおなじようにできるのって何ででしょうか?どうやってそのファッションの事を知るんですか? やはり、国によって髪型の規定があって、学校で教えられるとかですか?

  • 花魁道中で前を歩く童女は?

    江戸時代、遊郭の花魁道中のとき、前を歩く童女は かむろ、という名前だということを、別の質問の回答より知りました。 この、かむろ、はどこの誰がなるのでしょうか、? また、花魁道中以外の時遊郭で何をしているのでしょうか、また成人したとき遊女になるのでしょうか、? このような、形式はどこから来たのでしょうか。 江戸の風俗に詳しい方、教えてください。